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2022年06月17日

チャイムが鳴ったので…

この話題はこれまで何度か紹介したことがあるのだが、今日は別の視点から話をしてみたい。

私の学校では、朝の職員打ち合わせの始まりにチャイムが鳴る。それが鳴り終わると、教頭の「おはようございます」の挨拶の後、打ち合わせが始まるのである。

しかし教頭は、チャイムが鳴っている間に、教員同士が会話をすることを許さない。時折、「もうチャイムが鳴っていますので、お静かにお願いします」、と促すのである。

私が思うに、そもそもチャイムが鳴っている時に話をしているというのは、教員たちがギリギリに職員室に入ってきて、いろいろな共有事項を話してしまうからだなのだ。それならば、もっと早く出勤すればいい。そもそも打ち合わせ時間直前に職員室にやってくるから、いろいろな話をしたくなるのだと思う。

「勤務時間の30分前には出勤して…」などというのは、もう過去の話なのだろうか。
概して朝の早い教員ならば、そうした習慣はベテランになっても続いているようには思うが、どうも私の学校では、「早い人は早いが、いつもギリギリの人は同じ人」であるように思える。

念のために断っておくが、朝がギリギリというのは、前日の勤務時間が遅くまで続いているという、私の学校独特の特徴もある。私はどんなに遅くても21時半には退散するが、先生方の中には、日付が変わってもなお、職員室で仕事をしている人もいる。もちろん、早朝、5時過ぎに来て仕事をしている方もいる。私の学校には「〇時間勤務」という発想がそもそもないのだ。

早く仕事が終われば、さっと帰宅したっていい。仕事が残っているなら、自分で時間を確保して終えれば良い。日中だって、休みたければ、途中で中抜けしたっていい…というスタンスなのだ。

そうした観点からすると、朝のギリギリも、多少は多めに見なくてはいけないだろうとは思う。また、私のように、部活後、夕食後に再び職員室に立ち寄るのが週三回という「怠け者」が主張することではないのかも知れない。

それでも、長年染みついた「感覚」は拭えない。

私はやはり、「ギリギリに出勤してしまう方」とは少し距離を置きたいと思う。
世の成功者たちは、皆、朝の時間を活用している。

私がどれだけ朝の時間を活用しているかについては、人様にお話でききる状態ではないが、それでも、今も昔も、「早起きは三文の徳」は変わらないと思うのだが…。




2022年06月16日

若手の先生の研究授業

最近は若手の先生方の授業力のアップが著しい。

やはり「情熱」をもって教育活動にあたると、進歩も早いのだろう。一方で、つねに「どうやったら、最高の授業ができるか」、「どうしたら、最高のクラス、学年になるか」、を常に考え続けている中にこそ、新たな発想は生まれてくるし、その思いの継続が、生徒にも伝わり、歯車がかみ合って、良い方向に進んでゆくのだと思う。

先日、K先生の学活の授業を見た。
情熱的にクラス運営をされている二十代の教員である。卒業生でもある。

私は、同じ学年団であることもあって、写真撮影を頼まれた。グループワークも多いし、保護者参観というわけでもないので、私は、わがもの顔で教室内をうろちょろする。生徒たちも、私が写真を撮ることは入学以来知っているので、ほとんど気にしていない様子だ。

授業は『秀逸』であった。このような授業なら、誰に見せても大丈夫だろう。

私の学校では、折に触れて公開授業が行われている。
各教科は、年一回、学期毎に3教科ずつ行われるほか、初任教諭の授業、そして、授業評価の高かった先生の授業など、けっこうな回数がある。

教頭に、「若手の授業は大分進化しましたね」、と言ったら、「最近、どうしようもない授業はなくなったね。少しレベルアップしているね」、と返された。

私は、あとは「臨機応変さ」というか、『自分の準備した授業路線から外れる発言があった場合の、対処方法と、その意見を聞き、必要があれば瞬時に路線変更する姿勢』を磨く必要があるのだろう。

とかく、計画した授業をなんとかこなそうと、必死になるのが若手教員の姿である。もちろん、計画通りに進めることは大切なのだが、それを強調するあまり、大切な生徒の声をないがしろにして、「とにかく私の準備した結論に引っ張る」という強引さが出てしまいがちだ。

別に指導案通りにできなくたっていいのだ。授業は生き物だから、途中で変わってしまってもいい。大切なのは、生徒たちが「何を学ぶか」ということだ。

「ほら、指導案通りに授業ができましたよ」、という公開授業は、教育実習生の最初の授業くらいでいいだろう。

若手が育ては、私はそろそろお役御免だ。
世代交代、それもまたよし…。




2022年06月15日

部活再開

久しぶりに部活動を再開した。
中間試験前から三週間あまり、コロナのために活動ができなかったのだ。
今回は、高校野球部が練習試合でもらってきたコロナが、一緒に自主練をしていた中学生に伝染し、ほぼ野球部だけで感染が広がってしまったのだ。

中高とも、夏の大会が日々刻々と近づいて来る中、恐らく選手たちも「焦り」、「困惑」したに違いなし。

実際、私が課しメニューは、中3生には一日10キロ近く走ること。学年によって少しずつ走る距離は縮めたが、とにかく体力を落とさないことと、できうるならば、体力アップをも図りたいと思ったのである。

隔離された生徒は別として、活動できなくなってしまった元気な生徒たちは、少なくとも体力を落とすことなく過ごせたであろうと思う。

「三日何もしなければ、一週間遅れる」であろうこの世界の練習スタイルとしては、大変困ったことになった。大会参加も日程的にもギリギリだ。しかも今回の夏の大会は、期末考査の翌日でもある。

私は、久しぶりの練習で、彼等のプレーをじっと見ている。
相変わらずの下手くそ集団だが、それに輪を掛けてレベルが落ちているようにも見えた。唯一の救いは、彼等が楽しそうにプレーしていることだ。下手だって、野球をするのは楽しいのだ。一番のモチベーションは「楽しい」という気持ちなのだ。

野球好きな仲間が集まって、部活をする。
時に試合もする。
大会では、緊張の中に試合をする。もちろん勝てば嬉しい。
その経験が、また次に生きてくる。

そんな貴重な部活動での経験は、顧問の教員に支えられている。
確かに負担は大きいかも知れないが、部活を熱心に指導している先生たちも、それなりの生きがいを感じているし、その指導は、学校全体としての生徒指導にも大きく寄与しているはずだ。

「忙しく」部活をしていれば、放課後ぶらぶらする時間もない。休日も朝早くから出て行くので、「忙しい」のは親も同じかも知れないが、一日部屋に引きこもってゲームやら動画を見ているよりは、健全だし、健康的だ。

私もしばしの休息を終えた感じだ。
さぁ、本格始動しよう。




2022年06月10日

正しさを探す

再度、マスク着用についての文科省通達が来た。
政府のコロナ対策は、まさに混迷の極みといってよい。
これまでどれだけの人が、彼等の愚策によって、職を失い、財産を失い、命を失っただろうか。

今回の通達も、再通達で、「屋外にかかわらず、運動時にマスクを外すよう、徹底指導せよ」というものである。昨今の体育行事時における熱中症による緊急搬送への対処の一つだろう。

あるときは、「マスクを絶対に外すな」と言い、時期が経つと、「マスクを外せ」という。大人でも「おかしい」と思う中、子どもたち、生徒たちの、「大人・社会への不信感」は増すばかりである。

濃厚接触者の定義も、その隔離時期もコロコロ変わった。昨日までの接触者は一週間だったのが、今日からは五日になるという具合である。

今や、何を持って濃厚接触者とするかは、学校現場では校長にその判断が委ねられている。以前は、保健所の強力な介入があり、一時間をも越えるヒアリングの後、「学校名を公表するぞ」という脅しの中で、強権を発動してきたのだ。それからまだ一年ほどしか経っていない。

中国では何ヶ月もの間、上海という大都市をロックダウンさせ、一切の人流を絶った。国家社会主義の国なので、政府の都合の悪いことは報道されないが、恐らくは多くの人が苦しみ、命を断ったのだろうと思う。中国は自ら新型コロナウイルス世界中にまき散らしたのだが、ここにきて、それが再び自国である中国に戻ってきて、中国だけが数多くの感染者を出すに到っている。なんとも興味深い。

さて、学校現場でのマスク着用だが、昨今は「授業中は外させる」という学校もあると聞く。この先どのようになるのか分からないが、オミクロンのあとに、さらに致死率の高いウイルスがやってくる可能性もあり、まだ予断は許さない。

今は、一時期小康状態を保ち、近隣でも修学旅行を実施する方向で準備をしているそうだが、この先はどうなるかも分からない。

まさに、全く先の読めない時代になった。
世界情勢も不安定で、いつどこで何が起きても不思議はない状況だ。

そんな中で、私たちは学校現場で教育活動を行っている。先の見えない世界に、彼等を送り出すのは、非常に心苦しいだが、この先の世界を切り開いていく将来の人材を育てるべく、日々奮闘するしかあるまい。

恐らく、ほとんどのマスコミ報道は、正しい報道ではないのだろう。

世の中の流れは、誰にも分からないが、どこかに真実があるのだろう。
その一条の光を探すべく、歩んでいきたいと思う。




2022年06月09日

仕事に愛を込める

「やっつけ仕事では駄目なんです。そういう仕事は必ずといっていいほど、保護者のクレームになるのです」

教頭が職員会議で訴えた。
確かに、「真心を込めて、丁寧に仕事をすること」はとても大切なことだ。忙しい中であっても、「手を抜かず」、誠心誠意行うことは、ミスも防ぎ、また他の人への配慮にもなる。

このことは別の言葉で言えば、「仕事に愛を込める」ということでもある。「愛」とはもちろん男女の愛ではない。相手の立場に立ち、その仕事が、光を放つよう、心を込めて行うということである。時間の切り売りではなく、その仕事が多くの人に役立ち、また幸福をももたらすもの、という意味である。

これが本来の仕事の姿なのだが、人はどうしても怠けてしまうので、職場にはたいてい何人かは、仕事をさぼりがちな人が現れる。意識してか無意識下はわからないが、傍目からは、仕事をしていないように見えるのだ。だが、じつはよくよく観察してみると、そんな人でも、見えないところで結構仕事をしていることもある。まさに、人は見かけによらない。

一方、ひどく疲れている時には、どうしても手を抜いてしまったり、やっつけ仕事になってしまうこともあるのだろう。だが、そうした事態をできる限り、自らの心身の健康状態を保つということも、仕事をする上での大切なポイントになるはずだ。

一日二十四時間の三分の一の八時間程度、人は仕事に従事する。その仕事がレイバーなのかワークなのかも問題だ。世の中、どれだけ仕事に生きがいを感じている人がいるのだろう。われわれ学校現場で働いている人間は、たいていそれなりの「やりがい」を感じているという人が多いだろうが、実際いろいろな仕事現場ではどうなのだろうと思う。

その意味では、前述の教頭の言葉に対しては、「でもね…」と言いたくなる人もいるだろう。しかし、「可能な限り、奮闘して仕事に努めるべきである」という考えは、誰にも否定できまい。

さて、果たしては私自身は、「仕事に愛を込められている」だろうか。
やはり、けっこう手抜きをしているのではないかな。
給料の分だけ働けばいいと、思っているかも知れないな。
とてもじゃないけど、「仕事に命をかけている」とは言いにくいな。

少し自らを振り返るきっかけにはなった…。

2022年06月06日

学校を辞めるということ

また一人、生徒が去っていくことになった。
どうしても私立学校では、親の都合や、生徒指導関連で学校を去る生徒が発生する。

おそらく担任は断腸の思いだろう。

親の都合は、たいてい金銭的な問題だ。
私立学校は公立学校と比べて教育にかかる費用が高いので、親の収入が減ってしまった時などは、公立学校への転校等を余儀なくされる場合や、就職して稼ぎ元になって欲しい、という親の要望も生じる。

中学は義務教育だから別だが、高校生ともなれば、ある程度の自立を促すことは、世の常でもある。以前私が努めていた学校の先生で、ある地学の先生は、息子に対して「高校からは援助しない」と宣言し、可能な限り自ら生計を立てることを求めていた、そうした環境下で、高校に通い、学業を行うことは、他の人と比較すれば極めて困難には違いないが、「自立」という観点からすると、大変ユニークで、「子どもを思った」教育方針ではないかと思う。

一方、生活指導上のペナルティで学校を去る場合は、なかなか複雑だ。
だいたいにして私立から公立への転校は嫌われる。公立の先生からは、「自分たちで指導できないから追い出した」と思い、「問題生徒を押しつけている」と感じるはずである。特に中学校三年生での転校は、先方にも多大な迷惑がかかる。

また、当事者と関係する生徒が、転校を免れ、学校に残った場合には、心のケアも必要になる。合わせて、いろいろな噂話も飛び交い、けっこう苦しい環境下での学校生活になるだろう。そうした中で、学校生活を過ごすことが、ある意味、新生のための課題であり、乗り越えなければいけない試練なのだろう。

私は、これまでたくさんの生徒と関わってきたが、振り返ってみると、何人もの生徒を転校させてしまった。不登校になり進路変更した生徒、生徒指導上で学校にいられなくなった生徒、保護者の収入が絶たれ、やむなく去っていった生徒。

彼等はその後、幸福になったのだろうか。今はどんな人生を歩んでいるのだろうか。

手がかかり、保護者からも無理な要望が来ると、学校からいなくなって「ほっとした」という気持ちも湧いてしまうのかも知れない。

しかしそれは、逆に言えば、学年や担任としての「指導力不足」であり、教員としての「努力不足」であり、学校全体としても、「個別対応不足」である。

必ずやその経験を、次に生かさなくてはなるまい…。

2022年06月05日

天空の極楽

またしても朝から時間が空いたので、ぶらっと山に出掛けた。ほぼ十日ぶりである。

若干天気が心配だったが、雨の心配はないようだったので出発。途中から晴れ間も覗き、視程もよく、遠くの山々も見えた。以前の雪山も、だいぶ雪が減ってきた感じだ。風も爽やかで、とても心地よい山行になった。

このところ、部内でコロナ陽性者が出たため、活動を自粛している。そのため、私自身の時間が少し取れている。今朝も、本来ならば部活なのだが、それが無くなったのでフリーになったのだ。一方で、部員たちは時間をもてあまし、また来るべき大会が迫る中、焦りの心が芽生えているに違いない。

一方で、「部活担当のない人の日曜日って、こんな感じなのかな…」と思う。

大昔、「退職したら毎日が日曜日」という言葉を聞いたことがある。
しかし、私はあまり日曜日の過ごし方を知らない。
長い教員生活の中で、日曜日がフリーであった日は、非常に少なかったように思うからだ。
だから、いざ、のんびりしてよい状態になると、逆にどうして良いか分からなくなることがある。

さて、今回の山行では、一時間以上にもおよぶ長い登り、途中心臓破りとも言える急登を越えて、稜線に出た。その気持ちよさは、筆舌に尽くしがたいものがあった。一部残雪が残る稜線の風は、天にも登るような心地よさで、これまでの苦しさをすべて忘れさせるようだ。

遠く、猪苗代湖も見えた。

本当は、ぶらっと会津あたりに出掛けて見ようかな、とも思ったが山に来て良かった。

途中、遅れて咲いていた峰桜を見た。
「なんという可憐さ、美しさなんだろう…」、と感動する。

山頂は、日曜日ということもあり、かっこう登山客は多かった。
だが、子どもの姿がない。

皆年寄りと言っては言い過ぎだが、中高年ばかりだ。
もちろん私も例外ではない。

この美しさを子どもたちにも体験させないな、と思う。

そういう経験をした人は、大人になってもなお、山に出掛けるはずだ。

天上の極楽は、優しく彼等を迎え入れるに違いない…。

2022年06月04日

マスク狂詩曲

各地で運動中に熱中症になり、緊急搬送されるという事例が起こっている。全国でどれほどそうした事例があるかどうか分からないし、マスコミが、面白おかしく報道するので、ある意味偏った報道でもあるが、「学校現場で熱中症のために生徒が倒れている」、ということだけは間違いあるまい。

倒れて運ばれた生徒の親は、「何故、運動するのにマスクをつけさせるのか」と言う。
一方で、「マスクを外しなさい」と言えば、「なぜ強制的にマスクを外させるのだ」、というクレームが入る。さぞかし各地の学校現場は困惑しているに違いない。

コロナ禍が二年半経過し、日本ではマスク生活が当たり前になった。
一方で、恐怖心のため、大人も子どももマスクを外せない人も出てきた。
屋外ではマスクを外す、などと厚労省も指針を出したが、外を歩いている人を見ても、そのほとんどがマスクをしており、日本ではすっかりマスク人になってしまった感じだ。

学校現場では、一部「授業中も外して良い」とところもあるようだが、まだまだそこまでは到らないだろう。マスクをし続けることによる免疫低下と、飛沫感染を防ぐという両者を天秤にかけるとしても、その判断ができる人は、おそらくほとんどいまい。

私は、少なくとも運動をする際には、マスクを外すべきであると思っている。
実際、マスクをしたまま走ってみれば分かるが、かなりつらい。そのまま酸欠で倒れてしまいそうにもなる。合わせて、気温、湿度ともに高くなったならば、今度は熱中症の危険も伴う。

だから、学校の体育では運動時にはマスクを外し指導をすべきだと思う。
もし、マスクを外すことを渋る生徒、保護者が外すことに同意しない生徒がいたならば、彼等は、体育の授業を見学させるなどの措置が必要だと思う。

私はこれが最低限のマスク対策であると考える。

これから致死率の高い株が出てきたら、おそらくもっと深刻な状況になるのだろうが、現在のところ、そしてこれから夏を迎えるシーズンでは、この方法でやむなし、ではなかろうか。

マスクを外させない保護者の家庭では、自宅でもマスクをし続けているのだろうか。
通勤から戻った大人たちの対策は、そうしているのだろうか。

ただただムードであったり、自分の価値観の押しつけであったり、恐怖心からのものであるなら、何かしら別の対策が必要になるだろう。

ただでも忙しい学校現場に、また一つ、悩みの種が増えた…。
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