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2017年03月12日

「桐野利秋」開墾地跡

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明治6(1873)年10月23日、政府に見切りをつけ、鹿児島へ帰ってきた「西郷隆盛」は

元武士階級の若者達の暴発を抑える為に「私学校」を造り、そして自らは、彼らに

手本を示すかのように、吉野村寺山の開墾に励み続けました。

西郷とずっと一緒に活動してきた「桐野利秋」は、隣接する吉田村宇都谷に

掘っ立て小屋を建て、一人寝泊まりしながら西郷と同じように畑仕事に励みました。

その跡地には石碑が建てられていて、彼の開いた畑地の名残りが残っています。
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2017年03月10日

「南洲翁遺訓」とは?


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「南洲翁遺訓」という本をご存知でしょうか?

西郷隆盛の言葉を集めて、一冊の本に仕立てたものですが、

驚く事に、出版されたのは薩摩からではなく、旧庄内藩からだと

言うことです。

明治8年、庄内から数名の若者達を連れて西郷を訪ねてきた

筆頭家老「菅 実秀」は、西郷の人格に改めて感服し、帰る際に

2名の青年に「西郷様の語られた言葉を、一字一句書きもらすでないぞ」

といい含め、留学生として薩摩に残しました。

それから、明治10年に西南戦争が起きるまでの間、

彼らが書き留めた西郷の言葉は膨大な数に及びます。

しかし、「賊軍の将」とされてしまった西郷の言葉集を

おおっぴらに出版など出来ませんでした。

明治22年2月11日、大日本帝国憲法発布に伴う特赦によって

異例の速さで西郷の賊名が取り除かれると、翌明治23年1月

「南州翁遺訓」は上梓されたのです。

「菅 実秀」は、旧庄内藩士達にこの本を持たせ、彼らは

日本中に旅立っていきました。

薩摩の人間達がこの事実を知るのは、だいぶ後になってからの

事です。旧庄内藩主「酒井忠篤」と家老「管 実秀」。

この二人の人格者がいなければ、「西郷隆盛」の人間像についても

今のようには伝わっていなかったかも知れません。







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2017年03月09日

徳の交わりA


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東北地方には徳川譜代の藩が多かったため、戊辰戦争では官軍相手に連合を組んで

(奥羽越列藩同盟)武士らしく最期まで戦おうとする雰囲気に満ちていました。

「庄内藩」もその中の一つで、「酒井家15万石」老中まで輩出した名門です。

官軍が攻めてくると大いに戦い、米沢藩・会津藩と次々と降伏するなか、最期まで

戦い続けましたが、藩主「酒井忠篤」は重臣らと協議して、苦渋の降伏を決断しました。

これには伏線があります。倒壊寸前の幕府から、会津藩が京都守護職を命じられたように

庄内藩にも、「江戸市中警備」の命が下ります。その時に血気にはやり過ぎた藩士たちが

薩摩藩邸焼き討ち事件を起こしていました。

酒井忠篤からすれば、その時の遺恨を持った「薩摩藩」の軍勢が中心の官軍に降伏すると

いうことは、自身の身は良くて切腹、獄門貼り付けまで覚悟し、主だった家来衆にも重い

罰が与えられるであろう事は必定と覚悟の上で降伏したのでした。   (続く)

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2017年03月08日

徳の交わり@


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鹿児島市の武町に、「西郷屋敷跡」という所が在ります。

中央政界から帰ってきた西郷隆盛が粗末な家を建て、小間使いの

老人を一人だけ雇って慎ましく住んでいた住居の跡です。

現在は、小さな児童公園になっていますが、男性が二人膝を交えて

対面している銅像が目をひきます。

以下に、銅像の土台に刻まれた碑文を引用させていただきます。

西郷隆盛(南洲)と菅実秀(臥牛)が対話している対話している

この座像は、ここ西郷屋敷において両翁が親睦を深め「徳の交わり」

を誓いあったことを記念して製作したものである。

臥牛は庄内藩(山形県)の有力な家老であった。

庄内藩は戊辰戦争で官軍に激しく抵抗したため厳しい処分を覚悟していたが、

南洲翁の暖かい取計らいにより処分は極めて寛大なものとなった。

この南洲翁の人徳に感服した臥牛翁は、明治八年自ら七名の旧庄内藩士と共に

来鹿し南洲翁の教えを受けた。

後に臥牛翁はこれらの人々の手記を集め「南洲翁遺訓」を発刊し全国に頒布した。

南洲翁の偉大さが全国に知れわたったのは実に臥牛翁の人徳がその一翼を担った

ものといえる。

ここに両翁の遺徳を偲び幾多の教訓と敬愛の精神を後世に伝えるため有志と

相諮り浄財を募り対話の座像を建立した。

 平成三年十一月吉日 西郷屋敷銅像建立委員会

今は山形県鶴岡市になっていますが、鹿児島市とは兄弟都市になっていて交流が続いています。

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2017年03月06日

南さつま市田布施の「金蔵院 跡」


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前回ご紹介した二連鳥居、「南方神社」のすぐ近くに「金蔵院(こんぞういん)」という寺が

かつて在りました。百済の僧「日羅」が、西暦500年代に浦之名に創建したのが始めともいわれて

いるそうですが、確認出来るのは、この辺りに勢力を持っていた「阿多氏の一族」の忠景が

1138年に、寺に土地を寄進した事が記録に残っているので、それ以前から存在していた事は

間違い無いでしょう。その後1400年代に、島津家9代当主「忠国」が尾下村に移し、さらには

島津忠良(日新斎)が、この地に移したそうです。

藩から寺高120石をもらい、幕末まで存在したといいますから、南薩摩では結構な格式の神社

だったのでしょうか。

しかし、例外なくこの寺も「廃仏毀釈令」の洗礼を受け、痕跡すら残されておりません。
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2017年03月05日

鳥居が2つ?珍しい神社。


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これも、南7さつま市で見つけた珍しい神社です。

石造りの鳥居が、2つ並んで立っていて、境内には

同じ大きさの拝殿も2つ在ります。

県内のあちこちに在る「南方神社」の一つで、諏訪大社

の分社です。御祭神は、建御名方命・事代主命の2柱なので

2つあるのでしょうか。

元々は、池辺という集落に在りましたが、管理する者も

居なくなり、荒れ果てていたものを、1535年に「島津忠良」が

現在の場所に移したそうです。

忠良といえば、「伊作島津家」に生まれ加世田一帯を治めていて、

島津本家の15代当主を継いだ、「島津貴久」の実父にあたり、

「日新斎」としての知名度が高いかと思います。

それにしても、鹿児島という地はこのような史跡が沢山ある所です。

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2017年03月04日

鹿児島の変わった地名?


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「火の河原」と書くと地獄の中の地名のようですが、

鹿児島県には在ります。読み方は「ひのこら」だそうです。

住所的には、ギリギリ鹿児島市平川町に入るそうですが、

まず、普通の人は足を踏み入れない所です。

ここに行くには、幹線道路から外れて、道幅の狭い林道の

ような道路を、結構な時間通らなければならないし、

抜け道にもならないからです。

明治維新から150年の祝賀が近づくにつれて、この集落にも

スポットが当りつつあります。

幕末に、「島津斉彬 公」が行った殖産事業の一つに大砲の鋳造

があります。大砲の砲身を作るには、砂鉄を溶かし「あら鉄」を

作り、それをもう一度高温で溶かす必要があります。

鹿児島城下近くには、良質の砂鉄が取れる場所が無かったため、

少し離れた「喜入」あたりの砂鉄を使いました。

その砂鉄を、良質の木炭で溶かし「あら鉄」にする施設が在った

のが、「火の河原」です。

今日、仕事で近くを通ったので寄り道してきましたが、人家も少なく

学校も廃校になって久しい、限界集落になっていました。

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2017年03月03日

西南戦争について考える(最終回)


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延岡で解軍し、1.000名程になった薩摩人達には、ここから大変な苦難が

待ち受けていました。

この頃になると、続々と送り込まれてくる官軍兵で、九州内は一杯という

状況で、主な道筋は通れません。薩摩の兵達は、険しく道すら無い「可愛岳」を越え、

九州山地を縦断するように南下して小林に至り、そこから吉松・蒲生を経て、

9月1日、ようやく故郷鹿児島に到着しました。官軍兵で埋め尽くされた鹿児島市内で

散発的な戦闘をつづけながら9月10日に、「城山」に最期の陣を構えました。

この時には、薩軍の兵は300〜400名になっていました。

城山の陣にこもってからも、西郷は若者達に投降を説得し、最終的には青年時代から

一緒にだった気心のしれた同胞達、40名ほどになりました。




官軍の司令官「山県有朋」は使者を送り、「官軍の総攻撃は9月24日早朝からとする。

前日の23日は一時休戦とし、官軍は一切の攻撃は行わない」と伝えました。

それを受けて、23日に40数名のラストサムライ達は、西郷を囲み最期の酒宴を催し

ました。さぞ昔話に花が咲いたのでしょうね。

24日の早朝、「どら、いきもんそか」西郷の言葉で全員が立ち上がり、おびたたしい

人数が待ち受ける官軍陣地に向かい、最期の行軍を開始しました。

この日、日本国最期の内戦といわれる「西南戦争」は終結しました。(終わり)

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2017年03月02日

西南戦争について考えるB


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西郷と大久保は仲が良くなかった?

これも鹿児島の歴史好きのなかでは定説になっています。

彼らの言葉を借りると、同じ加治屋町郷中で生まれ育った

「幼馴染」と思われていますが、実際には、大久保が生まれ育ったのは

少し離れた荒田町です。

当時の薩摩藩は、方限(ほうぎり)といって、武士の住む集落を

いくつかの集落に分け、郷中教育もその単位ごとに行われていました。

青年になってから加治屋町に引っ越してきた大久保との間に、特別な

感情は無かったのだと思います。

明治維新を成し遂げる上で、大きな功績を残した薩摩の重鎮二人ですが、

「名誉もいらず、名もいらず」を実践した西郷に対し、大久保は俗物だった

のでしょう。西郷が生きている限り、日本政界のトップにはなれないという

理由で、意図的に乱を起こさせたのだという説が正しいように思えます。

熊本城攻めに時間をとられているうちに、官軍の援軍が続々と船で着いた

北九州から南下してきて戦線が拡大して、田原坂から吉次峠と激戦になり、

双方、多数の戦死者を出しますが、数に勝る官軍に押され、薩摩軍は退却戦に

移らざるをえなくなりました。官軍から追われながら、人吉から小林へ移動し、

そこから宮崎市へ出ましたが、ここでも官軍に押され北上延岡に達しました。

ここで敗北を覚悟した薩軍は西郷の名で解軍宣言をし、生き延びてきた大部分の兵を

降伏させました。  (続く)
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2017年03月01日

西南戦争について考えるA


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二十人以上、川路の配下の薩摩人がいっぺんに一時帰国?したら、誰でも怪しいむ

と思いますが、私学校党の若者達が問い詰めたところ、やはり川路が放った密偵で、

しかも機会があれば西郷暗殺の任を帯びていた事が、明らかになりました。

血気に燃える私学校党の若者達の一部が先走り、鹿児島市草牟田に在った陸軍の

火薬庫(武器貯蔵所)を襲い、武器・弾薬を奪ったという報告をうけ、西郷は愕然とします。

こうなったら、薩摩が反乱を企てていると思われても釈明のしようがありません。

不平士族達の暴走を誰よりも気にかけていた彼は、自分なりの責任のとり方として、

反乱軍のリーダーに担がれる事を受け止めました。

但し、自らは移動中は籠に乗り、駐屯地でも奥の座敷に一人篭り、誰とも顔を合わせずに

まるで生き幽霊のようだったと伝えられています。

部隊の編成や作戦にも一切口を挟まず、桐野・篠原らに任せた為、この戦いは別名

「桐野の戦争」とも呼ばれました。

西南戦争は、薩摩が自ら挙兵したのではなく、大久保・川路が扇動して起こさせた

戦争だったというのが定説になっています。   (続く)

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