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2019年12月06日

瞋の心

『瞋(じん』とは、怒りのことである。
仏教では、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)を心の三毒と言い、抑え、コントロールすべき欲望として、修行者の心得とされてきた。

教育界では、古来より「『叱る』ことと『怒る』ことは違う。生徒を教導する時は、『叱る』のであって、決して怒ってはいけない」、とされる。

たとえ、顔が笑っていようとも、心の中に『瞋』、すなわち『怒り』の心があるならば、それは、叱ったことにはならず、心の底では怒っているのである。

また、逆に、顔は怒りに満ちていたとしても、心が平静で穏やかであるならば、これは『瞋』ではなく、『怒り』ではなく、教育者として叱っているのである。

ここ十年来、私は『瞋』の心を抑えるべく、注意して生徒指導に当たってはきたが、この『瞋』の心をコントロールするのは、そうたやすいことではない。

「怒っているのではない。叱っているのだ」、と心では思ってはいても、指導のときに、心の奥底で何かワサワサする部分があれば、それはやはり怒っているのであり、『瞋』の心が芽を出しているのだ。

今朝、全校朝礼で明らかに寝ていると思われた寝ている生徒を起こした。
とんとん、と肩を叩いたら、すっと起きた。
以前の私ならば、自分の学年やクラスの生徒を、もう少し力を込めて起こしていたように思う。
だが、今朝のそれは、私自身の心が穏やかで、なんのわだかまりもなく、当然心がワサワサすることもなかった。

「ああ、これなんだ…。」
と、自分自身で納得した。
最近、そうした場面がたくさんある。

自分自身の心が穏やかであると、どんなに厳しい言葉を言ったとしても、冷静に叱ることができ、生徒は自らを省みるように思える。そうでないと、生徒が素直に指導を受け入れず、逆に反発することすらある。

「教師も人間なんだから、怒って当然だろう。」
という意見もある。
その通りだと思う。人間そうやすやすと、『怒り』の心をコントロールできるものではない。
生徒にとっても、本気で先生が怒っているのだ、という姿を見ることは、人生経験としても大切なことだろう。

だが一方で、教え諭す、という観点から見ると、やはり指導の際は、心穏やかな方がいい。
その方が、生徒たちの心の奥底に、言葉が染みていく…。

もしかしたら、それこそが真の教育なのかも知れない。

そうは言っても、私自身、なかなか『瞋』の心をコントロールできないのだが…。




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