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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2024年04月08日

地獄行きの人は誰?

「念仏というと、仏教という感じがしない」
そんな風に思っている人は多いと思いますが、これは完全に間違いです。

ある仏教の先生が
「私はよく、若い頃、臨終説法というのを進んでさせていただいていた」
と言われていました。

臨終説法というのは、今日死ぬかもしれないという人が、
今生最後に仏法を聞かせてくださいと言って、その人に法を説くことです。
聞く方がド真剣なので、話す方もド真剣だそうです。
次の日は、半日何もできなかったとか。

その先生が、こんな話をされていました。
「私がある公民館で説法していた時、聞きに来ていた人で、
 涙をボロボロ流されながら話を聞いている人がいた。大の大人が……
 よほど何かあったのかと思った」
昼休みにその人が控え室にやって来て、
「私には14才の息子がいるんです」
その子は日本脳炎にかかって、更に悪化して脳膜炎になっていて、
今日死んでも、明日死んでもおかしくない状態になっていたそうです。

そして、有名な布教使が来たら連れていくということになっていた。
ちょうど都合がついたので、ご説法が終わった後、
その人の家へ行くことになった。

息子さんと、両親が同席して、部屋に通されたそうです。
まず、子供さんの顔を見て、白目だったので驚かれたそうで。
病気で目が見えなくなって、耳も遠くなっていて。

自分も時間がないし、この子もそんなに長い間聞くこともできない。
お互い時間がないということで、相手の質問に答えることにされました。
一切経でも、問答形式というのは非常に多いんですね。

それで先生が聞かれたところ、
「僕、死んだらどこ行くの?」
と胸を押さえて聞いたそうです。
「暗い、暗い」と。

それにどう答えればいいか、
初めて仏法を聞く子供にどう話したらいいか、
先生も悩まれたそうですが、因果の道理の話をされました。

次に
「じゃあ、君は今までどんな種まきをしてきたかな?」
と聞かれたそうです。
「ザリガニを捕まえてきて、足にひもをつけて遊んだ。
 蛙を捕まえてきて、握りつぶして殺した」など、
子供なりの罪悪で、悪いことをしてきたと。
そういうことばかり言い出したんですね。

ベルグソンという人は
「臨終に悪い種まきばかりが思い出されてくる」
と言ったそうです。

先生はどうおっしゃったかというと、
「悪い種まきをしてきたなら、因果の道理によって
 悪い世界に行かなければならない。
 死ねば地獄である」と。

すると、向かいで聞いていたお母さんが先生の手をつかんで
別の部屋に連れて行かれたそうです。
「先生、なんて事言われるんですか。
 地獄に堕ちるなんて言わないでください。
 念仏称えたら極楽に往けると言ってあげてください」

先生も、そのまま言うというのは
その子の立場になれば、つらいことだというのも分かるし、
お母さんの気持ちも分かるということで譲歩されました。

それで
「念仏称えたら極楽に往けるから、今から念仏称えなさい」
と言われた。
するとその子は、3回称えたんですね。
するとお母さんが、
「もう少し多く称えるように言ってもらえませんか」
と言うので、そのように繰り返して、合計30回くらい称えた。

そうすると、お母さんが御法礼を持ってこられた。
これを受け取ったら、親鸞聖人に申し訳ないと思い、
受け取られないでいると、
その子が「あの先生、行ってしまったの?」と聞いた。
それを聞いたお父さんが、
「まだだよ。何でも聞きたいこと聞きなさい」と。

そうするとまた
「僕、死んだらどこ行くの?暗い、暗い」
と聞いたそうです。
先生は、ご両親の顔色も見られず、この子の仏縁を念じて、
ひたすら真実の仏法をお説きになられたそうです。
結局、その子がどうなったかはお聞きしていませんが。

因果の道理は曲げられません。
罪悪深重の私たちのすがたも曲げられません。
無常迅速の機も曲げられません。

そこから導き出されるのは、後生は一大事ということです。
これを「従苦入苦 従冥入冥」といわれます。
苦より苦に入り、冥より冥に入るということです。

人は、己の造った過去の悪い種まきによって、
悪因悪果、次の世界に沈むのだと。

『大無量寿経』には、このように教えられています。
________________________________

大命将に終わらんとして悔懼交至る。
悪人は悪を行じて、苦より苦に入り、冥より冥に入る。
(中略)
其の中に展転し、世々劫を累ねて出づる期有ること無し、
解脱を得難し。
痛言う可らず。
(大無量寿経)
________________________________

真っ暗な後生に泣くんですね。
一生懸命叫んでいるんだけれども、少しも信用してくれる人がいない
という、お釈迦様の嘆きです。
大変な一大事があると、ハッキリ説いておられますね。

『観無量寿経』にもあります。
_______________________________

悪業を以ての故に応に地獄に堕すべし。
命終らんと欲する時、地獄の衆火一時に倶に至らん。
(観無量寿経)
_______________________________

釈尊がハッキリ説いておられます。

現在苦しい人は、死ねば当然苦しい世界に行かなければなりません。
未来永劫の浮沈は現在にかかっているんです。
現在、闇を断ち切る。
これが大切なんです。

大切なのは、正しい教えを真剣に聞くということです。
先生は、急いで急がず、急がずに急げとおっしゃっています。
しっかりとした教学を身につけて、聴聞させて頂くのが大事です。
間違ったことを言う人がやって来ても、自分の頭できちんと理解していれば、
間違っていると分かります。

間違った教えを信じて、おかしな考えでいたら、
とんでもない方向に行ってしまいますので。
仏教というのは、必ず分かる教えです。

そして、ハッキリするところがありますので、
そこまで仏教を真剣に聞かなければならないんですね。
タグ:聴聞 解脱 地獄

2024年03月23日

仏法を聞くことが難しいわけ

お釈迦様は
「仏法聞き難し」
と教えられています。
仏法を聞くことは難しいと。

なぜ難しいのか、聞けない理由として8つの障りを挙げられて
八難と言われます。

地獄界、餓鬼界、畜生界というのは三悪道といわれる世界で、
六道の中でも特に苦しみの激しい世界です。

それらの世界では、苦しすぎて仏法が聞けない。

六道というのは、6つの迷いの世界ということです。

1. 地獄界
2. 餓鬼界
3. 畜生界
4. 修羅界
5. 人間界
6. 天上界

これが六道です。

私たちは、その6つの世界を生まれ変わり死に変わりしています。
これを六道輪廻と言います。

六道輪廻は、生死輪廻とか、生死輪転、流転輪廻とも言われます。

私たちの肉体は常に移り変わっています。
細胞は7年間ですべて変わるそうです。

中学校では真面目な人が、大学ではアフロ。
モンシロチョウはチョウチョとなった時、羽を広げて飛んでいく。

仏教では、生まれてきてから死ぬまで肉体は変わっていくけれども
死んだ後も、地獄でも、畜生でも、6つの世界を生死生死と繰り返し、
グルグル回っている。
これを生死輪転と言われています。

そういう中にあって、私たちがたまたま人間界に生まれるというのは
有り難いことだと。
これについては、「盲亀浮木の譬え」で教えられています。

また、お釈迦様が『涅槃経』というお経の中で、教えられています。

「人趣に生まるるものは、爪の上の土のごとし。
 三途に堕つるものは、十方の土のごとし」

これは、その世界に住まいをしている数を言われているんですね。

人口爆発といっても、畜生界の数には遠く及びません。
マンボウは1回に何十億という卵を産みます。
ネズミは1回に5匹。
その1匹が1年間に産むのは5回。
1年間で276億になるそう。

人間界の衆生よりも圧倒的に多いのが畜生界の衆生。

ところが、その畜生界の数よりも多いのが餓鬼界の衆生で、
それよりも圧倒的に多いのが地獄界の衆生です。

ですから、人間界の衆生と地獄界の衆生は全然違います。
それを言われているんですね。

その有り難い人間に生まれたことを、
「人身受け難し、今すでに受く」
と言われています。
これは『華厳経』に説かれています。

「人身受け難し、今すでに受く」というのは、
難いという言葉は無理ということではありません。
難しい教えを聞かせて頂いているのだから、素晴らしいということです。

人間に生まれてこなければ仏法は聞けない。
その仏法を聞いている。
「有り難い仏法を今聞けているんですよ」と言われているんですね。

また、苦しみの激しさを言われています。
人間界で苦しんでいる。
これを娑婆世界と言われています。
中国では「堪忍土」と言われます。

お釈迦様は「人生は苦なり」と言われているのですが、
人間界よりももっとひどいのが畜生界、
それよりもっと苦しみがひどいのが餓鬼界、
それよりももっとひどいのが地獄界。

畜生はいつも戦々恐々としています。
畜生界は弱肉強食の世界なので。

お釈迦様が出家された動機の一つですね。
常に斬るか斬られるかの世界。

ハエが飛んでいるのをカエルが狙っている。
そのカエルをヘビが狙っている。
そのヘビのことをイノシシが狙っている。
そのイノシシを人間が狙っている。

この畜生界というのは、ここでは肉体が畜生のことを言っているのですが、
人間界に生まれていても、心が畜生界に堕ちている人がいます。
いつも不安でビクビクしている人。
心が畜生さながらで、仏法を聞けない人。

餓鬼界に墜ちる人というのは、我利我利亡者。
食事の時、何にも話さない人。
食べたいよ、飲みたいよ、と常に求めて苦しんでいる。
だから人の立場に立つことって大事です。
地獄界の苦しみはもっと苦しいんです。

等活地獄
黒縄地獄
衆合地獄

衆合地獄の中に刀葉林地獄があります。
人それぞれ造った業が違う。
それぞれ、違った業が生み出した苦しみの世界に墜ちる
ということです。

また、蓮如上人という方の『御文章』2帖目12通に
「人間五十年・四王天」というものがあります。

人生50年を1ミリとすると、地獄の長さは地球10.8周。
それなのに、何とまあ、呑気にのんびりと聞いているのか。
極楽浄土に往けると聞いても、何とも思わないで、
ボヤボヤっといたずらに月日が過ぎ去っていってしまう。
まあそのうち何とかなれると思って、
エヴァンゲリオンを3回読んで線を引いている。
知らされた仏法を誰にも語らない。
眠りこける。
楽するだけ楽をする。

私たちの墜ちる地獄は等活地獄どころではありません。
八大地獄と言われますが、地獄には8段階あって、
その最後にあるのが無間地獄です。

だから聞いてくれよ、知ってくれよと書かれたのが
『御文章』2帖目12通なんですね。

八難の続き。
長寿天や辺地というのは天上界のこと。
楽しさにおぼれて仏法が聞けない。

苦しい時には投げ出す。
楽しい時には自惚れる。
それで仏法が聞けないということです。

まず人間に生まれたことが有り難い。
人間に生まれてこなければ仏法は聞けない。
人間に生まれたことが有り難いというのは、
苦しみの激しい三悪道ではないという点で有り難い。
そして人間に生まれてこなければ仏法が聞けないから有り難い。

「天上天下唯我独尊」とは、誕生偈に書かれている。
お釈迦様が出産と同時に、東西南北に7歩ずつ歩かれて、
手を上下に指して、言われた言葉。
ただ私たち人間にだけに、たった一つの尊い目的がある。
六道輪廻してきた私たちがたまたま人間界に生を受けた。
そして、少しも仏法を聞けない人たちばかりの中で、
仏法を聞かせて頂いている。

だから、多生の目的なんですね。
これを一生参学の大事といわれて、
たとえ息の切れ際になっても達成したならば万々歳なんですよと。
しかし本当は、多生参学の大事なんですよと。

では、その多生参学の大事とは何かというと、
この六道を出離することなんですよ
このための命なんですよ
だから自殺をするなんてとんでもないことなんですよと。

ところが、そんなことが分からず苦しんでいるのが三界です。
そこでお釈迦様は、グルグル回って苦しんでいる人に
そこを出離することを教えられているのが仏法なんです。

それなのに、法事があるとか、親戚が来るからと言って
仏法を聞かないなんてとんでもないことなんですよ。
それを見てお釈迦様は居ても立っても居られないんですよ。

せっかく、真実の教えを聞く耳、真実の仏法を聞く目、
真実の教えを語る口を持っているのに、
なんて勿体ないことに使っているの。
こういう意味もあります。

「世智弁聡の難」
弁聡とは自惚れ。
何でも知っている人は、自惚れが強いので仏法が聞けないということ。
何が正しくて何が間違っているか分からないから聞かせて頂くんですね。

「仏前仏後の難」
仏の在世に遇わなければ聞けないということ。

お釈迦様がお生まれになられて、その行く末を占ってもらうために
お城へ呼ばれたアシダ仙人。
お釈迦様を見て、無上のさとりを開かれる仏陀となられるだろうけれども
自分は、その頃に生きていないので悲しいと涙を流しました。

どんなに素晴らしい説法をされる方があっても、
その前に生まれたならば、その後に生まれたならば
仏法は聞けないんですよ。
そういう聞き難い仏法を聞かせて頂いてるんですよ、と教えられています。
posted by 陽葵 at 11:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2024年03月18日

生まれ変わりを繰り返す中で初めて出会ったこと

これまで出会ったことのないものに会った時、
人はどんな反応をするでしょうか。

浄土真宗の親鸞聖人は、救いとられた一念で、
「噫(ああ)、弘誓の強縁は多生にもあいがたく真実の浄信は億劫にもえがたし」
と言われています。

まず、「噫(ああ)」と言われた。

すぐに「弘誓の業縁は・・・」と出てくる気持ちではなくて、
一念は、言うこと絶えてこと絶えて、
「ああ」のほかに言葉は出てこない。
ただ、「ああ」と言う。

あとは何も言わずに合掌しているだけでは分からないので、
「私が救われた驚き、喜びを何とか伝えたい」
ということで言われたお言葉なんですね。

世の中のことでも、本当に驚いた時には
そんなふうに言います。

「あらからと、言うはあとなり唐辛子」

赤ピーマンと間違えて頬張って、ガブっと食べた時に
まず出る言葉は
「あー!」でしょ。

「あー、辛かった」
大変な驚きの時は、まず「あー」と言います。

そして「辛ーい」でしょ。
頬張って、「からい!あー!」と言う人は
あまりいません。

「あら」は、「あー」の昔の表現。
「あらからと、言うはあとなり唐辛子」
こういう歌があるそうです。

みんなそうですよね。
思ってもないことが起きた時、
「あー」と言ってしまいます。

たとえば、中学・高校の同級生で、大学で離れ離れになった人に、
たまたま街ですれ違った。
ただの友達じゃなくて、笑ったり喧嘩したり、一緒の思い出がたくさんある。
そういう人と出会ったら、どうでしょうか?

「えっ」でしょ?
「最近どう?」みたいな会話にはなりません。

「どうしたの?」
「実は・・・」
そういうことありますよね。

実は私、東京の同級生と、岐阜でばったり会いました。
高校時代、昼休みも一緒に遊んでた人で、今も長い付き合いですが。

そこから「どうした、何でここに」という言葉が出てくる。
まず「あー」と出るのが当然で、
聖人は今まで、あったことないことだから、
この驚きは亡者の開眼の一刹那、といわれます。
あるいは世々生々の初事。

生まれてこのかた目の見えなかった人が、目の開いた一刹那、
手術によって世の中を見た時、どんなに驚くか。
今までは空想でしかなかった、色んなもの。
お父さん、お母さん、声では知っているけれど、
生まれてこのかた見たことがなかった。
それをパッと見た時、一切の情報が入ってくる。

その時の驚き、これが私の母親なんだと、びっくりしませんか?
人は知らないもの、一切の情報が入ってきたの驚きは、
言葉にはならないと思います。

その亡者の開眼の一刹那の驚きよりも凄い。
まず光も知らない、今まで真っ暗闇にいた。
闇の中いる時は、闇も分からない
自分が闇にいるという自覚もない。

光を知って始めて闇を闇と知ることができる。
目の見えない人は闇の世界、
光の世界を知りません。
目の開いた瞬間に、全部知らされる。

これを仏教で世々生々の初事、
今まで生まれ変わり死に変わりしてきた私たちが
今まで会ったことのないような初事、
今まで私たちは生まれ変わり死に変わり
輪廻を繰り返してきました。

その中に色んな経験してきた、
色んな殺され方、殺し方、
ありとあらゆる経験をしてきた。

女性に生まれ、妊娠して、子供を生んだ経験もある。
していない経験はないほど、悠久の生命の流れで、あらゆる事をしてきた。

世々生々の初事とは、いまだかつて一度も経験したことのないこと。
いまだかつて魂が経験したことないこと、これが世々生々の初事。
だから大変な驚き、この間のあの経験に似ている、というものでない。

だから「ああ」と驚かずにおれない。
その驚きが、知らなかった、こんな世界とは知らなかった、
考えもしなかった世界に言葉も心も絶えた。
それが「ああ」に込められています。

阿弥陀仏に救われた時に知らなかった、ということが一気に知らされて、
言葉にできない驚きが、「ああ」という一文字にあります。
「ああ」という中に、万感言い尽くせぬ思いが、込められている。
posted by 陽葵 at 11:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2024年03月08日

本当に智慧のある人が考えていること

失業率の高い時代。
他の人がぼやぼやしているときに、どれくらい先が読めるか?
それが先見性のある智慧のある人。

他の人がみんな考えているようなことを、その人だけ考えていない。
そういう人は鈍感な人、鈍い人ということになります。

IT関連企業がどんどん倒産しています。
ゲーム産業では、任天堂が新しいゲーム機を発売する。

そういう中、大学を出て、どの会社に就職するか?
株取引なら、どの株が上がるか下がるか?
また、これからの時代、一体何が問題となるか?

最近の若者は、引きこもり、対人恐怖症、
子どものころから甘やかされていて、他の人と話もできない。

では、こういう時代に自分はどういう選択をするべきか?
こういうことを読める人が智慧のある人ということができる。

「居安思危」を知ってますか?

これは中国の歴史の中ですぐれた皇帝といえば、唐の太宗。
その政治を貞観の治といわれます。
『貞観政要』という本があり、その中に書いてあるのが「居安思危」。

安きにありて危うきを思う、思えば即ち備えあり、備えあれば憂い無し。

「安きにありて」というのは、まだ安全なときに。
安全地帯にいるときに、ということです。

「危うきを思う」というのは、未来にやってくる危険。
他の人がまだ肘をついて安穏としているときに、
未来にやってくる危険を思いなさい。
思えば備えをしようとなる。
「備えあれば憂い無し」ということです。

未来にやってくる危険、先に起きる一大事、
こういうことをあなたがどれほど先が読めるか。
これを『貞観政要』に太宗皇帝が示しているんですね。
posted by 陽葵 at 18:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2022年04月25日

五欲とは?仏教に説かれる代表的な欲の心を分かりやすく解説

仏教で代表的な欲を五欲と教えられている。
以下の5つ。

○食欲
○財欲
○色欲
○名誉欲
○睡眠欲

お釈迦さま凄いですね。
貪欲を五つに分けて教えられた。
私たち人間が考えていることは、この五つしかない。

まず朝起きたら食べること、飲むこと。
これ食べる楽しみ。
五欲は五つの楽しみと言っても良いです。

食べる楽しみ。

財欲。
一円でも欲しい。
貯金通帳を見てニコニコする。
ためる楽しみと言われます。

色欲、男女の楽しみ。
これは若いときはこれに悩ませる。
だからお釈迦さまもこれについて特に説かれている。
仏弟子達は若い人が多かったですから。

私たちの求道を悩ませる。
必ずと言ってもいい。
だから親鸞聖人も悩まれた。
色欲との闘い。
これで仏法が真剣に聞けない。

こういう人がある。
私これが邪魔で仏法を聞けないから色欲を断ち切ってしまいたい。
そういうことできるのか。

去勢。
ある人が、私は去勢すればもっともっと真剣に聞けますと言った人がある。
そんなことをしたら、腑抜けになる。

聴聞でもボーっとする。
私たちは欲の塊ですが、信前であっても煩悩即菩提といかせばいい。

煩悩を、名利をいかす。
仏法を五欲に生かせば信前でも菩提となる。
これは大事。


仏教を聞きに行くと理想のタイプの女性がいる。
他の人は嫌だけどあの子と会えるからいくという人もある。
それでも良いです。
それがないと来れないから。
お釈迦さまが、そうやってお弟子を導かれたこともある。

そして仏教を聞けば必ず目的が正される。
大事なこともある。
自分が順境の時は闘ったらいいです。
逆境の時。
やっとやっとの状態は煩悩を利用すればいいです。

欲のためならば命を懸けられるんです人間は。
特攻隊もそうです。
名誉欲ひとつです。
大学生もそうだと思います。
『あなたどこの大学?え、そんなすごい大学!?』
その驚く顔を見たいから受験勉強をがんばったという人もいます。

私もそうでした。

親鸞聖人は色欲と戦われました。
しかし女性を追いかけて、山を下りてはおられません。
闘って進んでおられるから。

光を放つ存在になりなさい。
誘蛾灯になりなさい。

誘蛾灯とは虫を集める光。
誘蛾灯が虫を追っかけない。
追っかけたら駄目。
向こうがよってくる。
そうでなければならない。

光を放つ。
男性なら男を磨く。
追っかけ回したら駄目。
信心決定たとえできなくても真実を知らされただけでも自信を持って言える。

僕と結婚しないか。
必ずあなたを幸せにできる。
冗談抜きで言える。
仏法知らない人はうそを言う。
あなたを幸せにできるのは僕しかない。
恥ずかしい。
この言葉に女性もコロッと騙される。

これは騙す奴も悪いが騙される奴も悪い。
あなたなら冗談抜きに言える。
僕と結婚したら幸せになれる。
仏法聞けば絶対の幸せになれますから。

また名誉欲で教学をがんばるのでも良いです。
仏法には命を懸けられなくても世間事には命を懸けられます。

例えばワールドカップ。
見ている人も真剣。
まるで自分のことのように。
でも仏法に向くと寝てしまう。

欲を仏法に向ければいい。
信前でも煩悩即菩提がありますから。
だから私はそう言うようにしました。
これが仏法に向けば煩悩が即菩提となりましたから。

最後は睡眠欲。
楽がしたい。
眠たい。

私たちが思うことは朝から晩までこれしかない。

またどうしても色欲がなくならなくて悩む人は十五日間断食すれば色欲がなくなるといわれる。

五欲。

私たちは朝から晩までこればかり。
五欲の悪酒に酔い潰れていると言われる。

酔い潰れて我が身知らず。
ここから一切の迷いや苦悩が生じる。
三毒の煩悩、五欲という悪い酒に溺れている。
三毒五欲の悪酒に酔い潰れているから、我が身知らずなんです。
自分というのが分からないから一切の苦悩が生じている。
一切の苦悩や迷いが生じている。

世間では欲望を満たした量で、人生の勝敗が決定するように思っている人がほとんど。

欲を満たした量。
つまりは五欲をどれだけ満たせるか。
これがあたかも人生の勝敗を決するように思っている人があるが、そうではない。

あなた聞いているように五欲は全部満たしきって死んで行くのではない、
まだまだたくさんや有り余ったまま死んでいく。

死ぬまで、五欲のことしか考えない。
死ぬまで分からないのが私たち。
世間では、美味しいものを飲んだり食べたりする人をグルメといって幸せだと思う。

一ヶ月2万円の食費で生きている人もいれば、
一日2万円も3万円も使って食事する人もある。

財欲でも、いい車が乗れたら幸せ。
億万長者になれたら幸せ。
色欲。
すてきな人と結婚できたら。

名誉欲。
いい大学に入れたら、いい会社に就職できたら、国会議員になれたら、
ノーベル賞が取れたら。

睡眠欲、楽していきられたら幸せ。
五欲を満たした人が幸せ、満たせない人は不幸せ、という考えががーんとあります。
でせすが、これは間違いです。

人生の目的を達成できたかどうかで人生の勝ち負けが決まる。
確かにその通り。

こんなものどれだけ満たしても幸せにはなれません。
どこまで求めてもキリがない。
キリも際もない。
こう言われますね。

これを歌で言いますと、
「泣くも夢 笑うも夢ぞ 人の世は
 限りある身に限りなき欲」


泣いているのも夢。
笑っているのも夢です。
全人類は生に酔っぱらって、
夢のように死のうとしている。
人生は酔生夢死。
全人類は酔生夢死しようとしている。

よっぱらって夢のように死んでいく。
人生がこの四字に収まってしまう。
収まってしまったら駄目。
命には限りがある。
しかし欲望には限りがない。
だからいくら欲望を満たしても絶対に幸せにはなれない。

仏教の智恵でなければ心からの安心満足はない。
信心決定ひとつだと言うことを知ってもらいたいと思います。

欲望については、以下の記事も参考になります。
欲(五欲)の仏教的意味と欲望への対処法を解説
posted by 陽葵 at 15:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 罪悪

2021年07月15日

人間と尺取虫の共通点

曇鸞大師の言葉で
蚇蠖(しゃっかく)の循環するがごとし(浄土論註)
という言葉がある。

尺カクというのは尺取虫のこと。
人間のことを尺取り虫のようだといわれている。

ちなみに尺取虫というのは線の上を外れることができない。

たとえば火鉢の上に尺取虫がはって歩いていると
同じ所をぐるぐる回ってやがて火鉢に落ちて行く。
人間からみると愚かだけど、
尺取り虫は、まっすぐ進んでいるつもり。

しかし人間も、
この似たようなことを繰り返しながら
ぐるぐるぐるぐる同じところをまわっている。

これを流転輪廻という。
この流転輪廻というのは車の輪が
同じところをぐるぐるぐるぐる回るようなもの。

この流転輪廻という同じ言葉は仏教の学問の言葉でいうと無始無終という。
これを現代語でいうと無限ということ。

同じことを限りなく繰り返す。

『教行信証』という本の中には生死輪転といわれている。

還来生死輪転家」(教行信証)

生死というのは私たちの苦しみのこと。
輪転というのは流転輪廻と同じこと。
無限ということ。
家というのは外にでても必ず戻ってくるのだから離れられないところ。
還来というのは波が寄せては返すように無限の往復運動を繰り返す。

大学に入るときは大学に入ることを目標としているのだが、
そのあと会社に入らなくてはならない、出世、そのあと、賄賂。
そのあたりはばれないように
自分だけやってません
と言わなくてはならななくて。

次々やらなくてはならないことがいっぱいやってくる。
とぼとぼとぼとぼ同じ道を歩き続けるようなもの。

そういった人生の生き様だということ。
ほとんどの人生は実際そうだということ。
どうも思い通りにならなくて似たようなことを繰り返していく。

今日がとても悲しくて、明日もしもないていても♪

これは還来生死輪転家ということ。

浜崎あゆみが
そんな日々もあったねと、笑える日がくるだろう♪
というのは、
この「だろう」というのはmaybe、perhaps
ということ。

「明日があるさ、明日があるさ」とウルフルズがうたっているが、
そこから一歩離れ出る。

流転輪廻を離れ出る。
これを出離という。
幸せというのは未来に求めるが近づくと過去に遠ざかってしまうといった人が
あるけれど、

幸せを求めながら幸せになれない原因はなぜなのか?

浜崎あゆみの説によるとこれはどうしてなのか?
どこに原因があるのか?
不自然な時代のせいだよとといっている。
首相のせいなのか?
これはちょっとあるかも。

ほんとうに私は苦悩の根元を解決して、
心からよかったといえる決勝点はどこなのか?

昔はあんなちっちゃなことでくよくよしてたけど、
こんな幸せになるためにうまれてきたんだと喜べる決勝点があるんだ。

その幸せになるためにうまれてきたんだといわれてきた古典がある。
たとえばその例をだすと、
『歎異抄』という本がある。
高校のときに古典か何かの教科書で出てきたかもしれないけど。
一番多くの人によまれている古典。

その中に摂取不捨の利益と書いてある。
どうして歎異抄が多くの人によまれてきたかというと
文章が綺麗だということもある。

一番は本当の生きる意味が書かれている。

何にも代わり映えのしないそういうものではなくって。
絶対にいろあせたりしない、かわらないそういう幸せになるために
生まれてきたんだよとかいてある。

ドイツの哲学者ハイデッガーは『歎異抄』を読んで
日本人は何をやっているんだ、自分の周りにいる日本人は
こういうことを全然おしえてくれなかった。
日本の人はもっとこういうこと学んで世界に紹介してほしいといっている。

2021年07月09日

ドン太郎、ドン助の話


貧乏なので馬を売りに出す。
この馬を持っていく途中にすれ違いざまに旅人がいろいろと言ってくる。

最初「誰か乗っていけばいいのに」といわれる。
そこで息子のほうを乗せた。

しばらくして、
「親不孝な息子だ」といわれる。
ここで父親のドン太郎がこれはいかんと思って
「私がのるぞ、かわれ」といって親がのった。

すると
「無慈悲な親だ」といわれる。
そこで親子一緒にのった。
そうなると馬が大変なプレッシャーがかかる。

「人間二人で乗って、ひどい親子だ」
おりて親子で担いだ。

周りの人たちからあれこれいわれて、
それに翻弄されて、結局最後はおちて馬が死んでしまったという話。

これはお経に出ている話。

昔、アニメでもでてきた、とんちで有名な一休という人がいる。
その一休は

今日誉めて明日悪く言う人の口
泣くも笑うもうその世の中


という歌を読んだ。
他の人が私のことを評価するときというのはその人にとって都合がよければ
良い人。

都合が悪いと悪人ということになる。

今あなたがよく聞いてくれているということに
なると、みんないい人だなぁと思う。
逆にそっぽ向いているとか携帯電話で話をし始めるということになると
なんてマナーの悪いひとだと思う。
また寝ている人がいたりしたら「何もここで寝なくていいじゃないか。
家でねればいいのに」と思う。

これは自分にとって都合がいいか悪いかによって
いい人か悪い人かが決まってしまう。
タグ:お経 一休
posted by 陽葵 at 18:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 罪悪

2021年07月05日

通さぬは通すがための道普請

通さぬは通すがための道普請
という言葉があります。

この道普請というのは道路工事中ということ。
よく3月に予算を使い切るためにやってますね。

道路があって車が通っている。
しかし、道に穴があいている。
そういうことになると道路工事をして通行の案内をする。
片方の車線を通して、もう片方の車線を通さないようにする。
しかし、これは一時的なこと。
スムーズに通すために一時的にやっている。

受験勉強のときは受験勉強で突っ走ってきた。
社会人になっても頑張っていく。
そうやって頑張っていって最終的な人生の目的って何なのか。
このゴールをはっきりさせることを狙いとするのが仏教。

人生の目的といってもそれは幸せ。
ああ、私はこんなに幸せだ、それはいつ死んでも悔いが無いというもの。

それを知ってスムーズに生きるためには
やはり本当の生きる目的を聞かないと
どうにもならない。


タグ:生きる目的

2021年06月30日

百匹の片目猿、一匹の片目ザルを笑う(勉強の意味)

百匹の片目猿、一匹の片目ザルを笑う。

人間は周囲に同調する。
大衆は愚衆だという言葉もありますが、
みんなに同調する人がある。

ヒーローが面白い、カバチタレが面白いと聞くと見てみる。
全然面白くねーじゃねーか!と思っても
みんなが面白いというと、面白いと言わざるをえない。

テレビにはヒットの仕掛け人という人がいる。
テリー伊藤とか、私の母もテレビによくでていた。
自分は出てないけど。

テレビにプライムタイムというのがある。
アメリカと日本ではお笑いがプライムタイムによく行われる。
どうしてこんな下品なものをと思いながらも自分も見ていたりする。
みんなに受けるものは馬鹿笑いとか、スキャンダルというもの。

たとえばチューブの前田と飯島直子がわかれたりするのを見ると
「ざま−見ろ!はっーはっはっ」とおもう。

悲惨な思いをした人に、
あまりにも酷だろうというレポートもある。
しかし、こういうのが大衆にうける。

一方、あなたが卒業するとき、大変な就職難と言われているが
どうやら面接がキーポイント。
こんなかで、企業のお偉いさんとか、
大学の望みのコースの教授と面接をするのが好きな人、
面接の達人だという人ある?

高学歴の人のウィークポイントとして、面接とかがある。
誰かにあってひとみを見ながら、相手の表情を察知して、
自分の考えを表現することが苦手。

ほとんどの面接官がいうことはみんな個性がないといっている。

だから新入社員とかけて、「日替わり定食」と解く、
期待したほど代わり映えがしない。
レタスとキャベツが変っただけとか。

また、「養殖はまち」といわれる。
安全なところで一定の時間にえさをいれられて、群れをなす。
むれから飛び出る人が一人もいない。

これは大きな失敗もしないが成功もまたしない。
周りの人の目を気にしすぎ。

いつも回りの人に影響されている。
左右されている。
周りの人からどう思われるかで行動している。


多くの人の大学の志望理由もそういうもの。
クラス会で好きな人が
「どこの学校いってるの?」
と聞いてくるに違いない。

そして「東大」っていうと彼女の瞳の奥底に驚愕を見つける。
しかし、実際はクラス会がなかなかなかった。

あっても好きな人は来てなかった。
今でこそ笑い話ですが当時は深刻な問題だった。

なんか自分が自分でないみたいとか、
今のままでは大人になってはいけないように思っている人がいる。

不動の信念というのが大事。
ちなみに信念というのはきちんとした目的を持っていると言うこと。

自分が勉強するのは何のため
それは仕事をするため、いい会社にはいるため?

しかし、面接では人生のビジョンが思いっきり問われる。
「昨日、面接の達人という本を読んだ。
そうだ今の質問はこの本にあったとおりの質問だ」
ということでマニュアル通りの答えをすると
「あなたの考えはこの本とおなじだ」
といわれて、実は向こうも同じ本を読んでいたとういうことがある。
マニュアルどおりではだめ。

不屈の信念が大切。
タグ:勉強の意味

2021年06月27日

青木ヶ原の樹海に学ぶよりよい生き方

富士山のふもとにある青木ヶ原の樹海に入ると、磁石がきかなくなる。
迷い込んだらもう出られない。
自殺の名所でもある。

道に車を停めて、きのこを採りに入る。
入って行くとと磁石が壊れる。
周りは木ばかり。
元来た方向に帰るものの、
あとちょっとで車があるのに、途中で不安になる。
そして方向転換。
こんな風に方向転換を繰り返し、そして死んでしまう。
プロはどうするか。
夜を待つ。
そして星を見て動く。
それまで体力を温存。
素人は歩き回って歩き倒れ。
まず大事なのは目的を定めること。

人生も樹海のようなもの。
どこへ向かって歩いていけばいいのか分からない。
間違ったら間違ったところから歩く。

みんなが向かう方角に走ってみても、
みんなで走り倒れになるかもしれない。

人生のゴールが幸福だとすれば、
ただやみくもに走り回っていても
幸福の2文字にはたどり着けない。

まずは生きる目的をハッキリさせることが大切。