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2022年02月15日
何故母は最期まで苦しまなければならなかったのか
肺がんを患った母の壮絶な最期は
すべてが記憶に焼き付いて離れない。
ただ、そのショックは時間と共に
ゆっくりと和らいでいる。
あれから6年過ぎた。
小さな身体でずっと頑張ってくれた母。
父の酒癖女癖、金遣いは荒い上に
アルコール中毒で度重なる入院看病の
繰り返しの中、子供3人を養育する為に
昼夜働き続けた。
やがて父に借金が発覚、額は数百万円。
母が10年近くかけて返し終えた頃、
長男が数百万の借金を踏み倒して夜逃げ…
破産宣告に追い込まれた。
姉と私が順に社会人となり、親元を離れて
一段落着いた頃、父が脳梗塞で倒れた。
そこから母は介護者として十数年…
肺がんの発覚まで父の介護に明け暮れた。
そんな母にはせめて人生の最期くらい…
そう願う気持ちとは裏腹に
過酷な最期を迎えさせてしまった。
何故、母はこれ程までに苦しまなければ
ならなかったのだろうか。
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すべてが記憶に焼き付いて離れない。
ただ、そのショックは時間と共に
ゆっくりと和らいでいる。
あれから6年過ぎた。
小さな身体でずっと頑張ってくれた母。
父の酒癖女癖、金遣いは荒い上に
アルコール中毒で度重なる入院看病の
繰り返しの中、子供3人を養育する為に
昼夜働き続けた。
やがて父に借金が発覚、額は数百万円。
母が10年近くかけて返し終えた頃、
長男が数百万の借金を踏み倒して夜逃げ…
破産宣告に追い込まれた。
姉と私が順に社会人となり、親元を離れて
一段落着いた頃、父が脳梗塞で倒れた。
そこから母は介護者として十数年…
肺がんの発覚まで父の介護に明け暮れた。
そんな母にはせめて人生の最期くらい…
そう願う気持ちとは裏腹に
過酷な最期を迎えさせてしまった。
何故、母はこれ程までに苦しまなければ
ならなかったのだろうか。
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2021年10月12日
肺がんで死期が近づいた時の症状
呼吸は浅いけど
肩で息をする様子はなく
椅子に座って一日を過ごす。
お尻の痛みという、
病気とは無関係の痛みに悩まされながら
胸の痛みに耐えている。
意識は途切れ途切れで
会話をしていても
食事を摂っていても
途中で気絶するように寝る
すぐ前に居るけれど
そこには居ない。
何処かと現世を行ったり来たりしている
そんな様に見える。
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肩で息をする様子はなく
椅子に座って一日を過ごす。
お尻の痛みという、
病気とは無関係の痛みに悩まされながら
胸の痛みに耐えている。
意識は途切れ途切れで
会話をしていても
食事を摂っていても
途中で気絶するように寝る
すぐ前に居るけれど
そこには居ない。
何処かと現世を行ったり来たりしている
そんな様に見える。
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2021年04月28日
呼吸困難
新型コロナ肺炎の症状は多く
それは感染中に留まらず
後遺症としても数多くの症例が
報告されている。
報道等を通してリアルに想像できる症状が
「呼吸困難」の症状。
肺癌を患った母の最期の数日間は
忘れる事は出来ない。
それほどに、肺が機能しないという事は
恐ろしいことである。
酸素マスクなど何の役にもたっていない、
そう感じさせる壮絶さがある。
現実に、母は何度も何度も酸素マスクを
外した。
苦しみもがき続けながら酸素マスクを外す。
母の腕がベッドに縛りつけられる光景は
ホントに思い出したくない。
私もその作業に加担した。
一生の不覚。
人間が…しかも自分の母親が
目の前で苦しみもがいている光景など…。
コロナ禍で多くの患者が
母のようにして苦しみもがいているのかと
考えるだけで、いや
それを考えたくない。
何が起きているのか、それを想像するだけで
とてもとても辛くなる。
それは感染中に留まらず
後遺症としても数多くの症例が
報告されている。
報道等を通してリアルに想像できる症状が
「呼吸困難」の症状。
肺癌を患った母の最期の数日間は
忘れる事は出来ない。
それほどに、肺が機能しないという事は
恐ろしいことである。
酸素マスクなど何の役にもたっていない、
そう感じさせる壮絶さがある。
現実に、母は何度も何度も酸素マスクを
外した。
苦しみもがき続けながら酸素マスクを外す。
母の腕がベッドに縛りつけられる光景は
ホントに思い出したくない。
私もその作業に加担した。
一生の不覚。
人間が…しかも自分の母親が
目の前で苦しみもがいている光景など…。
コロナ禍で多くの患者が
母のようにして苦しみもがいているのかと
考えるだけで、いや
それを考えたくない。
何が起きているのか、それを想像するだけで
とてもとても辛くなる。
2021年02月26日
母と過ごした最期の夜
母と自宅で過ごした最期の夜、
私の心はそれほどざわついてはいなかった。
母が数日内に他界するなどと
思っていなかったから。
これが私の犯した失敗の中の一つ。
癌に関する知識や闘病について
知ろうとする努力はした。
しかし、人の命の灯火が消える前の
兆候について、何も勉強しなかった。
それが「気づき」を遅らせた。
母との時間が限られていたことを。
2020年12月03日
夢と現実と
ちょうど五年前
私の母親は肺がんが悪化し
命の灯火が消えかかっていた。
意識はあるようで無く
食も細く、身体を動かすこともままならない
痛みは増して、薬の効果もほとんどない
苦しい日々を過ごしていた母の記憶
思い出したくないけど思い出してしまう
この季節になると余計に…。
時間と共に、哀しみは和らいだ。
しかしこの世に存在しない、という事実を
心は理解しているけれど、
脳が理解できないでいる。
その状況はずっと変わらない。
それが私の精神を夢と現実の狭間に
縛りつけてしまう。
独り相撲だ。
「居ないけれど、居る」
これ以上の言葉が見当たらない。
これが現実と理解しつつも
夢という非現実の世界とを
往き来する日々は終わらない
2020年09月15日
最期の言葉
肺がんという病気の恐ろしさは
目の前で苦しみもがく母親から教わった。
投薬されているモルヒネは効いていない。
モルヒネの効果は
母親の意識と引き替えだった。
麻薬が効いたと言うよりは
脳が麻痺して意識を失い
肺が動く限りの間
ただただゆっくりと呼吸をするだけの
それ以外は動かない状態となった。
呼吸が出来ない苦しみからは
麻薬を持ってしても逃れられない。
そんな事実を突きつけられた。
そんな母が最期に遺した言葉は
今でも忘れない。
呼吸が苦しいのにも関わらず
なんとか声を振り絞っていた。
実際、言葉にならなくて聞き取れなかったり
声にしたいけど出せないシーンは
幾度となく訪れた。
最期に言いたいことはまだまだあった様子。
あの時聞けなかった言葉は
何だっただろう…と
考えても考えても答えは出ない。
目の前で苦しみもがく母親から教わった。
投薬されているモルヒネは効いていない。
モルヒネの効果は
母親の意識と引き替えだった。
麻薬が効いたと言うよりは
脳が麻痺して意識を失い
肺が動く限りの間
ただただゆっくりと呼吸をするだけの
それ以外は動かない状態となった。
呼吸が出来ない苦しみからは
麻薬を持ってしても逃れられない。
そんな事実を突きつけられた。
そんな母が最期に遺した言葉は
今でも忘れない。
呼吸が苦しいのにも関わらず
なんとか声を振り絞っていた。
実際、言葉にならなくて聞き取れなかったり
声にしたいけど出せないシーンは
幾度となく訪れた。
最期に言いたいことはまだまだあった様子。
あの時聞けなかった言葉は
何だっただろう…と
考えても考えても答えは出ない。
2020年05月25日
逃げた
父親が危篤状態になったと
知らせの入った前日、
私は苦しそうにしている父親を知りながら
病院を後にした。
誰にも伝えずに…。
あの時の自分自身の心境が
よくわからない。
ハッキリしているのは
逃げたという事実。
父親にとってそれが三度目の肺炎。
末期の食道がんが原因で
誤嚥性肺炎のリスクは避けられない
そう伝えられたことが
潜在意識にどのような働きがあったか…
いずれにしても
私は父親のそれから逃げた。
この事実は一生変わらない。
2020年01月22日
あちらの世界が見えていた?
母が昏睡状態に入る前日、
苦しみもがき
意識は朦朧としながらも
時折ハッキリした口調で
言葉を発した。
その中に
「もう少しこっちに居たかった」
(「こっち」とは「こちらの世界」
と言う意味。)
とあった。
その少し前には
朦朧状態から意識が戻った瞬間
「まだ死んでないの️」とも言った。
意識が朦朧とする中、
母には見えていたのだろうか?
あちらの世界が…
2019年03月09日
壮絶と静寂
母が他界するに至るまでに3日間
壮絶な闘いがあったことは
幾度となく語ってきた
入院初日にモルヒネ投与したが
肺がんの母にとっては痛みよりも苦しさが強く
モルヒネでごまかすには限界があった
脳が麻痺するに至るまでかなりの時間を要した
父の場合
肺炎だった
進行した食道癌が原因で起きた誤嚥性肺炎
危篤状態に入るまでは
やはり呼吸は荒く苦しそうだった
病院からの呼びかけで駆け付けた回数は2回
そのどちらの時も父の意識はなかった
何度も何度も父の手を握って話しかけた
母も父も最後の最期息を引き取る時は
穏やかに息を引き取ったという印象
しかしながら
それに至るまでの流れを加味すると
母は壮絶
父は静寂
そんな印象が植え付けられている
AD
壮絶な闘いがあったことは
幾度となく語ってきた
入院初日にモルヒネ投与したが
肺がんの母にとっては痛みよりも苦しさが強く
モルヒネでごまかすには限界があった
脳が麻痺するに至るまでかなりの時間を要した
父の場合
肺炎だった
進行した食道癌が原因で起きた誤嚥性肺炎
危篤状態に入るまでは
やはり呼吸は荒く苦しそうだった
病院からの呼びかけで駆け付けた回数は2回
そのどちらの時も父の意識はなかった
何度も何度も父の手を握って話しかけた
母も父も最後の最期息を引き取る時は
穏やかに息を引き取ったという印象
しかしながら
それに至るまでの流れを加味すると
母は壮絶
父は静寂
そんな印象が植え付けられている
AD
2018年11月21日
反対側からの景色(母親編)その2
母が旅立つ前の詳細は幾度となく綴ってきた
病院では想像を絶する闘いが続いた
母は一度病室の景色を見ながらこう言った
「ここは家?」
母は眼が殆ど見えなくなっていたのだと思う
私と姉の名前を呼びながら位置を確認するようにしていたことも思い出す
母が見ていた景色を知りたい
視界は?色は?私たちの顔は?
会話は何度か交わした
だから聴覚はしっかりしていたと思う
苦しみながら
身体の痛みを訴えながら
喉の渇きを訴えながら
ドラマや映画の撮影であれば
もう一方の視点からの映像はその物語の見る目を変える
母が見ていた景色を知ることが出来れば
あの日の壮絶な出来事は
全く別のものになるのかもしれない
そう考えると
どうしても知りたくなる
AD
病院では想像を絶する闘いが続いた
母は一度病室の景色を見ながらこう言った
「ここは家?」
母は眼が殆ど見えなくなっていたのだと思う
私と姉の名前を呼びながら位置を確認するようにしていたことも思い出す
母が見ていた景色を知りたい
視界は?色は?私たちの顔は?
会話は何度か交わした
だから聴覚はしっかりしていたと思う
苦しみながら
身体の痛みを訴えながら
喉の渇きを訴えながら
ドラマや映画の撮影であれば
もう一方の視点からの映像はその物語の見る目を変える
母が見ていた景色を知ることが出来れば
あの日の壮絶な出来事は
全く別のものになるのかもしれない
そう考えると
どうしても知りたくなる
AD
2018年11月20日
反対側からの景色(母親編)その1
母が最後に食事を摂った時
それは母が他界する2日前の朝だった
あの朝、私がキッチンに立ち
母に食事を出した
ラップに包んで冷凍してある少量のご飯をレンジで温め
母の茶碗に盛る
少し前に買い置きしてあったインスタント味噌汁を入れ
おかずは・・・
あぁ・・・もうそれだけで涙が出そうになる・・・
あの日、私から見た母の光景は今もハッキリと想い出せる
その時私が何を感じ、何を想い、何を考えていたのか・・・も
あの日、母から見えていた光景はどのように見えていただろうか
私の事は見えていただろうか
ご飯の味を、味噌汁の味を記憶しているだろうか
意識は朦朧としていたのか
私には救急車に乗ってから苦しそうになったように見えた
あの日この部屋でリビングに座っていた母から見た景色
最後に母が見たこの家の景色
私の記憶はハッキリと想い出せるのに
映画やドラマのように
反対側の目線で撮った映像が観れたらいいのに・・・
AD
それは母が他界する2日前の朝だった
あの朝、私がキッチンに立ち
母に食事を出した
ラップに包んで冷凍してある少量のご飯をレンジで温め
母の茶碗に盛る
少し前に買い置きしてあったインスタント味噌汁を入れ
おかずは・・・
あぁ・・・もうそれだけで涙が出そうになる・・・
あの日、私から見た母の光景は今もハッキリと想い出せる
その時私が何を感じ、何を想い、何を考えていたのか・・・も
あの日、母から見えていた光景はどのように見えていただろうか
私の事は見えていただろうか
ご飯の味を、味噌汁の味を記憶しているだろうか
意識は朦朧としていたのか
私には救急車に乗ってから苦しそうになったように見えた
あの日この部屋でリビングに座っていた母から見た景色
最後に母が見たこの家の景色
私の記憶はハッキリと想い出せるのに
映画やドラマのように
反対側の目線で撮った映像が観れたらいいのに・・・
AD
2018年06月21日
最後に見たトイレでの母
肺が苦しくて
横になれない日々
仰向けはおろか
うつ伏せにもなれない日が何日続いただろう
座った状態でないと眠ることできなくなり
座布団やビーズクッションなどを使って
色々と試したが
一番寝れるのは椅子だった
その代償は
お尻のと腰の痛みだった
特にお尻はとても痛がった
そんな状態だった母は
既に自らオムツを履いていた
それだけでも涙が出そうになる
それを知ったのは
歩いてトイレに行くこともままならなくなっていた母を
キャスター付きの椅子を車椅子代わりにして
母をトイレまで連れて行った時の事だった
尿意がかなりひっ迫していたのだろう
私がトイレのドアを締め切る前に母はズボンをずらした
そこにはオムツ姿の母が居た
見たのはほんの一瞬
その一度だけだった
あの姿はしっかりと脳裏に焼き付いている
AD
横になれない日々
仰向けはおろか
うつ伏せにもなれない日が何日続いただろう
座った状態でないと眠ることできなくなり
座布団やビーズクッションなどを使って
色々と試したが
一番寝れるのは椅子だった
その代償は
お尻のと腰の痛みだった
特にお尻はとても痛がった
そんな状態だった母は
既に自らオムツを履いていた
それだけでも涙が出そうになる
それを知ったのは
歩いてトイレに行くこともままならなくなっていた母を
キャスター付きの椅子を車椅子代わりにして
母をトイレまで連れて行った時の事だった
尿意がかなりひっ迫していたのだろう
私がトイレのドアを締め切る前に母はズボンをずらした
そこにはオムツ姿の母が居た
見たのはほんの一瞬
その一度だけだった
あの姿はしっかりと脳裏に焼き付いている
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2018年04月11日
声を掛けると戻ってくる・・・は本当だった
父の死に際
父は何度か呼吸が止まった
最初に確認したのは看護師さん
前回記事にもしましたが
身の回りのお世話の最中に呼吸が止まった父
その後、呼ばれて到着した私たち
一見穏やかに呼吸しているように見えた父が
突然呼吸を停止した
慌てふためき、姉と二人で父に語り掛けた
二人で泣きながら
くしゃくしゃになりながら・・・父に沢山感謝の言葉を伝えた
同時に看護師さん達の動きが慌ただしくなった
その間、父を何回呼び続けたか記憶していないが
父が突然息を吹き返した
姉と二人驚いた
とてもとても驚いた
逝ったと思った父が直後に戻ってきたのだ
思わず上がった歓声と同時に笑ってしまった記憶もある
本当にすごいと感じた
その後、似たような息の吹き返しを2〜3回繰り返した父
何という生命力なのだろう
父は最後の最期まで強くてカッコよかった
生死の境を彷徨っている人に呼び掛けると戻ってくる・・・
あれは本当だった・・・通夜の後
姉とそんな話で盛り上がった
AD
父は何度か呼吸が止まった
最初に確認したのは看護師さん
前回記事にもしましたが
身の回りのお世話の最中に呼吸が止まった父
その後、呼ばれて到着した私たち
一見穏やかに呼吸しているように見えた父が
突然呼吸を停止した
慌てふためき、姉と二人で父に語り掛けた
二人で泣きながら
くしゃくしゃになりながら・・・父に沢山感謝の言葉を伝えた
同時に看護師さん達の動きが慌ただしくなった
その間、父を何回呼び続けたか記憶していないが
父が突然息を吹き返した
姉と二人驚いた
とてもとても驚いた
逝ったと思った父が直後に戻ってきたのだ
思わず上がった歓声と同時に笑ってしまった記憶もある
本当にすごいと感じた
その後、似たような息の吹き返しを2〜3回繰り返した父
何という生命力なのだろう
父は最後の最期まで強くてカッコよかった
生死の境を彷徨っている人に呼び掛けると戻ってくる・・・
あれは本当だった・・・通夜の後
姉とそんな話で盛り上がった
AD
2018年04月10日
待っててくれた父
最期の日
手続中だった父の住所変更をしていた
危篤の知らせから一夜明け
父の施設退所を経て
再び住所を自宅へ戻す手続きが未完了のままだったのだ
危篤の割に穏やかな印象を受けたことから
まだ数日は持つだろうという根拠のない確信のようなものがあった
手続完了と同時に携帯が鳴った
たった今父の呼吸が一度止まったとの知らせだった
呼吸は復活したが状態は悪いとのことだった
妻と姉に一報を入れ
すぐに駆け付けた
やがてみんなが揃った
父は比較的穏やかに呼吸していた
意識はない
前日同様、姉と私の二人が病室に残った
私が病室に到着して約3時間たった頃
父は逝った
私たちが到着する前
一度は呼吸が止まったにもかかわらず
復活して待ってくれた父
姉と二人になった後も
父の強さを見せつけられた
そこにはドラマもあった
それはまた次回以降語らせて頂きます
AD
手続中だった父の住所変更をしていた
危篤の知らせから一夜明け
父の施設退所を経て
再び住所を自宅へ戻す手続きが未完了のままだったのだ
危篤の割に穏やかな印象を受けたことから
まだ数日は持つだろうという根拠のない確信のようなものがあった
手続完了と同時に携帯が鳴った
たった今父の呼吸が一度止まったとの知らせだった
呼吸は復活したが状態は悪いとのことだった
妻と姉に一報を入れ
すぐに駆け付けた
やがてみんなが揃った
父は比較的穏やかに呼吸していた
意識はない
前日同様、姉と私の二人が病室に残った
私が病室に到着して約3時間たった頃
父は逝った
私たちが到着する前
一度は呼吸が止まったにもかかわらず
復活して待ってくれた父
姉と二人になった後も
父の強さを見せつけられた
そこにはドラマもあった
それはまた次回以降語らせて頂きます
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2018年04月08日
呼吸するだけだった父
最期の父
最期の母
共通すること
それは共に呼吸するだけ
父は意識レベルの低下により・・・
母はモルヒネの投与により・・・
最期の最期は呼吸するだけ
酸素マスクの位置を微調整する私は
酸素マスクで鼻がつぶれているのが気になった
鼻を気にしたところで
父は口呼吸しているようにしか見えない
でも
気が動転していたのか
意識のない父に懸命に話しかける以外でも
何か父の面倒を看たいという意思が働いたのかもしれない
呼吸するだけの父の手を握り続けたのは
奇跡の握り返しを期待したからだった
意識のない父の手は一度も動くことは無かった
ピクリともしなかった
父はただ呼吸するだけだった
AD
最期の母
共通すること
それは共に呼吸するだけ
父は意識レベルの低下により・・・
母はモルヒネの投与により・・・
最期の最期は呼吸するだけ
酸素マスクの位置を微調整する私は
酸素マスクで鼻がつぶれているのが気になった
鼻を気にしたところで
父は口呼吸しているようにしか見えない
でも
気が動転していたのか
意識のない父に懸命に話しかける以外でも
何か父の面倒を看たいという意思が働いたのかもしれない
呼吸するだけの父の手を握り続けたのは
奇跡の握り返しを期待したからだった
意識のない父の手は一度も動くことは無かった
ピクリともしなかった
父はただ呼吸するだけだった
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2018年04月07日
39度を超える高熱
父の昏睡のきっかけは肺炎
父の食道癌は食道をふさぎ
誤嚥のリスクを高め続けていた
常にそのリスクと背中合わせ
再再発した誤嚥性肺炎は
再び父を高熱で苦しめた
あの日
病室に行った私が感じた父の荒い呼吸
あれは肺炎によるものだった
その翌日に父は危篤状態となった
病院に呼ばれて駆け付けた時
父の呼吸はそれほど荒くは無かった
意識はなかった
身体が猛烈に熱かったことを覚えている
酸素マスクの装着姿に良い思いではない
父と母に共通する光景だ
AD
父の食道癌は食道をふさぎ
誤嚥のリスクを高め続けていた
常にそのリスクと背中合わせ
再再発した誤嚥性肺炎は
再び父を高熱で苦しめた
あの日
病室に行った私が感じた父の荒い呼吸
あれは肺炎によるものだった
その翌日に父は危篤状態となった
病院に呼ばれて駆け付けた時
父の呼吸はそれほど荒くは無かった
意識はなかった
身体が猛烈に熱かったことを覚えている
酸素マスクの装着姿に良い思いではない
父と母に共通する光景だ
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2017年11月14日
心無き油断
あの日、坂道を転がる以上のスピードで悪化した母。
直滑降に近かったといっても過言ではないだろう。
救急車を自宅に呼び、病院に運ばれるまで数十分。
救急車のに乗った途端、母の呼吸は激しくなった。
病院到着後、待たされること一時間。
再会した母は既に目が見えていない感じだった。
両脇に居る私と姉・・・それぞれを手で探るようにして
・・・こっちが〇〇・・・こっちが〇〇・・・と
私と姉の名を順に呼んだ。
あぁ・・・見えてないんだ・・・と感じた。
その数分前、医師に呼び出された私たちは
早ければ今夜にも・・・と告げられた。
既に母の肺は機能を失いつつあった。
肺がん・・・素直に恐ろしいと感じた。
病室が空くのを待つ間、母は苦しそうだった・・・とても。
腰が痛い・・・体中が痛い・・・
何をしてもダメだった。
病室に移動してからも状況は悪化するばかり。
目は一点を見つめ、焦点は何処にも合っていない。
「喉が渇いた」を連呼していた母。
しかし、病院サイドからは飲食厳禁の指示が出ていた。
最初は従うつもりだった・・・最初は・・・。
死を目前にした母が、水を飲みたがっている。
飲ませてあげたいに決まってる・・・だから上げた。
母は苦しそうに飲んだ。
死に物狂いで水を飲んだ。
母に使った最初で最後の吸い飲み。
私の心無い行動は最中の事だった。
気が動転していたなんて言い訳の選択枠にも入らない。
私は水を欲しがる母が居る部屋でおもむろにお茶を飲んだ。
持っていたペットボトルのお茶だ。
普通に飲んだ。
その直後、母が痛恨の一言を言い放った。
「・・・いいなぁ・・・」
いろんな・・・いろんな想いがその一言に込められていた筈だ。
油断・・・と言うべきか・・・自らの心無い行動に直後から後悔した。
私は最後の最期に申し訳の立たないことをしでかした。
人の本性は極限の状態で現れる。
当時の私の精神状態は追い込まれていた・・・
そして、あれが私の本性なのだ・・・恥しい限りだ・・・。
AD
直滑降に近かったといっても過言ではないだろう。
救急車を自宅に呼び、病院に運ばれるまで数十分。
救急車のに乗った途端、母の呼吸は激しくなった。
病院到着後、待たされること一時間。
再会した母は既に目が見えていない感じだった。
両脇に居る私と姉・・・それぞれを手で探るようにして
・・・こっちが〇〇・・・こっちが〇〇・・・と
私と姉の名を順に呼んだ。
あぁ・・・見えてないんだ・・・と感じた。
その数分前、医師に呼び出された私たちは
早ければ今夜にも・・・と告げられた。
既に母の肺は機能を失いつつあった。
肺がん・・・素直に恐ろしいと感じた。
病室が空くのを待つ間、母は苦しそうだった・・・とても。
腰が痛い・・・体中が痛い・・・
何をしてもダメだった。
病室に移動してからも状況は悪化するばかり。
目は一点を見つめ、焦点は何処にも合っていない。
「喉が渇いた」を連呼していた母。
しかし、病院サイドからは飲食厳禁の指示が出ていた。
最初は従うつもりだった・・・最初は・・・。
死を目前にした母が、水を飲みたがっている。
飲ませてあげたいに決まってる・・・だから上げた。
母は苦しそうに飲んだ。
死に物狂いで水を飲んだ。
母に使った最初で最後の吸い飲み。
私の心無い行動は最中の事だった。
気が動転していたなんて言い訳の選択枠にも入らない。
私は水を欲しがる母が居る部屋でおもむろにお茶を飲んだ。
持っていたペットボトルのお茶だ。
普通に飲んだ。
その直後、母が痛恨の一言を言い放った。
「・・・いいなぁ・・・」
いろんな・・・いろんな想いがその一言に込められていた筈だ。
油断・・・と言うべきか・・・自らの心無い行動に直後から後悔した。
私は最後の最期に申し訳の立たないことをしでかした。
人の本性は極限の状態で現れる。
当時の私の精神状態は追い込まれていた・・・
そして、あれが私の本性なのだ・・・恥しい限りだ・・・。
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2017年08月31日
看取ることが出来たということ
母が他界して1年と8カ月以上が過ぎた。
時が経てば経つほど、
いろんなことが見えてくる。
物事の捉え方も違ってくる。
どれほどの後悔を抱えようとも、
どれほどの悲しみを味わおうとも、
どれほどの寂しさを感じようとも・・・
実の母親の死を・・・母の最期を看取れたということが
どれほどに幸せなことか・・・
じわじわと身に染みて感じる日々。
幸せなことも、不幸なことも、
無意識に自分のそれと比べてしまうところは
自分が人間として成長しきれない部分の表れでもあると感じる。
母の最期の大泣きを聞いた。
母との最期の会話、言葉、すべて記憶に残っている。
それらをブログの記事として残すことも出来た。
「あたし死ぬんだね」
病室で母が言ったその言葉も痛烈に残っている。
一生涯忘れられないことが沢山起きた。
とてもとても辛いことだった。
でも、それも時が経てば想い出と変わり
そしてその想い出は良い想い出として記憶に残っている。
私は母の最期を看取ることが出来た幸せ者である。
せめて最期に一言・・・最期に一目・・・最期に声だけでも・・・
その思いはお互いに「悔み」として残るかもしれない・・・。
私はそれらすべてを記憶に残すことが出来たのだ。
AD
時が経てば経つほど、
いろんなことが見えてくる。
物事の捉え方も違ってくる。
どれほどの後悔を抱えようとも、
どれほどの悲しみを味わおうとも、
どれほどの寂しさを感じようとも・・・
実の母親の死を・・・母の最期を看取れたということが
どれほどに幸せなことか・・・
じわじわと身に染みて感じる日々。
幸せなことも、不幸なことも、
無意識に自分のそれと比べてしまうところは
自分が人間として成長しきれない部分の表れでもあると感じる。
母の最期の大泣きを聞いた。
母との最期の会話、言葉、すべて記憶に残っている。
それらをブログの記事として残すことも出来た。
「あたし死ぬんだね」
病室で母が言ったその言葉も痛烈に残っている。
一生涯忘れられないことが沢山起きた。
とてもとても辛いことだった。
でも、それも時が経てば想い出と変わり
そしてその想い出は良い想い出として記憶に残っている。
私は母の最期を看取ることが出来た幸せ者である。
せめて最期に一言・・・最期に一目・・・最期に声だけでも・・・
その思いはお互いに「悔み」として残るかもしれない・・・。
私はそれらすべてを記憶に残すことが出来たのだ。
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2017年07月01日
肺がんの苦しみから解放させてあげたい
まだ逝って欲しくはない。
心の準備はしてきたつもりでも
そう簡単に準備できるものでもない。
あなたを失うことへの恐怖と不安を解消する術はなかった。
肺がんという病気の恐ろしさを目の前にした時
母がどんな強敵と闘っていたのかということを
思い知らされた瞬間でもあった。
モルヒネが効かない・・・それは同時に打つ手がないという現実でもあった。
痛みに対してであれば、効果は現れたであろう・・・。
しかし、肺が機能せず、呼吸が出来ない苦しみから
逃れる手はなかった。
母にはまだ生きていて欲しい。
でも、目の前の母を一秒でも早く解放してあげたい。
その両極端な感情が入り混じっていた。
生きていて欲しい、今日は勿論、明日も明後日も・・・
でも、この苦しみから解放させてあげたい・・・今すぐに・・・
レントゲンで見る限り、肺は殆どの機能を失っている状況との説明。
早ければ今日・・・という診断であった。
医者と目を合わせることもなく、ただ呆然としていた。
取り乱すこともなく、落ち着いている振りをしていたのだろう。
一瞬、母に何と言えばいいのだろう・・・と思った記憶がある。
検査を終えた母と再会した時、母の目は焦点が合っていなかった。
呼吸も苦しそうで、身体中・・・特に腰の痛みを訴え続けた。
母が闘っていたもの・・・肺がん・・・
恐ろしくもあり、憎さも感じた。
母を・・・あの我慢強い母をここまで追い詰める肺がん・・・
だからこそ、早く解放してあげたいと強く願った。
母の手を握ると、母はその倍以上の力で握り返してきた・・・
息苦しさが母の手から痛いほど伝わってきた。
死なないで・・・そう、強く願った。
何もかもが矛盾し始めていた。
結局、母に対して「死なないで」とは言えずに終わった。
「もう、頑張らなくていいんだよ」とも告げた。
最期の最期に思ったことは、
「早く解放してあげたい」
そう強く願っていた。
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心の準備はしてきたつもりでも
そう簡単に準備できるものでもない。
あなたを失うことへの恐怖と不安を解消する術はなかった。
肺がんという病気の恐ろしさを目の前にした時
母がどんな強敵と闘っていたのかということを
思い知らされた瞬間でもあった。
モルヒネが効かない・・・それは同時に打つ手がないという現実でもあった。
痛みに対してであれば、効果は現れたであろう・・・。
しかし、肺が機能せず、呼吸が出来ない苦しみから
逃れる手はなかった。
母にはまだ生きていて欲しい。
でも、目の前の母を一秒でも早く解放してあげたい。
その両極端な感情が入り混じっていた。
生きていて欲しい、今日は勿論、明日も明後日も・・・
でも、この苦しみから解放させてあげたい・・・今すぐに・・・
レントゲンで見る限り、肺は殆どの機能を失っている状況との説明。
早ければ今日・・・という診断であった。
医者と目を合わせることもなく、ただ呆然としていた。
取り乱すこともなく、落ち着いている振りをしていたのだろう。
一瞬、母に何と言えばいいのだろう・・・と思った記憶がある。
検査を終えた母と再会した時、母の目は焦点が合っていなかった。
呼吸も苦しそうで、身体中・・・特に腰の痛みを訴え続けた。
母が闘っていたもの・・・肺がん・・・
恐ろしくもあり、憎さも感じた。
母を・・・あの我慢強い母をここまで追い詰める肺がん・・・
だからこそ、早く解放してあげたいと強く願った。
母の手を握ると、母はその倍以上の力で握り返してきた・・・
息苦しさが母の手から痛いほど伝わってきた。
死なないで・・・そう、強く願った。
何もかもが矛盾し始めていた。
結局、母に対して「死なないで」とは言えずに終わった。
「もう、頑張らなくていいんだよ」とも告げた。
最期の最期に思ったことは、
「早く解放してあげたい」
そう強く願っていた。
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2017年05月28日
生きているが故
家族の死、身近な人の死を目の当たりにすると
世界観が変わる。
今まで対岸の火事が、対岸ではなくなる瞬間。
死と言うものがどういうものなのか、理解はできない。
それが分かる瞬間は、自分自身がこの世を去る時だと思う。
私の場合、母の死を見届けたことで
生きることの厳しさがなんとなく分かったような気がしている。
少なくとも、死ぬことよりも生きることの方が勇気が必要だ。
それまでは、死ぬ勇気があるのなら何でもできるだろう・・・
そういう考えだった。
今は違う。
生きることに比べたら、自ら命を絶つ方が容易い・・・と。
もし、目の前に「死にたいけれど死ぬ勇気がない」
と言う人が現れたとしたら・・・
死ぬ勇気がないということは、
生きることへの願望が強いことの表れだと伝えたい。
結果として、生きる道を歩んでいるということ自体が
勇気のある証拠であり、
死にたい気持ちを生きたい気持ちが上回っている証拠。
なぜ死にたいと感じるのか?
例えば、辛いことから逃げたいから・・・
生きているが故に抱く感情。
生きているが故に、死を選択しようと考える。
死にたければ勝手に死ねばいい・・・
そう吐き捨てる人もいるだろう。
死にたい人こそ、生と真剣に向き合っている。
真剣に生きたいという想いが強い人は
死を懸けて闘う・・・つまり命を懸けている。
死にたくても死ねないのではなく
生きる想いが強い、生命力が強い。
すべては、生きているが故に・・・感じること。
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世界観が変わる。
今まで対岸の火事が、対岸ではなくなる瞬間。
死と言うものがどういうものなのか、理解はできない。
それが分かる瞬間は、自分自身がこの世を去る時だと思う。
私の場合、母の死を見届けたことで
生きることの厳しさがなんとなく分かったような気がしている。
少なくとも、死ぬことよりも生きることの方が勇気が必要だ。
それまでは、死ぬ勇気があるのなら何でもできるだろう・・・
そういう考えだった。
今は違う。
生きることに比べたら、自ら命を絶つ方が容易い・・・と。
もし、目の前に「死にたいけれど死ぬ勇気がない」
と言う人が現れたとしたら・・・
死ぬ勇気がないということは、
生きることへの願望が強いことの表れだと伝えたい。
結果として、生きる道を歩んでいるということ自体が
勇気のある証拠であり、
死にたい気持ちを生きたい気持ちが上回っている証拠。
なぜ死にたいと感じるのか?
例えば、辛いことから逃げたいから・・・
生きているが故に抱く感情。
生きているが故に、死を選択しようと考える。
死にたければ勝手に死ねばいい・・・
そう吐き捨てる人もいるだろう。
死にたい人こそ、生と真剣に向き合っている。
真剣に生きたいという想いが強い人は
死を懸けて闘う・・・つまり命を懸けている。
死にたくても死ねないのではなく
生きる想いが強い、生命力が強い。
すべては、生きているが故に・・・感じること。
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