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2017年04月01日

仏教のワンダーランド?南泉院

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鹿児島市郡山町の小高い丘の上に、南泉院という寺が在ります。

鹿児島県には少ない「天台宗」の寺で、1710年に21代当主「島津吉貴」によって

開山されました。

明治維新までは、現在「照国神社」の在る場所に存在し、寺領500石を持つ薩摩藩内

でも有数の大きな寺でしたが、「廃仏毀釈令」を受けて取り壊されてしまいました。

その後永らく忘れられていましたが、2009年に「大雄山南泉院」として、郡山町

花尾の地に再興され、現在に至っています。

天台宗の寺だけに、広大な敷地には涅槃仏、不動明王の磨崖仏、チベット仏教の

バコタなどが建てられていて、まるで仏教のテーマパークのようです。

天気の良い日には、境内をゆっくりと散策するのもお勧めです。



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2017年03月20日

薩摩に有る、坂本龍馬の足跡


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鹿児島市天保山に作られている「坂本龍馬新婚旅行記念像」です。

「薩長同盟」の仲介をなんとか成し遂げた「龍馬」は、京での宿舎にしていた

「寺田屋」を襲われ、命拾いしましたが大きな刀傷を受けてしまいました。

幕府方から身を隠す意味としても、「西郷隆盛」達に進められ、連れ合いの

「おりょうさん」を伴い、薩摩へ湯治に行く事になりました。

大阪から船に乗り、当時は港が在ったここ天保山に上陸した後、陸路で霧島

方面に向かったのですが、この船には「西郷隆盛」「小松帯刀」「桂 久武」

といった薩摩の中心的活動家達も一緒に乗船していました。

霧島温泉郷の、日向山温泉・塩浸し温泉で傷の療養を行い、その合間には、

おりょうさんと高千穂の峰に登ったり、付近の山野を散策したりと三ヶ月弱

ですが、短い一生の中でも一番幸せな時間を過ごしたとされています。

塩浸し温泉で滞在した温泉宿の前にも像が有り、休日には全国から龍馬ファン

が訪れ、聖地のような状態になっています。
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2017年03月19日

鹿児島が産んだ大横綱


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薩摩川内市川内は、薩摩藩政時代には、「川内川」を挟み、最終防衛ライン的な

要所で、川に掛けられた橋も、いざ事が起これば簡単に壊せる木橋でした。

当然、配置された武士団もそれなりに屈強な者たちで、自ら「せんでガラッパ」

と名乗り、代々その存在を藩内に知らしめてきました。

時代が変わり、現在では京セラの大工場を抱える「京セラ城下町」となっています。

鹿児島県内でも、霧島市国分と並んで若者が多く、活気のある都市です。

その川内の総合運動公園内に、一つの石碑が建っています。番付表に初めて「横綱」と

して名前が載った16代目横綱「西の海嘉次郎」の生誕地を示す石碑です。

川内の高城町に生まれ、明治23年から6年間横綱として活躍し、引退後は「井筒部屋」を

興し、後進の育成に務めたそうです。そんな相撲界の大人物がいたとは、今日まで知りません

でした。
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2017年03月17日

「義」を貫いたラストサムライ達へのレクイエム(終)


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キリがないので(笑)、「南州神社」関連の記事は、ひとまず今回で

最期にします。

最期の鳥居をくぐって、右手の方に一段低くなった場所が有り、色々な

顕彰碑などが建てられています。中でも目を引くのが、昭和14年に東京市

から贈られた灯籠型の「常夜灯」。江戸城無血開城のおかげで、東京が火の海

にならなかった事に感謝の気持ちを込めて贈られました。

圧倒されるくらい大きいです。5mくらいあるのではないでしょうか。

その横に、小さな歌碑が建てられていて碑文には「ぬれぎぬを 干そうともせず

子供らが なすがまにまに 果てし君かな」と刻まれています。

「西郷死す」の報を受けた、勝 海舟が詠んだ歌です。

命を掛けて西郷との会談に臨み、江戸の町を戦火から守り抜いた彼も、

ラストサムライに違いないでしょう。

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2017年03月16日

「義」を貫いたラストサムライ達へのレクイエムB


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「大山綱良」。

若いときから西郷・大久保達と一緒に、京都での倒幕活動に身を

捧げ、戊辰戦争でも一緒に戦って、明治維新の成し遂げた功労者の

一人ですが、「ぼっけもん」という言葉が一番似合う人物です。

明治4年の「廃藩置県」で、初代鹿児島県令に任命されました。

「県令は、他の藩出身者をもってこれにあてる」とする原則に反する

のですが、特例として認められました。国父「島津久光」のゴリ押し

だったような気もします。

職に就くと中央政府からの命令も、ことごとく無視して大久保達

在京組からの不興をかっていました。

西南戦争が始まると、政府から支給されていた管費をすべて西郷らに

渡し、最期まで薩軍を援助し続けました。

戦争終結後、捕縛され東京に移送されて取り調べの後、長崎にて

処刑されました。薩摩人が薩摩人を裁いたようですが、なんとも

後味の悪さを感じるのは何故でしょうか。

彼もまた、薩摩のラストサムライに間違いありません。
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2017年03月15日

「義」を貫いたラストサムライ達へのレクイエムAー上


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「桂 久武」。

島津の分家の一つ、「日置島津家」の五男に生まれ、小松家、肝付家など

自家の所領を持つ「桂家」の養子に入りました。

どちらの家も薩摩藩の重臣の家柄で、本来なら身分が違い過ぎるために、

「西郷隆盛」達、軽輩者と知り合う事はないのですが、実兄が西郷達の

盟友で、「お由羅騒動」に巻き込まれて切腹させられた「赤間靱負」です。

また、西郷が奄美大島に流されていた時に、「大島守衛方」として現地に

居て、親交を深めました。

その後、藩の「大目付」から家老に昇格。自ら倒幕活動に見を投じ、

「薩長同盟」締結では、小松帯刀らと中心的な役割をはたしました。

維新後は、西郷とともに大参事として藩政トップを勤めた後、都城県参事、

豊岡県権参事を務めましたが、明治6年に病を理由に職を辞し、鹿児島に

帰ってきました。

帰郷後は、霧島山麓の開拓指導や、鉱山開発の指導を行っていましたが、

明治10年、「薩軍挙兵」の報を聞き、鹿児島城下に急ぎ駆けつけました。(続く)
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2017年03月14日

「義」を貫いたラストサムライ達へのレクイエム@


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西南戦争で亡くなられた「薩軍」方の兵は、およそ7.000名程。

その内の2.000名程が南州墓地に埋葬されています。

薩摩人の特質の一つは「恨みは水に流せ、恩は岩に刻め」的な

気質が強かった為、県外の人達には広まっていない事実が沢山

埋もれています。特に、戊辰戦争での東北各藩との戦い、西南戦争

の発端から終結迄の歴史認識に、誤って伝えられている事が沢山

見受けられますが、薩摩人があえて否定しなかったのも原因の一つ

でしょうが、誤解は正しく改めて、歴史の隅に埋もれてしまった

事実を掘り起こし、伝えて行くのも鹿児島人の責務だと想います。

わずか14歳で西南戦争に従軍し、亡くなった3名の少年達。

彼らの墓の前に立つたびに、言いようのない哀しみがうかんできます。

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2017年03月13日

西南戦争に従軍した二人の庄内藩士。


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もう何十回も行ってるのに、近くを通るとつい寄ってしまいます。

ひと気の無い墓地の中を静かに散策してると、妙に心が洗われたように

感じるのは何故でしょうか。

西南戦争で「賊軍」方に従軍したのは、薩摩藩士ばかりではありません。

新政府に不満を持つ、色んな藩の旧士族達が参加しました。

明治10年、庄内から「私学校」に留学していた二人の若者も周りの人達から、

故郷に帰るよう散々説得されましたが、それを聞かずに薩軍に加わり、

命を落としました。それにしても20歳と18歳、若すぎる最期でした。

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2017年03月10日

「南洲翁遺訓」とは?


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「南洲翁遺訓」という本をご存知でしょうか?

西郷隆盛の言葉を集めて、一冊の本に仕立てたものですが、

驚く事に、出版されたのは薩摩からではなく、旧庄内藩からだと

言うことです。

明治8年、庄内から数名の若者達を連れて西郷を訪ねてきた

筆頭家老「菅 実秀」は、西郷の人格に改めて感服し、帰る際に

2名の青年に「西郷様の語られた言葉を、一字一句書きもらすでないぞ」

といい含め、留学生として薩摩に残しました。

それから、明治10年に西南戦争が起きるまでの間、

彼らが書き留めた西郷の言葉は膨大な数に及びます。

しかし、「賊軍の将」とされてしまった西郷の言葉集を

おおっぴらに出版など出来ませんでした。

明治22年2月11日、大日本帝国憲法発布に伴う特赦によって

異例の速さで西郷の賊名が取り除かれると、翌明治23年1月

「南州翁遺訓」は上梓されたのです。

「菅 実秀」は、旧庄内藩士達にこの本を持たせ、彼らは

日本中に旅立っていきました。

薩摩の人間達がこの事実を知るのは、だいぶ後になってからの

事です。旧庄内藩主「酒井忠篤」と家老「管 実秀」。

この二人の人格者がいなければ、「西郷隆盛」の人間像についても

今のようには伝わっていなかったかも知れません。







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2017年03月09日

徳の交わりA


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東北地方には徳川譜代の藩が多かったため、戊辰戦争では官軍相手に連合を組んで

(奥羽越列藩同盟)武士らしく最期まで戦おうとする雰囲気に満ちていました。

「庄内藩」もその中の一つで、「酒井家15万石」老中まで輩出した名門です。

官軍が攻めてくると大いに戦い、米沢藩・会津藩と次々と降伏するなか、最期まで

戦い続けましたが、藩主「酒井忠篤」は重臣らと協議して、苦渋の降伏を決断しました。

これには伏線があります。倒壊寸前の幕府から、会津藩が京都守護職を命じられたように

庄内藩にも、「江戸市中警備」の命が下ります。その時に血気にはやり過ぎた藩士たちが

薩摩藩邸焼き討ち事件を起こしていました。

酒井忠篤からすれば、その時の遺恨を持った「薩摩藩」の軍勢が中心の官軍に降伏すると

いうことは、自身の身は良くて切腹、獄門貼り付けまで覚悟し、主だった家来衆にも重い

罰が与えられるであろう事は必定と覚悟の上で降伏したのでした。   (続く)

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