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2021年10月21日

遠足の準備

学年集会で遠足についての事前指導を行った。

今回の遠足は山に行く。
いわゆる山登りだ。

山登りと言っても実際に歩く時間は恐らく一時間程度。
ハイキング程度と言っても良い。

それでも標高千七百メートルあまりの山頂まで行く。

この所の冷え込みで、山頂付近では雪も降っているが、積もるほど降れば行くことはできなくなる。

気温も朝は零度程度なので、「寒い」山歩きになりそうだ。

また、その山は活火山でもある。
気象庁が定めた全国の活火山の中で、特に監視を強化している23山の一つでもある。

「その山の姿を生徒達に見せたい…」
というのが、今回の遠足の目的の一つでもある。

「この山を班ごとに協力し合いながら、ちゃんと上っていけるか」、というのも、大切な訓練になる。

風が強ければ、ロープウェイは動かない。
天候が悪ければ、景色も見えず、登ることも中止になるだろう。

生徒達は、「寒そう!」「えっ、活火山!?」などと興奮しているので、楽しみなのだろう。

各クラスの班分けもスムーズに終えた。

生徒達にとっては、コロナ禍の影響で、久しぶりの外出。

「天候に恵まれたいい遠足になるといいな…」、と思う。

遠足まであと一週間。

「積もるほど雪が降るなよ」、と願うばかりである。

2021年10月20日

満月

10月の満月は晴れた。

このところ冷え込みが厳しくなってきたが、そんな空気の中に輝く満月は、とても美しい。

本来は十三夜がお月見のようだが、その時は曇っていた。
だが、月はやはり満月が美しい。

この美しい満月を撮影するのは、そう簡単ではない。

私も、何度もチャレンジしているが、未だに満足のいく写真は撮れずにいる。

-14等級の明るい月は、露出オーバーになると輪郭が崩れ、露出不足だと貧弱な写真になる。

併せて、望遠すればぶれやすくなり、広角レンズでは、月であることが分かりにくい、
全景に植物などを同時に映り込ませようとするならば、さらに難易度は高くなる。

それぞれお露光時間も違うし、距離が違うのでピントも変わる。

そんなことを考えながら、私は昇ったばかりの月を見る。

「すげ〜、でっけ〜。」
中1の生徒が叫ぶ。

月でも太陽でも、地平線近くでは大きく見える。
赤っぽく見えるのは大気のせいだが、大きく見えるのは目の錯覚である。

腕を伸ばしてた状態で持った五円玉の穴にすっぽりと入ってしまうほどのサイズなのだ。

中3の生徒が言う。
「月を見て美しいって思うのは、日本人くらいなんですよね…。」

おそらくその通りだろう。

日本では、古来より自然に感謝し、その姿に畏敬の念を持つ。
月明かりのある夜は、灯りなしで歩くことができたのだ。

「今日は満月だけど、月を見たか?」

私はたいていそう生徒に語りかける。

その半数以上が「見た」という。

私と関わりのある生徒が、だんだんと増えてきているということだろう…。




2021年10月19日

劇の写真

廊下に文化祭の劇の写真が貼ってある
A4版のフルカラー印刷だ。

普通学校では、これほどたくさんのカラー写真を印刷することはない。
私の学校の場合は、低コストのカラー印刷機があり、通常のプリントも、試験問題も、こうした行事時の写真も、制限なく印刷できるのだ。

もちろんカラーレーザーや性能の良いインクジェットプリンターで印刷するには及ばないが、十分鑑賞にたえられる。

先日、近隣の校長先生たちが学校視察に訪れたが、教室の廊下の写真も含め、カラー印刷の豊富さには、きっと驚かれたことだろう。

私たちは、カラー印刷は慣れてしまっているが、多くの学校では、まだまだ珍しいはずだ。

その劇の写真の大部分は私が撮影したものだ。

私の撮った写真は、たいてい劇中のアップ写真である。

彼等生徒達の、演技中の生き生きとした姿の一瞬が、写真におさめられている。

私は各クラスのその写真を見ながら、「うーん…」、とうなる。

「もっとうまく捕れたな」とも思う一方。壊れたズームレンズの代替品として買った一万数千円のレンズの、「オートフォーカスが上手く効かないことがあったんだよな…」、ともっと狙えたシーンを撮り逃したことに後悔の念を抱く。

個人のカメラで、個人の望遠レンズで、学校行事を撮る。

「今の私にできることと言えば、せいぜいそのくらいだ…。」

「丹澤先生の写真、いつもいいからね…。」
という学年主任たちの言葉だけが、励みになっているのかも知れない。

劇はビデオでも撮られているので、見栄えとしては動画の方がいいのだろう。

ただ、一瞬を切り取った写真も、まだまだ存在価値はあるに違いない。

私は廊下を通るたびに、まじまじと写真を見る。

自画自賛とも言える私のその姿を見ている他の先生は、一人ではあるまい…。




2021年10月18日

学校視察

近隣の校長先生たちが視察に来た。

私立学校は、公立とは違った独自の教育がなされているので、公立の先生たちからは、興味津々なのだ。

ほとんど教育委員会の縛りのない中での学校運営。
彼等、校長先生たちは何を思っただろうか…。

逆に私は、野球部の関係で他校にお邪魔する時は、たいてい教室や廊下をのぞき見することにしている。

自分たちの学校にはない文化や、工夫がないか、物色するのだ。

たいてい何個か発見と、それをもとに、自分の学校に生かすべくアイデアが浮かぶ。

同じ学校教育の中でも、見れば、何かしらの参考になる部分があるものだ。

校長先生たちの感想の中に、次のようなものがあった。

「ここの先生たちが、生徒に寄り添った教育をしていることは分かりました。ですが、昨今問題になっている、働き方改革による教員への負担削減は、どのようになっているのか、心配になりました。」

とにかく、教員に負担減が大上段に掲げられ、校長としても死力を尽くさなくてはいけないのが、公立学校らしい。

公務員という縛りもあるのだろう。

だが、私の学校では、こうした配慮はあまりなされていない。
たいていは、各人の判断に任されている。

授業や行事にあまり影響を及ぼさないのであれば、自由に時間休みも取れる。

場合によっては、早朝から深夜まで仕事があるが、その間、「うまく休息を取れ」、というのが暗黙の方針のようである。

その意味では、かなりの自由裁量があり、ゆるく管理されているように思える。

「全員横並びで、画一的な指導」となると、時間も同一管理されがちだが、少なくとも、私の学校はそればかりではないようだ。

以前、ある校長先生と話をしたとき、次のように言われた。

「丹澤先生の学校に勤める人は、なかなか集まらないないのではないですか? 少し過酷すぎますよね。まぁ、お金さえ出せば、なんとかなるのでしょうが…。」

残念ながら、私の学校の給与体系は、公立と比べて半分から三分の二程度だと思う。
あくまで、私の肌感覚だが…。

とにかく、教員の仕事の原動力は情熱と志。そして仕事そのものが菩薩行だ。

2021年10月17日

スマホを捨てて…

『スマホを捨てて本を読もう』というキャッチフレーズがある。

確かにスマホは人々の時間を奪い、知的作業を著しく低下させ、頭を悪くする。

一方で、常習性を生み、ある意味麻薬と同じような症状すら引き起こす。

少し前に、韓国でゲーム依存になった子どもを治療するプログラムを見たことがあるが、禁断症状によって暴れる子どもたちの姿は、悲惨そのものだった。

スマホもゲーム依存と同じなのだろう。
これにより、学力は低下し、刹那的な生活スタイルしか遅れなくなる。

おそらく、そうして育った子どもたちが社会人になった場合、その国は衰退の一途をたどるのだろう。

常にスマホを持ち歩き、手放すことができない生徒も多い。
「一番、無くなってしまうと困るもの」が、今やスマホなのだ。

勉強中、LINEの着信が入ると、それを見る。
途端に脳はスマホにシフトし、勉強効果は急低下。
誰からからのメッセージならば、恐らく返信して、またそのレスポンスを待つのだろうから、そんな風では、勉強していることにはならないだろう。

ひとたび中毒性になった人が、これを乗り越え、自制するのは、とても難しいはずだ。

ある中1生徒が、「スマホの使用時間を5分に制限します」、と宣言した。

なかなかハードルが高そうだが、使用時間が5分になるようならば、もはたスマホを所持する必要性はあるまい。

「みんな持っているから…」と、スマホを持たせる親たち。
ギガが使い放題に設定する親たち。
それでいて、使いすぎをたしなめられず、学校に押しつけてくる親たち。

どの学校でも、おそらく問題になっているのだろう。

もちろん、『けじめ』ある使用ができれば、ある程度使用は許されるのだろうが、なかなかできないのが、人間の弱さでもある。

総白痴化計画にも見えなくもない、スマホの人類への侵食。

恐ろしい…。

2021年10月16日

体験入学

コロナ禍であっても、募集活動を止めることができないのが、私立学校の宿命だ。
そうは言っても、緊急事態宣言下で臨戦態勢のとき、部外者を校内に入れたりすることはできず、なかなか困っていたところだった。
だが、少し落ち着いたので、急遽、体験入学を行うことになった。

体験授業や、部活体験、そして今回は文化祭で行った中3の劇を再演したりした。

体験に来てくれた方は、親子とも大喜びであったようだ。

こんな風にして、ファンを増やし、受験生を一人、また一人と獲得する。

体験した生徒、保護者の感想の中で、一番嬉しいのは、「生徒さん一人ひとりが生き生きとして輝いている」、というものだ。

その言葉が、日常の学校生活を象徴しているとも言える。

いわゆる「よそ行き」の格好もできなくもないが、私の学校では頻繁にこうした対外的に交流する機会があり、いつしか「自然体」で振る舞うようになっているのだ。

細かなことを言うと、まだまだ改善すべきことはあるのだろうが、大きな流れとしては、それほど間違った教育をしているとは思えない。

理想を掲げ、日本、そして世界のリーダーになるべく、学びを深め、心を磨く教育を心が掛けている。

そんな姿を、実際、来校して見て下されば、納得される方は多い。
だから、皆が、一人、二人とお誘いをして、体験参加を促す…。

もちろん、中には「学校生活が厳しい」ような、発達の偏りのある生徒もいるが、彼等だって、私の学校の『輪』の中に入れば、変わって行く生徒がほとんどなのだ。

教育は国の礎。

将来の日本の社会を左右する重要なファクターだ。

教師は、時折は、そうした重要な仕事をしているという事実を、思い巡らせなくてはいけないのだろう。

日々の忙しさに、ただただ忙殺されてはいけない。

その中でも、心の中に一本筋を通し、教師としての理想も掲げ続けなくてはならないのだろう…。

その雰囲気を感じて、人は集まってくるはずだ。




2021年10月15日

一ヶ月遅れの新人戦

野球は、チャンスを逃すと大ピンチが訪れる。

私たちのチームにも何度もチャンスが訪れたが、それをことごとく捨て去ってしまったがために、その後やってきたピンチで、次々と点を入れられたのだ。

結果はコールド負け。
初試合としては苦い経験になった。

文化祭の翌日の新人戦には、あまりにひどいと思ったが、大会に出場できただけでもありがたかった。

本来なら、合同チームのところ、何とかメンバー不足を助っ人で補い、何とか大会を迎えることができたのだ。

「出場辞退」という言葉が、終始頭をよぎった。
今は、「無事、試合が終わって良かった」、というのが率直な感想だ。

即席チームではあったが、中1がメインなので、この先、まだまだ強くなる。
教えるべき事は山のようにあるが、3月の公式戦までには、ある程度の形にすることもできるだろう。

結果は、さんざんだったが、チームとしていろいろな課題も見え、彼等には貴重な試合経験になっただろう。

なんと言っても、試合経験者2人だけの中で、よく戦ったと思う。

いろいろ課題を共有して、来年に向けて準備を始めよう。

「もっと練習試合したいな…」、と思う。

基本相手校は土曜日のみ、うちの学校は土曜日は授業。

なかなか日程が調整できない…。

相手校はヒット3本で8点。うちのチームはヒット2本で1点。

まだまだやるべき事は山のようにある…。

2021年10月14日

文化祭第二弾

文化祭の舞台部門の発表が行われた。

本来、9月の初めに行われるものだったが、コロナ禍により延期されたのだ。

舞台発表は、主として中学生。
一ヶ月以上の延期に、モチベーション維持が難しかっただろうが、若手の担任の先生たちは奮闘したようである。

私は、客席の一番前に設けてもらって、終日撮影。
普段は保護者が陣取っているが、今回は保護者は来校できないので、心置きなく座席を占有し、彼等の雄姿を撮影することができた。

準備片付け時間を含めて25分の短い劇だが、どの舞台も良く仕上がっていた。
特に中1のレベルが高く、学年が上がっていくこの先が、とても楽しみだ。

朴訥とした台詞ばかりではない。
プロのような演技者もいる。

つくづく芸術性の高い学校だなぁ、と感心する。

舞台発表は担任の腕の見せどころ。
「どれだけ生徒をまとめられるか」、が勝負だ。

結局、「謙虚にこつこつ努力し続けたクラス」が上位に入った。
しかも、中3を抜いて、中2が優勝。

感動させる演技とは、心のひだに、ぐいぐい入ってくるものだ。

私は、涙することはできなかったが、どれも感動した。
写真撮影をしながらも、はらはらドキドキ感があった。

数日前にカメラのレンズが故障し、代替レンズを、中古で急遽購入する羽目になったため、一眼レフの二刀流で撮影した。

…いいものを見せてもらった。




2021年10月13日

世の中の役立たない人

「世の中の役に立たない人というのは、いないのじゃ。誰もが必ず何かの役に立っている。」

先日見ていた少林寺の映画で、高僧が、そう言って若者を励ましていた。

これは勇気の言葉だ。

人は気持ちが落ち込んでくると、「自分は世の中で役に立っていない人間である」と思う。
これが過ぎると、「この世にいなくても言い存在」と思い、自殺してしまう場合だってある。

『この世に価値のない人間なんて一人もいない。』
ということを、心底信じられるか。
自分が、世の中の役に立っているという自覚が、明日への活力となり、エネルギー源となる。

この映画は、2011年の香港、中国の合作映画だが、完全に中国共産党の支配下での映画製作になれば、こうした勇気の言葉もカットされてしまうかも知れない。
主人公は、命を賭けて、かつての部下の悪行をいさめ、改心させようとする。

共産主義の中国にとっては、こうした宗教的人格者が出現しては困るはずだ…。

学校でも、クラスに居場所がない生徒は、「自分がクラスで役に立っていない」と感じている。

だから、クラス替え当初の担任の一番の仕事は、一人ひとりの存在意義を自覚させ、誰もがクラスの一員として役割があるように死力を尽くす。

ひとたびクラスが『安心空間』となれば、多少の悩みにも耐えられ、学校生活をやってゆけるのだ。

就職後の会社組織なども同じだ。
上司は、死力を尽くしてはくれないかもしれないが、「自分が組織にとって必要な人材である」ことを自覚できなければ、その社会ではやっていくことはできまい。

「君には、こんないいところがあるよ。そのことは、みんなの役に立っているよ。これは、みんなの見本にしてもいいくらいのことだよ。本当にすごいことだし、口には出さないけれど、たくさんの人がありがたいと思っているはずだよ。」

そんな励ましは、生徒たちの成長に役立つばかりか、自分の居場所を見つけられ、さらに向上していこうというエネルギーになる。

映画の一言だって、人を救うことがあるのだ。

2021年10月12日

『常識』

「そんなの常識だろ」、というのは誤りである場合が多い。
人間心、社会的風潮で、その『常識』が大きくぶれるからだ。

現在、『常識』とされることは、かつては常識ではなかったのだ。

例えば、LGBT問題にしても、彼等の人権や権利は保証されるべきだが、これが行きすぎてしまうと、今度は社会崩壊を起こす。

クラスに数人はLGBTがいると予想されるので、制服を男女どちらの制服を着られるようにしたり、男女のトイレを配慮したりするというのは、もはや、その人権尊重思想を著しく逸脱している。

某Fコンビニでも、「お母さん食堂」という商品名が変更になるそうである。
聞けば、行きすぎたジェンダー教育を受けた高校生が署名活動を始めたとのことだが、この裏には別の勢力があるようにも思える。

どうやら、「桃太郎」の話でも、お婆さんが川に洗濯に行くという設定はいけないらしい。
そもそも、鬼退治が、他国侵略にもなるのだそうだ。

こんな時も、「もう『常識』だから…」、ということになるのだろうが、やはりその常識は、間違っていると言わざるを得ない。

未成年の性行為にしても、初体験を競ったり、体験した人数を競争するような風潮は、『常識』ではない。スマホでいくらでも性的な動画が検索できるのも、それを未成年が、容易に見ることができるのも、『常識』ではないのだ。

古くは、「あの世がある、神さまがいる」ということも、現代社会は否定することを『常識』とするが、本当に存在しないことを証明できた人はいない。

現代では、どの分野でも、「あると困ること」は、『常識』から外れるらしい。

時の権力者が都合が悪いときも、誤った『常識』が流布される。

今、日本や世界の伝統が破壊されつつある。

地球温暖化にしても、おそらく間違いだろう。

ここ百年以内くらいで新たにできた『常識』は、どれも一度疑ってかかる必要があるのだろう…。
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