2018年11月30日

誕生日なのに…

何回目かは数えたくないが、昨日は私の誕生日だった。
どちらかと言うと引きこもり傾向で、友達の少ない私が、誕生日を祝ってもらうことは少ないのだが、学校にいると、生徒がお祝いしてくれる。

授業に行くと、担当クラスの生徒が誕生日の歌を歌ってくれた。
歌われている最中、「私はどうしたらよいのか」、困惑するのだが、かわいい生徒たちの気持ちは受けよう。本当は、誕生日を迎えるたびに、「恐怖」ではあるのだけれども、若い彼らには、その気持ちは分かるまい。

最近はツイッターやらフェイスブックで卒業生とつながっているので、こちらでも「誕生日おめでとうございます」メッセージが届く。
手のかかった卒業生からのメッセージは、やはり嬉しいものだ。

朝一番に、実家の母親からの電話があった。
相変わらず、
「お前、大変なのよ…。」
で始まる電話なのだが、途中、
「お前、何歳になったんだっけ?」
などと、間接的に私の誕生日を祝福してくれる。
なんとも母らしい方法だ。彼女は私に、
「誕生日おめでとう。」
などとは言えないのだ。

今日は、合唱コンクールのリハーサルがあり、私のクラスが最低な状態だったので、帰りの会でも機嫌悪そうにしてみた。
「たぶん、全校で一番したでしょ。今のままなら、本番を見たくありません。」
彼らなりに、「もっと頑張らねば…」と思いはじめ、少なからずのショックを受けていたときに、私は追い打ちをかけるように言う。しかし、
「はい、終わり!」
と、言った瞬間に、私に対する誕生日の歌が始まった。
これには参った。何とも複雑な心境に陥った。
そして、私の誕生日祝いのクラス全員のメッセージが書かれている色紙をプレゼントしてくれた。

今朝になって、クラスの生徒たちに、昨日のお礼を言う。
「もう少し頑張ろう、という気持ちになりました。本当にありがとう。」
と、フォローにもならなうフォローをする。

ある生徒には、
「丹澤先生は、デリカシーがないですね。」
とも、言われた。

その通りだ。

なんとも苦々しい、誕生日を過ごすも、例年のようなパワーは沸いてこない。
気の利いた何人かの生徒が、わざわざ誕生日プレゼントを持ってきてくれた。

「生徒との歳の差が大きくなりすぎたのかな…。」
そんな思いが、ふと沸いてくる。

相変わらず、生徒たちは私に笑顔を振りまく。
不機嫌な顔をして、彼らから愛を奪っているのは、私自身だった。








2018年11月29日

「業績評価シート」に思う

私の学校にでは、年に2回、『業績評価シート』なるものを作る。
半年分の目標を記し、その検証をしつつ、業績に対して、自分なりの評価をして管理職に提出するのである。昨今は、どの学校でも似たようなことはしているだろう。

昨日、このシートの提出期限だったので、あわてて記入した。
半年前に自分が立てた目標に対する、自己評価である。

中には、
「こんな目標、立てたっけ?」
という情けない項目もあったりして、
「以前は、結構真面目に作ってあったんだなぁ。」
と、一安心。

ところが、その評価となると、これは淋しい。
どの項目も達成できていないし、果たして目標に近づいているのだろうか、怪しいものばかり。

このシートをもとに、明日、校長の人事面談が行われ、
「あなたが頑張ったことは何ですか?」
「これからの課題は何ですか?」
などと、仰々しく尋ねられるのだ。

「頑張ったことは何もないな…。」
ただただ、枝から墜ちないように、頑張ってぶら下がっているだけ。
そろそろ手のしびれも限界に近づいてきた。

「課題は、やる気を出すことかな…。」
気力と体力が著しく落ちている昨今。その中で、『やる気』を出すことも困難な話。
だったら。気力と体力をとり戻すしかないではないか。

教育現場(職場)でもある程度の競争は必要だ。
競争が全くない組織は、停滞もしくは堕落していくからだ。
ただ、
「何を競争するのか。何が実績なのか。」
については、十分検証しなくてはならないだろう。

「生徒の学力を上げる」ことや、「保護者の満足度を上げる」、「入学希望者を増やす」、「学校の評判を上げる」、などが考えられる。
しかし、これらは結果であって、もっと教育の本質の部分があるような気がしてならない。

また、あまりにもこれらに固執すると、生徒も先生もギクシャクとした関係になり、お互いが不幸になるようにも思える。

できないことを、人や環境のせいにすることは醜い。
だからと言って、すべて自分の責任と、自らを責め続けることも間違っている。
その中道の部分で、行ったり来たりしながら、
「なぜできないのか。」
ばかりを考えたり、指摘するのではなく、
「どうしたらできるのか。」
を考えることが大切だと言う。

でも、「どうしたらできるのか」、を考えるには、気力にあふれた前向きな精神状態が必要だ。

今の私には、まだちょっと難しいかな…。








2018年11月28日

遅刻をしない 〜若手の先生方へのアドバイスD〜

ここでいう「遅刻をしない」、というのは、生徒指導の話ではない。
教員自身の話である。
別に若手の先生に限ったことではないが、遅刻の常習者は社会的信用を失っていく。

私も以前勤めた学校で、遅刻常習の先生が、翌年クビになる、という出来事があった。
彼は週三回くらいの割合で、職員打ち合わせに遅刻した。
数分くらいのものだが、年間としてカウントしたら膨大な遅刻日数になる。
その姿を見て、教頭らは「許せない」、と思ったのだろう。

私が最初に専任教諭として勤めた学校は、系列の大学があったが、年5回の遅刻で、大学への推薦が消えた。
「結構遅刻にシビアなんだなぁ…。」
と、新人ながらに厳しく思ったことを思い出す。
その学校は、いわゆる皆勤する生徒も多く、大学の先生による入試の面接で、
「皆勤賞の競争をしているのか?」
などと、揶揄されていた。
「そのときは、大学の先生と高校の先生では価値観が違うんだな。」
と、思うことにした。
だが、今でもどちらが正しいかは分からない。

『教師が時間に対していいい加減で、生徒に説得力ある指導ができるのか。』
というのが、私の考えである。

社会では、多くの組織が出勤時間や退勤時間が決まっている。
学校現場は、ひたすら残業が続いて、いつまでも仕事が終わらない傾向にある。
だからといって、自分の判断で、出勤時間を遅らせてよいわけではない。
現に、生徒は登校し、スケジュール通りに動いているのだ。

今の私の学校でも、時々寝坊して遅れてくる先生もいるが、ちょっと情けないと思う。
私は、出勤する日の朝は、目覚ましなどなくても起きることができる。
さすがに夜中の2時、3時まで起きていたら、目覚ましをかけるが、それでも緊張して目が覚める。
だから、遅刻をしてくる同僚に、
「仕事に対する緊張感が足りないんじゃないか。」
そう、思っていたが、どうやら本当に起きられない人は、世の中には一定数、いるらしい。

さすがに、「他の人よりもいち早く出勤して、お湯を沸かして、お茶の準備をして…」、という時代ではないが、新人が遅れてくると、やはり風当たりは強いはずだ。

自動車通勤なら、渋滞のリスクもある。
電車なら、『遅延証明書』でとりあえず遅刻は免れる野かも知れないが、たとえ、いつも通りに出勤できなくても、遅刻しないくらいの、意気込みは大事ではないだろうか。

私の場合、以前は出勤時間の一時間以上前に学校に着いていた。
朝は、静かに集中して仕事ができるので、遅くまで残って仕事をするよりも効率がよいのだ。
それに、通勤途中に多少のことあっても、遅刻にならないことも多い。

職員打ち合わせ中に、そろそろとドアを開けて、申し訳なさそうに職員室に入室してくる様は、あまり美しくない。だったら、「一時間遅れて行こう」と、遅刻を申請する方も、公立校には多いと聞く。

「自分の不注意で、生徒や他の先生に迷惑をかけまい。」
という強い使命感があれ、遅刻常習になることはあり得ないだろう。

若手の先生方に、是非伝えておきたいことがある。
それは、
「勤務時刻の遅刻はもちろんだが、授業の遅刻も駄目ですよ。」
ということだ。

「どうか始業のチャイムで授業を始め、終業のチャイムで授業を終えて下さい。」
そして、
「その他、ありとあらゆる機会で、『時間を守る』ことに力を注いで下さい。」

そうした日常からの努力が、生徒と関わるときに必ず効いてくるものだ。
信頼感は、日常の凡事徹底から生まれる。








2018年11月27日

生徒からの授業コメント

生徒が先生を評価するシステムは、昨今は多くの学校で導入されている。
私の学校では、年3回実施。独自のシステムで業者に外注することなく、校内でマークシート用紙を印刷して、スキャナで読み取り、教頭が集計している。これで、授業の評価がなされる。
また、自由に先生に対する意見を書ける用紙もあり、名前部分がカットされて公開されている。

今朝から公開が始まったが、
「嫌なことは早く済ませよう。」
と、若手の女性の先生が、自由回答の用紙を一枚一枚読んでいた。
授業する上での参考にはなるが、結構多くの先生が、生徒の意見に傷ついている。

担任として、
「まずは、感謝の言葉を書くんだよ。ただ文句だけ書くと、生鮮たちも傷つくよ。これで、辞めてしまった先生だっているんだから…。」
と、注意はしているので、それほど辛辣な意見は書かれない。
ただ、生徒はよく見ているもので、的確に諸先生の改善すべき点を指摘してくれる。

私個人としては、生徒の評価などどうでもよく思うなってしまった。
確かに参考になる意見はあるが、信念と自信を持って授業をしているし、気づかぬ指摘も少ない。

だが、この結果を教員人生の大問題としてとらえ、悩み苦しんでいる先生もいる。

「これ…、評価が下がったのはどういうこと?」
などという嫌らしい校長の質問にも耐えつつ、日々頑張っている先生は多い。
だから、この結果に一喜一憂することなく、前向きに仕事をして欲しいと思う。

学年主任として、「学年を担当している先生への生徒の意見は、やはり知っておくべきだろう」、と生徒の記入した用紙を読んでみた。

結構、常識的に書いている。

授業が下手な新人の先生に対しても、アドバイス的な書き方をしている。
生徒たちも、あからさまに先生を傷つけまいと思いながら書いていることが分かった。

私の場合は、休み時間に窓を開けて換気をしていないと、どんなに寒くても、授業中に窓を全開にしてしまうので、
「窓は10分以内に閉めて下さい。」
などと書かれることが多い。
勉強は少し寒いくらいの方が、効率よくできるだろうし、よどんだ空気の中で授業すると、眠気をそそる、ということもあり、よほど雨が吹きつけない限りは、必ず窓を開ける。

あとは、
「雑談を減らして、数学を進めてください。」
「進む速度が速いです。」
という意見も、少しある。
一方で、「授業が面白いです」、という意見も多い。

そんな中で、今回はビックリするコメントがあった。
中3のある生徒、名前は切り取られているので分からないが、こんな風に書いてあった。
「先生の老後は、僕たちが全力でサポートします。」
というものだ。

こうしたコメントは、ここ十年来で初めてだ。
「私を思ってくれるということで喜ぶべき」か、「年寄りだと思っていることに悲しむべき」か、よく分からないが、何となくほっこりした。

面白い。








2018年11月26日

クラスの歌を聴いて

「先生、今日やりますよ。」
合唱コンクールの運営メンバーであるパートリーダーが、終わりの会の前に私に言う。要は、「今日の終わりの会では、合唱練習しますよ」という意味だ。

合唱コンクールは12月中旬にあるのだが、特に男子のやる気がないので、私はどちらかと言えば、ほったらかし状態。「今週末にあるリハーサルで、大いに恥をかけ」、と強硬手段一歩手前。

そんな折、初めて自由曲を混声状態で聴いた。
一番だけを何度も何度も歌っていたが、「なかなかいいではないか…」。

私の予想に反して、結構な仕上がりだ。
油断をすると、涙が出てきそうな感じ…。

「音楽の先生、やる気のない奴らの指導をありがとう!」
と、思わず叫びたくなるようだった。

歌い終わったあと、
「もうちょっと強弱をつけられるんじゃないのか。」
と、アドバイス。
「私の思っていたより2倍上手かった。だから、次の段階に行けるんだよ。」
と話し、終わりの会を終えた。

お隣のクラスは、積極的に音楽室でピアノの伴奏を合わせて練習しているし、優勝候補の中3たちも、気合いが入っている。中1だって、毎日歌声が聞こえてくる。
そんな中で、指導力不足の私のクラス、「もうどうにでもなれ!」、と今年は半ばあきらめかけていたのだが、今日、彼らの歌を聴いて、「ちゃんと生徒を信じなくっちゃいけないよ」、と教育の神様に諭されたような気がした。

「男子のパートリーダー、結構リーダーシップを発揮してくれたんだな。」
と、嬉しくなった。

最近、自分のクラスの生徒も学年も、『かわいくない』という思いが、しばしば出てきていた。
「自分の指導が全然駄目なんじゃないかな。」
と、落ち込み気味だっただけに、今日の歌は希望の光だ。

「何だ、成長してるじゃないか…。」
かすかな希望が見えた。

パートリーダーの一人に、
「明日から試験前だけど、毎日歌えよ。」
と、言ったら、
「もちろん歌いますよ。」
と返ってきた。

俄然、応援したくなった。








生徒を信じ切る

全校集会が行われた。

私の学校では中高一緒に集会が行われる。
月に一回、生徒会が中心になっていろいろな企画が組まれるのだが、今日は、後期の委員会の理念発表が行われた。
各委員会の委員長は高校生、さすがにどの理念も立派であった。先日の委員会で、決められたものである。

中には、
「妖精と話そう。」
などというユニークなものもあり、集会を沸かせた。
これは別にふざけた理念ではない。
翻訳すれば、
「花には妖精がいるので、その息吹を感じられるような、優しい心になろう。」
ということだ。
花にはいろいろな個性がある。あの小さな種から、信じられないようなエネルギーで成長し、美しい花を咲かせる。その花は、見る人の心を穏やかにする。美しい花を見て、怒り出す人はいないだろう。つまり、花はその姿そのもので、人に『愛』を与えているのだ。その存在を『妖精』と言ってもいい。
だから、花を育てる委員会の委員長のM君が、「その『愛』を感じられる心になろう」、と述べたのだ。

発表を聞いて、普段はなかなか規律に厳しいM君だが、表面的な厳しさと対照的な、心の優しさを持っているということが分かった、
確かに私が中学で担任をしていたときは、優しい生徒だった。

『理念』ということでもあるが、どの委員会も、活動指針のための心の状態まで言及しているのが、私の学校の特徴でもある。

もう一点感心したのが、中学の生徒会長が全校生徒に訴えたあと、
「高校生の皆さん、中学生の僕の話を聞いて下さってありがとうございます。」
と、締めたことだ。

壇上に立つと、ついつい強気になって、分不相応な話をしがちなのだが、彼は最後に感謝の言葉を言って話を終えた。
生徒会長になって半年、ずいぶん成長したのものだ。

現在の中学の生徒会長と副会長は、選挙当選時には、
「あいつらが生徒会になったら、学校がおわっちまうんじゃないか…。」
などと、揶揄されたのだが、二人とも生まれ変わったように変わりよくやっている。

教育はこれだから面白い。

今日の私の中学三年の授業のとき、生徒会長を讃えた。
合わせて、副会長に尋ねていた。
「君たちの学年の中1からの担任の先生、誰だっけ?」

聞いて改めて分かったことは、過去二年間で、この中3学年は、「二人の先生を退職に追い込んだ」ということだ。
もしかしたら、この成長は、辞めて行かれた先生方の「おかげ」かも知れない。

「あのときは、ものすごい破壊力だったね…。」
と、今や思い出話になるくらい、彼らは成長している。

生徒の成長を信じ切ることが、何よりも大切なのだと、改めて感じた。









2018年11月25日

天国言葉

私はどちらかというと、生徒を悪く言う癖がある。
「○○は、自己中だから全然動かないんですよ。駄目だあいつ…。」
と言った具合である。
職員室で仕事をしているときに、時々言ってしまう。

私自身は、本当は彼らを心底悪く思っている訳ではない。
この言葉の裏には、
「○○よ、良くなってくれ。変わってくれ。一歩でも前進してくれ。」
という祈りにも似た気持ちを持っている。
と、共に、こう口に出す時には、すでに対策までも考えている。

だが、私の言葉を単に言葉通りに聞いた他の先生は、
「丹澤先生は、いつも生徒の悪口を言っている…。」
と、思っているのだ。
「だったら私だって…」、とばかり、若手の先生などが、同じように悪口を言うことになれば、やはり問題だ。

私の悪口の裏返しの中にある『愛』を感じられる先生は少ないようだ。
だから、校長ですら、
「丹澤先生は、言葉が悪いですね…。」
などと言ってくる。

本当は、生徒(子供)が大好きで大好きでしょうがないくらいなのに、改めて校長の立場でそう言われると、やはりへこむ。
「ああ、私の思いは理解されないのだな…。」
と、がっかりする。

先日、ある人が、『天国言葉』とは、「愛しています」・「嬉しい」・「楽しい」・「感謝しています」・「幸せ」・「ありがとう」・「許します」であると語っていた。
一方、それを言っていると不幸になる『地獄言葉』は、「ついてない」「不平不満」「愚痴」「泣き言」「文句」「心配ごと」「許せない」などであるそうだ。

この定義で言うと、私の言葉は『地獄言葉』ということになる。

前述の私の「悪口」を天国言葉で置き換えると、こんな感じだろうか。

『○○は、よく自分を守ろうとするんだけど、年頃だし、育ってきた環境からすれば当然だよな。○○と関わることができて、私も勉強になるよ。本当に嬉しい。感謝感謝だ。ありがたい。○○を、どう成長させていくか、わくわくするね。まさに教師冥利に尽きるね。楽しい楽しい。いろいろな事、言ったりやったりするけど、それも成長途上だから、許せちゃうんだよね。いやぁ、○○が愛おしく思えるよ。』

私自身、ぶっきらぼうに話す言葉の中に『愛』を感じられるような、そんな美学を求めていたのかも知れない。
だが、言葉自体は力があり、一人歩きする。
特に『地獄言葉』は、その伝播力も破壊力も大きい。

「ストレスがたまりやすい教員の世界。たまにも愚痴が出てもいいじゃないか。」
どちらかと言えば、これを私は支持しているが、努力して『天国言葉』に置き換えて、前向きに生きることができれば、ストレスは少なくなっていくに違いない。

以前同僚に、
「丹澤先生は、よく『ありがとう』って言いますよね。」
と言われたことがある。
自分では全く気づいていなかったので、意表を突かれた感じで、ぽかんとしたことを覚えている。

無意識に『天国言葉』が出るようになれば、私も学校も、少しは向上するのだろう。

この際、言葉の奥を推し量ろうとさせる危険なゲームは、できるだけやめることにしようか…。






2018年11月24日

教頭の雷

生徒からの要望の中に、
「先生の講話のとき、騒いでいる生徒がいるので、静かにさせて欲しい。」
というものがあって、X先生により職員会議で紹介された。
これが、喧喧諤諤たる状況になった。

「近くに座っているのは、担任と副担任なのだから、まずはその人が注意すべきだ。」
と、A先生が発言すると、
「全員でやって欲しいのです。」
と、X先生。
すると、
「以前の学校でもあったのですが、『全員でやりましょう』というときは、結局何も進まないことになってしまうのではないでしょうか。」
と、A先生が食い下がる。
「全員でやるということは、全員でやることです。『誰かに任せよう』という気持ちが、動きを鈍くし、指導しないということになるのです。」
と、X先生。
次第に、
「生徒自信に考えさせて、の自主性に任せるべきだ。」
だの、
「まずは『しつけ』が大切。」
などと、いろいろな先生が発言し、次々と話がそれていく。
「責任者を立てるべきだ。」
と言えば、
「一人ひとりの指導の仕方が違っていい。」
だの、どんどん話がぼやけていく。
挙げ句の果てには、
「先生たちが全員で巡視するのか。」
などという声まで出る始末。

そこへ教頭が、
「目の前の生徒を救おうとするのが、教師の役割でしょう。お互いになすりつけ合ってどうするんですか。私は悲しいですよ。何ですかこの議論は。」
と、激しく叫んだ。

その後、校長が、
「第一義的には担任の仕事ですから、まずは担任が注意してください。」
などと、結局通り一遍の指示を出して、その場を納めた。

何という不毛な議論なのだろうか。
結局、見て見ぬふりする教員が多いからこういうことになっているのだ。
「誰かが注意するだろう」という姿勢があると、結局、誰も注意しないことになる。
生徒に迎合するわけはなかろうが、心の奥底では生徒から「嫌われたくない」のだ。

そういう保身の思いがよぎっているうちには、生徒を教育することなどできない。
たとえ結果が失敗したとしても、すべての責任をとるつもりで、全身全霊で、生徒に向かわなければ、その言葉に重みもないし、説得力もない。
生徒からも、口先だけの指導にしか見えないはずだ。

そういう意味では、教頭の『目の前の生徒を救う』ことは正しい。
それぞ全力でやってこそ、プロの教師だと言える。
「組織がどうの…」、などと言っている場合ではないことだって、たくさんある。

人は慣れると、墜ちていきやすい。
教師の、「常に学び、研究し続け、向上を求める姿勢」が、生徒に良い感化を与えていくのだ。

私自身も、「誰に評価されるでもない、自分の良心と信念に基づいて動いていこう」と、思っている。









2018年11月23日

初勝利

小雪のちらつく中で、今年最後の練習試合。
今朝から山に雪がついた。

今回は、超ポジティブ言葉で選手を励まし続けるY先生の学校(『魔法の言葉』)との練習試合。
合同チームの監督に、「練習試合を組みましょう」とお願いしておいたものが、ようやく実現した。

相変わらずY先生の『言葉かけ』には、頭が下がる。

試合の中で、こんなプレーがあった。
打球が内野フライとなって、セカンドに飛んでいく。
セカンドの選手が捕球しようとしたが、お手玉。
ボールが地面につく前に、そのボールを再度キャッチしようとしたら、再びお手玉。
さらにもう一度チャレンジするも、残念ながら落球してしまった。
こういうプレーは、チームの士気を下げ、普通なら「何してるんだよ!」となる。
そこで欠かさず、Y先生。生徒同士の批難の声が出る前に、
「こんなプレーが出たら、『わー、何だよ』ってなるよね。でも、こんな時こそ、皆で励まそうよ。そういうチームを作ろうよ。」
と、絶妙なタイミングで指示。この一言で、マイナスの思いは切れた。
まさに『魔法の言葉』の登場だ。

こんな声かけが、試合中ずっと続くのだ。
私にとっても、本当に勉強になる。
「○○君、もうちょっと前を守るんだよ。」
試合中の君付けには、若干違和感がないわけではないが、
タイム後のチームに、
「自分たちで決めたんだから、自分たちでやってごらん。」
と、励ます姿は、生徒たちからは、「自分たちは先生から信頼されている」と感じるに違いない。

今の合同チームの監督も、Y先生に負けないくらいのポジティブな声かけができる若い先生なので、2試合、合計三時間半あまりの間、一言も怒声はなかった。

最近の保護者はそうした試合を求めているようなので、どちらのチームの親たちも満足感があるのだろう。

Y先生たちと、どうしてもマイナスを見てしまう私とは、人間が違うのだろうと思う。

雪が降っている山からの北風が吹き抜ける中、お互いまずまずの試合ができた。
この試合で、我が合同チームは、チーム結成以来の初勝利。
「勝利は、あるとき簡単にやってくるんだよ。」
と、勝利の女神がささやく…。

寒くなって野球どころではないので、合同チームとしての試合も、これでしばらくお預け。

少し遅れてやってきた冬将軍に、体の芯までも冷やされながらも、どこか心にほっこりする一日となった。








2018年11月22日

教室の机を揃える 〜若手の先生方へのアドバイスC〜

教室の机が乱れていると、クラスの雰囲気が悪くなる。
雑然とした中では、良い授業など絶対にできないだろう。
教室の机は、縦横がそろってこそ、整然とした状態になる。
だから、教師は机の整頓を強く意識しなければならないと思う。

ベテランの先生なら、授業開始時に机が乱れていたら、必ず
「机をそろえなさい。」
と言う。しかし、机の整頓に無頓着な先生は、机が乱れたままで授業をしようとする。
しかし、これでは授業を始める状態になっていないということを知るべきだ。
授業がうまくいっていない先生の授業は、たいてい机が乱れたままになっている。

小学校や、中学でも学校によっては、床に机の位置のマークが付けてある。
このマークがあれば、素早く机の整頓ができるだろう。

しかし、私のクラスでは、あえてマークはつけていない。
「マークがなくても、縦横きっちりそろえる」、ことを指導しているからだ。

確かに掃除の時などには、マークがないために、多少の時間がかかる。しかし、生徒たちはどうしたらきれいに整頓できるか、あれこれと工夫をする。そして、しばらくすると、マークなどなくても、きちんと机が並べられるようになる。

授業の初めに机が乱れている場合でも、前列さえそろえられれば、全員が左右を見ながら、さっとそろえられるようになるのだ。
何も考えずにマークに合わせるよりも、『互いを意識』しながら机を整頓そろえられた方が、「全員で協力してきれいに並べよう」、という意識になる。

「席を立ち上がる時に、椅子を入れる」、という習慣も定着させたい。
それが、「まずは自分のことよりも、公共のことを考える」、訓練になるだろう。

凡事徹底の部分だが、まずは『意識する』ことが大切だ。
「何も考えない行動ではなく、意識しなければならない行動へマインドを変えていくことが、公共心を育てることにもつながっていく。

いつもきれいな状態であれば、乱れたときにはよく目につくようになる。
生徒の目が肥えるようになるためにも、常に美しい状態を維持しておくべきだ。

先生の指示がなくても、生徒たちが自然に、当たり前の行為として、机の乱れを直してゆければ、最高だ。

かつて学校が荒れていたとき、
『服装の乱れは心の乱れ』と言われたことがあるが、『机の乱れは、教室の乱れ』に直結する。
黒板を徹底的にきれいに、カーテンをまとめ、掲示物をきちんと管理。まだまだいろいろあるが、教室に入った瞬間、
「整ってるな…。」
と、思えなければ、何か足りない部分があるということを認識しておきたい。

もちろん、私自身もまだまだ完璧ではないのだけれど…。








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