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2017年02月16日
宮崎県佐土原に島津家の痕跡を探してA
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鎌倉時代の武士道しか知らぬ島津勢は、敵に後ろを見せて逃げる事を潔しとしません。
あくまで、敵陣のど真ん中を戦いながら突破するという戦法にでました。
普通に見ると、全員玉砕覚悟のやけくそ突撃ですが、九州内で400年ちかく戦いの日々を過ごしてきた島津勢には、こういう場合の戦法も身につけていました。
例えば1.000名の軍勢で敵陣に突っ込み、大将と側近を先行させ、100名はその場に留まり全滅するまで戦う、全滅したら次の100名が同じ事をする、それを繰り返す事で大将達と敵軍の距離を離し脱出させるという、後の世まで島津の捨て肝(すてがまり)と呼ばれた壮絶な戦法でした。一説には、義弘は豊久を逃がそうとしたとも言われていますが、やはり総大将を生かすのが常識でしょう。
結果、豊久は大勢の家来達とともに31歳の生涯を関ヶ原で閉じてしまいました。
徳川方から佐土原の領地は召し上げられ、佐土原島津家はたった20年あまりで絶えてしまいました。
宮崎県佐土原に島津家の痕跡を探して@
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戦国時代末期1579年、島津氏の勢力は日向迄も席巻し、佐土原を治めていた伊東氏に勝利しました。
島津氏は、佐土原城主として「家久」を送り分家させました。その「家久」はわずか7年ほどで病死し、息子の
「豊久」が19歳で跡を継ぎましたがそれから間もなく、関ヶ原の合戦が始まります。
「島津義弘」は、甥の「豊久」を伴い西軍方としてわずか1.000名ほどの兵を率いて参加しました。
後に「島津の退き口」として有名になったエピソードが生まれます。
積極的に戦いに参加するつもりはなかった島津勢でしたが、気がつくと周囲に陣取っていた西軍武将たちは情勢不利と見て退却しており、徳川本隊数万の軍勢の中に取り残されてしまいました。
敵に後ろを見せて逃げる事を潔しとしない島津勢の、前代未聞の退却戦がはじまります。(続く)