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2019年03月31日

お金の教育

校内のフキノトウが咲き、ここ北関東の田舎にも春の息吹が感じられる季節になった。
ソメイヨシノの方は、つぼみが少し色づいてきており、この調子でいくと、7日の入学式には、ちらほら咲き始めるだろう。

昨日の雨が上がり、午前中のうちに晴天になった。
晴れてきたので、私の車のバッテリーを充電。
シガーソケットにも電圧計をつけてみる。
確かに少し弱っているかな、とAC電源から充電器でバッテリーを充電。
3時間ほど放置しておいた。

「グランドが静かだな、高校野球部がいないなぁ」、と思ったら、この春最初の練習試合であったことを思い出した。

夕方、「寒かったなぁ…」、という入学式前から練習している新高1の野球部員の声を聞いた。
気温は高めとは言え、まだまだ北風が冷たいのだ。

元気の良い野球部は、学校の顔だ。
生徒の声の聞こえない学校は、寂しさを通り越したものを感じる。

この地域でも学校の統廃合が続いている。
校舎だけが取り残された学校跡地は、あまりに悲壮感が漂う。
近くには、その学校の卒業生が在住しているわけで、彼らの思いは、悲しみと失望しかないだろう。
子どもの声が聞こえなくなったグランドは、産業廃棄物に近いのかも知れない。

アイデアを考えれば、いろいろな活用法もあろうし、地元利用のみならず、外から人を集める方法もあるだろう。そのあたりを役人たちに任せると、たいてい上手くいかない…。

昨今は様々な集客方法や集金方法があるので、本気で考えれば、いくらでも方策は出てくるに違いない。

『金持ち父さん貧乏父さん』(ロバート・キヨサキ著)によると、『学校で「お金』に対しての教育を行わずいることが、高等教育を受けた役人の知識不足になり、それが国家が財政難になっている理由の一つである』、という。

確かに、教員たちは、やや「お金に対する罪悪感」があるのかも知れない。
少なくとも若い頃の私はそうだった。

金持ちからお金を取り上げ、弱者にばらまくという方法は、社会主義だ。
日本は、世界で唯一、社会主義に成功した国だ、という意見を以前聞いたこともある。

確かに中央官庁が国民をコントロールするためとしか思えない、「ばらまき行政」があまりに多すぎるし、過度の許認可制度も社会主義的だ。

夕方偶然、新高3の教え子に出会った。
「文系に変えたんだって?」
と、尋ねると、「そうだ」、という。

「理系は、『耐え難きを耐え、忍び難きを忍び』だったか?」
と、吹っかけてみたら、新しい進路が見つかったという。

彼も社会主義からの脱却へ力を注いでくれるようだ。
今しばらく時間がかかりそうだが、これは面白い。

明日は新元号が発表になるという。
入社式での話題には事欠かないだろうが、
「大人たちよ。心ある若者をなめたらいかんぞ。」
と、警告しておきたい。












2019年03月30日

私用車と公用車

昼寝を終えて、スイーツを買いにコンビニまで行こうと、車を動かそうとしたら、エンジンがかからなかった。

この車は、かなり年季の入ったもので、昨年学校の公用車としては廃車にすると、自動車修理会社に引き取られたものを、個人としてまた復活させて乗っているものだ。

乗っていると言っても、普段は公用車を使っているので、私用以外では使わず、またその頻度も週に一度あるかないか。

大きな行事の時に、駐車場から移動させてくれ、という時にちょっと動かす程度の感じで、昨年の4月に入手して、以来三回しかガソリンを給油していないので、その利用頻度の少なさが分かるだろう。

本当は、昨年春の引っ越しを予定していて、そのためにバンであれば、荷物がたくさん運べると、購入したものだ。いろいろ不具合があり、車検も無理矢理通してもらって、「次の車検まで使えるかどうかわかりませんよ」、などと脅されたものだ。

「いよいよ廃車か?とうとう使えなくなるのか」、と不安になったが、同僚に頼んでブースターケーブルで接続したところ、エンジンはかかった。

少し寒い日だったこともあり、普段から乗らないことあって、バッテリーが弱ってしまったのだろうと思われる。バッテリーは確か車検の時交換したと思うので、一年しか経っていないはずだ。

仕方なく、意味もなくバッテリー充電のため、近隣を30分ほどドライブ。
ついでにコンビニにも寄ったが、エンジンを切って再稼働できなくなると困るので、アイドリング状態で駐車。

明日、またエンジンがかからなかったら、いよいよバッテリー交換だろうか。
それとも、だましだまし充電しながら使うか…。

引っ越しは、予定がなくなったが、近隣に荷物を運ぶというニーズはまだあるので、もう少し頑張ってもらいたい。

若かりし頃から新車しか乗ったことがなく、二度目の車検前にまた新車に買い換える、という贅沢な暮らしをしてきた私にとっては、このサプライズは気持ちを動揺させるに十分。慌てて、JAFにも入会した。

私の学校は田舎で公共バスも走っていないので、部活で生徒引率の際は、顧問が運転する公用車で出掛ける。人数が多ければ、マイクロバスを使う。だから、私は中型の免許も取得した。

中学校の部活は、ほとんどが同地区内の近隣での活動なので、運転時間は比較的短いが、田舎ゆえ、一番遠い学校への往復は100キロを超えるので、それはそれで大変でもある。
高校の顧問は、高速道路を利用するなどして、さらに遠くに出掛けなればならず、それはまた大変だろう。

一番苦しいのは、生徒を乗せて運転しているという緊張感である。
私の場合、野球なので、早朝に出掛け、一日炎天下で過ごし、その疲労した状態で、また帰校するわけで、これがなかなか体力を要する。

そんなこともあり、「新人を副顧問につけてくれ」、とお願いしてはいるが、よく考えて見れば、新人には一年以上は生徒を同乗させた運転は禁止しているので、結局は私が運転することになるのだろう。

公用車も新車はほとんどなく、先生方が新車に買い換えるときに、回ってくるものが多く、中古車ばかりである。

今、私が部活で毎回使っている自動車も、いろいろ不具合がありながらも、「まだ、廃車にしないでくれ」、とお願いしつつ使っている。今は、バックするとかなりの確率でエンストする。

「自分個人で乗るなら、別に軽トラでもいいんだけどなぁ。」
とも思う。だが、中古でも軽トラは意外と高い。きっとニーズがあるのだろう。

自動車がないと移動できない田舎の学校。

体力維持のためには、私自身、自転車を復活させる方がいいのかな…。

とにかく、明日もう一度、恐る恐るエンジンをかけてみよう。











2019年03月29日

授業に行くときの緊張感

新人の頃は、授業に行くのが怖かった。
「生徒がどんなことを言ってくるだろうか。そして、それに対して、上手く切り返しができるだろうか。」
「私の授業を批判されたらどうしよう。」
「生徒指導上の事件が起きたら、どう対処しよう。」

当時、「少なくとも授業中は一国一城の主」、と言われた時代である。
授業中のことは、担当教員が責任を取るのが当然だし、授業の秩序を保ち、かつわかりやすい授業をして、さらには実力をアップしつつ、生徒との良好な人間関係が求められたのである。

だから、「授業中○○君が、こんなことをしていました…」、などと担任や学年主任に報告するのは、よほどのことでないとできなかった。

「君の授業だからそういうことをしてしまうんでしょ。もっと集中させなさいよ。授業が面白くないから、生徒はいろいろなことをやり出すんだ。」
と、言われそうで、これまた別の意味で怖かった。

だから、授業にいくときは、「よし」、と気合いを入れて、職員室を出て行ったことを思い出す。

昨今の新人君の中には、授業中の様子を事細かに私に報告してくる方もいる。
「○○君が寝ていました。」
「○○さんが、忘れ物、しました。」
「○○君が、マンガを読んでいたので没収しました。」
「○○君が、授業の妨害をしました。」
「○○君が、宿題を出しません。」
担任であり、学年主任である私への配慮なのかも知れないが、ある程度は授業を担当する先生自身がコントロールしなくてはいけないことも多いだろう。

「寝ていたなら起こして下さい。」
と、言えば、「起こしても起きないんです」、となる。

「忘れ物させない指導に務めて下さい。」
と、言えば、「厳しくできないんです」、とくる。

授業に関係ないものを没収されたり、宿題を常習的にやってこない生徒については、報告してくれるとありがたい。
ただ、それでも、授業担当する先生が解決に努めることだってできる。

協力して指導した方が、指導が一枚岩になり、効果的なこともあるが、いつでも立場のある先生に言えば、その先生は、「自分で指導できない」、ことを生徒にアピールしてしまうことにもなりかねない。

かく言う私の方は、報告を受けても、生徒には素知らぬ振りをする。
しばらく経って、同じ事をすれば、次は追及し、指導に入る。

掃除の時間にさりげなく注意することもあれば、個別に話をした中に、さりげなく注意を含めることもある。

この辺りが教員としての指導のさじ加減である。

「授業中起きないような、つまらない授業をしているんでしょ。」
「忘れ物させないルール作りをしていますか?」
「宿題を必ずやる、というムードになっていますか。どういう指導をしたのですか。寄り添って一緒に解いたことありますか?」

あからさまに若手の先生たちに、こんな風に言うことはできないが、そういう思いも一部には持っていることを忖度すべきであろう。

教師は、『授業ができて一人前』、というのは今も昔も変わらないはずだ。

今は授業に行くときに恐怖感を感じることはない。
それどころろか、「ワクワク感」を持っている。
私がワクワクしながら授業をすれば、生徒たちにもその思いは伝わる。

だが、恐怖感を超えた、ある程度の緊張感は持つべきであろう。












2019年03月28日

新年度準備に本格突入

今日で春休みの部活動を終わりにし、私はいよいよ大切な新年度準備に入る。

毎年この時期、学年やクラスの運営プランを楽しく考える時間はなかった。
それどころか、毎日の教務校務に追われ、それどころではなかったのだ。
たまに、ふとしたひとときに、「新しくこんなことをやってみようかな…」、などと思うつくこともあったが、そうした機会は少なかった。
だから、新年度が始まり、未だに途中の時間割作成だの校務処理システムのデーター更新などに関わりながら、クラスや学年の事を考えることを、何年も続けてきた。

忙しい方が充実感があったし、そうした忙しさの中で、ささっと、新年度の準備を終わらせてしまう私の仕事方法は、自分でも「なかなかやるじゃない…」、などと密かに自分を褒めていたのだ。

だが、今年は違う。
クラスのことは、何も考えずに過ごせる。
たまにはそういう休息も必要なのだろう。
だから、遅ればせながら、これから一気に作業に入る。

恐らくはこの規模の学校で一人の教員がやっているというのは、なかなかないだろう。
時間割は、ソフトを使っているが、以前のソフトは一台のPCにしかインストールできず、複数作業で作成することが困難であったのだ。だから、このたびバージョンアップをしたが、未だにそのソフトが届かない。その上、私を手伝ってくれる人もいない。
校務ソフトのデーター更新も、作業量は膨大だ。

皆、貴重な春休みを過ごしているようで、このところ職員室も閑散としている。

幸い私は、遠隔で作業ができるので、職員室に缶詰になっていなくてもいいのだが、自分のペースで、自分を律しながら仕事をするのは、なかなか大変だ。

「いつしか独立して、自分で仕事をするようになったら、こんな感じなのかな」、と自制心を高めるべく、重い腰を上げる…。

時々、事務から、
「丹澤先生、いつできますか?」
などと、催促されることもある。
そのたびに、「さっさと終わらせないと、いろいろな人に迷惑をかけるな」、と反省。

「ありがとうございました。」
練習後の挨拶を聞いて、「このあとが本格始動か…」、と覚悟を決める。

「一眠りしてからにしよう」、と横になったら、何時間も経っていた。

東京では桜が満開らしいが、こちらも、ちらほら桜が咲き始めたばかりだ。
たいてい入学式の日には、桜は咲いていない。
今年は暖かだが、今日の北風は冷たかった。

さぁ、仕事をしようっと。












2019年03月27日

想定していた合同チームが頓挫?

私が住む北関東の田舎でも、ちらほらと桜が咲き始めた。
日中はとても暖かく、日なたであれば、少し動けば半袖でも過ごせるくらいになった。
もちろん、朝晩の冷え込みはまだまだ健在だ。

一年生(新二年生)の野球のプレイを見ていると、ずいぶん上達したな、と思う。
滅多に褒めないのだが、今日は彼らに、
「ずいぶん上手くなってるぞ。」
と、声を掛けると、天にも登るような喜びようで、その後調子に乗った。

「褒めなきゃよかった」、とも思ったが、子どもはこうして成長していくのだろう。

五年くらい前のチームならば、この時期はちょうど全国大会があり、静岡に全国大会を学びに出掛けたものだ。もちろん宿泊を伴うのだが、こうした行事もチームとしては大切な修行。集団で宿泊するという練習は、チームを一体化させるためにも、大変有意義であった。

今は、合同チームを組ませてもらってチマチマやっている状態なので、保護者にさらなる負担を強いることもできないし、第一、生徒たちのモチベーションも違う。

「勝ちたいけれども、厳しすぎるのは嫌だ…」
というのが、彼らの本音に近いだろう。

だから以前は夜食だの中間食だの、朝練だの自主練だのと、思いつくありとあらゆる手を打ってきたが、私も歳をとって疲れたのか、どれも今はやっていない。

生徒(選手)のニーズも、保護者のニーズも、違うところにあるようだ。

「楽しく野球できればいいんですよ。」
「親が野球を見に来て、一日、ピクニック気分で観戦するのが楽しみなんですよ。」

近隣の先生が以前そんなことを言っていたのを思い出す。
彼は、この春の人事異動で、以前強豪校として育てた学校へ、また転任することになった。
また強いチームを作り上げるのだろう。

この春からは、その先生の学校と合同チームを組み、私の元に来るであろう新人を育てようと思っていたのだが、頼みの先生が異動となってはそうもいくまい、
私の計画は崩れ去った…。想定していた合同チーム構想は頓挫した。

今は、4月以降、どうチームを組もうか、思案中である。
どうやら、この地区でメンバー不足のチームは、私の学校だけのようなのだ。

こう暖かくなると、いよいよ野球シーズン到来である。

上手くなったとは言え、メンバーが少ないので、連係プレーができない選手たちだ。

さぁ、どんな練習メニューを組んで、試合に臨むか…。
これまた難問である。












2019年03月26日

宇宙人の教育

春休み中でもあり、まずは、部の倉庫を片付けさせてから練習をしようと、生徒たちにやらせたら、ただの遊びになった。

当然、私の雷が落ちる。
「何のために片付けをしているのだ?」

その言葉を聞いて、ようやく事の意味を理解する。
昨今の中学生は概してこんな感じだ。

「いいです。君たちはやらなくてよろしい。私がやるので、そこに立って見ていなさい。」
そう言って、すべての片付けを私がすることにした。
その間、約2時間。
彼らはずっと立って私の姿を見ていた。

こんなとき、「すいませんでした。手伝わせてください!」、と行ってくるのは以前の生徒。
今の生徒たちは、言われたとおりただ立っている。
私が重たい荷物をやっとのことで動かしても、彼らは動かないし、何も声を掛けようとしない。
まさに「立って、息をしているだけ」、の状態だ。

彼らは私の片付ける様子をじっと見ている。
「何を思い、何を感じているのだろうか。」
私は、そう思いながらも、黙々と片付ける。

「どうやったら効率的なのか。」
「片付けをするには、どういう段取りが必要なのか。」
「次に自分たちがやるときは、何をしなければならないのか。」

こうしたことが考えられれば、私が率先垂範した意味はある。
ただ、何も考えられず、ただただ言われたから立っていただけならば、彼らが得るものは罰を受けたという記憶でしかない。

昨今の中学生は、明らかに後者の方が多くなってきたように感じる。
そうした子どもたちを育てていかなくてはならないのだから、教育の問題は奥深い。

4月になると新人がやってくる。
二十代そこそこの若手でエネルギッシュだろう。
しかし、彼らが感じ中高生は、おそらく自分たちの頃とはまったく異なった、まさに宇宙人と言ってもよい。違った価値観を持った人種ということだ。

彼らはそうした宇宙人の生態をつかみ、語り、教育していくことを求められる。

結局、練習は3時間遅れでスタート。
昼食が大幅に遅れたことは言うまでもない。












2019年03月25日

山頂は晴天なり

昨日の山は吹雪だったが、今朝は晴れ渡っている。
「よし、今日がチャンスだ!」
とばかり、急遽、昨日のリベンジで再び山に出掛けた。

空は快晴。
今日はロープウェーも動いている。
気温はどんどん上がっていきそう。
道路の雪はすっかりと消え、これなら山頂駅でも雪は少ないだろう。

そう見越して、山に出掛けると、案の定、山はゴールデンウィークくらいの積雪。

山頂でも、下界を見ながら、まどろみの生活をしつつ、生徒たちには宿題をやらせようと思っていたのだが、
「これなら、山頂まで行けるかもしれない…。」
と、行ける所まで登ってみることにした。
もちろん、細心の注意が必要だ。
無積雪期でも、油断をすれば転倒し怪我の危険がある。

空はどこまでも抜ける青空。
標高1900mは、風こそ冷たいが、私たちを優しく包み込む。

昨日の吹雪でできた樹氷がまだまだ山の寒さを物語る。

岩場の急登の前に、山登りのポイントを教えてから出発。
山頂までは30分程度だが、何カ所か残雪があり、また、一部岩に氷が残っている部分もあるので、注意の上に注意して登る。

「登りより、下りの方がさらに注意が必要なんだよな…。」
と、思いながらも、ゆっくりと山頂に向かう。

山頂では360度の視界。
風が弱めなので、遠くまで見えるほどではなかったが、それでも彼らが経験するには、十分すぎる景色だろう。

「この岩も溶岩ですか?」
「赤いのは鉄分ですよね。」
などと、理科の授業も欠かさない。

昨年は、機会を逸して、ついに山頂まで行くことができなかったが、ゴールデンウィークを迎えるより前に、あっさりと達成してしまった。

次は夏山かな…。

山頂駅で少し勉強させてから下山。

一時間もかからず学校に戻れるのはいい…。

リスクだらけのハイキングだが、無事に終えることができた。












2019年03月24日

厳寒耐久の山歩き

時々は練習を休んで、どこかに連れて行くのが、私が野球部の顧問をやってからの習慣になっている。
今回は、山に出掛け、のんびり過ごさせてあげようと思ったが、寒の戻りで山は真冬だった。

せっかくの雪道。
これなら良い経験がさせられる。

ちらついている雪で興奮している状態だから、雪山を歩いて登るのは、まるで子犬を連れているよう。きゃーきゃー言いながら走って登る。

天候は吹雪。
吹き付ける雪が肌に突き刺さる。
みんな頬を真っ赤にしている。

小一時間の山歩き。
希有な経験をさせられただろうか…。

雪合戦どころの騒ぎではない。
歩くだけで大変な状態だ。
暖かい冬で雪が溶け、氷になってしまった上に、昨晩からのパウダースノーが積もり、気を付けないと大転倒を起こす。
私も登りと下り、全く同じ場所で二度ほど転び、二度目はカメラのレンズのフィルターを割った。
こんな感じで、吹雪の中、雪山歩きを楽しんだ。

氷点下10℃くらいの中に、小一時間車を駐めておいたら、エンジンオイルランプが消えなくなった。
あんまり寄り道はできないな、と思いながら山を下り、県下第2位の吊り橋に行く。

風速は30メートル近く。「強風時はお気をつけ下さい」とあるので、気を付けて渡る。
これには、生徒たちもびびっていた。
体重の軽い中学生は、強風で飛ばされそうになるから、吊り橋は恐怖らしい…。
怖いものだから、走って渡っている生徒もいた。
こんな時でも、怖がって動かなくなる生徒はいない。
頑張って制覇しようとする姿はエライ。
数年前に改修されたので、強度的には問題ないが、飛ばされたらまずいだろう。
ある生徒が、
「先生、飛んで行ったらどうすればいいんですか?」
と、言うものだから、
「モモンガみたいに飛んで、着地したら?」
などと冗談を言う。
高さは数十メートルあるから、そうもいくまいが…。

何カ所か、貴重な経験をさせて戻る。

のんびり春の日差しを浴びて、下界を楽しもうという企画が、厳寒耐久の山歩きになってしまった。

彼らの人生に何かしらの刺激になれば幸いである。














2019年03月23日

自らの存在意義

昨日は、すべての仕事を失念し、学年団に大迷惑をかけた。
それを今朝になってから気づき、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「学年ロッカーの整理をお願いします。」
新年度から中1の担任になるN先生は、機嫌が悪いときは、私のPCの付箋を貼る。

すぐに私は、一人学年ロッカーの整理をする…。

不要と思われるものを徹底的に整理し、私が個人的に保管しておきたいものは持ちかえった。
別に過去の栄光を求めている訳ではないが、このまま朽ち果ててしまうのが惜しかったのだ。

午前中は校内研修があった。
新年度に向けて智慧の共有をする。
生徒指導に長けている先生、学年をめざましく成長させた先生が発表した。

「生徒の期待を裏切らないでください。」

「一番大切なことは、中学三年間の間に、動物的本能から徳に転換することです。」

いずれの発表ももっともなことであり、私の忘れていた部分。

長く教員生活をしていて、どこかに傲慢さがあったのだろう。
それが、今の心境を招いているのだ。

ただただ自らの非力さを詫びながら、彼らの発表を聞いた。

「五十代のベテランの方、是非、若手のために一肌脱いで下さい。お願いします。」

人材を育成できてこそ、よい組織であると言える。
幸いなことに、私の職場は、わがまま集団とは対極にある組織だ。
だから、なかなか若手には、敷居が高く、自らの存在位置を見つけることは難しいだろう。
今の私も、そんな気持ちがよぎっている。

人は自らの存在意義を認められなければ、生きてはいけない。

生徒たちも、クラスや学年、学校で、「存在意義」なるものを発見できなければ、学校生活を続け津事は難しい。だから、教員は、力を尽くして彼らの個性を認め、集団への帰属意識を高め、時に寄り添って励ます。

トップダウンの教育では難しい時代に突入している。

自らが変わっていかなければ、変化する組織においては落ちこぼれとなる。

きっと今の私がその状態なのだろう。

夜の校長の送別会は欠席した。

明日は、卒業生が来校するという。
教え子の中で一番元気な奴だ。
楽しみに待つとしよう…。














2019年03月22日

悪魔の攻撃

『失望』は、悪魔の最大の武器である。
以前、こんなことを本で読んだことがある。
『失望』さえあれば、悪魔は、人間に対して、ありとあらゆるマイナスの思いを矢継ぎ早に射ることができるのだという。
疑心暗鬼、怠惰、被害妄想、自己否定、自暴自棄…。
これらの思いを次々と植え付け、人を虜にする。

生きていると、失望することは、ままある。
それを、すぐにポジティブに切り替えることができれば、悪魔の攻撃は防げるだろうが、いつまでも『失望』を引きずっていると、自分ではどうにもならない境地まで堕ちてしまうことがあるものだ。

教育の世界でも、この『失望』は、各所に転がっている。
今現在も、この『失望』を足がかりに、気持ちが萎えてしまっている人もいるだろう。

「どうして、私が担任を外されなければいけないでしょうか。」
こういう言葉はよく聞く。
「何故、私が顧問を外れるのでしょうか。」
こちらも多い。
「どうしてこの子の担任に?」
「どうしてこの校務分掌?」

この年度末や年度当初は、時期はこうした思いが多く起こる時期でもある。

私はこの『失望』でやられた人を、これまで数多く見てきた。
どちらかというと、情熱的に取り組んでいた人が多いかも入れない。
それを、半ば強制的に中断され、いわゆる「やる気」を失っていくのである。

いつしか、惰性で仕事をするようになり、気がつけば道を大きく外れてしまう。
その職場に対する情熱を失ったならば、教育活動はもちろん、ありとあらゆる仕事はできまい。

私は、一つの解決方法として、「違う分野に関心を持つこと」、を挙げたい。
もしかしたら、今まで、視野が狭く、自分だけの価値観に固執していたのかも知れない。
特定の生徒や、職務にだけ思いを向けていたのかも知れない。
そうではなく、もっと広い視野で、職務を見てみようとするのである。

今の職務すら見たくないというのなら、「別の何か」でもいい。
ある時期、趣味の世界に没頭するでもよいだろうし、しばらく充電期間を持つのでもよいだろう。

どうしても、耐えられないのなら、職場や職業を変えるしかない。
ただ、この仕事も、以前は情熱を持ってやってきたわけで、そんな簡単に情熱を失ってはいけないし、もし、そういう思いに駆られるのならば、悪魔の格好の餌食になっていると思って、もう一踏ん張りしてみると良い。

どうか、『失望』という思いを、大きく持ちすぎないようにして欲しい。

教育界から情熱溢れる先生を失わせてはいけないのだ。














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