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2017年01月26日
来迎寺跡・墓塔群
鹿児島市から国道3号線を北に進むと、市来という町があります。
県指定文化財に指定されている、来迎寺跡墓塔群は、この地を古くから統治していた市来氏歴代の墓や供養塔がかたまって建てられている史跡です。
市来氏は惟宗姓(これむねせい)を持ち、後から赴任してきた、同じ姓を持つ島津氏と、時代によっては敵となり、味方になって市来を統治し続けますが、ついに1462年(寛政3年)市来久家・忠家親子の時、島津氏により滅ぼされました。
来迎寺跡・墓塔群は、藪の遺棄されていたものを積み重ねたものです。五輪塔や宝塔がほとんどで、中には坊主墓と呼ばれる無縫塔(むほうとう)も見受けられます。
墓塔のほとんどが小型で、石材は凝灰岩を使用しているのが特徴です。
また、一基だけ離れた場所にある石塀で囲まれた層塔は、源頼朝の側室とも言われている島津家初代忠久の母、「丹後局」(たんごのつぼね)の墓であると、江戸時代に書かれた、三国名勝図柄に記載されています。
こうなってくると、もはや伝説の域になってきますが、かつてこの地に市来氏という豪族が、隆盛を誇っていたことは間違いありません。
県指定文化財に指定されている、来迎寺跡墓塔群は、この地を古くから統治していた市来氏歴代の墓や供養塔がかたまって建てられている史跡です。
市来氏は惟宗姓(これむねせい)を持ち、後から赴任してきた、同じ姓を持つ島津氏と、時代によっては敵となり、味方になって市来を統治し続けますが、ついに1462年(寛政3年)市来久家・忠家親子の時、島津氏により滅ぼされました。
来迎寺跡・墓塔群は、藪の遺棄されていたものを積み重ねたものです。五輪塔や宝塔がほとんどで、中には坊主墓と呼ばれる無縫塔(むほうとう)も見受けられます。
墓塔のほとんどが小型で、石材は凝灰岩を使用しているのが特徴です。
また、一基だけ離れた場所にある石塀で囲まれた層塔は、源頼朝の側室とも言われている島津家初代忠久の母、「丹後局」(たんごのつぼね)の墓であると、江戸時代に書かれた、三国名勝図柄に記載されています。
こうなってくると、もはや伝説の域になってきますが、かつてこの地に市来氏という豪族が、隆盛を誇っていたことは間違いありません。
悲劇の武将「島津歳久」
滝水山心岳寺(ろすいさんしんがくじ)は、島津家15代当主島津貴久の三男・歳久を弔うために、曹洞宗福昌寺の末寺として、慶長4(1599年)、兄の第16代島津義久によって、歳久が自害した場所に創建されました。
境内には、歳久とその殉死者および歴代僧侶、その他の石塔があり、藩政時代の一部を残す貴重な史跡であります。歳久は、天文6(1537年)7月10日、伊作亀丸城で誕生、祖父・忠良(日新)や父・貴久の養育を受けて成長し、長兄・義久、次兄・義弘、弟・家定とともに各地を転戦し南九州統一と九州制覇に尽力しました。
吉田・祁答院を領し、和歌や茶の湯に親しむ文化人としての側面もありましたが、その気性は荒く、豊臣秀吉の薩摩侵攻に際しては最後まで抵抗したため秀吉の怒りを招き、義久に討伐令が出されました。
追手に捕まりそうになり、天正20(1592年)7月18日に自害するに至りました。
往時は「心岳寺詣り」と称する旧暦7月18日の祭礼には多くの参拝の人々でにぎわっていましたが、明治2(1869年)の廃仏毀釈によって廃寺となり、翌年跡地に平松神社が建立されて現在に至っています。
場所は、国道10号線を加治木方面へ向かい、姶良市との境界に近い左手側ですが、分かりづらい場所なのでご注意下さい。
境内には、歳久とその殉死者および歴代僧侶、その他の石塔があり、藩政時代の一部を残す貴重な史跡であります。歳久は、天文6(1537年)7月10日、伊作亀丸城で誕生、祖父・忠良(日新)や父・貴久の養育を受けて成長し、長兄・義久、次兄・義弘、弟・家定とともに各地を転戦し南九州統一と九州制覇に尽力しました。
吉田・祁答院を領し、和歌や茶の湯に親しむ文化人としての側面もありましたが、その気性は荒く、豊臣秀吉の薩摩侵攻に際しては最後まで抵抗したため秀吉の怒りを招き、義久に討伐令が出されました。
追手に捕まりそうになり、天正20(1592年)7月18日に自害するに至りました。
往時は「心岳寺詣り」と称する旧暦7月18日の祭礼には多くの参拝の人々でにぎわっていましたが、明治2(1869年)の廃仏毀釈によって廃寺となり、翌年跡地に平松神社が建立されて現在に至っています。
場所は、国道10号線を加治木方面へ向かい、姶良市との境界に近い左手側ですが、分かりづらい場所なのでご注意下さい。