新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2017年02月01日
「男たちのヤマト」のロケ地
にほんブログ村
未だに根強く人気のある映画「おとこたちのヤマト」。
エンディングに流れる「clause your eyes」を聞くと自然と涙が流れてしまいます。(笑)
映画の冒頭で、鈴木京香さんがバスで枕崎に向かう場面にでてくるのが、国道にかかるこのアーチ状の橋です。
また、慰霊碑にお参りするシーンに出てくるのは、花瀬公園のこの辺りですが、実際にはこの場所には存在しません。
枕崎を象徴する立神岩が見えるということで、作られたダミーの慰霊碑です。
風光明媚な場所なので、暖かくなってきたら是非訪れていただきたい場所の一つです。
最後の戦国大名 島津義弘 公の足跡を追って
にほんブログ村
島津義弘がこの地を城地に選び、帖佐、平松城から移り住んだのは、慶長12年(1607年)のことです。
この城は高い石垣や天守閣を持たず、居形造りの建物群で構成されていました。
空堀や城壁をめぐらし、城域を区画し、家臣達の屋敷を周辺に配置し、整然とした縄張りをして、現在の街並みがこの時造られました。
城中には「東の丸」「中の丸」「西の丸」と3つの御殿があり、「東の丸」は現在加治木高校の敷地になっていますが、義弘の居館だったといわれています。
義弘が没すると、家久(18代藩主)がここに住むことになり、別館を新たに今の小学校側に築造し、これを「西の丸」(中納言様御殿)と呼びました。
御対面所は、加治木島津家9代当主、島津久長が安政年間に居宅として建てた茅葺き書院造りの建物でしたが、明治になってから第7郷校、仮県庁、郡役所、町役場として使用され、昭和20年戦災で焼失しました。
戦国時代の最後の当主で、薩摩藩初代藩主でもある島津義弘。まさに島津家にとって中興の祖、この人無くしてその後の島津家の隆盛はなかったでしょう。
指宿からも特攻隊員たちは出撃してゆきました。沖縄の空へ。
にほんブログ村
指宿市の国民休暇村に隣接する松林の中に、海を望める小高い地が設けられており、階段を登ると慰霊碑と観音菩薩像が建立されています。
太平洋戦争末期、昭和19年、この地に海軍の基地が設けられ、終戦までの間に八十数名の若者達が特攻隊員として出撃して逝きました。また、米軍機の攻撃により、この基地で働いておられた軍人や民間人百数十名も亡くなりました。
その方々を慰霊する為に、生き残った元隊員の方々や地元の方々が浄財を集めて建立された物です。
この特攻基地には滑走路がありませんでした。
なぜならば、ここから出撃して行った航空機は、すべて飛行艇だったからです。飛行艇とは、大型戦艦の船尾に載せられ、主に偵察、索敵が任務の飛行機の事です。大型の飛行艇は、滑走路の無い島への兵員輸送等にも使われていました。
戦闘機ではなく、大きなフロートを履いているので、速度も遅く運動性能なども戦闘機の足元にも及ばない航空機です。
そんな飛行艇までかき集めて、日本軍の特攻作戦は終戦まで続けられたのです。
陸上の基地から出撃された方々は、地元の住民達や、女学生達から手を振って見送ってもらえもしましたが、海上の飛行艇から出撃した彼らは誰からも見送られる事も無い、寂しい出撃だったと言われいます。
若い命を散らさなければならなかった若者達の事を思うと、心が痛みます。