2021年05月27日

愛するということ

つくづく、「自分は駄目な奴だなぁ」と思う。
平凡かそれ以下で、優れた能力を発揮している同僚たちと比べると、勝っているのは年齢くらいで、とても太刀打ちできるものではない。

生徒たちだって優秀で、将来彼等が世の中のリーダーになった時、その足下にも及ばず、霞んで見えるくらいの存在。
それが今の私である。

そうは言っても、私にも、心の奥底に僅かながらの『愛』があるのだろう。

私が教員生活として残された時間は、それほど多くない。
だが、私の『愛』で、生徒たちを導くことは、まだまだ出来るかも知れない。
最近、そんな風に考えるようになった。

野に咲く花を見て、美しいと感じる心は、幸せな気持ち。
無邪気な子どもたちを見て、微笑ましく思う気持ちも、幸せな気持ち。
溢れる笑顔で駆け回る子ども立ちを見るのも、幸せな気持ち。

一生懸命問題を解く子どもたちの姿は美しい。
遠くに見える山々の雄大さと同じくらい美しい。
たとえ、答えを間違えても、もう一度チャレンジして、「できること」を目指す彼等の姿を見て、私の人生を顧みる。

教師という権威にたよらず
歳をとったベテランという姿に甘んじず
いつも新鮮な気持ちで
生徒と関わることができたならば
いつまでもこの仕事を続けることができるのだろうか。

子どもたちが成長していく姿は
青空を見て美しいと思う心
懸命に生きている虫たち
夜空に輝く無数の星々
これらの美しさと同じ

元気に走る子どもたちの姿を見るのも
学んで知識を得て嬉しそうな姿を見るのも
勝負に負けて泣きじゃくる子どもたちの姿を見るのも
すべて教育者の醍醐味

さあ、もう一踏ん張りしようか。




2020年10月17日

自分の存在意義

認められなくていい。
褒められなくてもいい。
「すごいね」、「よかったね」、と言われなくてもいい。
徹底的に陰に徹して、縁の下で支えられればいい。

世の中には「自分が自分が…」、という自己主張の強い人もいる。
その一方で、「どうせ私なんか…」、と自己卑下に陥り、自己肯定感を作り出せない人もいる。

生徒も同じだ。
だが、思春期の彼らは、『愛されたい。認められたい。自分のことは自分でしたい』年頃なのである。

だから、寂しさの裏返しに反抗してみたり、反発しつつ、自分の存在位置を確認してみたり、時に赤ちゃん返りして、「愛が欲しくてたまらない」状態になるのである。

大人でも、心に余裕がなくなると、いろいろなマイナスな思いに支配されやすい。

教員をしている方でも、そんなネガティブ思考になってしまうこともあるだろう。
また、思春期の生徒たちとの対応に、疲れ切ってしまう人もいるに違いない…。
子供すきであっても限界はあるのだ。

以前、マイクロソフトのカスタマーズセンターに、サンドバッグが置いてあると聞いたことがある。
本当かどうかは分からないが、電話で問い合わせを受けた者は、時に相当のストレスが溜まることは想像に難くない。
こちらも、文句を言われることはあっても、感謝されることがほとんどない世界だ。

そうした中で、心を磨き、心を揺らさず、顧客の立場で対応できる人が生き残り、成功してゆくのだろうが、そんなに簡単なことではあるまい。

だが、大人も時に自分の存在意義を考える。

「自分がその組織で必要とされていない」ことを認識したならば、その職場にはいられないだろう。
ましてや、世のためになっていないと思ってしまうならば、生きていくことすら苦しくなる。

人はそれぞれ貴い。
職業にかかわらず、貴賤にかかわらず、それぞれの役割を果たしている限り、人間生活は多くの経験のと学びの場になる。

思春期の子供には理解できないかも知れないが、社会人になったら否応なく、この事実を受け入れなければならないだろう。

だから、「私は、役に立っているのだろうか」、と思ったならば、何か役に立つことはないかを探し、行動してみなくてはならないのだ。

その行いが、たとえ誰にも知られなくても、心を揺らさず、淡々と世のために生きることができるならば、人生は成功したとも言える。

認められなくていい。
褒められなくてもいい。
「すごいね」、「よかったね」、と言われなくてもいい。
徹底的に陰に徹して、縁の下で支えられればいい。

そんな生き方を目指したい…。

2019年12月28日

親の気持ち

東京から母が来た。
私に会いに来たのか、愛犬たちに会いに来たのかは分からないが、バスや電車を乗り継ぎ、新幹線に乗って、私の済む北関東の田舎までやってきた。

私にとって有り難いのは、久しぶりに母の手料理が食べられること。
そして滞在中は、自宅の風呂ではなく、近くの温泉に浸かれることだ。

ただ、冬のこの地はかなり冷え込むので、暖冬はいえ、母にはかなり寒いに違いない。
自宅をガンガンに温めて迎える。

それでも、一晩中ストーブをつけておかないと、結構寒い。
私は寒さに慣れているが、母は東京の暖かい所で生活しているので、部屋でも厚着をしている。

母のありがたさを思うのも、この歳になっても変わらない。
逆に、息子を愛おしく思うのも、母の本能なのだ。
私を産んで55年経ったとしても、可愛い息子には違いないのだ。

そう考えると、私が関わっている中高生ともなれば、その母親たちは、その子どもたちを目に入れても痛くない、という気持ちなのだろう。

教員は、時に、親たちを批判することもあるが、それも「親が子供も思う気持ちが強い故」、と思えば、その理不尽さや、我が儘な発言には耐えねばなるまい。
それが、教師としての仕事の、ある意味尊い部分なのだろう。

それがなければ、単なる冷徹なビジネスと変わらなくなる。
教師が生徒たちに寄り添い、親たちの気持ちを推しはかってくれているからこそ、安心して学校に委ねることができるのだ。

そう考えると、教育の無料化はますます教員たちの仕事を困難にするだろう。
人間は、「どうせただなのだから」、と思えば、感謝の気持ちが薄らいでいく。

世の保護者たちの多くは、口には出さずとも、教師たちに、「申し訳ない」、という気持ちと、「ありがたい」、という気持ちを持っている。

それを感じるかどうかは、教師自身の心がどれだけ安定しているか、による。

「理不尽な親たちとは会いたくもないし、話したくもない。」
そう、私自身思っていたこともあった。
確かにそうした思いに到る事例は、頻繁に起こる。

そうであってもなお、保護者を理解し、時に保護者に対してもよき相談相手として、立ち振る舞うことが必要なのだろう。

母の姿を見て、改めて自らを省みる…。








2019年06月06日

響く声

真言宗の御詠歌の響きは心地よい。
このところ父の法要があり、何度か聞く機会を得たが、なんとも言えない調べがある。
張りのある、響きを伴う読経の声もいいものだ。

僧侶は、毎日のお勤めから、法要と読経の経験が豊富だ。
プロなのだから当然なのかも知れないが、私は、その響きを美しく思う。

教員の世界でも、張りのある声は、生徒たちによく届く。
体育科や運動部の顧問は、たいていそうした声が自然に出る。

私が幼い頃は、声が出なくて、大人たちに何度もたしなめられた。
だから、
「お前が、学校の先生なんてできるのか?」
などと、何度も親たちに言われたものだ。

それが、今では、当たり前のように声を出せるようになっている。

教員に成り立ての頃は、「集団を集めて一斉に指示をするなど、自分にはできない」、と思っていたが、声が出るようになると、「何でもないこと」、に思えるから不思議だ。

私は、若い先生には、「積極的に集団への指示出し」をさせているが、ポイントは、「響く声」と、「的確な指示」だろう。

とにかく生徒たちに聞こえなければ、何を言おうと指示にはならない。
「聞かせる」工夫も必要だが、その工夫をするにも、「声」が要るだろう。

中には授業でも、ボソボソと話してしまう先生もいるが、そういう先生は、屋外などでの集団指導は難しいだろう。

思うに、授業中に、叫んでしまうくらいの声を出している方は、それが最大で、教室外ではとても声が届かないだろう。

中には日常会話でも、「声がうるさい先生」もいらっしゃるのだが、これは職業上の副産物かも知れない。個人的には、あまり好きではないが…。

一言で生徒を聞かせ、指示するためには、どうしても張りのある響く声が必要になる。

教員対象のボイストレーニングもあるようだが、実は声の出し方にはコツがある。

私は、歌唱時の発声に似ていると思う。

慣れてくれば、今の自分の声が響いているかどうかも、自らの耳で感じ取ることもできるものだ。

「響く声」は、教員にとって大切なスキルの一つなのだろう。














2019年04月02日

新人たちへのアドバイス

新人には、「何をしていいか分からないからじっとしているタイプ」の人と、「何をすべきかを尋ねようと、うるさいくらい話しかけてくるタイプ」、がある。

私はこのどちらも駄目であると思う。

まず、「じっとしているタイプ」だが、新しい職場で何をしていいか分からないのは当然のこと。ただし、誰も何も指示をしないということはあり得ない。一つや二つは、上司から指示があるはずである。実は、先輩たちは、「それを完璧にこなせるかどうか」、を見ている。ある意味、品定めである。
一を指示して、二も三もできる人物であるか、あるいは、一を指示して、右往左往するだけの人物であるか、ということだ。

新人は丁寧に育てるべきだとは思うが、その人物がどんな性格かは、何かの仕事を与えてみればわかるというもの。

ただじっとしているだけではだめだ。
残念ながら、じっとしている人を、「必死でやっているな」、とは判断しない。
「もっと積極性が必要だな」、と思っているはずである。

一方、「話しかけまくる」、というのも駄目だ。
先輩諸氏は、新年度の超多忙な時期を迎えている。
はっきり言って、右も左も分からない新人の世話を焼いている暇はない。
だから、「これやってくれ。あれやってくれ」、と頼みたいくらいなのだ。

先輩たちは、「この仕事ならできるのではないかな…」、と、新人君にあれこれ考えて指示をする。
実は、「これを雑用とみるか、そうでないと見るか」が大事なのだ。

その仕事を通して、現場を学び、考え方を学べる仕事ならば、それは断じて雑用ではない。
しかし、それを「単なる雑用」、としか見られない新人にとっては、学びも教訓も得ることなく、「単に雑用を押しつけられた」、と感じるのだ。

この差は大きい。

だから新人の方は、何か仕事を与えられたら、その意味を確認することを忘れてはならない。
「今、何故これが必要なのか」、が分からなければ、それは雑用になってしまう。

そういう時こそ分からないことは聞けばいい。
その仕事の必要性と意味をを理解できてこそ、組織は回っていく。

先輩諸氏は、さりげなく、新人たちに声を掛けるといい。

黙々と自分の世界に入ると、新人はますます声を掛けにくくなる。

だが実は、先輩たちは何気ない声かけによって、新人が、「どう反応し、何を答えるか」、も見ている。

新人諸氏は、ぜひこのことを意識されるとよろしい。









2019年03月29日

授業に行くときの緊張感

新人の頃は、授業に行くのが怖かった。
「生徒がどんなことを言ってくるだろうか。そして、それに対して、上手く切り返しができるだろうか。」
「私の授業を批判されたらどうしよう。」
「生徒指導上の事件が起きたら、どう対処しよう。」

当時、「少なくとも授業中は一国一城の主」、と言われた時代である。
授業中のことは、担当教員が責任を取るのが当然だし、授業の秩序を保ち、かつわかりやすい授業をして、さらには実力をアップしつつ、生徒との良好な人間関係が求められたのである。

だから、「授業中○○君が、こんなことをしていました…」、などと担任や学年主任に報告するのは、よほどのことでないとできなかった。

「君の授業だからそういうことをしてしまうんでしょ。もっと集中させなさいよ。授業が面白くないから、生徒はいろいろなことをやり出すんだ。」
と、言われそうで、これまた別の意味で怖かった。

だから、授業にいくときは、「よし」、と気合いを入れて、職員室を出て行ったことを思い出す。

昨今の新人君の中には、授業中の様子を事細かに私に報告してくる方もいる。
「○○君が寝ていました。」
「○○さんが、忘れ物、しました。」
「○○君が、マンガを読んでいたので没収しました。」
「○○君が、授業の妨害をしました。」
「○○君が、宿題を出しません。」
担任であり、学年主任である私への配慮なのかも知れないが、ある程度は授業を担当する先生自身がコントロールしなくてはいけないことも多いだろう。

「寝ていたなら起こして下さい。」
と、言えば、「起こしても起きないんです」、となる。

「忘れ物させない指導に務めて下さい。」
と、言えば、「厳しくできないんです」、とくる。

授業に関係ないものを没収されたり、宿題を常習的にやってこない生徒については、報告してくれるとありがたい。
ただ、それでも、授業担当する先生が解決に努めることだってできる。

協力して指導した方が、指導が一枚岩になり、効果的なこともあるが、いつでも立場のある先生に言えば、その先生は、「自分で指導できない」、ことを生徒にアピールしてしまうことにもなりかねない。

かく言う私の方は、報告を受けても、生徒には素知らぬ振りをする。
しばらく経って、同じ事をすれば、次は追及し、指導に入る。

掃除の時間にさりげなく注意することもあれば、個別に話をした中に、さりげなく注意を含めることもある。

この辺りが教員としての指導のさじ加減である。

「授業中起きないような、つまらない授業をしているんでしょ。」
「忘れ物させないルール作りをしていますか?」
「宿題を必ずやる、というムードになっていますか。どういう指導をしたのですか。寄り添って一緒に解いたことありますか?」

あからさまに若手の先生たちに、こんな風に言うことはできないが、そういう思いも一部には持っていることを忖度すべきであろう。

教師は、『授業ができて一人前』、というのは今も昔も変わらないはずだ。

今は授業に行くときに恐怖感を感じることはない。
それどころろか、「ワクワク感」を持っている。
私がワクワクしながら授業をすれば、生徒たちにもその思いは伝わる。

だが、恐怖感を超えた、ある程度の緊張感は持つべきであろう。












2019年02月02日

教員としての自覚

都市部の中高一貫の私立学校は、とかく休みが多い。
この休みとは、主として生徒が休みの日ではあるが、教員にとっても何となく、気が抜ける日であるかも知れない。

例えば、定期試験が終われば、採点日と称して休みになる。採点が終われば、成績をつけると言って休みになる。生徒には自宅学習日と言っているが、要は授業をしないで、先生方の事務処理に当たるという日である。その間、部活動を行っている学校もあるが、生徒にとって完全に休み、という学校も多い。

私が以前努めた学校は、土曜日も授業があった。
当時は、土曜日は授業をするのが当たり前の時代で、その後、週2回になり、そして公立学校は休みになった。

その流れを予測してか、組合を中心に、『研修日』なるものを要求し、週に一度、平日もしくは土曜日に教員が休みを取れるようになった。

大義名分は、「教員が各自、教材研究等、自己研鑽を行うことで、よりレベルアップした満足度の高い授業、教育が行われる」はずだ、という考えに基づいている。

確かにその通りで、自己研鑽の時間は絶対に必要だとは思う。

しかし、それを当然の権利として主張して、それによって時間割まで調整しなければいけなくなるのは、ちょっとやり過ぎだと思っていた。土曜日が休みになって、おそらくこの『研修日』制度はなくなったであろうと思うが、新人時代の私は違和感を覚えた記憶がある。

都市部の中高一貫私立学校では、部活も週3回になったり、長期休暇も長かったりする。
このあたり、公立学校との差が著しい。

『「土曜日も部活があり、日曜日も大会で先生は顔を出していた。試験の採点も自宅に持ち帰って、夜中まで仕事をしていたようだ」、というこのような教員の姿が、目に見えぬ尊敬となり、教員は聖職者であると言われた所以でもある。』
という話を聞いたことがある。

現代の多くの教員は、同意どころか、反発さえ感じるとは思うが、昨今の教員の指導力不足と言われる背景には、尊敬を失いつつある教員の姿、聖職者であることを拒否している教員の姿があると思われる。

保護者のほとんどが高学歴になった今、尊敬を得るにはプラスアルファの部分がなければならない。

それが、「徳」であったり「自己犠牲の精神」であったりするのだが、『権利』ばかりを主張すると、そうした美しい姿は消え去ってしまうわけだ。

教師が労働者になってしまったら、教育の質は低下する。
労働者としての意識があると、『ブラック』と呼びたくなるものだ。

日本の教育は、先人たちの多くの自己犠牲によって、作られ、継承されてきた。
彼らは時間を切り売りしようとする意識はなかっただろう。

教育は国の基だ。
それに携わらせていただいているという自覚を、もっと持つべきではないだろうか。

日々、自己研鑽し、学び続ける姿。
自ら徳を磨いてゆこうと努力し続ける姿。
教育にすべてを捧げようという気概を持ち続ける姿。

こうした教師が、尊敬される教師であり、聖職者なのだと思う。








2019年01月29日

不幸の予言

医者は概して最悪のことを言う。
「家族を呼んでください。今夜が山場なので、覚悟しておいて下さい。」
要は、今晩命が終わる可能性があるという、死亡宣告のようなものである。
この予言(?)が、外れても、医者は責められることはない。むしろ感謝すらさせる。
また、この予告通り、死んでしまったとしても、
「やっぱり医者の言うとおりだった…。」
と、これまた責められることはない。
医者は自らの立場を護るために、最悪のことを言っておくのだ。

先日も、そう宣告された同僚が、医者の予想に反して回復し、昨日から職場復帰した。
「静養中は、同じニュースを一日三回ずつ見て暇だった。」
と、笑いをそそる様は、以前の彼と何ら変わらない。
ひととき危篤であったことなど、信じられない回復ぶりだ。
こうした関係者は必ず、「医者の言葉を信じてはいけない」、と言う。

一方教員の世界ではどうだろう。
「先生、うちの子良くなるでしょうか。」
と、保護者に尋ねられたら、ほぼ間違いなく、
「大丈夫です。必ず良くなります。信じて待ちましょう…。」
と言うに違いない。

逆に、
「もう無理だと思いますよ。変わりません。」
とでも言おうものなら、クレームになる。
だからたとえ、難しい状況でも、全否定はしない。
人間の可能性は、無限なのだから、その可能性にかけるという意味でも、かならずポジティブな面を探す。

医者は不幸の予言をするが、教師は幸福の予言をする。

それは、命に関わることかどかの違いではないだろう。

どこまでも子どもの成長を信じての、発言なのだ。

もちろん医者だって、
「大丈夫です。きっと良くなります。」
と、宣言することもできる。
しかし、「統計学的にこのパターンだと十中八九治らない」、などと考えてしまえば、もはや医者自身が自分の言葉を真実ことはできず、言葉に重みもなく、ただの気休めになってしまうのだ。

心底信じられるからこそ、言葉に力が湧く。
その言葉の力が、周りの人を励まし、元気にし、善導する。

教師たる者、自分は不幸の言葉が多いのか、それとも幸福の言葉が多いのかを、時折チェックしてみるべきだろう。

不幸の予言者にならないためにも…。








2018年12月29日

足を引っ張ってはいけない

母校での教育実習中、大学のゼミの先生が実習の様子を見に来てくれた。
そのとき、
「おい丹澤。大学院への推薦、決まったぞ…。」
と言われた。

「ちょっと勉強が足りないな。もう少し勉強したいな…」、と思っていたところだったので、本当に嬉しかったことを思い出す。今となれば、ほとんど勉強せずに、修論提出間際では、非常に苦しい生活を強いられたのだが、それもいい経験だ。何年も前に退職したゼミの先生からは、年に二回のゼミコンパの案内が未だに届く。

ただ、進学に伴い、両親にさらに金銭的な負担を強いることなったことは否めない。未だに両親への恩替えしはできていないので、胸が痛む。

と言うわけで、教育実習の最中に、
「来年の非常勤講師の採用お願いします。」
などと、大胆なお願いをして、無事実習を終えることになる。

教育実習で学んだことは数多い。当時は、恩師が勢揃いしていたし、二年連続で数学の先生が担任だったこともあり、本当に学びの多い実習になった。

今だから思えるのだが、教員にとって卒業生が訪ねて来てくれることは、とても嬉しいことだし、ましてやその卒業生が、新人として戻ってきてくれることは、この上ない幸福を感じるものだ。

そういう意味では、非常勤時代(大学院時代)のたった二年間だったが、母校への多少の恩返しはできたのではないか、と思う。

まだまだ若かった私が、大した授業ができるわけではないが、生徒たちにも一生懸命さは伝わったようで、実習の時に書いてもらった生徒の感想や、非常勤時代の資料は、三十年以上経った今でも捨てられない。

だから、教員になって実習生を抱える立場になった時には、どうしてもハードルを上げてしまう。
「本気で教員になる気があるの?」
と、疑いたくなる人だっているわけだし、中には、
「この教育実習が、社会人になった時のいい経験になると思います。」
などと、平気な顔をして挨拶する強者だっている。

教員の仕事のブラック化が叫ばれている中、「人手不足だからで選んでいる場合ではない」、状態に陥りそうな気配だが、やはり私は、教育に情熱を向けられないならば、この仕事に就いてはいけないと思う。

だから、家族を犠牲にしたり、自分の時間のすべてをなげうってでも、生徒と関わる教員を私は非難することはない。「本当に、ありがとうございます」、と労をねぎらいたい。
学校には、一人や二人、そういう教員がいたっていい。

彼らは目に見えない徳を積んでいるのだろう。
勤務時間だの、法律だのを超越した、自己犠牲や奉仕の精神があるからだ。

だが、すべての教員にできることではあるまい。
だからといって、平均レベルや、レベルの低い方に合わせるように、足を引っ張ってはいけない。

私自身、教員になりたくて、教員になり、教員としての人生を過ごしてきた。

まだまだ元気なうちに、できる限り、その思いと、知恵を伝えていきたいと思う。








2018年12月03日

できるだけ早く退勤する 〜若手の先生方へのアドバイスE〜

教員になりたての頃は、教師のとしての仕事が何もかもが新鮮で、毎日が楽しく仕事をする。
だから、遅くまで学校に残って仕事をしたり、「生徒のために」、と凝ったプリントやら通信やら、ノートやらを作って、「喜び」に浸っているだ。
「若いんだから、頑張れ。」
などと、先輩教師からいい加減な声を掛けられ、ますます遅くまで学校に残ることになる。
そんなとき、管理職が遅くまで残っていると、ますます帰宅しにくいが、残って仕事をしている先輩教師から、いろいろなアドバイスを聞けるのも、こんな時で、ある意味貴重な時間であるとも言える。

だが、しばらくすると、「夢の教員になったものの、結構ハードだな…」、と思うようになる。
あれもこれもと仕事を抱え、一日では処理しきれないくらいの量になり、結果、仕事を家にまで持ち込む。

それでもあえて言いたい。
「いつまでも学校に残っていないで、早く帰りなさい。」

その仕事は、本当に必要なものなのか。教育委員会やら管理職からの仕事は、とりあえず置いておいて、自分の持っている仕事について、精査した方がいい。
「このプリントは本当に必要なのか。もっと時間を短縮できる方法はないのか。別のアイデアで代えることはできないか。」
そして、
「そもそも、やらなければいけない仕事なのか。」

私は、「部活指導を断りなさい」、とか、「上司に逆らいなさい」、などと言っているのではない。
「自分の持っている仕事について、無駄な部分や、不要な部分がないか。」
また、
「以前からやっていたことだから、と流れでやっている事の中で、やらなくてもいいものはないか。」
こうしたことを、まずは自分の仕事の中で検証してみることを勧める。

ある意味、クラス運営や授業は、自分の裁量に任せられている部分の多い教育活動だから、いろいろな事を試してみてよいのだが、「何も考えずにやっている」のだったら、まずはその効果を考えてみるべきだと思う。

その上で、
「ルーチンになっている事務仕事は、いかに素早く処理できるか。」
についても、工夫すべきであると思う。

「遅くまで学校に残っている先生が、いい先生であり、優れた教育者であるわけではない。」
ことは、断言したいと思う。
だから、できるだけ早く退勤できるように、工夫に工夫を重ね、いかに素早く終わらせることができるかを、考えて実行すべきだと思う。

私が新任の頃、先輩教師から、
「おい、帰るぞ。」
と、無理矢理帰らされた。と、言っても飲みに連れて行かれただけなのだが、今から思えば、いろいろな話を聞けた楽しい時間でもあった。仕事途中で困ったこともあったが、帰宅してやったこともあるが、やらなかったこともある。
やらなくても済む仕事は結構あるものだ。

常に仕事の内容を精査することを勧めたい。




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