2019年02月02日

教員としての自覚

都市部の中高一貫の私立学校は、とかく休みが多い。
この休みとは、主として生徒が休みの日ではあるが、教員にとっても何となく、気が抜ける日であるかも知れない。

例えば、定期試験が終われば、採点日と称して休みになる。採点が終われば、成績をつけると言って休みになる。生徒には自宅学習日と言っているが、要は授業をしないで、先生方の事務処理に当たるという日である。その間、部活動を行っている学校もあるが、生徒にとって完全に休み、という学校も多い。

私が以前努めた学校は、土曜日も授業があった。
当時は、土曜日は授業をするのが当たり前の時代で、その後、週2回になり、そして公立学校は休みになった。

その流れを予測してか、組合を中心に、『研修日』なるものを要求し、週に一度、平日もしくは土曜日に教員が休みを取れるようになった。

大義名分は、「教員が各自、教材研究等、自己研鑽を行うことで、よりレベルアップした満足度の高い授業、教育が行われる」はずだ、という考えに基づいている。

確かにその通りで、自己研鑽の時間は絶対に必要だとは思う。

しかし、それを当然の権利として主張して、それによって時間割まで調整しなければいけなくなるのは、ちょっとやり過ぎだと思っていた。土曜日が休みになって、おそらくこの『研修日』制度はなくなったであろうと思うが、新人時代の私は違和感を覚えた記憶がある。

都市部の中高一貫私立学校では、部活も週3回になったり、長期休暇も長かったりする。
このあたり、公立学校との差が著しい。

『「土曜日も部活があり、日曜日も大会で先生は顔を出していた。試験の採点も自宅に持ち帰って、夜中まで仕事をしていたようだ」、というこのような教員の姿が、目に見えぬ尊敬となり、教員は聖職者であると言われた所以でもある。』
という話を聞いたことがある。

現代の多くの教員は、同意どころか、反発さえ感じるとは思うが、昨今の教員の指導力不足と言われる背景には、尊敬を失いつつある教員の姿、聖職者であることを拒否している教員の姿があると思われる。

保護者のほとんどが高学歴になった今、尊敬を得るにはプラスアルファの部分がなければならない。

それが、「徳」であったり「自己犠牲の精神」であったりするのだが、『権利』ばかりを主張すると、そうした美しい姿は消え去ってしまうわけだ。

教師が労働者になってしまったら、教育の質は低下する。
労働者としての意識があると、『ブラック』と呼びたくなるものだ。

日本の教育は、先人たちの多くの自己犠牲によって、作られ、継承されてきた。
彼らは時間を切り売りしようとする意識はなかっただろう。

教育は国の基だ。
それに携わらせていただいているという自覚を、もっと持つべきではないだろうか。

日々、自己研鑽し、学び続ける姿。
自ら徳を磨いてゆこうと努力し続ける姿。
教育にすべてを捧げようという気概を持ち続ける姿。

こうした教師が、尊敬される教師であり、聖職者なのだと思う。








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