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2018年11月28日

遅刻をしない 〜若手の先生方へのアドバイスD〜

ここでいう「遅刻をしない」、というのは、生徒指導の話ではない。
教員自身の話である。
別に若手の先生に限ったことではないが、遅刻の常習者は社会的信用を失っていく。

私も以前勤めた学校で、遅刻常習の先生が、翌年クビになる、という出来事があった。
彼は週三回くらいの割合で、職員打ち合わせに遅刻した。
数分くらいのものだが、年間としてカウントしたら膨大な遅刻日数になる。
その姿を見て、教頭らは「許せない」、と思ったのだろう。

私が最初に専任教諭として勤めた学校は、系列の大学があったが、年5回の遅刻で、大学への推薦が消えた。
「結構遅刻にシビアなんだなぁ…。」
と、新人ながらに厳しく思ったことを思い出す。
その学校は、いわゆる皆勤する生徒も多く、大学の先生による入試の面接で、
「皆勤賞の競争をしているのか?」
などと、揶揄されていた。
「そのときは、大学の先生と高校の先生では価値観が違うんだな。」
と、思うことにした。
だが、今でもどちらが正しいかは分からない。

『教師が時間に対していいい加減で、生徒に説得力ある指導ができるのか。』
というのが、私の考えである。

社会では、多くの組織が出勤時間や退勤時間が決まっている。
学校現場は、ひたすら残業が続いて、いつまでも仕事が終わらない傾向にある。
だからといって、自分の判断で、出勤時間を遅らせてよいわけではない。
現に、生徒は登校し、スケジュール通りに動いているのだ。

今の私の学校でも、時々寝坊して遅れてくる先生もいるが、ちょっと情けないと思う。
私は、出勤する日の朝は、目覚ましなどなくても起きることができる。
さすがに夜中の2時、3時まで起きていたら、目覚ましをかけるが、それでも緊張して目が覚める。
だから、遅刻をしてくる同僚に、
「仕事に対する緊張感が足りないんじゃないか。」
そう、思っていたが、どうやら本当に起きられない人は、世の中には一定数、いるらしい。

さすがに、「他の人よりもいち早く出勤して、お湯を沸かして、お茶の準備をして…」、という時代ではないが、新人が遅れてくると、やはり風当たりは強いはずだ。

自動車通勤なら、渋滞のリスクもある。
電車なら、『遅延証明書』でとりあえず遅刻は免れるのかも知れないが、たとえ、いつも通りに出勤できなくても、遅刻しないくらいの、意気込みは大事ではないだろうか。

私の場合、以前は出勤時間の一時間以上前に学校に着いていた。
朝は、静かに集中して仕事ができるので、遅くまで残って仕事をするよりも効率がよいのだ。
それに、通勤途中に多少のことあっても、遅刻にならないことも多い。

職員打ち合わせ中に、そろそろとドアを開けて、申し訳なさそうに職員室に入室してくる様は、あまり美しくない。だったら、「一時間遅れて行こう」と、遅刻を申請する方も、公立校には多いと聞く。

「自分の不注意で、生徒や他の先生に迷惑をかけまい。」
という強い使命感があれ、遅刻常習になることはあり得ないだろう。

若手の先生方に、是非伝えておきたいことがある。
それは、
「勤務時刻の遅刻はもちろんだが、授業の遅刻も駄目ですよ。」
ということだ。

「どうか始業のチャイムで授業を始め、終業のチャイムで授業を終えて下さい。」
そして、
「その他、ありとあらゆる機会で、『時間を守る』ことに力を注いで下さい。」

そうした日常からの努力が、生徒と関わるときに必ず効いてくるものだ。
信頼感は、日常の凡事徹底から生まれる。








2018年11月22日

教室の机を揃える 〜若手の先生方へのアドバイスC〜

教室の机が乱れていると、クラスの雰囲気が悪くなる。
雑然とした中では、良い授業など絶対にできないだろう。
教室の机は、縦横がそろってこそ、整然とした状態になる。
だから、教師は机の整頓を強く意識しなければならないと思う。

ベテランの先生なら、授業開始時に机が乱れていたら、必ず
「机をそろえなさい。」
と言う。しかし、机の整頓に無頓着な先生は、机が乱れたままで授業をしようとする。
しかし、これでは授業を始める状態になっていないということを知るべきだ。
授業がうまくいっていない先生の授業は、たいてい机が乱れたままになっている。

小学校や、中学でも学校によっては、床に机の位置のマークが付けてある。
このマークがあれば、素早く机の整頓ができるだろう。

しかし、私のクラスでは、あえてマークはつけていない。
「マークがなくても、縦横きっちりそろえる」、ことを指導しているからだ。

確かに掃除の時などには、マークがないために、多少の時間がかかる。しかし、生徒たちはどうしたらきれいに整頓できるか、あれこれと工夫をする。そして、しばらくすると、マークなどなくても、きちんと机が並べられるようになる。

授業の初めに机が乱れている場合でも、前列さえそろえられれば、全員が左右を見ながら、さっとそろえられるようになるのだ。
何も考えずにマークに合わせるよりも、『互いを意識』しながら机を整頓そろえられた方が、「全員で協力してきれいに並べよう」、という意識になる。

「席を立ち上がる時に、椅子を入れる」、という習慣も定着させたい。
それが、「まずは自分のことよりも、公共のことを考える」、訓練になるだろう。

凡事徹底の部分だが、まずは『意識する』ことが大切だ。
「何も考えない行動ではなく、意識しなければならない行動へマインドを変えていくことが、公共心を育てることにもつながっていく。

いつもきれいな状態であれば、乱れたときにはよく目につくようになる。
生徒の目が肥えるようになるためにも、常に美しい状態を維持しておくべきだ。

先生の指示がなくても、生徒たちが自然に、当たり前の行為として、机の乱れを直してゆければ、最高だ。

かつて学校が荒れていたとき、
『服装の乱れは心の乱れ』と言われたことがあるが、『机の乱れは、教室の乱れ』に直結する。
黒板を徹底的にきれいに、カーテンをまとめ、掲示物をきちんと管理。まだまだいろいろあるが、教室に入った瞬間、
「整ってるな…。」
と、思えなければ、何か足りない部分があるということを認識しておきたい。

もちろん、私自身もまだまだ完璧ではないのだけれど…。








2018年11月21日

授業準備 〜若手の先生方へのアドバイスB〜

「一時間授業をするのに、その3倍の時間をかけろ」、とか、「10倍の時間をかけろ」、などと言われることがあるが、残念ながら、通年を通しての授業準備で、これだけの時間を掛けることは難しい。
授業だけやっている『教員』ならまだしも、通常は、学校に関するありとあらゆる仕事をしなければいけないのが、日本の教員だからだ。
中には、
「授業の準備に、思う存分時間をかけられたら、どんなにいいだろう…。」
などと、かなわぬ夢を持っている先生もいるだろうが、それはそれで、また淋しいものだ。

現実的には、「どこかでまとまった時間をとって、一週間分の授業案を作る」か、「毎日、他の仕事に追われながら、翌日の授業準備をする」、ことになるのだろう。

特に、新任の場合は、その準備に膨大な時間がかかる。
だが、「机に向かって授業ノートを作るだけが、授業準備ではない」し、「授業プリントを作ることだけが、授業準備なのではない」、ということは銘記しておきたい。

新任の頃、先生の先生に、
「ずいぶん親切なプリントを作るね。」
と、言われたことがある。そして、
「このプリントだと、板書を力はつかないね。」
とも言われた。
私の教科は数学だが、そのとき、穴埋めばかりのプリントを作っていたのである。

今から思えば、確かにその通りだろう。

『生徒に良かれと思ってやったことが、実は生徒の成長を妨げる』、ことは、教育活動の中では、随所にある。

私の場合、授業準備で机に向かっている時間は、きわめて少ない。
授業の準備は、どちらかと言えば、何か別のことをしている時の方が多い。
たとえば、「歩きながら」でも、授業の構想を考えているし、他の仕事をしながらでも、授業中に話をする話題を考えている。
だから、机に向かって準備しているのは、どうしてもそこでなければできないことだけに限っている。
だいたい、ずっと座っていることは性に合わないし、教師はあまり座っている時間がないのだ。

一回一回の授業には、コアとなる部分があるので、「ねらい」と共に、そこから押し広げていけば、50分のストーリーは作れる。それを頭の中でイメージしながら、肉付けしていく。それを、定型文章化すれば、授業案になるわけだ。

もちろん、初めての教材の場合は、十分な時間をかけることが必要だろう。
関連の参考図書も読んでおきたいし、教材のねらいも熟知しておきたい。

しかし、それもすべてを机に向かってやる必要はないはずだ。

若手の先生は、自分の「授業ノート」や「授業プリント」、「テスト問題」などを、是非先輩の先生に見せてアドバイスを受けることを、勧める。

絶対に、自分が気づいていない指摘をしてくれるだろうし、たとえその指摘が、自分の方針に合わなかったとしても、必ずや何かしらの学びを得られるはずだ。

『教わるのではなく、盗め』と言われ続けた教員の世界だが、職業柄、聞けば答えてくれるのが教員だ。
だから、「教育実習生ではないのだから…」、などと恥ずかしがらず、勇気を出して声をかけてみたらいい。

何年も生徒を指導している先輩教員は、目に見えない智慧をたくさん持っているのだ。

教師は、一人前に授業ができてこそ、その一歩を踏み出せる。
だから、その準備は手抜かりなく、いろいろな場面で、楽しんでやりたい。

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2018年11月20日

教室の掲示物に書き込みをしたら… 〜若手の先生へのアドバイスA〜

教室に掲示している張り出しに、勝手に書き込んだり、落書きする生徒がいる。
これは『しつけ』の問題。何もしなければ、一人の行為が、クラス全体、学年全体に波及する。

4月、クラス開きの時の約束事で、「掲示物は私物ではありません」と、こんこんと語るのが定番。
ただ、新年度当初は忙しく、忘れてしまうこともある。
年初にクラスの約束事を決め、、周知徹底させることは大切なことだが、あまりにたくさんの、「○○してはいけない」があると、教師も生徒も悲しくなる。
だから、そんなときは、「書き込み一人目」を活用して、しつけてゆけばよい。

誰かが、書き込みをしたときが、指導のチャンス。
やってしまった生徒には気の毒だが、ここぞとばかりに「しつけ」が始まる訳だ。

これは、できるだけ早い時期にやっておかないと、大切な掲示物にもイタズラをされる可能性があるので、概ねごゴールデンウイークまでに終えておく。
そうでないと、写真に書き込みをしたり、イタズラしたり…、と掲示物の「荒れ」がエスカレートしていく。
先延ばしをすればするほど、
「なんで俺だけ…。みんなもやっているじゃないか。」
と、生徒が思い、指導にかけるエネルギーが増えてしまう。

一番駄目なのは、何か事件が起きてからの後手後手の指導である。

例えば、写真に落書きをするという事件が起こったとき、もちろん「書き込む」のは悪いことだが、「平気で書き込みをしまうクラスのムードを放置していた」という責任も生じるのだ。担任らが、何も感じることなく、事が起こってから、初めて指導の不備に気づくようでは遅い。
できたらそうならないように、事前に手を打っておこう、と言いたいのである。

仏教では、初期の釈迦教団では、「比丘の二百五十戒、比丘尼の三百四十八戒」と、二百、三百あまりの戒律ができた。これは、隋犯隋制(ずいぼんずいせい)と言って、仏陀が「何か過ちが起こるたびに規則を作っていった」もので、だんだんと増えていったのだ。釈迦教団は、学生(がくしょう)であり、学びの場でもあったので、それを妨げる行為は、次々と禁止されていったのである。

現代の学校も、事が起こるたびに、どんどん規則が増えていく。
そうならないためにも、できだけ教師の経験と智慧で、余分な規則ができないように、「手を打っておくべき」だと思う。

いくら生徒に、
「どうして書き込むの…。」
などと聞いたところで、おそらくは、
「何となく…。」
という言葉しか返ってこないだろう。
昨今の生徒は、『何となく』イタズラをする。

本当は、『何となく』の裏に、「自分の方を振り向いてくれ」、「私の叫びに気づいてくれ」というメッセージがあるのだろうが、だからと言って許されるものではないだろう。そうした生徒たちは、事前に察知して、注意深く観察しておくべきだ。

ちなみに、一般的には、掲示物への書き込みの前に、黒板への落書きが起こる。

「落書きくらい、いいだろう…。」
と、放っておくと、どんどんエスカレートしていくので、要注意だ。








2018年11月19日

教室の環境整備 〜若手の先生へのアドバイス@〜

若手の担任の先生に向けて、少しアドバイスになることを思いつくままに書いてみようと思う。
今日は、『教室の環境整備』。

私はたいてい朝7時頃に出勤し、教室の窓を開けて回る。
同じフロアに中1と中2の教室があるのだが、中2に関しては自分の学年と言うこともあり、両クラスとも窓を開け、ドアも開け、廊下も開けて換気する。

どんなに寒くても、雨雪が教室内に入ってこない限りは、窓は開けてしまう。
教室には換気扇があって、外気との入れ替えをしているのだが、上手く働いていないこともあるし、まずは朝の新鮮な空気を教室に取り込みたいわけだ。

ざっと教室を見渡す。机の上やら、ロッカーの上など、何か異常がないかをチェックする。
本当は、生徒が下校した放課後にやりたいことだが、私の学校は22時近くまで生徒が使っていることがあり、さすがに毎日、私自身がその時間にチェックをするのは難しい。
だから、朝に行うことにしているのだ。

当然、掲示物だの床のゴミだの、見るべき所はたくさんある。
はがれかけた掲示物を整えるのはもちろん、期限が過ぎた掲示物はすみやかに取る。
教室内には、目標を書いた生徒一人ひとりの顔写真や、書写の掲示もあるので、それらに異常がないかも、さーっとチェックする。

机の横にたくさんの荷物がかけられていないかや、机の上の落書き、机の中の整頓状況も見る。

もちろん黒板は、朝から汚れていることは許されない。
学校によっては、担任がその教室の「火元責任者」であろうが、どこの学校でも、クラスの教室管理責任者は担任だ。

逆に言えば、「教室を見れば、どんなクラスかも予想できてしまう」、ということだ。

荒れたクラスは教室も荒れる。
壁に穴が開いていたり、汚れていたり、ロッカーがへこんでいたりする。
担任としては、そうしたことを「起こさせない」雰囲気作りも、大切な仕事だと思う。

また、「壊れてしまった」ときは、速やかに修理をして、小さなほころびが拡大しないように努める。

私は学年主任でもあるので、自分が直す以外にも、
「掲示物が破けているよ…。」
と、担任らに注意することもある。
本当は、その場で直したいのだが、ずるい私はちょっと様子を見る。
数日経っても、直っていなければ、担任が「気づいていない」と判断するのだ。

気づいていないということは、「見ていない」という訳で、
「教室の環境整備も大切な仕事なんだよ。」
と、教えなければならないことを意味する。

私にとっては、毎朝の日課のようなものだが、その間ほんの数分。
しかし、続けてやっているか、何もしていないかでは、ずいぶんと結果が変わってくるだろう。

「朝、机がきっちり揃った整備された教室に生徒が登校してきたら、やっぱり気持ちいいんじゃないかな…。」
そういう生徒への思いと、
「教室の管理は、担任としての仕事の一歩だ。」
という責任感が、このチェックがルーチン化させる。









2018年11月12日

貧乏人を増やす教育?

「お金持ちになりたいか?」
と、生徒に尋ねれば、ほぼ全員が、
「なりたいです。」
と、答える。しかし、彼らの心の傾向性は、さまざまだろう。

私は長い間、「お金持ちは悪」のようなイメージがあった。

自分の家があまり裕福ではなかったことに加え、始終母親から、
「お金持ちは悪いことをしている。」
と、聞かされ続けたことが、遠因であると思われる。

しかし、『お金のある人の所にはお金が集まってくる』ことは真実。

そして、お金持ちは、お金を憎んでいない。また、たくさんのお金を持つことに罪悪感を感じていない。

実はこれが重要らしい。私の母もそうだが、お金が入ってこない人のマインドとして、どうやら、「お金に対して何かしらの罪悪感を持っている」ようなのだ。

もしかしたら、教員の中にはこうした考えの中で成長し、今も、その考えである人が多いのではないだろうか。

「あいつの家はお金持ちだから…。」
若い頃、先輩の先生のこうした言葉を聞いたことがある。この言葉の裏には、
「お金のない人の気持ちは、金持ちには分かないだろうな…。」
と、いう思いと、
「彼らお金持ちと俺たちとは、住む世界が違うんだ。」
と言う、思いが交錯している。

こうした考えで教育現場に立っていれば、知らず知らずのうちに、「教え子たちを貧乏に導いている」ことにならないだろうか。

卒業生で、成功している人の中学、高校時代を思い起こしてみると、決して優等生ではない。どちらかと言えば、個性的というか、手がかかり、悩まされた生徒であることが多い。
つまり、画一的に教育されている学校現場の中で、飛び出ていた生徒。金平糖で言えば、とがった部分。全体指導の中では、変わった行動をしてしまって目立った生徒なのだろう。

この点においても、私たちの現場では、「お金持ちを育てる」教育にはなっていないのだろう。
みんな同じであるならば、給料も差も生まれないからだ。

お金は価値中立なもので、人生に夢を与えることもできれば、堕落に導くこともある。

しかし、
「お金に不安を感じるのではなく、夢を見る。」
というマインドで、罪悪感を持たせない方がいい。

給与所得だけが収入ではない。
他の人が思いつかないアイデアが利益を生んでいく。
工夫次第で収入は増やしていけるのだ。

そうした考えを教えるべきなのかも知れない。

今の教員の世界では、「収入をアップさせる発想はほぼない」と言える。

私たちは、一体、何を目指して教育しているのだろうか。

デル株式会社

デル株式会社

2018年10月27日

やってみて初めて分かること 〜校内清掃〜

前記事(やってみて初めて分かること 〜朝の挨拶〜)の続編。

当時私は、授業の空き時間を一コマ分を使って、毎日、校内清掃を行った。
これも、退職までの間の、わずかなりとも学校への恩返し。階段や廊下を掃除した。

この掃除を始める前は、傲慢にも、
「何でこんなに汚いんだ。掃除しているのかよ。」
などと思っていた。
掃除の時間の担当場所もあり、私はトイレを裸足で歩けるくらいピカピカに磨き上げていたという慢心もあって、天狗になっていたのだ。

ところが、実際掃除をしてみると違った。
ちょうどそこは、風の通り道で、埃が溜まりやすい、ということが分かった。その上、そこはほぼ全校生徒が歩くところで、掃除しても掃除してもすぐに汚れてしまうのだ。

当時、学校には用務員さんがいた。お婆さんの用務員さんで、彼女が気がつけば、授業中などでも、いろいろな所を掃除してくれいた。もちろん、職員室も、そして先生たちのゴミ箱も、校内いたるところを掃除してくださっていたのだ。

教員生活が長くなると、だんだん感覚が狂ってくる。
自分が偉くなったような錯覚に陥るのだ。
「掃除はしてもらって当たりまえ。ゴミはこの中身は片付けてもらって当たり前。荷物は運んでもらって当たり前…」
などなど、数え上げればキリがない。

しかし、私の空き時間清掃は、開始してすぐ、自分自身の傲慢さに気づかされた。

「今まで、こんな風に掃除してくれた人がいたんだ。」

そうした人へ、感謝の思い一つ出せないでいた自分が、情けなくて、箒で床を掃きながら涙が出てきた。そして次第に、これまで黙って掃除を続けてきていた方々への感謝の思いが湧いてきて、その思いに馳せて、また泣いた。

私が泣きながら廊下を掃いている様は、端から見れば、おかしな姿に見えたに違いない。

私は、廊下を掃きながら、心の塵を掃いていたのだと思う。

どんなに立場が上がっても、下座修行は欠かせないという。
毎日のトイレ掃除を欠かさない、という校長先生もいると聞く。

人は、いつの間にか慢心し、傲慢になる。
それを防いでくれるのが、何気ない掃除であり、下座修行なのだ。

しばらく経ってから、
「先生、いつもありがとうございます。」
と言われた、その言葉の重みと、ありがたさをかみしめながら、掃除を続けていたあの頃を思い出す。

「やってみて初めて分かること」は、ここにもあった。













やってみて初めて分かること 〜朝の挨拶〜

もう十五年以上前になるが、当時私は、勤務校を年度末に退職することになっていた。
十年以上勤めた学校なので、せめて最後くらい何かしらの恩返しをしようと、朝の挨拶と、校内内清掃を数ヶ月間続けてみた。

いつも早めに学校に来ている私は、登校時間に合わせて、昇降口で一人、挨拶をしながら生徒を迎えた。
毎日欠かさず、退職するまで一日も休まず挨拶を続けた。
時には体調の良くない日もある。また、もうすぐ退職するのだと思いながら挨拶をしていると、なんだか泣けてきて、なかなか笑顔が作れない。
「おはようございます。」
どれだけ私の挨拶に元気があったかは、今はもう分からないが、生徒たちも挨拶を返してくれた。

最初、私が昇降口に立っていた時、多くの生徒は、
「なぜ、丹澤先生がいるのだろう。」
と、思っただろう。

「荷物検査か。」
なんて、構えた生徒もいたかも知れない。だから、なかなか挨拶のキャッチボールができなかった。

初めの頃は、
「私が挨拶しているのに、どうして生徒は挨拶に答えてくれないのだろう。」
と、思ったが、そういう考えはすぐに消えた。

生徒たちが挨拶をしてくれないのは、『私の挨拶に悲壮感が漂っているからだ。』と、思うことにしたのだ。確かに、笑顔も作れず、また半泣きの状態では、声をかけようとも挨拶にならない。

そのように気づいてからは、努めて笑顔を作るようにした。

面白いもので、作り笑顔はぎこちなくないのだが、それも毎日やっていると、いつしか自然の笑顔に変わってくる。

また、私の一回一回の挨拶に,思いを込めれば、生徒たちも必ず挨拶してくれることも発見した。だから、しばらく経って、退職直前のころには、全員が私に笑顔で挨拶をしてくれた。
その上、私の朝の行動に感化され、私と同じように挨拶に来てくれる先生も現れた。

私が退職することは誰も知らない中、ほんの何ヶ月か、学校への恩返しのつもりで始めた私の挨拶運動。
しかしそれは、いつしか私の習慣になり、生徒たちにも自然に受け入れられた。

あの時、かすかに恩返しできたのだろうか…。

この行い通して、私自身たくさんの学びを得られた。
生徒たちに愛を与えるつもりで挨拶していたが、実は与えられていたのは私自身だったのだ。

「やって初めて分かることもある。」

まさにその通りだと思う。












2018年10月23日

先生、うちの子どうですか?

私の学校の場合、系列の高校へそのまま進学できるので、進路指導的な色合いは薄い。だから、話題はほぼすべて「学校での子どもの様子」ということになる。

保護者はたいていの場合、「自分の子どもが、うまく学校生活を送っているか」を知りたいのだ。
思春期、反抗期の中学校時代は、親とのコミュニケーションが一時的に疎遠になる。
親が何を言っても、面倒くさそうに振る舞う。返事をしてくれればまだいい方で、「俺の態度で察しろよ」とばかりに、わがまま放題に振る舞う…そんな時期だ。
だから、なおさら、学校ではどんな生活をしているかについて、情報が欲しいのだ。
「まさか、家と同じような、反抗的な生活をしていないだろうな…。」
と、いう一抹の不安を胸に、恐る恐る担任に尋ねるのである。
「先生、うちの子どうですか? 何かご迷惑おかけてしていませんか?」
と…。

ところが、ここで、
「実は○○君は…。」
と、普段気づいた気になるマイナス面、改善点を、語ってはいけない。

我々教員は、保護者よりも長い時間接していることも多い。実際、朝から晩まで、そして土曜も日曜日も関わっている。だからこそ、彼らの長所も短所もよく見えるのだが、保護者が求めているのは、子どもの短所ではなく、長所なのだ。

だから、「うちの子どうですか?」の裏には、「親が発見していない、何か褒めるべき良い部分はありませんか。」
と、聞きたいのだ。

万一、ここで、文面通りの質問と誤解し、生徒の粗ばかりを話してしまうと、取り返しがつかないことになる。

一度マイナス面をインプットされた保護者は、その後で、どんなに子どもを褒めたところで、最初のイメージは覆すことはでずに、結局、子どもの悪いところを聞かされて帰ることになるのだ。

もちろん同席の子どもだって、担任から、「あれもだめ、これもだめ」と指摘され続けたら、滅入ってしまうだろうし、親だって嬉しくない。

だから、面談時には、保護者も知らない意外な部分で、めいいっぱい生徒のいいところを褒めたい。

我々は教育者なのだから、プラスもマイナスも知った上で、生徒たちを指導している。
その中で、保護者のニーズを察知して、
「有意義な三者面談だった。」
と、思ってもらえる、最大限の努力をしなければならない。

これまで、数多くの失敗を重ねてきた私自身の自戒を込めて…。

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2018年10月11日

試験監督の心得

「定期試験は、生徒の人生を決めてしまうほどの重要な試験です。先生たちも、試験監督に専念してください。」
今朝、教務主任が朝の打ち合わせで叫ぶ。

以前勤めた学校では、ある時、教室から先生用の椅子が撤去された。
「先生が椅子に座って寝ている。」
と、生徒からの訴えがあったからだ。
その学校は、どちらかというと年配の先生が多く、そうした先生たちが、授業中やら、自習監督、考査監督のときに、椅子に座っては寝てしまっていたのだ。

「『○○先生のいびきが気になって、試験に集中できませんでした。』と、子供が言っています。」
という連絡が入ったのだ。

考査監督中、監督の先生は、
「寝ないでください。」
「本を読まないでください。」
「携帯を使わないでください。」
「別の作業をしないでください。」

こんな風に書き出すことすら恥ずかしく感じる。

しかし残念ながら、どこの学校にも、程度の差はあれ、こういう先生は存在する。

不正行為を防ぐためにも、監督者の強い思いは必要だ。
「絶対にカンニングさせない。カンニングしたくなる雰囲気を作らない。隙を作らない。」

よく、「魔が差した」などと言うが、教員が生徒に隙を与えれば、カンニング等の不正行為は起こりやすくなる。

決して慣れることなく、毎試験で、学校全体として、不正行為を許さないという雰囲気を作ることが抑止力になるのだ。

私が教員に成り立ての頃、試験監督中に、
「自分の監督中に、このクラスからカンニングする生徒が出たらどうしよう。」
などと、緊張して時間を過ごしたものだ。

当時のそのときの高校は、ペナルティとして、全科目0点で、一週間の停学が課せられた。

さすがに現代は、ここまで厳しくないだろうが、当時は厳しさによる抑止効果を狙っていたのだろう。

「正々堂々試験を受けなさい。分からないなら、白紙で出すくらいが潔い。」
時々私は、生徒にこんな話もする。

一方で、昨今の不正行為は、プレッシャーによるものが多いようだ。

親や教師のプレッシャーが、本人を追い込み、「どうにもならない心の状態」にまで陥ると、いわゆる「魔が差す」ことが起こる。

答案は、これまで勉強した成果を示す自分の作品。

緊張の中にも、堂々と試験を受けさせたい。
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