2016年12月23日
母の死を早めた私の悲しい決断が許せない
今日は母が再入院した日
入院する為に病院へ連れて行くことを決めたのは私だった。
もう、自宅ではどうにもできない状況だった。
とにかく寝かせてあげたい・・・。
母は何日もずっと座った姿勢しか取れていなかった。
病院に居れば、もう少し楽な状態になれると信じていた。
しかし、それはただの思い込みでしかなかった。
病院なら何とかしてくれると思っていたのだ。
今考えればとても浅はかで、母の気持ちを考えたら
申し訳ない気持ちが溢れてくる。
私は午前10時前に病院に電話を入れた。
母の状況を伝え、係りつけの科と担当医の名前を出し、
今から入院を希望したいと言った内容で相談した。
病院からは、救急車で搬送してもらった方が
スムーズになる・・・とのことだった。
そもそもで病室が空いていないようだった。
その日が祝日だったということも関係した。
その日の母は、前日に引き続き動けなかった。
リビングの椅子に座ったまま、あごを上に向けながら
意識がもうろうとしていた。
119番通報に躊躇と葛藤
母の手が震えていた・・・痙攣だったのかもしれない。
「オエ〜」っと吐き気を催してもいた・・・2〜3度ほどだったが、
嘔吐は無かった。
慌ててバケツ代わりにボール(台所用品)を持って行った
ことを覚えている。
救急車を呼んだのは11時半を回っていた。
病院側と話をした後、少しの間悩んでいた私は
初めての救急119番通報を躊躇していた。
これでいいのか、どうか・・・の葛藤があった。
これ以上の精神的負担と、母の入院とで
天秤にかけていた気がする。
入院しても、また毎日会いに行けるし、
そうすれば会社に行っている間も安心できる。
・・・そこに母の想いは反映されていなかった。
母自宅に居たかった・・・それを知った上での決断。
救急隊を待っている時、母が子供のように泣き出した。
私が早めた母の死期
・・・抗がん剤治療を始める前以来・・・
母のここまでの泣きじゃくりを聴いたのは
それ以来・・・私の人生で2度目だった。
そしてその2度目が最期となった。
その時の母の泣き声が今でも耳に焼き付いている。
病院に行くのが嫌だったのだ・・・間違いない。
悲しくて悲しくて仕方がなかったのだろう。
私の我慢が足りなかった。
悲しい決断だった。
母はその犠牲になった。
その証拠に、母の容態は救急車に乗ってから急変した。
それまでは穏やかだった呼吸も、激しい呼吸に変わり
酸素吸入量は最大の15リットルでも効果はなかった。
母の「心のダム」は決壊した。
病院に到着してからもそれは止まらない。
母の目が見えていないことに気付いたのは
到着して1時間ほどが経った頃だった。
私たちの名前を呼びながら、目は真直ぐ前を見ている。
手探りで確認するように私たちの名前を呼んでいた。
こんな光景を目にするとは考えもしなかった。
私が病院へ送り込んだことで
母の死期を早めてしまった・・・この事実は変えられない。
ずっと・・・。
あの時の自分を背負いながら生きることが懺悔になるのなら
喜んで受ける・・・。
・・・本当に申し訳なかった・・・ごめんなさい・・・。
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私は10月に父を末期癌で亡くした者です
告知から3カ月で逝ってしまいました
偶然ここに辿り着き
すごくご自分を責めていらっしゃるのが気になりまして…
すごくすごく頑張っておられて
一生懸命看病されたことお母様は感謝しているのではないでしょうか
どうかあまりご自分を責めずにいてくださいね
私も同じようなことを思ったりしましたが
親は子供が苦しむのを望んでいないと思います
自分の娘も病気なので…(u_u)
突然ごめんなさい