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2019年05月21日

教員対象の試験

私立学校では、しばしば教員対象の大学入試演習が行われる。
以前私が見学した中高一貫校でも、年に一回、教員全員がセンター試験問題を受けることになっていた。
実施校は少ないだろうが、私の学校でもずっと実施され、私も受け続けている。

「進学校なのだから、先生方の学力レベルが担保されていなければならない。」
というのが実施の理由だ。
「生徒に教えるのに、自分たちの得点力がなくてどうする。」
という訳だ。

だが私は、この試験にストレスを感じている。
数学は数TA+数UBの120分。この間、缶詰になり試験を受け、採点され、結果が芳しくないと追試になる。

以前は、校長面談になり、相当圧力をかけられたこともあった。
それがトラウマになり、夢にまで出てきて、
「丹澤先生は、どうして東大受けないのですか?」
などと、校長に注意される夢を何度も見た。

今朝の打ち合わせで、センター試験で満点だった人が紹介された。
「ミスなくすごいな…。」
と、思う一方、今回私は追試になってしまったので、「しんどいな」とも思った。

私の場合、どうも時間が区切られていると、問題を見切ってしまう。
いらぬ勘違いをして、永久ループにはまってしまい、時間オーバーになることが多いのだ。
書き間違いだの、計算ミスも多い。
本来、頭の悪い人間なのだ。

すると今度は、
「丹澤先生は、時間を区切らずエンドレスでお願いします。」
ときた。

正直、「どこまで痛めつけれ気が済むのだ」、とも思ったが、満点近くではないのだから仕方がない。
特に合格点があるわけではないが、おそらくはほとんど満点でなければ、許されないのだろう。

「一ヶ月後に試験しますから…。」
という指示があった。

もう二十年以上、受験生を担当していない私にとっては、けっこうな負担で、「精神的にも苦しい」というのが実感だ。

「優秀で、賢い先生ばかりの中にいる私は、もしかした場違いなのかも知れないな。」
という言い訳を捨てて、もう少し頑張ってみようか…。














2019年05月20日

体育祭の団練習

体育祭が次の日曜日に迫ってきた。
各団、練習に一生懸命である。
中心になっているのは高2。この学年リーダーとして、高1以下、中1までを引っ張っていく。

聞くところによると、夜22時頃からリーダー会議もやっているらしい。
その方法はLINEなのだそうだ。
朝練の予定もLINEで流れたりしていて、スマホを持っていない中学生が困惑している。

最近は、ネット上でLINE配信のビジネス講演会なども行われる時代だから、珍しいことではないが、やはり学校現場であることを考えると、驚きを禁じ得ない。

団の練習のメインは、応援合戦時に行われる団毎のパフォーマンスだ。
全学年でダンスを中心とした演技を行う。
彼等は、音楽を編集し、振り付けを考え、全体バランスや見栄えを考慮して、3分間のパフォーマンスに命をかける。
当然、時間オーバーしたら減点。もっとお優秀な団演技に与えら得る応援賞は遠のいていく。

各段ともクオリティは高いが、これを集団演技するわけで、まだまだ合わせるのに時間がかかりそうだ。

だが私は、体育祭当日、この本番を見ていつも涙を流す。
彼等が創った、思いのこもった演技に感動するのだ。

撮影担当の私は、毎年涙を流しながらカメラのファインダーを覗いている。

大人からの指示ではなく、すべて自分たちで創り上げる中に、創造性とリーダーシップが培われるのだ。だから、やり遂げたときの達成感は半端ではない。

表彰式で泣き出すのは、高2だけではない。
後輩たちは、その涙を見て、自分たちも泣き、いつかやってくるリーダー学年を思い描くのだ。

「笑顔で踊って下さい!」
女子のリーダーが叫ぶ。
「笑顔で踊ってくれないと、私が変顔しないといけないので、笑顔でお願いします!」
別のリーダーが笑いをそそる。

団のメンバーは、その後笑顔で踊り出した。

最近では、自分の割り当てられた団に、思いを入れ込み、生徒と一緒になって動くことはなくなった。

彼等の雄姿を、嬉しく見ているだけになったように思う。

本番だけ見ても感動するが、途中のドラマを知っていると、その感動はさらに大きくなる。
一大イベントまで、あともう少しだ。
















2019年05月19日

動物との共存

以前の記事で、学校の昇降口にツバメの巣が作られたが、用務員にすぐに壊された、と書いた。(『ツバメの巣』(2019年5月7日)

あれから12日経ったのだが、実はその用務員は、同じつがいの巣を、4回壊したのである。
3回めにして、さすがに私も事務長に耳打ちした。

「生徒が見ている前で、壊すのは教育上問題があると思います。」
と、「動物愛護的にも宗教的にもその行いには疑問がある。近隣の学校では共存している」、とやんわり申し上げた。

「そうですね。難しい問題ですね…。」
などと、はぐらかされたので、「もしや」、と思ったら、その日のうちに、4度目の巣が壊された。

以前から冷たい男だと思っていたが、これで確信した。
「今後は、ビジネス的な付き合いにとどめ、親しくするのはやめよう」、と決意した。

その事務長は、生徒が拾った子猫を、以前の用務員に命じて山に捨てさせた、という前科もある。

今日の午後、再び近隣の犬舎を訪ねた。ゴールデンウイークに尋ねた柴犬を育てている方の犬舎である。(『犬舎を尋ねる』2019年5月3日

そろそろ仔犬を見せて頂ける頃だと思ったし、また何か新しい知識を得られるのではないかという、期待からである。

いつもは、メールで問い合わせをするのだが、今日の今日なので、電話で一報を入れた。
「一人ですか?」
前回は、野球部の生徒を二人連れて行った。
「元気な子どもたちは来ないのですか?」
そう二度ほど尋ねられた。

今回はちょっとタイミングが合わずに、私一人で出掛けることにした。
到着後も、「一人ですか?」と念押しされた。

今回は、躾けられた幼犬(生後9ヶ月)の散歩を見せてもらった。
散歩時の注意や、遊ばせ方など、数多くの知識を得た。

本当は、仔犬を予約しようと思って尋ねたのだが、
「丹澤さんは、オスの仔犬をご希望だそうですね。人を噛まない犬に育てる自信がありますか?」
と、尋ねられた。
私には、そんな自信も確信もない。「ただただ、チャレンジするしかない」、と思っていただけである。
「実は、あの後考えまして、私が躾けた犬をお譲りした方がいいのではないか、と思ったんです。」
と、候補として選んでいた犬で、散歩実習をさせて頂いたのだ。

なかなか鋭い方である。
「しつけが終わっている犬ならば、楽しく犬とも過ごせる」、とほくそ笑んでいると、
「犬とはリードで会話するんです。躾けも楽しんでやるんです。」
と、念押しされた。

動物とはこうやって共存していくのだと、改めて学ばせてもらった。

そんな中で、ふと、ツバメを思い出してしまった訳だ。














2019年05月18日

鐘が鳴る前は報われない時間がある

アナログ時計の長針と短針は、半日で11回、一日で22回重なる。
ちょっと意外に感じるかも知れないが、一時間に一度重なるわけではないのである。

中学入試では頻出問題となるのだが、長針と短針の重なる時刻は次の場合となる。
@ 0時0分
A 1時5と5/11分
B 2時10と10/11分
C 3時16と4/11分
D 4時21と9/11分
E 5時27と3/11分
F 6時32と8/11分
G 7時38と2/11分
H 8時43と7/11分
I 9時49と1/11分
J 10時54と6/11分

つまり11時台だけは、長針と短針が重ならない。
実際、一分間に長針は6°、短針は 0.5°、進むので、1分で長針と短針は5.5°ずつ近づく。
これを定時の長針と短針の角度、例えば3時なら90°をこの5.5°で割れば、二つの針が一致する時刻が求められるわけだ。

一方で、こんな算数の問題でも、上手に物語やスピーチにできる。
今や有名となったが、キンコン西野氏が近畿大学の平成30年度の卒業式のスピーチである。
時計の長針と短針が重なる時を、『報われる』と見立てて、11時台だけは二つの針が重ならないので、12時の鐘が鳴る前の『報われない時間』を例に出し、
「人生には報われない時間がある。鐘が鳴るまでは報われない、そうした長い時間がある。」
と学生に語りかけた。

楽しく面白く生活していた学生の卒業のはなむけの言葉としては、なかなか洒落ていると思う。

人生は誰もが苦労の連続だ。
その上で、何をもって報われる、と見るかも、議論の余地があるだろう。

だが、人はそうやって人生を生きている。
「人生は、自分の思い通りにならない」、という現実を突きつけられるのも、社会人になってからが多いはずだ。

私はこのスピーチを聞いて、「苦しみの多い人生だけれど、必ずいつかは、君たちを祝福する鐘がなるよ。だからそれまでは、あきらめずに前に進み続けよう」、と理解することにした。

勉強は努力すればするほど、やればやるほどその結果が見えてくる、ある意味、公平な世界だが、社会はそうではない。

卒業したての学生にとっては、理不尽と思われることばかりだろう。
それは、学校という大きな包みに護られていた生活の終わりを意味しているのだ。

中高生は成長期で複雑な年頃。悩みや苦しみもひとしおだろう。

だからこそ、私たち教師が護ってやらねばならないのだ。
しかし、それはほんの一時期のこと。

その後は、私たちが護ってあげたことすら、忘れてしまうのがよろしかろう。














2019年05月17日

動けない若者

今日の午後も体育祭の練習。
今日も生徒たちの元気は最高。
準備体操のラジオ体操でも、大盛り上がりとなる。
4団に分かれて、それぞれに団長がつく。高校2年生がリーダーだ。

団で動いていると、集団心理が働き、何となく面倒だと思う生徒も、周りに流され、いつしか一生懸命になる。
「先生が指示するより、よほど効果あるね…。」
先生方のぼやきが聞こえてきそうだ。

慌てて中一の学年主任がやってきた。
「F先生は見ませんでしたか? 午後は全職員で練習を見ること知っているのかなあ。」
「昨日は具合が悪いと言っていましたが、今朝はおられましたね。私は見ていませんが…。」

私は、遠目で見たり、整列の間に入ったりして、生徒の様子を観察。
時々声を掛けて、彼等の気持ちを高めて見る。

そんな感じで過ごしていると、再び中一の学年主任がやってきて言う。
「若い先生、全然動きませんね。動いているのは年配の先生ばかりですね。」
「何をしたらいいか、分からないのだと思いますよ。」
「丹澤先生は、別の学校でのお勤め経験がありますが、こんな風に若い先生がうごかない、なんてことないでしょ。」
「確かに…。そういう先生たちは見たことがありませんね。」

年寄りの戯言なのだが、私の学校でも、若い先生はどう見られているのだ。

「今、何が必要なのか。動いている先生をどうやったらサポートできるか。」
そんなことは、少し考えれば分かるし、もし考えられなくても、私ならじっとしておられず、すぐに何かしらの手助けをしているだろう。

「指示しないと、動けないだろうな…。」
そう、つぶやく我々は、「指示されて動くようなら、やらない方がましだ」、などと徹底的に教え込まれた世代だ。

彼等が、中堅の先生になるときには、自分から動くようになるのだろうか。

そんなことは露とも知らずに、生徒たちは体育祭の練習にいそしんでいる。

そんな彼等が、卒業生として戻ってきたとき、やはり、この事実は分からないまま過ごすのだろうか。

教員の仕事に限らず、すべての仕事は『思い計る』中にある。
と、私は思うのだが…。














2019年05月16日

体育祭の昼練習

体育祭が近づいてきて、昼休みにも団ごとの練習が始まっている。
当然、そこには監督の教員が配置されるわけで、今日が私の担当だった。

一生懸命練習に取り組み、勝利を目指す生徒たちの姿は、何とも頼もしい。
どの団も、互いに意識しつつも、励まし合って練習している所もは、もっと良い。

昼休み、団の責任者であるT先生も練習につきあっておられた。
「丹澤先生、彼らを見ていると、なかなか腹が立ちますよ。」
と、一言。

「大丈夫です。見ませんから…。大体、歳をとって、だんだん見えなくなったり、聞こえなくなったりするのは、頭にこないように、腹が立たないようになっている自然の摂理なのではありませんか。」

というような会話をしながら、彼等の騎馬戦の練習を見守る。

「クラスを持ったり、学年を持ったりすると、『何とかやらせなきゃ』って思っちゃうんですよね。」
と、T先生。

まさにその通りだ。だから、私は、
「今年は、楽をさせていただいています。全然、頭にきません。腹も立ちません。『へーそうなんだ』って感じです。…今まで気を張りすぎていたのだと思うんです。」

「そうだね。そういうところあるよね。つい、他の人の目を気にしちゃうからね。」

「黙っていたって、彼等は成長していくんです。関わり過ぎてもだめ。関わらなすぎてもだめ。」

「そうそう。ついつい注意しちゃう。」

「だけど、中学生は難しいです。人によって成長が違いすぎて、どこまで関わるのが一番良いのか、分からなくなってしまいました。」

そんな会話を楽しんでいるうちに、練習も終了。
たった15分間だけど、これが10日の体育祭にまで毎日続く。

彼等なりの工夫と練習で、ずいぶん成長していくのだろう。
中高一貫で行う体育祭。
高2がリーダーだ。
それにつられて、高1、中3が動く。

感動の体育祭まで、もうしばらく彼等を盛り立てようと思う。














2019年05月15日

授業準備のこと

「丹澤先生の話、本当に面白い。」
私自身も楽しく授業をしているので、「まあ、面白い授業であろう」とは思うのだが、授業中にこうした声が聞こえてくるのも珍しい。

それでも、最近は授業準備が、やや疎かになっており、「もっと気合いを入れて授業に臨まなければ…」と、このところ反省している。

私の授業準備は、大きく分けると3種類ある。
一つは、授業教材の準備。いわゆる教科の授業内容の準備である。

二つ目は、演習プリントの準備。これは、授業内容とリンクする場合もあれば、そうでない場合もある。初見で思考力を求められる問題や、パズル的な問題など、授業内容の宿題とは別に課される自由参加の宿題プリントでもある。こうした課題を通して、『考える力』を育てようというのが狙いである。

三つ目は、授業中の話題の準備である。数学のみならず、生徒たちに参考になると思われる話題は、何でも話す。たとえ、その話によって教科内容の説明が少なくなっても構わない。そうした『話題』を聞くことで、ちょっとした気分転換になったり、モチベーションアップにつながるのだ。格好の眠気対策にもなる。

通常は、一つ目だけで授業に臨む先生方が多いだろうが、私はずっと以前からこの三本立てだ。
中でも、一番時間をかけてているのが三つ目の『話題』。

これは、まとまった時間に準備するのではなく、常日頃、一日中話題を探している。
毎日三つから四つくらい準備できていれば、日々の授業で困ることはないし、まとめて二十位持っていれば、一週間は安泰である。

ただ私の場合、すべては記憶に頼ろうとして、メモを取っていないので、その蓄積も残っていなければ、いろいろ仕入れているうちに、忘れてしまうものもあり、あまり効率的であるとは言えない。

やはり、記録は必要だろう。
それが、将来きっと役に立つに違いない。

さて授業中の様子なのだが、上級生は私の話を聞きながらでも、せっせと問題を解く。
聞いていないわけではないが、時間効率のアップである。
しかし、一年生はそうはいかない。
私が話をしてしまうと、ピタッと鉛筆が止まってしまうのだ。

「ながら」を勧める訳ではないが、学年が上がると、情報の取捨選択が上手になるのだろう。

私は興味を持ったことは、何でも調べる。
かなり詳しく調べるのは、性格の「しつこさ」だろうが、実はこれが効いてくる。

「分からないことを新たに知る」、ということは喜びであり、それが学びのモチベーションだ。














2019年05月14日

上司との関わり方

どんな仕事であれ、「私が、私が…」と主張しているように感じる人は疎まれる。
「私がやったのです。」
と、堂々と語るのは、元来の日本人の気質に合わないのだ。

欧米では、逆に自己主張をしなければ、評価されない。
果たして我々教員は、どういう人を育てるべきなのだろか。

新たに赴任した管理職は、必ずと言っていいほど自分の実績を作ろうとする。
そうでないと、「自分の存在意義がない」、と感じるのだろう。

私は、生粋の日本人根性なので、そうした上司は好きになれない。
そうした思いを察してか、自ずと私は退けられることになる。

しかし、そうした上司も数年経つといなくなる。
じっと我慢の数年だ。

そんなへそ曲がりの私だから、自分が上司としての立場になったときも自由にやる。
結果、部下たちは振り回されることになり、「勘弁してくれ」となるわけで、結局は、同じことの繰り返しだ。

学校教育でも、元来、「自己主張の強い生徒」は、疎まれるか、徹底的に叩かれてきた。
いわゆる生徒指導系の先生に、矯正されるのである。

企業でも同じだろう。出る杭は打たれる。目立つ者は排除される。

以前読んだ、ビジネスで成功するための本に、「上司に逆らい、反発する人は、その組織で出世することはない」、と書かれていた。

「上司を配置したのは、そのさらに上の立場の人であり、またトップであったりするので、その上司を批判するというのは、トップを批判することにもつながり、結局はその組織で生きてゆくことは難しい」、と言う。

「そうではなく、上司をも、部下として徹底的盛り立て、心根すらも変えてしまう、という仕事ぶりをするならば、おそらくは、その組織のトップにまで登りつめるであろう」、とあった。

「それが我慢ならないのであれば、批判するのではなく、静かにその組織を去るべきである」、とも語られていた。

私も、基本的にこの考えに賛同している。
批判は、下の者でも容易にできるからだ。

学校現場であっても、同じことが言えるのだろう。

背中で教育できる教員を目指しているが、生涯かけてそのようになるかどうかは、怪しくなった。
「せめて、反面教師として学んでくれ…。」
と言うのが、今の私の叫びである。








2019年05月13日

頼れる先生が帰ってきた

彼女は非常に優しい。
無私無我で、常に他の人の幸福を考えている。
誰に対しても親切で、相手の良いところをたくさん発見する。
しかし、いざ事が起こると、その解決能力はきわめて高く、あっという間にことを収拾される。
宗教性も高く、本当に聖女のような方である。

そんな頼れる存在の先生が、戻ってこられた。
私にとっても、とても嬉しい。

人は誰か一人くらいは、悩めるときに相談したい人が欲しいものだ。
私のように、友達の少ない人生を生きていると、結局は自分の中にとどめ置こうとして、かえって物事を悪化させ、精神的に大きなダメージを受ける。

そんな私でも、困ったときに相談できる人は欲しい。
本当に苦しいときこそ、誰かに聞いて欲しいのだ。
その相談相手だったら、どんなに救われたかと思った一人が、彼女である。

波乱万丈の人生を生きてこられたから、ご自身も数多くのご苦労を乗り越えてきたのだろう。
だからこそ、人の痛みが分かるのだ。

「先生が戻ってこられると聞いて、涙が出そうになりました。」
挨拶回りにいろいろな先生をつかめてはお話されている彼女が私のもとを訪ねたとき、私は、そう答えた。

その場で、ほんの立ち話ではあったが、話が出来た。
「そういうときは、ゆっくりをお休みされたらいいんですよ。またエネルギーが溜まってきますから…。今まで、本当にお疲れ様でしたね。」

涙が出そうになった。
「大丈夫ですよ。丹澤先生…。」
そういいながらニコっと笑って去って行かれた。

「世の中には、こういう方がいらっしゃるのだなぁ」、と思う。

逆に、私が生徒に対して、こんな風に接することができれば良いのだろうともう思う。

だが、まだまだ修行の足りない私は、そうそうこんな優しさで生徒を包み込むことはできない。

これは、一生の課題なのかも知れない…。













2019年05月12日

権利収入の準備

「一生懸命働いていれば、必ず道は開けるのだから、今を生きればいいのだ。」
という考え方もあるが、前回の東京オリンピックの年生まれの私でも、さすがに将来が心配になってくる。

私の職場では、決められた定年もないが、退職金もない。

国が、「生涯現役で働く」ことを勧めているのは、おそらく近い将来破綻するであろう年金制度への布石に違いない。年金受給を75歳に引き上げた場合、定年が60歳だと空白の15年間の収入に困ってしまうので、「働け」と言っているのである。

ただし私は、「老後も何かしら、世の中の役に立つことをし続けなければ、生きがいがなくなるだろう」、と思っている。その意味では、細々ながらも仕事がある方がいいのだろうが、身体が思うように動かぬ場合も、忘れっぽくなってくることもあり、一律にはいかないことも事実だ。

そんな折り、『権利収入』の話があり、今日は、練習後、その説明会に出掛けてみた。
『労働収入』に加え、いくつかの『権利収入』があり、その収入があれば、少しは生活が楽になるはずだ。ただし、こうした取り組みは、早めに手を打っておく必要がある。

地方都市での開催は、めったにないようだが、なかなか充実した時間を過ごすことができた。
もちろん、行き帰りの移動時間の方が長いのだが、他の方も、かなり遠方からおいでになっており、その意気込みの高さがうかがえる。

時代の流れを読んだ、面白いビジネススタイルだと感じだ。
いつかこのブログでも紹介できると思う。

今回出掛けたのは、もう一つ理由がある。
それは、もともとこのビジネスの話は、実家のすぐ近くにお住まいの方から紹介を受けたもので、その方も、わざわざ東京からお越しになるというのだ。

父の逝去の折り、時間を作ってお会いして一ヶ月くらい経ったが、また再開できたのは嬉しかった。
年齢も近いし、志も高い方で、私はいい方と巡り会えたと思っている。

この先も長くお付き合いできそうだ。

この午後のイベントのため、午前中の野球の練習時間を開始時間と終了時間を少し早めたが、結構充実した練習になった。生徒たちがテキパキ動ければ、短い時間でも充実感が出る。

野球は、百回に一度のプレイを一つひとつ潰していく練習スタイルなのだが、できる範囲でできることをやろうと思う。

楽しく野球する中に、時に厳しさがあり、自分を磨ける場があり、仲間との協力体制があり、勝利があれば、それで百点満点なのかも知れない。

私自身も、充実の一日となった。














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