2021年06月25日

理想の学校

私立学校では、それぞれ建学の精神があり、独自教育システムを構築している。

生徒や保護者のニーズにこたえるべく、いろいろ工夫をし、生き残りをかけているのである。
中には、東大合格人数に特化している学校だってある。
東大合格率が、「売り」であり、その人数の多さで、良い学校としての価値基準になっているようだl

先日、教頭が視察した学校もそうした学校であった。
帰校するなり、「参考になるところはあまりありません」、と一声。

どうやら私たちの考える常識とは異なる価値観の学校のようである。

驚いたのは、高3の授業を担当する先生は、すべて東大の卒業生で固めていることである。
学校現場に東大卒を招くことは、そう簡単なことではないので、おそらくは、金銭的な優遇をして、教師を集めているのだろう。聞くところによると、人によっては数千万単位の報酬をもらっているらしい…。

学歴至上主義の学校は、教員にも序列があり、いわゆる下々の者には、成績優秀生徒の指導は当たらせないのだ。

教員も授業に特化し、印刷物も自分で行うこともない。
すべて業者および事務員が行う。
部活の会計処理をはじめとする、一切の授業にかかわらない仕事は、教員自身では行わない。

校舎内の清掃も業者。
生徒が掃除をすることもない。

話を聞いていると、何となく予備校や塾に近いように思う。
こうなってくると、「学校というのは、東大にいれるための一過程なのだろうか」、と思ってしまう。

「生徒たちの情操教育はどうなっているのだろうか」、とも思う。
学校だから、それなりにはやっているのだろうが、「先生は授業を教えればいい…」、という発想は、生徒には歪んだ思想を植えつけているようにも思う。

学校運営者たちは、これこそ理想の学校と思って、学校経営をしているのだろう。

私立学校だから、いろいろなスタイルがあっていいと思う。
そうしたニーズもあるのだろう。

だが、「足りない何か」、は将来必ず禍根を残す。

学校は、学力を上げるためのものでもあるが、同時に人間教育の場でもあるからだ。

「他を蹴落としてでも、自分が上がっていけばいい…」という人間を量産してはいけない…。




2021年06月11日

続・担任の仕事

前回、「担任の仕事」というタイトルをつけたが、内容にまったく触れていなかったので、もう一度、語ってみたいと思う。

要は、「担任をすることに、生きがいを感じられないならば、担任の仕事はできない」ということである。

だから、「無理矢理担任にさせられた」、とか、「いやいや担任をやっている」というのでは、仕事にならない。それに、先生も生徒も、お互い不幸である。

担任は、クラス全員を統括する立場にある。
先生風を吹かせて、大人の不条理な論理で、強制的に従わせることもできるが、生徒たちが、管理されていることを感じないような、上手なアプローチの仕方もある。

いずれにせよ、「真の担任」とは、常にクラスの生徒のことを考えている立場にいる教員のことである。

たとえ生徒が家庭に戻ったとしても、担任はその生徒のことを気にかけ、善導したいと思い、次なるアプローチを探るべく、考え続ける…。

そうした毎日の連続を過ごしているのが、担任である。

そうした思いは、必ずや生徒たちに届き、いつしか信頼される担任になっていく。
その信頼感が親たちをも納得させ、「この担任なら安心」、という思いを抱かせる。

たとえ厳しい指導をすることがあっても、「〇〇先生が担任の先生で良かった…」、と思われるようでないと、ホンモノではない。

確かに生徒たちには担任は選べないが、「うちの担任、なかなかやるじゃん」、と思わせる、スパイスが必要なのだ。

「このクラスで良かった」、と思う生徒は、「この担任の先生でよかった」という思いときわめて近い。

もちろん、生徒全員に好かれる担任はめったにいないだろう。
だが、筋を通し、生徒を愛している姿は、誰もが安心感を持ち、納得する…。

「〇〇先生と会いたい」、と週初めに生徒が思うような、そんな喜びを、担任は意識して欲しいと思う。

若い先生たち、頑張れよ! 今なら、何でもチャレンジできるぞ。

2021年04月05日

二宮尊徳像

以前は、どこの学校にもあった二宮尊徳(金次郎)像だが、昨今は修繕費も計上されないまま、老朽化という言い訳で、撤去されているものが多いようだ。

そんな中、我が校に二宮金次郎像がやってきた。

自助努力の精神と積小為大の考え方は、現代社会にもっとも必要な考え方であると言える。

コロナ禍の中で、人々は二宮尊徳精神をすっかり忘れてしまっている。
本当に困っている人を救済することは必要だが、自助努力の精神をも失わせる政策は、国の社会主義化であり、国に頼る国民を量産し、国力を衰退させる。

その意味では、政府や自治体が、コロナ感染拡大を防ぐという名目で、さまざまな国民活動や経済活動を制限し、罰則既定まで制定するというのは、まさに国家社会主義化だろう。

中国のように、自分でウイルスを作りばらまきながら、いざ国民が感染すると、完全封鎖し、感染者を隔離処分。公には何もなかったことにして、自分たちは感染をコントロールできているなどと公言している様を、本当は世界中が信用していないのだが、世の指導者たちは、それを指摘することも非難することもできないでいる。

唯一、吠えていたのはトランプ前大統領だけだった。
彼も、中国の罠にはまり、マスコミにでっち上げられたフェイクニュースで落選させられた。

こんな危機の時代であるからこそ、自助努力と積小為大の考え方は、きわめて大切だろう。

不可抗力の環境、言い訳はいくらでもできる。
だが、自助努力の精神があれば、必ず道は拓けていくに違いない。

だからこその、二宮尊徳像なのだ。

その精神を体現した生徒が育っていけば、世の中は変わっていく、と信じて、思いを伝え続けようと思う。

できない言い訳はいくらでもできる。どうやったらできるか、どう工夫し、何とかこの危機を乗り越えるか、を考え続け、行動し続ける、そういう生徒を育てたい。そして、自分自身もそのような人生でありたいものだ。

2021年01月20日

寒波に思う

少し前に4月中旬並みの暖かさになり、1月というのに雨が降った。
このところ暖冬続きだったので、あまり珍しくはないが、この冬は寒かったこともあり、暖かい雨には少しびっくりした。

そして、今朝は雪になった。
深夜から気温が徐々に上がり0℃近くなったのだが、あっという間にあたりは白くなった。
幸い風が弱かったので、犬の散歩には困らなかったが、前が見えないほど激しく降った。

まさに厳寒期。

そしてまた一日中氷点下の日がやってくる。

そんな中、庭の梅が一輪咲いた。

植物たちは季節を忘れない…。

「先生、寒いです…。」
そりゃそうだ。最低気温が−10℃にもなる日もあり、その上、晴れていたって氷点下、山から雪を降らせた寒風が吹き荒れる日だってある。
そんな生徒たちの訴えに、私は決まってこう答える。
「だって冬だもの。」

冬は冬らしく、夏は夏らしく…。

昨今は、そんな季節の変化が狂ってきた。
そうなると、季節を頼りにしている植物たちには厳しくなる。
昨年の夏も7月いっぱい雨続きで、特産の梨がほとんど駄目になったのだ。

これで停電になったら大変だな…。

私の学校は、東日本大震災後停電になった。
その後も、計画停電で、一日に何時間か、電気が切れた。
あのときは、ちょうど春休みにかかったが、これが平常時だと大変苦しくなる。
私の学校では、電気が止まると、すべてのライフラインがストップするのだ。

この冬は、全国的に寒さが厳しく、電力需要が高まり電気供給が逼迫しているという。
電化製品も増えたことも原因だろう。
最近のエアコンは、あっという間に部屋を暖めてくれるらしい
もちろん、以前よりはずっと省エネなのだろうが、そうしたものが普及すれば、全体として電気をたくさん使うことになるのだろう。

脱炭素社会などと言っているが、このことを勧めると、日本は電力統制社会になりかねない。

原子力を止め、化石燃料の発電を止めて、本当に電力供給ができると思っているのだろうか。

世界一燃費の良いガソリン車を廃止しようと、日本は自滅への道を歩み続けるのだろうか。

先日、NHKで地球温暖化を警告する特集番組が放送されていた。
その裏で、大寒波による豪雪で雪に苦しむ人たちのニュースが流れている…。

自然は、人類の浅知恵でコントロールできるようなものではない。




2021年01月13日

どうして解けないの

「これ、おかしいよね。とっても簡単な問題だよね。これが解けないということは、全然分かっていないということだよね。こんな状態で、勉強したって言えるの。私にはまったく分からないよ。どうして解けないのか全然分からないよ。どうなっているの。教科書の例題に出てくるような基本的な問題じゃない。こんなんで、対策したって言えるの。本当不思議でしょうがないよ。」

私は反駁しそうになったが、それをとどまった。
何を言っても言い訳にしか聞こえず、しかも、その対策すら思いつかなかったからだ。

「途中で間違えてしまうなら、解くとき、一行一行確認しながらやればいいんだ。時間がかかるようで、実はトータルとしては時間がかからない。あとから見直すのは大変だからね。君もそうすればいいんだ。少なくとも私はそうしている。そうすることでミスをふせいでいるんだ。それにしても、この点数はひどい。」

「僕には無理かも知れません…。」

完全に自信を失っている私は、半ば諦めかけている。
自分は他の人より極端に頭が悪く、要領も悪く、集中力も欠けているのだろう。

「いやぁ、できるよ思うよ。○○だって、△△だって、勉強したら点が取れるようになったんだから…。結局は、勉強していない、ってことじゃない? いやあ不思議だな。なんでできないんだろう。とうして解けないんだろう。もっと頑張ろうよ。もっと点数を取ろうよ。上を目指そうよ。やればできるようになるんじゃない?」

「緊張しちゃうの? プレッシャーで解けなくなっちゃうの? そうなら何とか克服しなきゃ。頑張らなきゃ。いやいやしかし、何でこんな点なんだろうね。こんな問題、暗算で解けるよ。一瞬で答え出るよ。君は、そんな問題を間違えているんだよ。おかしいおかしいね…。それに、君の答案。難しめの問題には手をつけていないよね。なんか、やる気ないように見えない? うーん、どうしたものかな…。」

夢を見た。

先生に責め立てられているのが私である。

これまでどれほどの生徒を傷つけてきたか、よく分かるようでもある。
と同時に、自分自身の実力のなさを、徹底的に指摘され、「おまえなんて、ここには必要ない存在だよ」と言わんばかりの勢いだ。

後味が悪い…。

2020年10月07日

祈りの調べ

この春大学を卒業したばかりの、その女性の祈りは美しかった。
久しぶりに美しい祈りの調べを聞いた。

人間にとって一番美しいのは、祈っている時の姿であるという。
無私無我の気持ちで、神に祈りを捧げる敬虔なしせいは、その思いが純粋であれば純粋であるほど、美しく、神々しさすら感じるものだ。

以前、私が美しい祈りを聞いたのは、高野山に詣でたときである。
もう、十数年前になる。
僧侶による高野山真言宗の唄の調べは、心地よさと美しさを感じたものだ。
以来、多くの祈りの場に立ち会っているが、美しい調べとであることは、滅多にない。
圧倒的多数の僧侶の読経は、その波動が美しくないように思える。

宗派は違えども、その美しさは共通している。

この美しさは、祈りそのものが、大いなる存在である神と対峙している姿であるからだ。
そして、その対峙するに値する心の状態を維持していなくてはならないからであり、さらには、底に自我の思いが存在しないからである。

その姿勢と態度に、神に近づこうとする思いがある。
その思いは、何人からも尊崇されるにふさわしい心根であり、人間本来の正しい生き方そのものを表しているのだろう。

美しい祈りの調べのMさん。
「まだまだ若いのに素晴らしいな」、と思う。

泥と埃にまみれた穢れた私から見れば、まさに高貴な存在のように見えた。

昨今、宗教学校でも祈りの時間が減っていると言う。
形式化し、生徒たちが真面目に取り組めない、という理由もあるのだろう。

しかし、それは、本来あるべき人間としての姿勢を放棄しているようにも見える。

美しい調べのMさんの祈りを聞いた生徒たち。
一瞬だが、幸福感が増大したのではないだろうか。

決して刹那的な動画では体験できないバイブレーションが、そこにはある。

学校教育でも、宗教的な涵養を重視するようになって久しいが、世の中それほど変わっていないように思える。

まずは、大人たちの宗教に対する意識が変わらないといけないのだろう。
今のままの学校教育で、子供たちにそうした純粋さを伝えるのは、やはり難しい…。





2020年08月31日

それでも逃げ続ける…

若いときは、概して自己中心的になる。
それを、大人たちにたしなめられ、「それではだめだ」と叱られる。

都合が悪ければ人や環境のせいにし、できない理由を他のものにする。
そうすると、自分が正当化され、気持ちが楽になるのだろう。
ただ、そうした習慣を確立してしまうと、「進歩」のできない、『逃げ』の人生になってしまう。

昔から、「上手くいったの人様のおかげ、上手くいかないのは自分の努力不足」、と言われるが、まさにその通りで、自ら努力を放棄した者の未来は拓けないものだ。

中学生や高校生はしばしば「自己中心的」になる。
思春期特有の心の乱れにより、自分ではどうすることもできなくなって、その原因を他に求めるのである。そして、それがエスカレートすると、「○○さえなければ、上手くいくのに…」、とマイナスのスパイラルに突入する。

等の本人たちは、それに築かず、どんどん墜ちていく。
昨今は、そうした悩める子供たちの姿を見て、親たちもが、苦しみの原因を他のに求めようする。

「親なのだから、子供が苦しんでいたら、なんとかしてあげたい」、と思うのは当然のことだが、親であっても、思春期の子供を育てるのは初めての経験であることもあり、事情はなかなか複雑だ。

言い訳だと、分かっていても、自分を抑えられず、泣いたり、暴れたり、自暴自棄になったりするのが、子供である

よくできたと覆われる中高生であっても、あるとき、突然、キャパオーバーになって、爆発することだってある。

我慢してしまうタイプの人は、我慢の限界を超えると爆発する。

「やってもやってもできない」、と思うのは思春期の常。
その悩みを大きく膨らましすぎるのも思春期の常。

思い通りにならないことは、大人になっても変わらない…。

『愛されたい。認められたい。自分のことは自分でししたい。」
というのが、若者の特注である。

ふと、私自身が大学生時代に書いた小説を思い出した。
あの頃の私は、逃げてばかりいた。
自己防衛反応で、つねに安全地帯を作ろうとしていた。
逃げても逃げてもだめだと分かっていながらも、逃げ続けた。

そのときの小説のタイトルが、「それでも逃げ続ける…」であった。

誰もが通る道、ということか…。

2020年05月15日

学校教育を再開させよ

緊急事態宣言が解除されたが、県内の学校再開は6月からとのこと。
一体いつまで、学校を閉校にし続けるのだろうか。

この機に9月入学に移行すべき、などという意見もあるが、要は休校にしたことによる責任回避である。

休校により教育を過程に丸投げし、子供たちの教育を受ける機会を奪ってしまった。

もちろん、他の業種も企業活動を停止させ、国家を混乱に陥らせた。
全国的な緊急事態宣言など、果たして本当に必要だったのだろうか。

コロナウイルスの収束には、おそらくは何年もかかる。
それまで活動を停止すれば、「人類は原始生活に戻る」ことを意味する。

学校が始まったとしても、心配は保護者は登校させないかも知れない。
そうした判断もよかろう。
学校としては、出席扱いにするなどして、個別対応すればいい。
いろいろ考えるべき課題も多いが、ゼロリスクで生活するのは、もはや不可能なのだ。

今、学校を再開しても、たとえそれが一ヶ月後、三ヶ月後、一年後であったとしても、おそらくは状況は余り変わらない。

感染は、油断や隙のあるところには起こるだろうし、知らないうちに感染し、無症状のうちに抗体ができている人も増えていくだろう。

国民に対して、感染症予防の一定の知識を身をもって体験させたことは間違いないが、その功罪はマイナス面の方が遙かに大きいはずだ。

人類は、感染のリスクと戦いながら、この先生活を続けることになる。
生活スタイルは、少しずつ変わっていくのだろう。

マスコミは、これ以上人々に恐怖を煽らないで欲しい。

私の学校では、運動会に向けて、生徒たちが全力で練習している。
教室で学び、そして外で身体を動かす。
その中で数多くの学びを得る。

これが本来の教育活動だ。

「生徒のことを考えると…」
という大人たちの決まり文句は、私は責任回避にしか聞こえない。

中国の責任はあるが、ここまでくると、感染云々は誰のせいでもない。

自然の摂理であり、科学万能主義になって傲慢になった人類への警告である。
医学もなすすべがなく、助かる人は助かり、助からない人もいる。

何がそれを分けているのかを、考えなければいけなくなってくるだろう。

今日も生徒たちの元気な声が響く…。

それが、全国津々浦々に広がっていくことを望む。

2020年01月03日

お年玉

お年玉を貰わなくなり、また、あげなくなって何十年も経つ。
もともとは『餅』を配り、それをお雑煮として食べた、という習慣だったらしいが、いまや中学生であっても万単位のお年玉をもらうらしい。

ただ、親戚一同が集まる機会が少なくなれば、お年玉をいただける方の人数が減ってしまうわけで、たとえ中学生のお年玉の平均金額が5000円だったとしても、総額はかなりのものになるのだろう。

一方でそれを自分自身で管理して、自由に使える、という子供も少ないのが現状だ。
大抵は親に預け、よくて教育費、時には生活費として消えていく。

だが、欧米諸国のように、
「このお金は、君の自由に使って良い。ただし、すぐに欲しいものを買う、というのではなく、お出に増やしてから、その増えた分で欲しいものを買いなさい。」
などという教育どうだろう。

実際、学校教育では、明治の義務教育が始まって以来、「お金の教育」はなされていないので、親も含めて、「どのようにしたら増やせるのか」、ということが分からないだろうと思う。」

『消費・浪費・投資』、を的確に説明できる日本人は、残念ながら少ないようだ。
ましてや、生徒に説明できる教員もほとんどいないのが現状かも知れない。

一説によると、義務教育開始時の国策である『富国強兵』のためには、従順な労働者が必要とされ、経営者的視点や、独自の発想は排除されたのだ、と言う。

現在の教育内容に、消費者教育はあっても、投資者教育がないのも頷ける。

『改訂版 金持ち父さん 貧乏父さん:アメリカの金持ちが教えてくれるお金の哲学』(ロバート キヨサキ著)を読んでも、いかに日本のお金に対するマインドや教育が欧米の常識とかけ離れているかが分かる。

倹約を美徳とし、ただただ貯蓄をしている中では、なかなか経済は発展してゆかないという。
日本では、今や銀行は単なる金庫となり、これ以上倹約できないくらい、税が重くなってしまった、

そんな中で、お年玉が単なる『浪費』にならないように、世の大人たちは、子供たちに『投資』についても教えるべきだろう。

私も、自信を持って教えられるよう、鋭意奮闘中でもある。








2019年12月30日

正月飾り

「あらめずらしい門松…。」
母が私の住む田舎に来たとき、ある店の前に置いてあった門松を見てそう言った。

以前はマーケットにせよ、すこし大きめの店舗には必ず門松が置いてあったが、昨今はそうしたことは行われないらしい。
長く続く不景気による経費削減なのか、日本人として信仰心が薄れたのか、はたまた伝統文化の衰退
か…。

確かに昨今、正月飾りがすくなくなった。
以前、アパートやマンションに一人で暮らしているときですら、私自身、正月飾りを玄関につけた記憶がある。それより前は、自家用車にも正月飾りをつけていたこともある。

ところが、このところ、飾りをする家の方が少ないように思える。
ここ田舎でもそうなのだから、都市部ではなおさらだろう。

「一夜飾りはだめよ。」
と、執拗に母に言われたことを思い出す。

今日、回覧板で『どんど焼き』の案内が来たが、正月飾りのない家は、『どんと焼き』の時に、何をお炊き上げするのだろうか。

政治の失策により、経済成長が二十五年以上止まっていることを考えれば、経費削減もやむを得まい。

一方で、日本人として信仰心が薄くなっているのは、核家族化と教育によるものが大きいだろう。
令和の時代になり、あらたに天皇陛下即位した。

一連の儀式は、日本神道の伝統的な儀式であり、すべては『日本の神々に感謝を捧げ、国民の平安と繁栄を願う』ものである。

儀式だけが取り上げられ、世界中にアピールされたが、果たしてその心は伝えられたのだろうか。

伝統文化の衰退も急速に進んでいる。
時代とともに変わりゆくものもあるが、変わってはいけないもの、守るべきものもあるのだ。

伝統を子どもたちに教えるのは、家庭や地域の役割だったが、今や、学校でも関わりを持たないと、ますます廃れてしまうに違いない。

人知を超えた存在である神さまによって生かされているのが人間なのだ。

堂々とそう教育できる日は、いつになったらやってくるのだろうか…。








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