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2017年03月15日

「義」を貫いたラストサムライ達へのレクイエムAー下


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城下に駆けつけた「桂 久武」ですが、当初は西郷達を見送るつもりで、

自らは従軍するつもりはありませんでした。

しかし、出陣の支度をしている旧薩摩藩士たちを見ているうちに、気が変わり

自分も一緒に参加する決心を固めました。藩の重臣として、かつての部下達だけを

戦争に送り出す事が忍びなかったのではないでしょうか。

彼はかねてから、藩内では有数の弓の名手として知られていました。

部下が鉄砲を渡そうとすると「おいは、こいがあっでよか」と退け、一人だけ

弓矢を持って従軍しました。敗戦色濃くなり、延岡から可愛岳を越え鹿児島に帰る

途中、横川で待ち伏せしていた政府軍と戦いになった時、彼の放った矢は、見事に

相手の一人を貫きました。非公式ではありますが、日本で行われた戦争で最期に

弓矢で相手を倒した人だとされています。

その後、城山までたどり着き9月24日早朝、西郷達40数名とともに岩崎谷のつゆと

散りました。享年49歳、「義」を重んじ貫いた男の最期でした。
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2017年03月12日

「桐野利秋」開墾地跡

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明治6(1873)年10月23日、政府に見切りをつけ、鹿児島へ帰ってきた「西郷隆盛」は

元武士階級の若者達の暴発を抑える為に「私学校」を造り、そして自らは、彼らに

手本を示すかのように、吉野村寺山の開墾に励み続けました。

西郷とずっと一緒に活動してきた「桐野利秋」は、隣接する吉田村宇都谷に

掘っ立て小屋を建て、一人寝泊まりしながら西郷と同じように畑仕事に励みました。

その跡地には石碑が建てられていて、彼の開いた畑地の名残りが残っています。
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2017年02月27日

鬼石蔓子?A


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前回からの続きです。

慶長の役で出兵していた大名達の中でも「島津」の名を知らしめた

合戦が「泗川の戦い」です。

朝鮮半島の泗川という所で、島津義弘率いる島津軍約7千が、明の武将董一元

の率いる5万ともいわれる明・朝鮮連合軍と戦い、これを撃退した戦いです。

泗川古城を取り囲む、数万の敵軍に対しうって出て義弘自ら先頭に立ち、鬼神の

ように刀を振るい続け、その勢いに押された董一元は多くの戦死者を出しながら

敗走していきました。この戦いで敵軍は島津軍の事を、鬼石蔓子(おにしまず)

と呼ぶようになり、大いに恐れられたといわれています。

敵の大軍来襲の報を聞いて、近くに陣を構えていた「立花氏」「宋氏」からの援軍

の申し入れを断ったというのも「島津義弘」の勇猛さを物語っているようです。(続く)

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2017年02月21日

薩摩川内市と「大伴家持」。


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奈良時代の大歌人「大伴家持」。

彼の経歴を見ると、現代のサラリーマン、転勤族の悲哀を感じさせられます。

貴族とはいえ、下級役人たった彼は、朝廷が地方管理の為に設けた「国府」の責任者を歴任させられました。

記録によると薩摩にも赴任していたそうで、当時薩摩国の国府は現在の薩摩川内市に在ったため、銅像が建て

られています。それにしてもこの案内板、どうにか出来ないものでしょうか。

ろくに文字も読めません。












2017年02月02日

指宿の豪商 濱崎太平次

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幕末の激動期、薩摩藩の財政を裏で支えた男が指宿に居ました。
名前は八代目 [濱崎太平次]。
代々薩摩藩より許可を得て、貿易業を営んできた家系ですが、七代目のときに傾きかけた家業を琉球、アジア諸国との密貿易によって建て直し、幕末には日本の三大豪商に数えられるまでになりました。
薩摩藩の討幕運動に掛かった費用のほとんどは、彼の献金によるものだといわれています。
密貿易に関っていたため、薩摩でもあまり知られていません。
明治維新とは、武士だけで成し遂げられたと思われがちですが、その裏には財政面を裏で支えた、彼のような豪商がいたからこそ成し得たのだと思います。
指宿市の港、高速船乗り場近くの海浜公園内に像が建っています。
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2017年01月30日

薩摩おごじょの鏡といわれた乃木静子


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・・・・身を殺して仁をなす・・・・将軍の妻として、軍人の妻として・・・

乃木希典。長州の支藩、長府藩出身の軍人です。
日露戦争では、ロシア軍の築いた旅順要塞の攻略戦、203高地攻めの司令官として有名ですが、指揮官としての評価は二分されるようですが、彼が妻に娶った女性が、「静子」でした。
静子は薩摩藩医・湯地定之の四女(第七子)に生まれ、幼名を「お七」といい、20歳の時、乃木希典(まれすけ)に嫁ぎました。
戦争にいく夫にお守り札を持たせようとしましたが、「ばかばかしい」と相手にされなかったので、密かに夫のズボンの縫い目にお守り札を縫いこんだという、微笑ましいエピソードが残っています。
静子は女学校時代から、「湯地の娘が男なりせば」と嘆賞されたほどの才女で、貞淑温順にして、きわめて質素、勤勉な女性だったといわれています。
明治37年、日露戦争に従軍していた二人の息子を相次いで失うという悲劇に見舞われた彼女の悲しみはいかばかりのものであったのか、想像もつきません。
明治天皇崩御の際、夫と共に殉死し54歳の生涯を閉じました。鹿児島市の甲突川河畔に、生誕地を示す石碑が建てられています。

辞世 「出ましては かへります日の なしときく 今日の御幸に あゆぞ悲しき」
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2017年01月28日

重富氏・島津久光も住んだ平松城跡


天文23年(1554年)、後に岩剣(いわつるぎ)合戦と呼ばれた島津氏と蒲生・祁答院方との激しい攻防は、岩剣城の落城によって終止符を打ちました。
この合戦で初陣を飾った島津義弘は、岩剣城に在番することになりました。しかしながら、山頂から麓までの道は大変に険しく、日常生活する上で不便でしたので、麓のこの地に居住用の館を築きました。これが、平松城です。
義弘は、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の合戦」直後にもしばらく在城し、慶長10年から翌年にかけても帖佐からこの城に帰り、加治木へ移るまでの居館としました。
その後当城では、島津義弘の夫人や娘の御屋地様が晩年を過ごしています。
江戸時代中頃の元文2年(1737年)、藩主・島津継豊は、弟の忠紀に鎌倉時代以来の名家でありながら絶えて久しかった越前島津氏を再興させました。
翌年には、帖佐郷から脇元村・平松村・船津村・春花村・触田村(吉田郷)を割いて「重富郷」と名づけます。これ以後、平松城は越前(重富)島津家の領主の館となり、一世には麓と呼ばれる家臣団の屋敷跡が計画的に整備されています。
天明の頃、城内には藩内初期の学校である振業館(しんぎょうかん)が建てられ、幕末維新に活躍する島津久光(斉彬の弟)も、若い頃は越前家20代当主としてこの平松城に住んでいました。
明治維新後、この地には重富村の役所や学校が置かれ、現在は小学校になっています。
正面の石垣は、野面積み(のづらづみ)と呼ばれる古い積み方で造られていて、また、正面の広い道は「館の馬場」と呼ばれ、幅11メートル、長さ約275メートルもあります。
鎌倉時代〜戦国時代を通じて、各地を転戦してきた島津氏にとっては、一番永く使われた城ではないでしょうか。





2017年01月25日

海浜院跡に残る石碑

海浜院とは、明治38年(1905年)医師・中江佐八郎が、結核の大家といわれた加藤好照と共同で、ここ鴨池に設立したサナトリウム(結核治療院)のことです。
結核は、結核菌の感染でおこる慢性伝染病で肺臓をはじめ、体内の内臓が侵され、そのころ国民病ともいわれるほど多くの人々がこの病いに苦しみました。
加藤好照は、中江佐八郎の相談を受け、オゾンをたくさん含んだ海岸地帯に専門の安静所を建てようと努めました。
海浜院は3年がかりで完成しましたが、その広さは、約33,000u(約1万坪)にも及び、鹿児島名物の一つになりました。また、そのパノラマ模型は、万国博覧会で、特別賞を受けたといわれています。大正12(1923年)、日本赤十字社がこの病院を引き継ぎ、赤十字病院として、現在は平川に移転しています。
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海浜院跡に残る石碑

海浜院とは、明治38年(1905年)医師・中江佐八郎が、結核の大家といわれた加藤好照と共同で、ここ鴨池に設立したサナトリウム(結核治療院)のことです。
結核は、結核菌の感染でおこる慢性伝染病で肺臓をはじめ、体内の内臓が侵され、そのころ国民病ともいわれるほど多くの人々がこの病いに苦しみました。
加藤好照は、中江佐八郎の相談を受け、オゾンをたくさん含んだ海岸地帯に専門の安静所を建てようと努めました。
海浜院は3年がかりで完成しましたが、その広さは、約33,000u(約1万坪)にも及び、鹿児島名物の一つになりました。また、そのパノラマ模型は、万国博覧会で、特別賞を受けたといわれています。大正12(1923年)、日本赤十字社がこの病院を引き継ぎ、赤十字病院として、現在は平川に移転しています。
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2017年01月20日

西郷従道邸 庭園跡の庭石

西郷従道は西郷隆盛の弟として、天保14年(1843年)に生まれました。
ちなみに、「つぐみち」と書かれていることもありますが、「じゅうどう」が正しいそうです。
兄とともに戊辰戦争に従軍し、明治維新後は陸軍をつくることに力を尽くし、のち、海軍に移り、海軍大臣・内務大臣を務めました。
明治35年(1902年)に60歳で亡くなっています。やはり、加治屋町で郷中教育を受けた一人です。明治6年に南州翁が鹿児島に下野した後も、従道は東京に留まり西南戦争では図らずも兄弟で敵と味方に別れてしまいました。
なお、従道の住んでいた屋敷の庭園は明治期を代表するといわれるほど高い評価を受けたものでした。
伊豆石・紀州の青石・伊予の石などを贅沢につかったすばらしい庭園でしたが、この庭園の石が、平成12年12月に、目黒区から鹿児島市に寄贈されました。
現在では従道の石も、鍛冶屋町の西郷隆盛の生誕の碑とともに、すぐ横に置かれています。
二人の兄弟の活躍は、鹿児島の人だけでなく、日本全国の人に語り継がれていかねばならないと、今更ながら思いました。
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