2018年11月02日

子どもは失敗を通して学ぶ

学校の食堂で昼食中の出来事。
私の学校では、給食は食堂で提供される。
入学当初は、学年で食べるが、その後は、時間内であれば、自由に誰とでも、どこに座って食べてももよい、ことになっている。

ある日の昼食事時、男子中学生が悪友同士で座っていたところ、高1の女子生徒が近づいてきた。
そのとき、一人の生徒が、
「あっ、デブが来た。」
と、口走ってしまった。女子生徒は、不規則な生活習慣により、肥満体質になっていたのである。
その場にいた男子生徒たちは、その言葉につられ、馬鹿にしたように笑ってしまった。
女子生徒は、「デブ」と言ったその声も聞いていたし、笑っている姿も見ていたのである。
そして、そのまま、トイレに駆け込み、泣き崩れる。

残酷な出来事だ。
普段から、言葉の調律ができていないその男子生徒は、反射的に言ってしまったのだろうが、その行為によってもたらされた結果は、とても重いものになった。

女子生徒は不登校の生徒だった。
朝からなかなか起きれず、やっと起こして、登校させ昼食を食べさせようとした矢先に、この事件が起こったものだから、その影響は計り知れない。

私は、口走った男子生徒が、一人しかその場にいなければ、おそらく口をついて出ることはなかっただろうと思う。周りに遊び友達がおり、気を抜いた中で、周囲の状況も考えられずに、自己承認欲求の中で、こうした行動をとってしまったのだと思う。
この生徒は、入学以来、何度となくこうした失敗を繰り返している。

「学年やクラス全体で食事をしていれば、こうしたことは起こらなかっただろうな。」
一瞬、私はそう思ったが、しかしすぐに、これでは対症療法にしか過ぎないことに気がついた。

『先生がそばにいる中では、悪さをしない』、という状況ばかりを作り出していても、生徒の精神的な成長は望めない。自発的に、善悪の判断をし、客観的に自分を見つめる力を培わなければならないからだ。

その場にいて、一緒に笑ってしまった生徒も、『いじめ』としては、加害者の一人。
彼らを一人ひとり因果を含めて反省させた。

また、相手の心をひどく傷つけたことには変わりないので、学年主任、担任など教員立ち会いのもとに、謝罪を行う場を設けた。

これで彼女の心が癒やされるとは思わないが、一つの区切りとしては、保護者への報告ができるだろう。

子どもは失敗を通して学ぶ。
その失敗が、その後の人生に活かされるように、教員は、ほんの少しの手助けをする。

たとえ、保護者からの抗議により、学校が窮地に立たされたとしても、一番は『生徒』のことを考えなければならない。

これが、教員がサービス業と言われるゆえんだろうか…。












失敗は失敗ではない

最近読んだ書籍に、
『できない言い訳をパーッと並べる能力や、自分がそれをしなかった理由を並べる能力、上司がこういう風にしようと提言していることがいかに理不尽で成功しないかだけをサーッと並べる能力が、今の日本の生産性の停滞を生んでいる。』
とあった。

頭のいい中央官僚は、こんな感じで、『できない理由』を並べるのだろう。

著者は、
『だから、反対が多い案件は、必ず実行するようにしている。』
と、述べていた。

誰もが反対するようなことは、逆に『できる方法』を見つければ、他に誰もやっていない中で、唯一成功させることができて、他への優位性を築けると言う。

ビジネスの世界では、このようにして新たなアイデアにより成功している人が多いのだろう。

旧態依然を旨とする学校教育の現場では、なかなか新しいことにチャレンジすることが難しい。
前例主義がはびこり、また管理職の「失敗を恐れる」考え方で、ボトムアップ提案での新企画は、ほぼ不可能だろうと思う。

時代の流れの中で、『変えていいもの』と『変えてはいけないもの』があるが、学校では、「すべてが変えてはいけないもの」として扱われるようにも見える。

長らく日本の教育は、ある程度の成功を収めてきた。
だからこそ、『変わる』ことへの恐怖があるのかも知れない。

今の時代、『進化し続けない組織は崩壊する』、という。

チャレンジは進化のためのきっかけだが、何もしなければ進化はできない。

変わった方がいいと思うことは、どんどん議論すればよいだろう。
好き、嫌いではなく、善、悪の観点を鑑み、「どちらの方法が、よりよい結果をもたらすか」を、実験しても良い。

その意味での実験校や、イノベーションし続けている一部の私立学校の存在は面白い。

そこに組み込まれた教員は、激しく自己変革を求められるだろうが、あえてそれを希望する者を募ってもいいだろう。

ただ一つ気をつけなければいけないことがある。

それは、いずれの方法でも、生徒を教育すると言う面での『失敗』をしてはいけないことだ。
たとえ思うような効果を上げられなかったとしても、それを『失敗』と捉えてはいけないと思う。
それは、『失敗』ではなく、『成功』のための一つの経験として、さらに工夫と修正を加え、進化させなければならないのだ。

エジソンは、
『失敗とは、あきらめたときにどれくらい成功に近づいていたかを認識しなかった人々のことである。』と言っている。
(Many of life's failures are people who did not realize how close they were to success when they gave up.)

生徒は実験のモルモットではない。

頭の良い官僚たちは、机上の空論で物ごとを考える。
だから、文科省主導の教育改革はことごとくうまくいかないのだ。

源喜の一粒

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TANP

2018年11月01日

地獄的ないじめの構図

「ここにE君がいます。」
そう言いながら、私は黒板に一つの丸を書いた。
「そして、これがK君です。」
と、そばにもう一つの丸を書いた。

K君がE君をいじめている。
いじめられたE君は、負けじと一生懸命応戦する。一人相手なら、なんとかなることもある。
そこへ、新たにO君がやってきた。何か面白いことをしているように見えたのだ。
O君は、K君がいじめている姿を見て、E君が応戦しているのを見て笑っている。
ここで、O君、K君は一つのグループになる。笑ってみているだけでも、それは同罪。
ここで2対1のいじめの構図が完成する。

そこに今度は、F君がやってきた。「何、やっているのの…」と、グループに加わる。
F君は、この状況を見てはやし立てた。さらに騒ぎを大きくしたのだ。
ここに3対1のいじめの構図になった。

さらに二人がやってきて、仲間に加わる。その二人は、その様子を見て、ただ笑って見ている。ニヤニヤしているのだ。これも、いじめの仲間。
これで、とうとう5対1のいじめに発展した。

こうなると、E君はもう、太刀打ちできない。言われるがまま、なされるがままになる。
たとえ、肉体的な暴力ではなくとも、言葉の暴力は、E君を傷つける。
言葉は生き物だから、いうろいろな形に姿を変える。
暖かな愛の形にもなれば、鋭利なナイフや、矢、銃弾のようにもなる。

ここにあとから集まったグループのメンバーは、必ずこう言う。
「僕は何もしていません。ただ見てただけです。」
「ただ笑っていただけです。」
「止めようと思ったんですけど…。」
「僕だけじゃありません。」

そして、最初からいたK君のような立場の人は、必ずこう言う。

「深い意味はありません。」
「何となくやったんです。」
「つい、口をついちゃって。」
「別に傷つけるつもりはなかったんです。」
「反射的にやっちゃいました。」
「ふざけただけです。」
「だって、あいつが…だから。」

一方で、これを天国的な逆の構図にしたらどうだろう。

悩んでいるE君がいて、そこにK君がやってくる。
「どうしたの?」
と、優しく声をかけて、
「僕にできることがあったら、なんでもするよ。」
と言う。
次にやってきたO君も、
「一緒に解決していこうぜ。」
と、心に寄り添う。

つぎにやってくる二人も、優しく接する。
これが、集団で、一人を救済しようという構図になる。
これが天国的なスパイラル。

集団で一人を責めれば地獄。
皆で助け合おうと、手をさしのべれば天国。

地獄的な構図にならないためには、一人ひとりが、自立すること。
安易に流されないこと。
本能のままに生きないこと。
周りのことを考えて行動すること。
次に起こりうることを予想して、発言すること。

こんな注意が必要となる。

これが、今朝、私が朝の会で私が話したこと。

その間、ずっと校長が私の話を聞き続けていたことも銘記しておく。

TANP

Slim Slender(スリムスレンダー)

あったか【定率】

什の掟

会津藩校『日新館』に入学する前の遊び仲間(6歳〜9歳)が、毎日唱和し合う戒律に、『什(じゅう)の掟』というものがある。

『日新館』の講話の中で、この『什の掟』の紹介は、生徒たちのインパクトが強い。

今で言う、小学校低中学年が、このような決まりを守りながら生活していたことに驚くのだ。
もちろん、それ以上の年齢には、それに応じた心得があるし、学びの内容も、極めて高度でかつ実学に沿っている。

遠足で見学した施設の中で、時程の遅れにより、最も滞在時間が短かったにもかかわらず、生徒たちが一番印象に残っているのが、『日新館』であった。

昨日、まとめとして、「遠足で見つけたクールジャパン」というテーマで、班ごとにポスターを作らせたが、そのほとんどが『日新館』を特集したポスターだった。

 一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
 一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
 一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
 一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
 一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
 一、戸外で物を食べてはなりませぬ
 一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
 ならぬことはならぬものです


このうち、『戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ』は、さすがに現代の世の中では当てはまらないものだが、その前の、『戸外で物を食べてはなりませぬ』は、少しその文化が残っている。

世の中がアメリカナイズされて、歩き食いが違和感なくなってきた昨今だが、多くの学校では、食べながら廊下を歩いていたら、さすがに注意を受けるだろう。

しかし、最初から5つめまでは、現代でも通用する道徳訓であろうと思う。

会津武士は、幼少期から、『什の掟』によって、武士道につながる潔さを体得していたのだろう。

最終行の『ならぬことはならぬものです』は、「固く守るべきものである」という意味だそうで、「駄目なものは駄目」という意味ではないそうだが、どちらも「きちんと守れ」という意味は含まれる。

『日新館』は、『国の発展の基礎は人材の育成、すなわち教育にあり』という考え方により、設置された藩校である。各藩で競って藩校が設置されいくが、会津藩も優秀な人材が育っている。

現在の学校も、この考えに変わらない。

教育が荒廃すれば、社会が乱れ、国は衰退していく。
また、間違った思想を教育すれば、国の進む方向は間違ったものになる。

『自分たちにはとても真似できない厳しい生活の中で、学び、身体を鍛え(文武両道)ながら生活していたんだ。』、ということがよく分かった。

そんな感想が目立った。

「遠足という名の社会科見学」とも揶揄されたが、彼らなりに学びが得られたらしい。













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