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2019年12月08日

指導者講習会で

地区の専門部主催の野球の指導者講習会があった。昨年くらいから、教員だけではなく、生徒も参加できるようになった。
講師の先生たちも、教員相手より、生徒がいた方が楽しいはずだ。

私は、昨年の記憶がないので、おそらくは学校行事と重なり参加でいなかったのだろう。

今年は、私も生徒を連れて講習会に参加した。
昨日の土曜日は座学で、今日日曜日が実習。
講師の先生方は、三重から来て下さった高校や球界の重鎮。

私としても新たな発見がたくさんあり、学び多い講習会になった。

「野球部はきびきび動く」、というのが世の通例だが、どうしても私の学校の生徒たちは動けない。
彼らも学校内では、きっちりしている方なのだろうが、外に出ると、途端に見劣りする。
まだまだ全然駄目なのだ。
校内だと、のんびりムードが当たり前で。また、野球部以上にきっちり活動している部活もない。
その中で、さらに上を目指させるのは、容易ではないのだが、このように外部に連れ出すと、途端に恥ずかしい行動が起こる。
移動も遅ければ、準備も遅い。

開講式の時、最後に一人だけ遅れてきたのは、私の学校の生徒だった。
日常生活でもギリギリ生活で、部活にもしばしば遅れてくる副キャプテンは、こういう時にこそ、大きなポカをするのだ。

もちろん、その責任は私自身にある。

さすがに整列くらいは出てきていたが、練習中に集合がかかったときには、姿が見えない。
彼らは一番後ろにいるのである。
「はい、キャッチャーやりたい人!」
と、そう講師に促されても、手を挙げることなく、「誰かが出ればいい…」、と思っているふしがある。

「積極的に前に出て、講師に顔を覚えてもらうくらいでないといけないんだよ。 」
「他の人にアドバイスされたことは、自分のことだと思って聞くんだよ。」
「自分でお金を出して講習を受けていても、そういう消極的な姿勢なのかな…。」

などと諭してみたが、反応は今ひとつ…。

単独チームになり、新たな伝統を築いているところ。
厳寒期に入り、野球はどちらかと言えばオフシーズン。
このときにこそ、いろいろなことができるものだが、モチベーションアップには、通常よりもエネルギーがいる。

「僕たちにはレベルが高すぎますね。」
「左キャッチャーじゃあ、恥ずかしいじゃないですか…。」
「スパイクを履くか、履かないか分からなく……。」

まず言い訳が出るうちは、上達は望めない。

これも、私の責任。

カワセ係長のメルマガ




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2019年12月07日

試合で勝つために

バレーボールでアタックをして相手チームが返せないと、点数が入るのだが、そのときにネットに手を触れてしまうと、その点数は無効になるようである。

その際には、アタックをした選手は、ネットに手が触れたことを正直に審判に申告すると、『フェアプレーカード』なるものがもらえるのだそうだ。

近隣のY先生が、小学校のバレーの試合の審判をしていた時、そうした場面があった。
審判は、ホイッスルを吹き、腕を差し、点数加算を宣言した。
すると、アタックをした選手が審判の元にやってきた。
「あの、今のはネットタッチです…。」
審判がすかさず言う。
「あのね。審判が点が入った、と言っているのだからそれでいいんだよ。」
選手は戻ると、今度はチームの監督がやってきた。
「選手の申告があったので、そのようにジャッジしてくだい、」
と言う。

結局、そのチームは敗退。
アタックした選手の手元には、フェアプレーカードだけが残った。

「負けたけれど、フェアプレーだったよね…。」
監督はそう言ってチームに声を掛けるのだろうか。

当日審判をしていた近隣の先生曰く。
「俺だったら、フェアプレーカードより勝ちが欲しいね。やるからには勝たなきゃ。勝たせるのも監督の務めだ。」

審判は人間がやっているのでミスもある。
「選手には審判が絶対だ」、と指導している。
たとえ明らかなミスジャッジだったとしても、一度ジャッジした判定は覆らないので、不運だったというしかない。

そんなときでも、
「セーフでしょ…。」
と監督が向きになって叫べば、チームの士気を上げることはできる。
本来は「ずるい」行為なのだが、「監督の勝ちにこだわる姿勢」をチームに知らしめるには、有効な方法ではある。
Y先生は、そういうことをするタイプの方だ。

娘のバレーボールを応援しに行き、審判を務めたそうだが、
「あれで、上位大会進出がなくなってしまった…。」
と、落胆のご様子。

私としては、何ともコメントのしにくいお話であった。

カワセ係長のメルマガ




2019年12月06日

瞋の心

『瞋(じん』とは、怒りのことである。
仏教では、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)を心の三毒と言い、抑え、コントロールすべき欲望として、修行者の心得とされてきた。

教育界では、古来より「『叱る』ことと『怒る』ことは違う。生徒を教導する時は、『叱る』のであって、決して怒ってはいけない」、とされる。

たとえ、顔が笑っていようとも、心の中に『瞋』、すなわち『怒り』の心があるならば、それは、叱ったことにはならず、心の底では怒っているのである。

また、逆に、顔は怒りに満ちていたとしても、心が平静で穏やかであるならば、これは『瞋』ではなく、『怒り』ではなく、教育者として叱っているのである。

ここ十年来、私は『瞋』の心を抑えるべく、注意して生徒指導に当たってはきたが、この『瞋』の心をコントロールするのは、そうたやすいことではない。

「怒っているのではない。叱っているのだ」、と心では思ってはいても、指導のときに、心の奥底で何かワサワサする部分があれば、それはやはり怒っているのであり、『瞋』の心が芽を出しているのだ。

今朝、全校朝礼で明らかに寝ていると思われた寝ている生徒を起こした。
とんとん、と肩を叩いたら、すっと起きた。
以前の私ならば、自分の学年やクラスの生徒を、もう少し力を込めて起こしていたように思う。
だが、今朝のそれは、私自身の心が穏やかで、なんのわだかまりもなく、当然心がワサワサすることもなかった。

「ああ、これなんだ…。」
と、自分自身で納得した。
最近、そうした場面がたくさんある。

自分自身の心が穏やかであると、どんなに厳しい言葉を言ったとしても、冷静に叱ることができ、生徒は自らを省みるように思える。そうでないと、生徒が素直に指導を受け入れず、逆に反発することすらある。

「教師も人間なんだから、怒って当然だろう。」
という意見もある。
その通りだと思う。人間そうやすやすと、『怒り』の心をコントロールできるものではない。
生徒にとっても、本気で先生が怒っているのだ、という姿を見ることは、人生経験としても大切なことだろう。

だが一方で、教え諭す、という観点から見ると、やはり指導の際は、心穏やかな方がいい。
その方が、生徒たちの心の奥底に、言葉が染みていく…。

もしかしたら、それこそが真の教育なのかも知れない。

そうは言っても、私自身、なかなか『瞋』の心をコントロールできないのだが…。




2019年12月05日

食事会

試験中の日中、学年で食事会が行われる。
今日は今年度に入って三回目の食事会になる。
一回目は、5月に予定されたが、急に生徒指導が入り中止になった。このときの私は、実家から母が出てくるというので、欠勤していた。
二回目は、10月だったが、試験問題が間に合わない先生もおり、全員そろっての食事会ではなかった。

今回、ようや学年のスタッフ全員がそろった。
私の学校は、時間勤務が緩いので、こうして途中皆で抜け出して出掛けることができるのだ。
6時過ぎから仕事をしている先生もいれば、夜中の12時過ぎまで残っている人もいる。
いわゆる世間的に勤務時間が設定されていない職場なのである。
だから、仕事に併せて自由に時間給が取れる。

いわゆる「飲み会」が一切ない私の学校にとって、こうした学年会はとても重要だ。
ちょっと職場を離れて、おいしいものをいただきながら、とりとめのない会話をする。
そうした時間が、ある意味、リフレッシュにもストレス発散にもなるわけだ。

かくいう私も、しゃぶしゃぶを食べながら少し気分がよくなり、若い先生たちに、これまでの教員生活の話をしてしまった。

思い返せば、自慢話のようにも聞こえるわけで、まさに『老害』であろうが、何かしら参考になることがあれば、私自身も報われる。

私自身、たくさんの趣味があるが、熱しやすく冷めやすい性格なので、どれも大成したことがない。
いろいろなことに手を出し、そこそこできるようにはなるのだが、その先の一歩が踏み出せない。

継続の力が習慣の力となって、そこに第三者の引き上げがあってこそ成功への道を歩めるのだろうが、なかなかうまくはいかない。

いろいろなことに手を出したおかげで、多くの知識を得て、生徒たちへの話の土台にはなっている。
それがせめてもの救いだ。

学校に戻ったら、十数人の中1が遊んでいた。
明日は、期末考査最終日なのだがある意味、彼らは、勉強からの現実逃避だろう。

私は、勉強している中2に声を掛け、愛犬の散歩に連れ出した。

みるみる日が沈み、西の空にあかね色のグラデーションができる。
程なく宵の明星の金星が輝き始めた。

「丹澤先生、犬たち、めちゃくちゃかわいいですね…。」
果たして彼らは、リフレッシュか現実逃避か…。

ただ惰眠をむさぼるのではない、なかなか充実した午後のひとときになった。




2019年12月04日

お金の匂い

先日、茨城県のブランド牛の酪農家が紹介されているテレビ番組を見た。
案内をしてた牛舎の先代の奥様がレポーターに話した言葉がとても印象的だった。

彼女はレポーターに、
「いい匂いでしょ。」
と言ったのである。

牛舎は牛の糞尿などで強烈な臭いがする。
その都度世話をしても、その臭いはなかなか取れるものではない。
初めて牛舎を訪れた人は、けっこう面くらう。

本来なら、「臭いでしょ…」、と言うべきもの。私は逆説的に、自虐的に言ったのかと思ったのだが、実はそうではなかった。

彼女は続いて言う。
「これがお金の匂いだ…。」

これには脱帽した。
「さすが!」、と言うしかない。八十を超えた彼女の言葉には力がこもっていた。

私の学校は田舎にあるので、引率をしていると、時々牛舎の前を通ることがある。
そのたびに生徒たちは、
「くせ〜。窓閉めろ。」
などと、酪農家にはきわめて失礼な態度で大騒ぎする。

私が運転をしているときは、そうした態度をたしなめるが、臭いは隠せないので、なかなか意識改革することは難しい…。

しかしこの言葉は、それ以上の力を持っている。

数十万で仕入れた子牛を、二年あまり育てて出荷する。
価格はおそらく二百万程度にはなっているのだろう。

八十過ぎた老婆が、自ら焼いた牛肉をバクバク食べる姿も、カルチャーショックだった。

世の中には苦しい仕事もある。
それを教えるのも、私たち教員の務め。

いろいろな仕事によって、世の中は支えられている。
より好みすることなく、仕事に従事しなければいけない人がほとんどだ。

365日休みなし、24時間体制の牛舎での仕事を、生徒たちに経験させたいと思う。

彼らが私たちの食を支えているのだ。





2019年12月03日

『盗癖』のある生徒

『盗癖』のある生徒が、その習慣から抜け出すのはなかなか難しい。

私も、長い教員人生の中で、『盗癖』を持つ多くの生徒たちと出会ってきたが、『盗癖』を克服し立ち直って行く生徒は極めて少ないように思う。

一時期、その行為が抑えられたとしても、ある時突然、その癖はよみがえる。

泣いて謝罪しても、ほとぼりが冷めた頃には、また人の物を盗ったりする。
そしてまた、ペナルティが与えられることになるのだが、そうした盗みを重ねると、私立学校の場合は、たいてい学校を追い出される。

転校慫慂であったり、退学であったりする訳だ。
「もう、学校としては指導の限界です。」
という意思表示でもあるのだろう。

確かに、『盗癖』は、学校現場によって培われたものではないようだ。
幼い頃から、そうした傾向があり、折に触れてそうした行為を重ねてきたはずだ。
大方の親はそのことを知っている。
そして、そのたびに叱り、指導してきたのだろうが、しばらくすると、また同じことをする。
そのサイクルの中で、学齢が上がり、今度は学校で『盗』に及ぶわけだ。

そうした人の特徴は、「人のものは欲しくて欲しくて仕方がないが、自分の大切なものを他の人にあげようという気持ちはない」、のだ。

人のものは、「いいな…」、と言ってうらやましがる。
そして、その気持ちがある一線を越えると、それを盗って自分のものにしようとする。
見つからず、自分のものにできれば、またその行為を繰り返す。
見つかって、痛い目にあっても、またしばらくすると、同じようなことをする。

「人のものは俺のもの。自分のものは自分のもの」という意識が強く、人から奪うことばかりを考えてしまうのだ。

「どうしてうちの子が、そんな風に育ってしまったんでしょうか…。」
そんな風に言う保護者も多い。

我々教員側としては、恐らく、「最初の盗みの時に、それを発見し、厳しく叱り、しつけることができなかった」、と考える。

ある保護者が、『盗』をした息子に言う。
「あなたは、動物のようだわね…。」

この言葉は思い。
基本的に動物は、他の人から『奪う』ことばかりを考えてしまう。
たとえ他のものから奪わなければ、生存競争を生き抜いていけないのだ。そういう本能がある。

人間は、これを克服したとされるが、実はその傾向を持っている人は、潜在的には多いようだ。
精神的に幼い学齢期には、そうした行為が実際起こってしまう。

仏教的には『畜生道』に堕ちるということなのだろう。

本人の理性が、本能を抑えられるようになるまで、こうした行為は続いていく。








2019年12月02日

200倍

「持っている財布の値段の200倍が、その人の年収になる」ということを聞いた。

数千円の財布しか持っていない私の場合、この理論は当てはまらないのだが、この話はとても意味深い。

例えば、2万円の財布を持っている人は、年収400万円。10万円の財布を持っている人は、年収2000万円ということになる。

調査により、統計的にこのようになっていたいうわけだが、この結果にはもう一つの側面がある。
それは財布の持ち主の意識の問題だ。

たとえば、「今、5万の財布を持っているのだから、その計算上の年収である1000万に近づけられるよう、努力し、行動していこう」、という具合に、目標とする収入に近づいていくべき、なんらかのアクションを起こすことを意識づけできるということだ。

と同時に、「財布の200倍が現在の年収よりも大きい人は、これからもっと稼ぎ、財布の200倍が現在の年収よりも小さい人は、これから落ちていく」、という傾向があるというのだ。

大切なのはマインドらしい。
財布にふさわしいお金が.入ってくることを確信している人には、そうした状況がやってくるというのだ。確かにお金の入り方にはそうした傾向がある。

当然、「お金=悪」、という図式を感じている人にはお金は巡っては来ないだろうし、「お金持ち=悪いことをしている人」という図式が染みついている人にも、お金がやってくることはないと思われる。

「お金を使って、世の中を幸福し、多くの人に生きがいと喜びを与えることが、生きがいである」、と考え、努力を重ねて仕事をするのが良いということだ。。

だが、こうした考え方は、なかなか学校では教えてもらえない。
日本の教育システムそのものが、『お金に関する教育』が排除されているのだ。
意図的かどうか分からないが、諸外国のように、『投資』や、『お金の使い方、ため方』についての知識を教えることはない。

私の知る限り、高校の数学で、指数関数のところに、「複利計算」が紹介されているのみである。

たまに、詳しい先生が、雑談程度に話すことはあっても、教科書で学習することはないし、体系的に学ぶこともない。
だから、今の日本人は積極的にお金に関する知識を学ばない限り、その知識はきわめて薄いということにもなる。

大げさに言うならば、これでは日本の発展繁栄は望めない。

おそらくは、根本に社会主義的、共産主義的思想が染みついているからであろう。

「金持ちからお金を取って、お金のない人に再配分する」、という思想は、資本主義的な考えではない。
騎士道精神的な援助は大事だが、それが常態化してはいけないのだ。

「億り人になりたいんです。」
という生徒の声に応えられる教員は、きわめて少ない。
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