アフィリエイト広告を利用しています

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2023年02月20日

悩みごと

「丹澤先生、どうやったら、悩みや苦しみ、困難を乗り越えられますか?」
中1のKが野球部ノートにそんな風に書いてきた。

彼は、最近やたらと私にアドバイスを求める。
特に、悩みごとがあるようには見えないのだが、何からの参考にしたいのだと思う。

たいてい、悩みにや苦しみに打つひしがれている人は、自分のことしか考えられない。
私もかつて、大きな人生の岐路を求められたとき、必死でもがいていた時期がある。
その時の私は、必死で「相手のことを考えて行動する」ことに徹したと思う。
つまり、徹底的に「利他」に生きようとしたのだ。

もちろん、そうした行動の中で自分を見つめる。
少しでも自分の心に「認められたい」という邪な思いがあるならば、それを払拭しようとして、そしてまたもがく…。

そんなことを何ヶ月かすると、いつの間にか、「自分のことばかりを考えていた」自分から脱却して、なんだかすっきりしたことを思い出す。

基本的に、悩みの時には、「他の人のための行動をしつづける」のが良い、ことを学んだ。

このことは教育活動にも活かすことができる。

思春期という年齢期に、悩みを持たない人はいない。
その中で、大人として、経験者として、適切なアドバイスなり、解決の道を導くことができるならば、それは教師冥利に尽きる。

もちろん一筋縄ではいかない。

時に寄り添い、時に叱責して、それでもなお、見捨てない。
場合によっては、「時を待つ」ことも必要になるだろう。

あまりの自己中と我がままに諦めそうになったときには、自らを振り返り、何かよ老い方法がないか考えてみる…。

そんなことを繰り返しているうちに、結局、自らの悩みなど、いつしか吹き飛んでしまっている自分がいることに気づく…。




2023年02月10日

次年度の人事

私立学校では、この時期に次年度の人事が内示されることがしばしばある。
入学説明会など、新年度に向けた仕事が次々とやってくるからだ。

そんな折、校長の一言は、私たち教員たちを励まし、やる気を引き出させてくれた。

「今、私は来年度の配置を決めています。それを考えれば考えるほど、皆さん方、一人たりとも欠けてははならない存在だと思うに到りました。皆さんがいろいろな所、いろいろな場面で仕事をしているから、学校として成り立っているのです。誰一人と欠けてはならない皆さん方を、私の考える適材適所に配置させていただきますので、今少し待ってください。」

私はこの言葉を聞いて、「私もまだ必要とされる人間なんだ」と思うと共に、「この校長なら、もう少しご奉仕してもいいのではないかな…」と感じるに到った。

校長の一言で、多少のやる気が出るのだから、私自身単純といえば単純だ。

だが、組織ではこうした配慮も必要だろう。
「やる気を引き出す」ことも、上司にとって大切な仕事の一つなのだ。

歳をとっても、「まだ、何かできることはないかな…」、と奮起できることはありがたい。

幸い定年までは今少し余裕がある。
「仕事がある」ということは、この上なくありがたいことでもあるのだ。

生徒との年齢差は開くばかりではあるが、今少し、お役に立てることはあるようだ。

公立校のような60歳定年ではないのだか、生涯現役を目標にもう人分張りしてみよう。

口だけの老害にならないよう、心して務めようと思う。




2023年02月09日

クレームは宝の山

かつて、商売においては、「お客様は神さまである」とされた。
その後、激しくしつこく苦情を言う人を、クレーマーと名付け、ある意味ブラックリスト化した。

私の学校では、『クレームは宝の山である』と徹底されている。学校としては珍しい方かも知れない。

かつて、「モンスターペアレント」と言われるほど、保護者の叛乱(?)が続いた学校現場だが、このところ、少し落ち着いてきているように見える。

大昔のように、親たちが教師を尊敬する時代ではなくなり、親の高学歴化などにより、今や、対等もしくは、自分より教員を下に見る傾向があるようである。

一方で、教員の不祥事ばかりが報道され、ますます親たちの不振は増すばかりである。
あってはならないことではあるのだが、ごく一部の出来事を、大きく大きく報道する姿勢によって、学校現場および教員たちが、どれほど苦しい思いをしているかは、マスコミは知る余地もなく、またお構いなしだ。

教育は国の礎を担うものなのだから、もっと気持ちよく、やりがいを感じられる環境になって欲しいと思うのは、私だけではないだろう。

もちろん、公務員としての身分に甘んじて、自らにも甘い生活をしている方も、一定数はいるものと推察される。

「熱意ある教員が、熱意ある指導」を行うことのできる環境を作ることも大切だろう。
そうした環境も、教育活動には重要なファクターになる。

一方で、教員そのものが、人格者であり、人徳者であることも、求められるべきことだ。
そうした漏れ来る光が、保護者や生徒たちの信頼を得るに到るはずだ。

親たちのクレームの中には、確かに度を超えたものもあるが、そこには納得できる部分もある。たとえ、それがほんの数パーセントであったとしても、その意見は、学校現場にとって貴重な改善項目になり得る。

その意味では、「クレームは宝の山」なのだ。

学校(教員)は、そう思えるような、広く、素直な心と、心の余裕も必要だろう。

「自分は悪くない」と思う心が自己保身を生み、健全なる進歩を妨げる…。





2023年02月08日

受験のプレッシャー その2

我が校では、系列大学に進学するにしても、原則外部の大学を受験し合格することが求められている。

高三年生にとっては、これもまたある種の「プレッシャー」であろうし、それを乗り越えてこその、高校修了ということになるのだろう。

久しぶりに高3のFに声を掛けた。

「どこの大学受験するんだ?」
すると彼は言う。
「いやぁ…、急に受験しなくなったんですよ。」
「あれま、どうして?」
「受験しに行って、コロナになるのはバカらしいので、『親が受けるな』って言うんで…。」

確かに、受験会場では多くの受験生が各地から参集するので、感染リスクは高くなるのだろう。その上、万一感染した場合は、2類であるうちは、さらに面倒なことになる。

私は、そういう考えもありなのか…、とビックリした。

彼の親は医療関係者。これまで難度も、学校にいろいろな提言をしてきた。
彼も、親の言うこことは絶対であるのだ。

彼はもう18歳。成人だ。
そろそろ親離れをしてもいい頃だと思うが、もしかしたら、「受験のプレッシャー」に耐えかねたのかも知れない…。

「まあ、決まったのは一週間前くらいなんですけどね…。」
彼は笑いながらそう言って去って行った。

受験のプレッシャーに解放された彼は、毎日、学校の周りを走っている…。
運動をして、免疫力を上げることもコロナ予防なのだから、またそれもよしとするか…。




2023年02月01日

受験のプレッシャー その1

入試は子どもたちにとっての一大イベントである。

たいていは15歳の高校受験が最初だが、私立学校の場合は、小6での12歳が中学入試に臨む。

ほぼ全員が受ける高校受験の場合だろうが、子どもたちに採っては、目に見えぬプレッシャーに潰されそうになっている人は多いだろう。ましてや中学受験ともなれば、その精神的圧力は、親子共々相当なものだ。

プレッシャーは、試験へのプレッシャーばかりではない。
家庭内での親子間、兄弟間のプレッシャーもあれば、親戚間でもそうしたプレッシャーは起こりうるだろう。

そんなプレッシャーを乗り越えて、多くの子どもたちが受験している。

私の学校でも、中学入試に引き続いて、高校入試も終わった。
合格発表も終わり、現在手続き期間中である。

受験生には、それぞれのドラマを経て、入学してくる。
そうしたドラマは、その生徒と深く関わらないと分からない。
しかし、どの生徒も、その大小はあるが、少なからず試練を乗り越えてきていることは事実だ。

「お前がその学校に入学するというなら、お母さんと離婚する。それでも良ければ勝手にしろ。」

以前そう言って、中3の子どもに入学を思いとどまらせようと擦らした父親がいた。
一方で、母親は、何としても息子を学校に入学させたいのだ。
もちろん当の本人も、小学5年の時から、ずっと希望していた。6年生での受験は、同じように父親から許可されなかったが、その後もずっと入学を夢見て、努力を続けてきたのだ。
「学校で成績が一番になれば…」、「生徒会長として皆のリーダーになれば…」などと次々と父親から難題を与えられたが、すべてそれをクリアしてきた。その上での、高校受験であった。

幸いなことに、彼は母親の一大決心により、無事入学を果たす。

父親はその後、気持ちが変わり、仲の良い家庭であるようだが…。





2023年01月18日

愛の鈴

中2の立志式に向けて、地元の更生保護女性会の方が、「愛の鈴」をご寄贈いただいた。

毎年市内の中学二年生全員分の鈴を手作りして、学校に届けて下さる。
コロナ禍になって、ここ数年、当日の参列はご遠慮されているが、本当ならば見届けたいだろうと思う。

青少年が健全に育ち、大人へと成長していくことは、社会にとってとても大切なことだ。
子ども時代には分からないだろうが彼等を、暖かく見守っている人がたくさんいる。

この地域はどちらかと言えば田舎だが、まだ、「地域として地元の子どもたち育てていこう」という風潮は色濃く残っている。

今日、代表の生徒たちに受け取りをしてもらったが、彼等は「愛の鈴」がどんなものかも知らない。しかし、その鈴を見れば、どれだけ手を掛けて一つひとつ手作りし、思いを込めているかが分かるだろう。

人は「愛」をむげにすることはできないのだ。
そしてまた、たくさんの「愛」感じた人は、自分もまた、「愛」の分かる人になる。

学校の教員は、どちらかというと「無償の奉仕」という意味合いが大きい。
一筋縄ではいかない生徒たちを、根気強く、諦めずに、善導する。
恐らくは、そうしたことに「生きがい」を感じ、喜びを見いだせなければ、たとえ仕事とはいえ、教師として続けていくことは難しいのだろう。

女性会の方々は、穏やかで、優しく包み込むような雰囲気があった。
生徒たちも、それを感じ、自然に笑顔になる。

私は、そこに目に見えない「愛」を感じた。
その何かを感じた彼等が、立志式の本番で、いただいた「愛の鈴」について語る。

こうして「愛」が伝播していく。

心込めて、思いを込めて、時間をかけて…。
一見、非効率に見えるその中に、たくさんの「愛」が溢れている。

もしかしたら、人間の人生そのものが、「愛探しの旅」なのかも知れない…。




2023年01月13日

部活再開

始業式の五日後、ようやく部活が再開した。
昨今私は、長期休業の宿題が未提出の部員がいる限り、部活を停止することにしている。今回は、丸四日かかったということだ。

いまから数年前は、宿題を提出せずに始業式後の練習を迎えるような生徒は皆無だった。
皆が、「宿題を出さないとヤバいぞ!」というムードを持ち、一方で、「宿題をやらないと部活ができないぞ。そんなのは嫌だ」と思い、チーム全体としても、「宿題やきちんとやって、期限に出すもの」というムードが自然に拡がっていた、のだろうと思う。

世の中も学校も極端な「個人主義」に走っている感じだが、チームプレーの場合、時に「連帯責任」的部分がないと、チーム作りは難しいのだ。

時々、「私は個性、個人を重視している」とのたまう監督御仁がいる。それでチームをまとめ上げているとみられているのかも知れないが、本質はそうではあるまい。

今回、数少ない部員のうち2人が宿題が提出できなかった。これは全体の三分の一にも達することで、当然他の部員もその怠け者ぶりに引っ張られてしまう。

しかし私は、彼等を強く指導することができなかった。
どちらも生徒も、少し私が強く指導すれば、そのまま落ち込み、ブラックホール化し、自分を責め続け、時に壁を殴り、蹴飛ばし、あちらこちらを壊してしまう、そんな生徒なのだ。

私は、そうしたエネルギーを野球にぶつけて欲しいと願う。
まさに、祈るような気持ちだ。

体を動かし、大声を出せば、ストレスの発散にもなるし、だいたいスポーツをしている時は、嫌なことも忘れられる。部活動にはそうした効果もあるだろう。

…幸いなことに、全員がそろって、元気よく練習ができた。
気候もさほど寒くない。
入試の関係で、午後の授業がなくなり、日没を心配することなく、白球を追いかけた。

昨今は、こんなだましだましの部活が続いている。

やりにくい時代になったものだ。

2023年01月10日

宿題提出

いよいよ三学期が始まった。

私自身、年末年始は、ほとんど隠遁生活を行っていたので、久しぶりに生徒たちの姿を見た感じだ。やはりほっとする。と、同時に喜びも感じる。

新学期になって悩ましいのが、宿題の提出である。
このところ、「宿題を出さない」生徒が増えてきた。
以前の私ならば、徹底的に追及し、やや高圧的にもなり、また懇々と諭し、何とか宿題を提出させるべく動いたのだが、どうも一筋縄ではいかなくなっている。

「丹澤先生すいません。宿題が出来ていないからと、学校に来れないみたいなんです。」
若手の先生がそう私に告げる。

若かりし頃の私ならば、そんな間抜けな理由は許さなかったが、私も少し歳をとったのだろう。「あ、そう…」と言って受け流す。

要は、宿題未提出の彼(彼女)について、要らぬ追及はするな、ということなのだろう。

学校はチーム戦だから、本当はいろいろな先生たちが、いろいろな指導をしていい。
もちろん、向かうべき方向、ベクトルが逆向きであると、生徒も親も混乱はするだろうから、そうした最低限の調整はする。しかし、たくさんの先生が、その生徒にかかわり、指導をし、結果、教育効果が上がっていく…。そんなスタイルを学校では行ってきた。

世の中、社会も個人主義が強くなり、「個性重視」というお題目の下、いつしか学校でもそうした傾向に侵食されてしまった。

時には、まるで腫れものにでも触るかのように生徒に接することもある。

私はある意味、教育の放棄だと思うが、先生たちの人間なので、「あれもダメ、これもだめ」と制約を受ければ、かつての情熱も吹き飛んでしまうのだろう。

結果、担任やら学年主任の負担がさらに重くなり、その他の先生たちは、「見て見ぬふり」状態に陥りやすい。

いわゆるチーム戦の崩壊である。

たかが宿題、されど宿題。
その奥には、教育スタイルそのものの問題が潜んでいる…。

2022年12月12日

試験を終えて

気がつけば期末試験も終わり、「いよいよ学期末」というような雰囲気になってきた。
私自身、今回、試験の採点をしながらいろいろ考えた。

「これほど長く教員生活を送っているのにもかかわらず、私はなんと教え方が下手なのだろう…」と。

あれほど復習したのに、あれもこれも、全然解いてくれない。

何だが、教えても教えても、そのまま抜けていくようで、「ざる」どころか「つつ(筒)」状態なのだ。

授業中私の話を聞いているようで、実は、ただただ静かに座っているだけなのではないか。
頭の中は、別のことで一杯で、何も聞いていないのではないか。

中一のクラスの採点をして、私はそんな風に考えてしまった。

そうなると、採点のモチベーションも下がる。なかなか遅々として進まなかった。

考査が終わると、残り五回ほどの授業がある。
私は、この期間をすべて試験のやり直しに充てることにした。
二種類の試験で、何時間かかる分からないが、一つひとつ、初めて教えるつもりで、ていねいに解説して見ようと思っているいる。

それが私の、せめても罪滅ぼしだ、

ふと考える。

私自身、「授業をすることが楽しくないのではないか」、と思う。
惰性で授業をし、ただただ時間を潰しているのではいか。
かつてのような熱意が、私の中から抜け去っているのではないか。


「丹澤先生、次は絶対頑張りますから…」
果たしてそういうことを言う生徒がいただろうか…。

たとえ授業が楽しいと、多くの生徒が言っても、実力を付けさせなければ、彼等の満足度は上がらないし、保護者のニーズに応えていることにはならないのだ。

猛省せねばなるまい…。

2022年12月01日

合唱コンクール

中学校の合唱コンクールが終わって、一週間ほど経つ。
私は今年も撮影係だった。
今年もクラスの指導は一切していない。

思い返せば、中3の学年合唱「大地讃頌」が秀逸だった。
以前からしばしばこの曲を中3が歌うが、これほどまでに上手だった年はない。
まさに「感動」そのものの合唱になった。

合唱で「感動」を生むためには、いくつかの要因がある。
一つは、一体感。さらには、ハーモニー。いろいろと音楽的な要素はもちろんだが、大切なのは、「その曲と歌詞をどれだけ理解しているか」ということだ。

今回、彼等の歌はこれらをすべて満たしていたが、さらに特筆すべきは、彼等の思いが『感謝』 の思いで満ちていたことだ。
もしかしたら、これこそが、「素晴らしい歌声」の必要不可欠な条件なのかも知れない。
こうした「感謝」の集合想念が、歌声をさらに高め、聞く人に幸福感と感動を与えるのだろう。

私は、「ブラボー」という言葉しか見つからなかった。
おそらくは、中2、中1の後輩たちも、あまりのレベルの高さにビックリしただろう。

合唱コンクールでは、クラス曲に加え学年毎の学年合唱曲がある。審査の対象になるのは各クラスで選んだ曲だ。

今回、中2のレベルが高く、クラス曲も秀逸だった。
通常は中3のクラスが優勝するのだが、今回は中2が優勝した。

中3のクラス合唱は、どうやら難しい曲を選びすぎて、仕上がらないうちに本番を迎えてしまったようだ。
難曲に取り組み、最後まで諦めずに歌い続けたことは偉い。

例によって、私はカメラのファインダー越しに涙した。

彼等がマスクをはずして歌えたら、どんなに良かっただろう…。

感動をありがとう。
ファン
検索
<< 2023年09月 >>
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
最新記事
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
丹澤三郎さんの画像
丹澤三郎
プロフィール
リンク集
おすすめ
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。