「家族を呼んでください。今夜が山場なので、覚悟しておいて下さい。」
要は、今晩命が終わる可能性があるという、死亡宣告のようなものである。
この予言(?)が、外れても、医者は責められることはない。むしろ感謝すらさせる。
また、この予告通り、死んでしまったとしても、
「やっぱり医者の言うとおりだった…。」
と、これまた責められることはない。
医者は自らの立場を護るために、最悪のことを言っておくのだ。
先日も、そう宣告された同僚が、医者の予想に反して回復し、昨日から職場復帰した。
「静養中は、同じニュースを一日三回ずつ見て暇だった。」
と、笑いをそそる様は、以前の彼と何ら変わらない。
ひととき危篤であったことなど、信じられない回復ぶりだ。
こうした関係者は必ず、「医者の言葉を信じてはいけない」、と言う。
一方教員の世界ではどうだろう。
「先生、うちの子良くなるでしょうか。」
と、保護者に尋ねられたら、ほぼ間違いなく、
「大丈夫です。必ず良くなります。信じて待ちましょう…。」
と言うに違いない。
逆に、
「もう無理だと思いますよ。変わりません。」
とでも言おうものなら、クレームになる。
だからたとえ、難しい状況でも、全否定はしない。
人間の可能性は、無限なのだから、その可能性にかけるという意味でも、かならずポジティブな面を探す。
医者は不幸の予言をするが、教師は幸福の予言をする。
それは、命に関わることかどかの違いではないだろう。
どこまでも子どもの成長を信じての、発言なのだ。
もちろん医者だって、
「大丈夫です。きっと良くなります。」
と、宣言することもできる。
しかし、「統計学的にこのパターンだと十中八九治らない」、などと考えてしまえば、もはや医者自身が自分の言葉を真実ことはできず、言葉に重みもなく、ただの気休めになってしまうのだ。
心底信じられるからこそ、言葉に力が湧く。
その言葉の力が、周りの人を励まし、元気にし、善導する。
教師たる者、自分は不幸の言葉が多いのか、それとも幸福の言葉が多いのかを、時折チェックしてみるべきだろう。
不幸の予言者にならないためにも…。


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