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2021年09月07日

劇練習

文化祭中は、各クラスの劇練習をすべて見た。
私は撮影係でもあるし、練習時の舞台も撮っておこうと思ったのである。

今の舞台練習は、マスクを外せない。
だから、撮影しても、表情までなかなか撮れないのだが、本来は、本番を迎えたはずの劇。
彼等の熱意と思いを写真を撮りながら感じる。

中でも一番熱が入っているのが、クラスをまとめている担任だ。
生徒の監督はいるが、ここまでくると、担任が全掌握する。

「暗転後、音楽先、すぐ照明つけて! 役者は間を空けない!」

彼等が一番気を遣うのがテンポだ。
生徒が作る脚本は、暗転が多く、そこでテンポが崩れる。

演劇部経験者の私は、「暗転は5秒をめどに…」、と伝えてあるが、舞台上では必死に動いているようだが、なかなか難しいようである。

審査には、準備からはけまでの時間制限もあり、当然劇中の時短はとても重要になる。
ほんの数十分の劇だが、こうした細かな所まで練習しておかないと、入賞は難しい。

中1のクラスでは声の響きをチェックしていた。
客席に観客が入ると、また変わってしまうのだが、今の段階で、聞き取れなかったり、聞こえなかったりしたら、致命傷だ。

断トツの安定感があるのが中3。元気もあるしテンポも良い。
中2は、やや苦戦している。

学年が上がるにつれ、自分たちで劇を作るようになる。
中1は手取足取りだが、中2辺りでは自分たちでやらせてみる。

担任としてはそのあたりの手加減が難しいのだ。

中2の学年主任が言う。
「今年の中2の劇、ヤバいでしょ。少し手を入れないと…。」

焦っているのは担任ばかりではなかった。

そんな言葉を知らんぷりして、私はひたすらシャッターを切る。




2021年09月06日

職場の人付き合い

世にはさまざまな職場があるが、その中ではどのくらいの人間関係を構築しているのだろう…。

私たちの教員の世界では、職場は学校である。
学校の先生たちの職場における人間関係とは、どのくらいの深さなのだろうか。

自分の経験では、最初に勤めた私立学校では、仲の良い友人が何人もいた。
先輩先生もおり、いろいろな所に連れ出されたりもしたが、かわいがってもらった。
毎日のように一杯引っかけて帰った同僚もいたし、自動車通勤になってからも、しばしば飲みに行ったことを思い出す。

だが、どうしても超えられない一線があった。それは信仰の問題だ。
彼等とは同じ信仰を持っているわけではなく、どこか距離感があったのだ。

二度目の職場では、途中採用ということもあり、もっと関係は薄くなった。
仕事の上でも、あまり話し合う機会の少ない学校で、多くのことは、上意下達で決められた。職員会議も、校長が一方的にしゃべって終わるスタイルだった。
その職場で務めた期間が短かったこともあり、今やつきあいのある人はいない。

今の職場が、学校としては三番目。
同じく信仰を持つ人の集まりではあるのだが、何とも希薄な人間関係であるようにも思う。

仕事上、同じ学年であれば、話す機会も多いが、学年が変われば、下手をすると何ヶ月も会話をしていない、なんてこともある。
プライベートでどこかに出掛ける機会も、飲みに行く機会もない。

自分が壁を作っているのかも知れないが、何となく上辺だけの、軽薄な人間関係のようにも思えてしまうのだ。

お互い尊敬はしている。
いろいろな意見も尊重する。
困ったときは助け合う。
一緒にお祈りをしたりもする。

だが、疎遠感は否めない。

コロナ禍でさらに、その関係が薄くなっているようだ。

何となく友達がいないような気持ちなり、少し淋しい…。




2021年09月05日

文化祭二日目

犬の散歩から5時半に戻ると、すでに家庭科室の電気がついていた。飲食店関連の団体の仕込みだろうか。

今日も予定通り文化祭が始まった。
概ね高校生が展示、中学生が舞台発表なので、舞台発表が延期になった中学生を中心に、高校生の展示を回る。

最近は景品つきなので、どの展示もお金がかかる。
大体が100円以下で、中学生や高校生にとっては割高感がないようで、この時期、彼等はたくさんのお小遣いを消費する。

それでも、いろいろな学びがあるようで、お金を使いすぎた側も、利益を出そうという側も、いい経験になるのだろう。

さほどのクラス数があるわけでもないので、中学生は、文化祭開催中に交代で劇の練習をしている。

彼等の集中力を維持するために、この並行企画は良かったのだろう。
私も、すべての劇練習を見ることができたし、その演技写真を撮ることができた。

無観客の文化祭は、開校以来初めてのことになる。
それでも、なんとか文化祭は行うことができたのは、学校としては良かったことだろう。

たとえ、どんな状況かにあろうと、学校が動いているというのはm、世の光だ。
学校は人と人とを結びつける安心の場であり、また、同じ年代の友達と喜怒哀楽を分かち合い場でもあるのだ。もちろん、彼等の将来のために、学びの場を提供し続けることも大切なことだ。

私は、たとえミサイル飛び交う状況下であろうと、その間隙を縫ってでも、学びの場は消してはいけない、と思う。
もちろん命の安全が第一優先だが、我々人類は、この先も生き抜いてゆかねばならず、そのための智慧の共有と学びの機会は、決して失ってはいけないものなのだ。

夕方、クロージングセレモニーが行われた。

展示部門の成績が発表され、表彰された。

劇の中学生にはちょっと盛り上がりに欠けるかな、とも思ったが、中1のS君が、「高校生の展示に感動しました。すごかったです。この学校に入学してよかった…」、と述べた。

中学生にも感動を与えられたようである…。




2021年09月04日

文化祭初日

厳戒態勢の中、今年の文化祭が始まった。
今年も文化祭を取り仕切っているのは生徒会の若手の先生。

昨年に引き続きだが、今年はコロナ対応で、何度も文化祭の内容が変わり、時間も変わり、体調不良者対応などで、急な変更続きで、さぞかしご苦労されたことだろう。

彼女は昨日、「いよいよ明日の本番を迎えますが、ここまでのサポート、ありがとうございました」、と打ち合わせ時に謝意を述べた。すると職員室中で拍手が湧いた。

文化祭委員長の挨拶で、開会したが、「こんな状況の中で、文化祭を開かせて頂いて本当にありがとうございました」、と述べた。

中には、「先生たちも大変ですね…」、と気遣ってくれる生徒もいる。

高校生ともなると、その展示のクオリティの高さは脱帽である。
「本当にここは教室か?」、と思うものあり、さすがである。

こうした姿を見ると、「文化祭は教育活動の中でとても大切なのだな」、と改めて思う。

保護者の来校は一切禁止にしてしまったから、あとで動画や写真でお知らせすることにはなろうが、この文化祭での彼等生徒たちの、普段とは違う生き生きとした姿は、ぜひお見せしたかったな、と思う。

生徒と教員だけなので、来客数は少ないはずなのだが、飲食店の売り上げもそこそこで、また別の学びも得たようである。

規模縮小で、一部隔離状態になり参加できなかった生徒もいるが、何とか一日目を終えた。

手作りの稚拙さも残るが、この経験は将来必ずや役に立つに違いない。

「いやぁ、景品、取っちゃいました…。」

若手の先生が射的で景品を取ってきた。

先生が真剣に遊んでくれると、生徒たちも嬉しいはずだ。
そこにまた、新たな関係が築かれそうだ。

「もらってこない方が良かったですかね…。」
と心配している姿が面白かった。




2021年09月03日

野菜おじさん

文化祭の舞台関係が延期になった。
展示は行うが、マスクを外さなくてはいけない舞台関係については、数週間延期。
後日、文化祭第二弾を行うことになった。

ますます規模が小さくなるが、教育活動としては貴重な機会。
単なる中止にならずに良かったと思う。

学年の居候を続けている私は、無意識のうちに、自分の存在意義がどこなるのかを模索しているようである。

せめて皆様に喜んでもらえるようにと、自宅の畑で作った野菜を皆に配っている。

思えば、毎日のように誰かしらに差し上げているようにも思う。

「こんなことくらいでしか、お役に立てないようになったのだな…。」
とも思う。

「人間関係構築の上での会話づくりのきっかけにしようとしているのかな…。」
などと考えてしまう自分もいる。

このところの私は、完全に『野菜おじさん』である。

できる野菜やその量は限られているが、たくさん収穫出来るものもある。
そんな野菜や果物を庭から収穫しては、皆に配っているのである。

「みんな、一生懸命働いているな…。」
と思う気持ちのあとには、「それに比べて自分は…」、という言葉が続きそうになるが、今は、このくらいのことしかできない。

「自分が、組織にとってどのくらい役に立っているのか」、ばかりを考えてしまうと、逆に自分を責めすぎて、気持ちが落ちてしまう。

だから、「今は許してもらうことにしよう」、と思っている。

かつて勤めた学校に定年(その学校は65歳)間近の老先生が何人かいた。

「僕なんか、もうお爺ちゃんなんだから、何にもできないんだよ。」
などと、言っていろいろご遠慮されている姿を見て、若かった私は苦々しく思ったことを思い出す。

だが、その老先生たちは、立派な先生であり、素晴らしい人格者でもあり、授業も、発言も立派だった。

当時は分からなかった、今となれば分かる。

そのことを思い出せただけで、今の自分にとっての救いになる…。

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2021年09月02日

頑張る担任たち

文化祭が近づいてきて、血相を変えて奔走しているのは中学の担任である。
若手の彼等は、生徒に寄り添いつつも、本番に向けて必死である。

中学のクラスでは、ほぼすべてが舞台発表の「劇」を行うのだが、一つの作品を作り上げるには、相応の時間とエネルギーが必要だ。

そんな中で、時間は無限にあると思っているかのような、生徒たちを先導し、動かし、またその上で、生徒たちが「自分たちでやった」感を出すのは、至難の業である。

若手の先生たちは、こうした行事を通じて、生徒との関わりを深め、また一緒に悩み、笑い、泣き、喜びを共有。

そして、一人前の教師へと成長していくのだ。

私は担任を外れて三年目になる。
担任をしていた頃は、「ベテランとしての力量を見せてやる」とばかりに、気張っていた。しかしそのうち、「若い衆に負けられるか」、という気持ちになり、いつしか増長してしまったようである。気がついたら転落していた。

こうした行事において、どれだけ生徒を掌握し、それなりの結果を出せるかどうか。
これが、ある意味担任の力量の見せ所であるとも言える。

彼等生徒たちは、毎年の経験を積み重ねて成長していく。

私にとっては、ほんの数年前のことであっても、「もう一度担任をやる」、となると、今や全く自信がない。

それどころか、「今の自分にはできないのではないか」、という思いが強く、やる気よりも不安と逃避感が強くなってしまう。

「もう、生徒たちと一緒になってはできないな…。」
そんな思いが心を渦巻く。

以前の私であれば、「担任を外れる」恐怖感にさいなまれていたが、今は逆になってしまった。

歳をとったということだろうか。
体力に自信が無くなったということだろうか。

若手の先生方の奮闘を見て、陰ながら応援する気持ちが湧いてきている…。

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2021年09月01日

人と人とのつながり

前髪を伸ばして目を隠し、マスクをして、パーカーを頭からかぶる。
典型的な引きこもり君のスタイルである。
自分の表情を人に知られないように、また、本当ならば隠れたい状態だが、仕方なく人前に出なくてはならないから、いろいろな所を隠している姿だ。

コロナ禍になり、皆がマスクをするようになった。
マスクをすると、顔のほとんどが隠れてしまうので、表情が見えない。
表情が見えないと、考えていることが分かりにくい。
微妙な目の動きや、首の角度、そんなことぐらいしか、見た目では分からない。

心を読んで、判断することもできるが、誰もができることではない。

会話も減り、活動も減っただろうから、ますます他との関わりが薄くなっている。

人間は、集団で生きている生きものだ。
学校は、成長期にお互い刺激し合いながら、人間関係を構築する貴重な機会だ。

今、コロナによりそれが失われつつある。

彼等が大人になったとき、コミュニケーション能力が不足することも大いに考えられ、個人主義で、自分のことを中心に考える人が増えてしまうことも懸念される。

ある意味、文明実験が行われているのだ。

ワクチンだって、接種者は治験者でもあるので、これも大きな文明実験だ。

学校現場は、他の人と接することのできる貴重な機会だ。

何かしらの工夫をして、人と人とのつながりを深くするアイデアが必要だろう。

このことは、教職員同士でも同じだ。

先生たちが上辺だけではない少し深い人間関係を構築することも、「いざ」というときに助けになるに違いない。

人は助け合って生きている。
ある意味、一人では生きることはできないのだ。

「だれだけ、人と人との関わりを持ち、さらに深い関係を築くことができるか。」

コロナ禍であるからこそ、その点を考察したい。




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