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2021年05月11日

腸閉塞になった父

父の介護が始まって数年

徐々に衰える歩行機能と平行して

咀嚼も衰えていた。

ある夜、父が突然下腹部の痛みを訴えた。

母は戸惑いながらも、

夜間の救急に問い合わせ、

タクシーで向かった。

私も姉も、既に家庭を持っていた。

同時の母は

痛みもがき苦しむ姿など見せない父から

ただ事ではない空気を感じたといっていた。

医師の診断は腸閉塞。




咀嚼されない固形物がうまく消化されず

腸内で詰まってしまう恐ろしい症状で

最悪の場合、死に至るという。

脳梗塞の後遺症は、最初は軽度でも

年々…いや、日々着実に進行していた。

咀嚼が衰えた父は、

やがてしっかりと噛めなくなっていた。

そしてその時は突然ではなく

必然的に訪れた。

それ以来、父の介護食は変わり

固形物は細かく刻まれ

喉の通りと消化の良いものが中心となった。

主介護者母の意識が変わるきっかけだった。

と同時に、介護の辛さに拍車が掛かった。

時が過ぎて気づいた、

私が母に救援の手を差しのべる

絶好のタイミングの一つであった、と。





2021年03月11日

脚を引き摺っていた父





脳梗塞を発症する数年前

父が脚を引き摺っていたことを思い出す。

どうしたのか?と聞くと

糖尿病の影響だ、と言った父。

あれは恐らく脳梗塞が発症していた。

私は今でもそう思っている。

病院が大嫌いだった父は自身の勝手な解釈で

自分の身体に起きている異変を気にしていた

のだと思う。

それ以上深入りしなかった私と

その異変に気づいていなかった?母は

大きなミスを犯していた。

結果、誰にも気づかれずに

不安を独り抱えていた父は

きっと淋しかっただろう。

可哀想なことしてしまった。




2021年03月09日

肺炎球菌ワクチン





死因は誤嚥性肺炎でも

その要因となったのは食道癌

脳梗塞で左半身麻痺だった父の最期は

誤嚥性肺炎。

そこから遡ること三年前

肺炎球菌ワクチン接種の案内が父宛に

届いた。

65歳を過ぎると皆に届くらしい。

父は肺炎球菌ワクチンの接種を拒んだ。

首を横に振りながら

動かせる方の右手も同時に横に振り

厳しい表情で「嫌だ」と言わんばかりに

拒絶した。

肺炎球菌ワクチンを父が接種しなかった

ことに後悔はない。

父の場合、誤嚥性肺炎と言っても

食道癌が原因で発症したもの。

逆に父を苦しみを延長させる結果と

なったかもしれない。




2021年03月02日

入れ歯が合わなくなって





突然痩せ始めた父の体調を

なんら疑うことなく

元気だと思い込んでいた4年前。

父の入れ歯が合わなくなって

イライラしている父を思い出している。

入れ歯を装着したことのない私に

入れ歯が合わないというストレスは、

想像もつかなかった。

歯科医に調整を依頼したけど、

調整期間中も少しずつ痩せていく父と

思うようにならない入れ歯のサイズ感は

いたちごっこのようだった。

1ヶ月経っても

二ヶ月経っても

父の入れ歯は合わず

私はそれを見ているだけだった。




2021年03月01日

車椅子は痛いらしい





父は約十年間

車椅子生活だった

ずっと車椅子に座っていると

お尻と腰が辛い

ずっと同じ姿勢でいることも辛い

お尻が痛くてイライラしていた父も

何年か経つとあまり云わなくなった

だから

時々、車椅子から立ち上がらせてあげた。

ついでに、介助しながら歩行させてあげると

気持ちが良いのか、父は笑った。

でも、そんなことをしてあげられたのは

週に一度…にも満たなかった。

お尻が痛い

腰が痛い

そのどちらも云うことが出来ない父の

ストレスを、私が

理解しようと努力することはなかった。

せいぜい、気にしているふりをする

そんな程度だった。

だから、

車椅子にずっと座っていると

腰とお尻が凄く痛いらしい、

としか言えない。



2021年02月27日

我慢





父は苦労の人生だったのか

母は生前、父のことを可哀想な人、と

育った環境を踏まえて語ってくれた。

父は何を我慢して生きていただろう。

病気前と病後で

父に起きた我慢の変化は

あったのか、なかったのか

あの当時、知ろうとも思わなかったことが

今、凄く知りたいと感じる。

それは、私の中の変化。

今生の別れを経験して

新たに生まれた心の何かが

父の我慢を理解したがる。





2021年02月08日

歯周病放置と脳溢血





極度の医者嫌いだった父は

何か事が起きるまで我慢するという

とても我慢強い人?だった。

当然、歯医者も嫌いで

虫歯痛を我慢している父の姿は

記憶に残っている。

痛くて、よくイライラしていた。

歯医者に行った時点で既に神経まで

溶けている状況、というのを

幾度となく繰り返した父は

56歳の時、脳溢血で入院。

病状は脳梗塞だった。

虫歯や歯周病との関連は証明出来ないけど

一つの要素、要因となった可能性はある。

虫歯及び歯周病が進行し、その患部から

菌が入り込むと、脳梗塞などの要因となる

事例は意外とあるようで、

虫歯や歯周病の放置が危険であるという

呼び掛ける貼り紙を病院内で見た。

私も年齢を重ねるごとに

口腔ケアに力を入れる様になり

ここ数年は糸ようじにハマっている。

口腔ケアに力を入れると

間食がし辛くなるなど

食生活の改善にも繋がっている。




2020年09月05日

不自由の入り口





身体の不自由になった父親を

十数年見てきた私にとって

左半身麻痺という状態が

日常でどのような弊害を来すのか

少しは知っているつもりです。

しかし、それは知っているだけで

理解はしていないのです。

それは、自分が…

自分の身体で実体験しなければ

到底理解が出来るはずもない。

四肢に怪我や疾患を患うことなく

ここ十数年平和に過ごしてきた私が

ふくらはぎの筋肉を傷めたことで

思うように歩けないという現状となった。

身体の不自由という入り口が少し見えた

そんな気がする。

座る時、立ち上がる時、歩く時、

ただ普通に立っている事さえもつらい。

ふくらはぎの筋肉が使えないということは

踏ん張りが利かないということ。

すべてのバランスが崩れてしまう。

父親の場合は、麻痺で

脚だけでなく腕も手も使えないという状況。

どんなにつらかったことだろう。

今さらそれに気づいたところで

父親はこの世にいない。



2020年07月16日

誰にも伝わらない





梅雨明けは間近なのだろうか

相変わらずスッキリしない天気が続く

そうは言っても

時は7月半ばである

夏本番とは言えないまでも

蒸し暑い季節に入った

これで日差しが戻れば夏本番間違いなし

長いこと車椅子生活を続けていた父は

この時期は特に大変だった

勿論大変なのは父本人

車椅子でなくても

ずっと座り続いているとお尻が蒸れるのに

車椅子は更に蒸れやすい

自分で立ち上がれない父にとって

座り直すことも出来ない

常に側に介護者がいてくれれば

何かと世話をしてもらえるけど

施設ではなかなかそうもいかない

その上父は言葉を発せない

他人に意思を伝えることも難しい



2019年09月07日

孤独と癌

幼少期から孤独という世界で生きてきた父
これは私が知り得た父の過去からの
想像や推測が入り混じってはいるが
母から・・・のちに親戚からも預かった情報による

両親と兄弟との生き別れで始まった幼少期
その時父は何を思ったであろう・・・

母から聞かされたのは父は自らの意志で孤独を選択したという事

しかしながら
両親他界後新たに聞かされた親戚筋からの情報によると
父は置いて行かれた・・・という情報

これのどちらが正しい情報なのかはわからないし
それ以上知ろうとも思わない

一つ言えるのは
父が孤独な存在であったということ

生前の母がしみじみと語っていた
お父さん(父の事)は可哀想な人なんだよ・・・と

そんな父を嫌い続けた
一時は憎しみさえ抱いた

その感情が父に伝わっていたことは
間違いない

父の味方は母だった
それが唯一の救いだったのかもしれない

この世に生を受けて以来
この世を去るまでの間
父はずっと孤独だったのかもしれない
その孤独は
果たして
父が癌に侵されたことと
関連があっただろうか

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2019年08月06日

闘病17年、日常と非日常

17年という時間は
父にとってどのような時間だっただろう

脳梗塞を患ってから
この世を去るまで・・・17年という月日を過ごした
そのうちの約14年間母が父を支えた
共に闘い
共に苦しんだ結果

行きついた先は孤独感であったかもしれない
父も母も
それぞれに感じた孤独
それは私の推測であったり憶測であったり

真実を知る日はやってこないだろうけれども
闘病17年の中の
最後の約4年間で激動した感情が
それまでに気づきというものに鈍感であった私自身に
色んな角度から気づかせてくれた

親孝行したい時に親は無し

とは良く言ったものだ・・・つくづくそう感じる
なぜ親がいなくなる前に気づきに辿り着けなかったものか
何とも情けない
何度そう感じたことだろう・・・

しかしそのほとんどの場合
私は気づきに辿り着くことは出来なかっただろう
なぜならば
親がいなくならなければ気づきを感じなかった
そう思っているからである

日常が非日常になった時
それまで当たり前であった日常が
とても愛おしいものであったり
とても貴重なものであったり
とても幸せな瞬間であったりもする

その気づきを感じた時
父が脳梗塞で倒れて以降
父の身体の自由は奪われ続け
最終的には右半身麻痺で車椅子生活となった

これによって父の日常は
非日常となり
それが17年間続いたのだ
父がこの17年間毎日何を想い何を感じて生きていたのか

そう考えると
父が感じていた絶望感や孤独感を想像したりもした・・・
私にわかるはずもない・・・が

ただ
そういう父の心の環境の変化について
今のように寄り添える気持ちを持っていれば
生前の父への寄り添い方も随分と変わっていたであろう

それは母に対しても同様
父が脳梗塞を患ったその日から
母のそれまでの日常が非日常になった

愛する夫の介護
それまでにそんな想像をしたことがあっただろうか?
母にとってそれまで非日常であったことが
その日を境に日常となったのである

あの時私に今の感情が芽生えていたのなら・・・
そうやって数え切れないほどの後悔という名の
「スイッチ」を押し続けている

日常と非日常の境目は何処にあるのだろうか
非日常も
続けば日常となってしまうことを考えると
非日常=不幸という式は成り立たない

経験の積み重ねが
自分自身の心の環境に変化をもたらす

気づきに辿り着けなかったなかったのではなく
気づきに出会うことが出来たのだ


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2019年01月12日

56歳で脳梗塞を発症するまで

アルコールとタバコ
タバコは1日2箱以上
アルコールを飲まない日はなく
外でも家でもたらふく飲んでいた

朝は毎日二日酔いで
朝起きると決まってコップ一杯のお水を欲しがった
父が美味しそうに飲み干す姿を
「美味しそうに飲むなぁ」と見ていた幼少期

タバコの煙が大嫌いで
いつも部屋が霧がかっているのが日常だった

部屋壁が黄ばんでいることを初めて知ったのは
張ってあったポスターを剥がした時だった

歯槽膿漏
父は兎に角歯磨きが嫌い
歯医者も嫌い

60歳を迎える前には上あごの歯は入れ歯となった父

歯槽膿漏は恐ろしい病気で
脳梗塞の要因の一つとされている

虫歯はほったらかしで
神経が溶けるまで我慢し続けた父は
歯の治療に2年以上要した



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2018年11月26日

届かなかった父の声

左半身麻痺となった父が

私たちに伝えたかった言葉の多くを理解できないまま

父を見送る形となった

56歳で発症して以来

年々悪化し続けた父

気づけば発する言語の殆どを失っていた

ジェスチャーと雰囲気とかすかな音声から

稀に何とか読み取ることが出来ることが出来た

父に長年付き添っていた母はもっと理解できたが・・・

4か月前の7月末

S氏という幼少の頃からお世話になっている方が入院した

それを知ったのは8月のお盆時期であった

それ以来、週に一度のペースでお見舞に行っている

S氏は両親が可愛がった人でもある

脳溢血で入院し、今はリハビリに専念している

S氏も父と同じように左半身が不自由になっている

だからいちいち父と境遇が重なる

父と大きく違うのはハッキリと会話ができるということ

動かなくなっている左肩の具合

手先指先までの痺れている感覚の表現

左脚の状態

何をどうしたら激痛が走るか

リハビリの辛さと歯痒さ等

色々なことを話してくれる

そのS氏を通して気づくことは多い

まるであの日の父の気持ちが手に取るようにわかるかのように

父がS氏と同じ感覚を持っていたかどうかはわからない

しかし

きっと父も近い感覚であったのではないか

そう思うと

申し訳なさが溢れ出てくる

わかってあげられなかったという事は

父からしてみればわかってもらえなかった・・・

何の理解もしてもらえない闘病生活は

父にとって病気そのものよりもつらかったかもしれない

伝えたいことが伝わらない

本当にその気持ちを理解してあげることが出来るのは

私が同じ状況下になった時だろう

届くことのなかった父の声は

今こうして、父が可愛がったS氏を通して伝えられたような気がする


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2018年09月10日

父の体調管理

食事は細かく刻んだものが好ましい

脳梗塞の後遺症として左半身が麻痺していた父

咀嚼(そしゃく)も舌(した)も思うように動かない為

食べたものを細かく砕いて飲み込むという通常の作業が出来ない

腸閉塞を一度経験している父にとって常にそのリスクと背中合わせ

母は食事をなるべく細かく刻んで提供していた

父は最期まで介護食には頼らなかった

ここで言う介護食とはミキサーにかけた類の食べ物

やはり咀嚼してこそ味わえる

食べたものがしっかりと咀嚼されていない場合

排便を見ればわかる

父もそうやって管理されていた

体温、血圧、尿、便、爪、表情、顔色、笑顔の頻度、鼻水・・・

日常のあらゆる場面で管理がなされる

そうやって常日頃から管理することで

身体から言葉を聞いていた

父の麻痺は会話も奪った

自分の意志を伝えることが難しい人の辛さは

その人にしかわからない

父もそうだった

稀に、私が父の気持ちを察することが出来た時は

父はそれはそれは嬉しそうに笑って喜んだ

ヨダレを大量に流しながら・・・

それくらいだった

母がしていたような管理は私には到底こなすことが出来なかった


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2018年03月29日

壁紙に付いた横一直線の染み

父と母が今の自宅で暮らしていた頃

といってもそんなに前でもない

4年ほど遡れば父と母はここに居た

同居したのは実質6年と4カ月

母が入院したことで両親は別生活となってしまった

母は父のリハビリに力を入れていた

なるべく歩かせることで筋力の低下を極力抑えようとしていた

その為に家中に手すりを張り巡らせた

父が一番苦労していた移動は

トイレまでの道のりだった

部屋を出てからの直線・・・といっても

3メートルもない距離だ

手摺りに捕まってゆっくりと移動する姿は忘れることはない

時が経つにつれ

その移動もたどたどしくなって行き

父はいつしかおでこを壁に当てながら出なければ

移動できなくなっていた

毎日毎日、あくる日もあくる日も

父はその移動を繰り返した

「親父ロード」

とでも名付けようか・・・

横一直線についた父のおでこの油分の痕

今でもそこに模様のようになって残っている

父と母が共に頑張った証

白い壁紙にうっすらと薄茶色のライン


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2018年01月11日

父はボケてない

ブログの中で、幾度となく父の痴呆について疑いをかけてきた。
それはこれからもあるかもしれない。

しかし、その時々でいつも思うことがある。
父は「まともなんだ」と。

半身麻痺の影響で、舌が思うように動かせない。
父は喋ることが出来ない。
口の動きと、切れの悪い音声から
何とか読み取れる、聞き取れることもない訳ではない。
ただ、それはとても難しい。
時にはこちらの解釈の仕方が間違っていることもあるだろう。

そう考えると、父がおかしいのではなくて
聞き手の理解力が足りないだけではなかろうか。

父に会いに行くと、毎回会話を試みるが、
正解が分からないことの方が多い。

単純な会話・・・「Yes」か「No」かの問いであれば間違うことは少ない。
しかし、それ以外の会話が必要になることも多い。

そう言った場面で、分からないことと、解釈の間違いが重なれば
聞き手の受け取る印象が大きく異なる可能性は「大」である。

父は時折おかしなことを伝えてくる。
でも、それは私の通訳ミスなのかもしれない。
私の早とちりだったり、勘違いだったり、先入観念だったり、
要因は沢山ある。

となれば、父の精神状態がまともである可能性は高い。
その根拠は「父の喜怒哀楽」だ。

父が喋れなくなって十数年、
記憶を辿っても父が発した不可解な言葉は・・・一度も無い。
当然だ・・・しゃべれないのだから・・・

でも、父の怒るタイミングは正しい。
イライラするタイミングも、笑うタイミングも、
泣く時も・・・だ。

それぞれのシーンに適した喜怒哀楽を見せる父。

改めて今現在の父の置かれている状況を考えると、
とても良い状況とは言えない。
衣食住には問題ないが、動けない。
自立も出来ない、トイレも、お風呂も、寝る時も、
日常生活は介助が無ければ何もできない。

つい先日までは、体調を崩した関係で
食事も摂れず、水分も飲めず、ベッドの上で5日以上・・・
気が狂ってしまう。

そんな時ばかり、
父がボケていて何が何だかわからなければいいのに・・・
などと都合の良いことを考えてしまった。

しかし、父はまともだ・・・きっと。
だとしたら、父の精神力はとても強い。
イライラもしたし、涙も流した・・・
でも、父は耐え抜いた。
私には到底真似できない。

治療中の歯が痛くて二日ほど満足に食事が摂れないことがあった。
その時のイライラを今でも覚えている。
自分の精神力の弱さを痛感した。

やはり、父は凄い。


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2017年12月07日

カレーを飲むように食べる父

お昼時、父の所へ行くと
父は自分で昼食を食べている。

職員さんの介助を受けずに、
黙々と食べる姿は・・・
頑張っているようにも見えるし、
寂しそうにも見える。

私が食器を手に持ち、
スプーンで口に運んであげると
パクパクと食べる。

カレーの時なんて物凄いことになる。

父は上あごが総入れ歯なので
大きく口を開けすぎると
入れ歯が外れて落ちてしまう。

だから、控えめに口を開く。

運んでは食べ、運んでは食べ・・・
そのペースは速い。

私自身がペースを調節してあげられる立場にありながら、
ついつい父の食のペースに乗せられてしまいがち。

どんどんよこせ!
言葉では言えないが、態度でそう示す父。

殆ど飲んでいると感じるほどに早い。
何せ父は腸閉塞を経験している。

物凄い痛みが父を襲い、
夜間の救急病院に運んだのは母だった。
結構やばい状態だったらしい。

その後父は二週間ほど入院した。

あの時の事・・・父は覚えているだろうか??
あの痛みは父の脳裏に刻み込まれているだろうか??

そんなに急いで飲み込んだら、
殆ど咀嚼をせずに飲み込んでいる。

ホンジャマカの石塚こと石ちゃんがテレビで言った一言が忘れられない。
「カレーは飲み物」・・・と。

これじゃあ、私が食べさせない方がいいのかもしれない。
自分でたどたどしく食べた方が、かえってゆっくり食べられる。

ていうか、私が食べるペースを父に譲らなければいいだけの事か(笑)


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2017年10月09日

報告のない怪我

子供が保育園や幼稚園、又は学校で怪我をすると
保護者に一報が入る。
ただ、怪我の程度によってその判断は変わる。

これくらいは怪我のうちに入らない・・・等、
それぞれの判断基準みたいなものが違うことで発生する。

そうなると、当然発生するのが報告の無い怪我。
若しくは報告忘れだったり、誰かが報告しただろう・・・
といったような人的ミス。


ブログを立ち上げて以降、幾度か記事にしてきた「施設内の怪我問題」。
今回で、少なくとも4回目の父の怪我。
お世話になって二年以上、父の怪我に対する報告をいただいたことは一度も無い。


怪我の箇所はいずれも「脚」
私が把握できている怪我・・・発見した、又は気づいた怪我とでも言おうか、
ひょっとしたら、私が気づかない部分でも怪我は発生しているかもしれない。


とにかく、脚に集中している。
父は左半身を麻痺している為に、自立歩行ができない。
しっかりとした態勢で、唯一自由が利く右腕でしっかりと掴まっていれば
しばらくの間立っていることはできる。

それ以外は補助、若しくは介助が必要だ。
油断すると父は転倒してしまう。
母も幾度となく父と共倒れになったことがある。

そんな母からの忠告もあってか、
私は今のところ一度も父を転倒させたことはない。
・・・ただ、父は重たい・・・体の自由が効かない人は
健常者に比べるとそれ以上の重量を感じる。
だから、一瞬の油断が大きな事故につながるリスクをいつも伴う。


果たして父の怪我の原因は何なのだろうか・・?
怪我の処置を施してあるが、治療費は掛かっていない。
以前は、縫合してもいいくらいの怪我に見えたが
医療用のフイルムシートが貼付されていた。

今回はズボンに血が滲んでいた。
左膝・・・脱脂綿らしきものがあてがってあるようだった。
ズボンをまくり上げなかったので定かではないが・・・

父も平気そうであったことと、いつものように歩行訓練も出来た。
痛そうだからやめておこうか?と聞いたが、父は「歩きたい」という意思表示。
嬉しそうにしていた。

車椅子から立ち上がっているだけでも気分転換になる。
それが、介助付きとはいえ歩けるのだから・・・
これほどに気持ちのいいこともないだろう。

だから、父に会いに行くと必ず歩かせてあげることにしている。
もちろん筋力の低下を遅らせたり、運動機能を鈍らせない為でもある。

怪我に対する報告が無ければない程に、
信頼が薄れていくのを感じる・・・と共に、
こちらから聞かないで待っていることのズルさも感じている。

聞けば済むことなのだ。
小さなことを大きく勘違いしている可能性は大いにある。

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2017年10月04日

感染が気になる時期

父がお世話になっている施設でも
10月に入ると同時に来客者のマスク着用が必要になった。

受付には配布用のマスクを常備し
マスクを着用していない来客者にマスク着用をお願いしていた。


最近ではO-157感染が国内で騒がれていて
犠牲者も出始めている。
感染はO-157ばかりではない
ノロウイルスやインフルエンザのようにレギュラー的存在の菌が
毎年発生する。

父も入所初年度、ノロウイルスに感染した・・・施設内感染だった。
施設内でのプチパンデミックには至らなかったが、
当時はまだ、ショートステイ契約だったために
病院へ連れて行くのも、父の看護をするのも家族の管轄とされていた。


忘れもしない、あいにくの日曜日で開いている病院は限られていた。
病院を3つほど転々とした。
中にはノロウイルスの検査はやっていない・・・と
半ば門前払いされた場所もあった・・・。
(当時はかなりイラついたが、もめている余裕もなかった・・・)


寝起き、食事前、帰宅時など、いちいち手洗いうがいを励行することと、
十分な睡眠をとることなど、やはり生活習慣は一番のポイントとなる。
感染しても発症させなければ、ただの菌である。


しかし、父のように施設暮らしの人達は自分で率先して手洗いうがいをすることが
ままならない人が殆どで、更には来客者が毎日のように菌を運んでくる。

保菌者は何も感染している人ばかりではない。
マスクの着用だけでは防げない。
しかし、その他の管理は来客者それぞれのモラルの範囲でしかない。

アルコール消毒をしっかりとする人、しない人・・・
それだけでもハッキリと別れる。


それだけではない、マスク着用して施設に入ったところで
施設内の入所者は誰一人としてマスクを着用していない。
もちろん私の父も・・・。

感染が気になる時期は始まったばかり・・・
父の心配ばかりもしていられないが、
今年も何もありませんように・・・。

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壁の傷

一階の壁には数か所の傷がある。
すべて一方向に擦れた傷跡。

それら傷の殆どは、床上20センチ付近にあり
出入り口に集中している。

リビング、トイレ、洋間・・・
全部の出入り口の壁には傷がある。
トイレに関しては扉にも傷がある。

壁の傷はいろんなことを私に語る。

これらの傷は、父が母に介護してもらていた証であり
父と母が共に暮らしていた証でもある。

バリアフリー設計の家を選んだのは父が脳梗塞を患っていたから。
それが無ければバリアフリーという選択肢はなかったと思う。

しかし、当時の父は少々太っていて、体重は70キロを超えていた。
ちなみに身長は160センチ前半である。
力には自信のある私でも重たいと感じた。
70キロのバーベルよりも、70キロの父の方が重たく感じた。


父は車椅子生活を余儀なくされていたが
計算外の事が起きた。
父が規格外?の体つきとなった結果、
車椅子の幅も大きめのものが必要となったのだ。

我が家のバリアフリーの規格ギリギリの車椅子は
容赦なく家壁を傷つけ続けた。

その傷が今もそのまま残っている。
その傷からは父と母を感じる。
辛くて大変だった介護の苦労を感じる。

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