旧畑小学校区の和田地区の善法寺というお寺には、かの明智光秀が高城山と対陣したとき、この寺に陣取っていた高城山と同盟を組んでいた「畑氏」の地侍に、救援を頼んだという「矢文(やぶみ)」が残されています。
篠山市の歴史紹介には書かれていますが、本物は見たことがなかったため、お許しを得て撮影しました。
寺の本堂に掲げてあります。
この「矢文」の正体については諸説あり、先の説明どおりには簡単にいかないかもしれません。
400年以上前の紙が現存していること自体、なにか不思議な気持ちがします。また、書かれている宛名も史料には表れていないそうです。
いずれにせよ、和田地区の北に隣接する大渕地区の長徳寺には隠れキリシタンのいた証拠をしめす「マリア観音」が安置され、その東側の山には奥村宗旦という高城山の家来が十字架を立て、その麓の般若寺地区に礼拝所として「天通寺」を建立したということは史料に記されているようです。歴史の流れは、支配層でのキリスト教流行→明智謀反→「お玉様」が謀反人の娘に→秀吉のバテレン追放令→隠れキリシタン増える、という順番になっています。
つまり、キリシタン大名の高山右近が山向こうの高槻の城主だったころ、明智光秀の時代の遺物が残っていて、何故、明智の娘がキリストに帰依して「細川ガラシャ」となったのかわかるような気もするのです。
畑宮地区には高山姓があるのとどういう関連があるのかはいまだわかりません。