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2018年09月22日

校長の校内巡回

「あの校長、しょっちゅう授業を見に来るんだよ。」

どうもその先生は、校長が予告無しに授業を見に来ることが嫌らしい…。

校長なのだから、学校内でどんな授業が行われているのかを見て回るのは、当然の権利であろうし、別に嫌がられるものでもない。校長自身だって、授業の様子を見たいだろう。

しかし校内巡回による授業見学は、校長の醸し出す雰囲気で、受ける感じは180°変わる。

「生徒たちはどんな風に授業を受けているのだろうか。元気でやっているかな。」
などと、慈愛の思いで、授業を見て回るのであれば、それは大変結構なことで、見られている子供たちも、何となく安心感を得られるだろう。

しかし、「授業を管理する。先生を管理する」という意識で、監視する意味で授業を見て回っているのなら、それは大きな弊害をもたらす。授業担当者も生徒たちも、その思いは、感じ取ってしまうのだ。これは、学校現場としてはマイナスでしかない。

校長が廊下を歩いていれば、その雰囲気は自ずと伝わってくる。
「私は校長だ。管理する立場の人間だ。」というムードが出ていれば、授業をしている先生も生徒も、何となく嫌な感じがするものだ。

「雰囲気で判断されたくない。」
思われるかも知れないが、人間は、敏感に他の人の気持ちを察知することができる。
授業中だって、先生と生徒の関係がうまくいってこそ、よい授業になっていく。

以前勤めた学校では、授業中になると、校長が廊下を掃除していた。
はじめは、そんなに廊下が汚いのだろうか、思ったが、実はそうではなかった。
その校長は、廊下を掃除しながら、さりげなく授業の様子を聞いていたのだ。
予告なしに、いきなり教室に入っては、授業を中断させてしまう可能性もあるし、生徒たちの集中も切れてしまう。だから、授業の妨げにならないように、あくまで自然に見せつつ、授業の様子をうかがっていたのだ。ベテランになれば、教室で見ていなくても、廊下で聞こえてくる声だけで、何が起こっているかなど、手に取るように分かる。

「やっぱり、校長の人間性かな…」
そういう雰囲気で授業見学するかは、結局はその人の持っている人間性にかかっているだろう。

さすがに校長も、陰で自分の人間性について話題にされているとは思わないだろうが、ある意味、公人の立場でもある校長は、その一挙手一投足に気を配るべきだし、常に見られている立場にあることは、避けられまい。

「廊下に校長がいるだけで、授業中言葉に詰まってしまうよ。」
ある若手の先生が、そう苦言を呈した。それはそれで、さらに研鑽を積んでもらうことにしよう。

いずれにせよ、校長に信頼されているという自覚が、教員にとっていい仕事をする上でのモチベーションになる。粗探しばかりされていては、身構えるしかなくなってしまうのだから。

一歩ずつでも前進しよう

二学期から新任の若手教員、アドバイス一週間目にして、生徒の座席を決め、座らせることができた。授業はまだまだ安心して見ていられるものではないが、少なくとも、勉強させる最低限の環境は整いつつある。

昨日紹介した、理科部の顧問。今日は、理科室に大量の実験装置を準備して、部員たちを迎えた。おそらくは知的好奇心をくすぐり、先生への信頼感も芽生え、部活へのかすかな楽しみも生まれたことだろう。

世の中、そんな簡単にうまくいくものではないが、何もしなければ現状維持どころか、知らず知らず下降への道を歩んでしまうので、なにか一手を打つことは、とても大事なことだと思う。

学校は、その歴史が長ければ長いほど、その伝統の重みが変革を押しとどめる。
前例主義であり、事なかれ主義にも陥りやすい。

『今の時代、何より必要なことは「成功すること」ではなく、「失敗しないこと」なのです。』(堀 裕嗣 『学級経営10の原理・100の原則―困難な毎日を乗り切る110のメソッド』)という流れは、納得できないものがある。
私は、『失敗を恐れてはチャレンジはなく、逆に失敗しないということは、一切のチャレンジをしていない』ということになると信じているからだ。

こんな時代であるからこそ、進化し続ける学校を目指すべきであろう。
保護者の教育観も変わった。

もはや体罰は許されないし、部活指導でも、スポ根世代の考え方は通用しない。

社会性を身につけさせようと指導しようと、社会も、新入社員の意識は、仕事優先からプライベート優先に逆転しているし、会社には、「給料が増える」・「残業がない・休日が増える」という希望が急上昇中だ。就職時に、半数は転職したいと思っている。(2018年度 新入社員意識調査アンケート※)

勉強だけなら、ロボットでも教えられる時代だ。
集団指導のある学校でこそ、得がたい経験が得られると思うのだが…。

教えたら、理解してできるようになるのが生徒たちだ。
かすかななりとも彼らの進歩を発見し、心密かに喜ぶのが、我々教員の務めだ。

私も、昨日よりも今日は一歩前進しているように、精進を重ねたい。
posted by 丹澤三郎 at 20:11 | Comment(0) | 未分類

規則が悪い

「先生方、思い切って指導してください。何かありましたら、私が責任を取ります。それが校長の仕事ですから」

九年目にして、初めて校長が気の利いたことを言った。と同時に、若手教員に動揺が走る。
「本当なんだろうか…。」

校長は、保護者をはじめとする対外的な折衝で、矢面に立つなど、下々の教職員には分からない苦労が多い。孤独であろうし、悩みも多く、プレッシャーも大きい。

しかし、それを知りつつ、理解しつつ、分かっていながら、それでも理解に苦しむことが起こる。

例えば、保護者からのクレーム対応。最終的には校長が対処し、相応の謝罪なり、改善対策を講じる。学校には、社会的に見たら理不尽なルール(規則)も多く、それによって、ごく一部の生徒と親が不適応を起こすことがある。

「圧倒的な生徒が従っているのだから、一人だけ許すわけにはいかないだろう。」
というのが、大方の先生の思いだ。すべてを個別対応するなら、もはやルールではなくなる。

「ルールを忠実に守らせようとして、それがトラブルになっている。真面目な先生ほど、その傾向が強い。だったら、ルールを変えるべきではないか。」
近隣のある校長は、そう職員会議で述べた後、
「保護者には、『ルールが悪い』と言った。だから、ルールを変えていきたい。」
と、高らかに宣言したそうである。

しかし、ほとんどの教職員は不満と不信感が高まっただけだった。日頃の校長の姿勢に納得できなかったのだ。

彼は、生徒指導で、保護者からのクレームがあったとき、必ず担当の教員を責めた。
「○○先生の指導が行き過ぎだから。」
「○○先生の言葉遣いが、ぞんざいだから。」
「○○先生のやり方が画一的だから。」

こういう背景があって、その学校の先生たちは、おそらく来春異動になるであろう校長に対して、カウントダウンを始めた。

大人げないが、気持ちが理解できないわけでもない。だが、日常の教育活動では、いろいろな部分で歪みが生じるだろうと思う。

『ルールが悪い』と言えば、保護者は納得できるのかも知れないし、「ルールを変えるべく検討します。」と言えば、クレームは収まるかも知れない。事実、理不尽なルールなら、変えていくのも良い。

しかし、それが自分自身の保身であって、つつがなく努めて、何事も問題も起こさず、校長生活を終えたいと思っているのなら、それは間違いであろう。そういう人に校長を務めて欲しくない。

私の学校で、若手教員が動揺した背景には、しばしば教員を責める姿勢が見られたからだ。「ルールが悪い」と言いかねない雰囲気もある。

過日退職した、私の尊敬する校長経験の先生は、たとえ保護者を敵に回しても、徹底的に教員を守り、学校の方針を貫き通したという。時に何時間でもかけて説得したこともあると聞いた。
「絶対に先生たちを守ります。」
という姿勢が、組織の一体感と、校長に対する信頼感を生む。

私心のない捨て身の対応が、結果、トラブルを収拾するということだろう。

私は、『人は変わる』、と信じて、もうしばらく見守っていこうと思っている。
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