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2020年01月05日

2020年に思う

令和2年、新しい年が始まった。

新年早々、アメリカとイランが一発即発の状態になった。
互いに軍事行動におよび、結局イラン側が民間機を誤って激突撃墜してししまうという悲劇も起こった。お互いを悪魔の国と考えているのだから始末が悪い。併せて、イスラム教とキリスト教との闘いでもある。

香港の運動も注視すべきだし、その運動の長期化と危機感が、台湾総統選にも影響を与えている。
おそらくこの運動は中国本土に広がってい行くだろう。
中国各地で行われている同様のデモ(抗議運動)は、まったく報道されない。
各地で自由と民主化を推し進める勢力と、一党独裁の社会主義国家との戦いが繰り広げられているということだ。

トランプ米大統領は、もちろん自由と民主化の推進者だ。
中国もそうした体制に転換させたい、と思っているはずだ。
現在の中国の政治体制は、経済成長に担保されているが、その部分にもほころびが起きつつあり、バブル崩壊寸前とも言われる。
トランプ氏は、その崩壊を狙っている。
だから、経済成長によりアメリカの国力を上げ、中国を引き離そうとしている。
それが一帯一路というなの覇権主義を阻止する方策なのだ。
これが、結果的に中国の見えない圧力になっている。
だが、アメリカのマスコミですら、そうした視点はほとんどない。

リーダーというものは、大局的なものの見方と判断をしているのだ。

そんな中で日本は何をしているのだろうか。
イランとアメリカが戦争を始めれば、中東のオイルの日本への輸入はストップしかねない。
イランは戦争してもアメリカには勝ち目がないと分かっているので、全面戦争にはなるまいが、現地が戦渦に包まれれば、日本は大打撃になる。

追い詰められたイランや中国が暴発することだってある。
中国が暴発すれば、アメリカの同盟国である日本も標的になり、日本全国主要都市に向けられたミサイルが飛んでくることだって起こりうるのだ。

以前、北挑戦ミサイルへの訓練を学校でもおこなったことあるが、あの異様なサイレンは、絶対に聞きたくはない。

今年は東京オリンピックの年。
日本にミサイルが飛び交う中でオリンピックは開催できまい。

世界情勢は、いよいよ何が起こっても不思議ではない状況に突入した。
平和裏に世の中が進んでいくとは思えないのが、昨今の状況である。

いざ有事の際は、教員にとっての第一は、「子供たち命を守ること。安全を確保すること」、になる。

「平和を訴えるだけでは、平和は訪れない。」
戦後、日本が二度と軍事力を持たないようにと、作られた憲法は、その全文からして世界情勢にあわなくなってきている。

今、私たちにできることは何だろうか。
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2020年01月04日

お身体をお大事に

以前から、目上の人には、別れ際などに、「くれぐれもお身体を大事なさってください」、などと言ってきたが、いよいよ私もそう言われるような年齢になったようだ。

先日、前の高校野球部の監督からの手紙にも、そう綴られていたし、今日も教え子から、
「丹澤先生、身体を大切にしてくださいね。」
と、言われた。

以前から教え子たちには、
「君たちが活躍することには、俺はこの世にいないと思うけど…。」
などと言ってきたからかも知れないが、面と向かって、「お体を大切に」、と言われたのは、私の記憶では今回が初めてだ。

なんだか頭をがつんと殴られたような、ある種のショックを受けた。
と、同時に、私はそういうショックを、他の諸先輩方に与え続けてきたのか、という後悔の念も湧いてくる。

別れ際などに、相手の身体を気遣うことは決して悪いことではない。
だが一方で、そうした何気ない心遣いが、実は相手にショックを与えることがある、ということだ。

よかれと思って掛けた言葉が、逆に相手を傷つけてしまうこともある。
学校現場ではよくあることだ。

相手が傷ついたことも知らず、あたかも自分の言葉で立ち直ったと思う、悲しくも情けない誤解だってある。

強い保護者ならば、逆上してしまう方もいるし、二度と口をきいてくれない生徒だっているだろう。

相手の思いを忖度しているつもりで、実は全く逆効果になってしまうのは、日常生活では時々起こりうることだ。

「そうか、身体を大切にしなくてはいけない年齢になったか…。」
と、素直に受け入れることにしよう。
そう言えば、気づかぬうちに、身体のあちこが、いろいろ不具合を起こすようになってきている。

でもやはり、教え子との別れ際に、
「くれぐれもお身体を大切になさってください。」
などと言われるのは、どうもしっくりこない。

いつまでも若いつもりでいるのが、若さの秘訣であるとも聞く。

齢55歳。
人生百年時代と考えれば、まだまだ人生の半分。
もう一踏ん張りせねば…。

2020年01月03日

お年玉

お年玉を貰わなくなり、また、あげなくなって何十年も経つ。
もともとは『餅』を配り、それをお雑煮として食べた、という習慣だったらしいが、いまや中学生であっても万単位のお年玉をもらうらしい。

ただ、親戚一同が集まる機会が少なくなれば、お年玉をいただける方の人数が減ってしまうわけで、たとえ中学生のお年玉の平均金額が5000円だったとしても、総額はかなりのものになるのだろう。

一方でそれを自分自身で管理して、自由に使える、という子供も少ないのが現状だ。
大抵は親に預け、よくて教育費、時には生活費として消えていく。

だが、欧米諸国のように、
「このお金は、君の自由に使って良い。ただし、すぐに欲しいものを買う、というのではなく、お出に増やしてから、その増えた分で欲しいものを買いなさい。」
などという教育どうだろう。

実際、学校教育では、明治の義務教育が始まって以来、「お金の教育」はなされていないので、親も含めて、「どのようにしたら増やせるのか」、ということが分からないだろうと思う。」

『消費・浪費・投資』、を的確に説明できる日本人は、残念ながら少ないようだ。
ましてや、生徒に説明できる教員もほとんどいないのが現状かも知れない。

一説によると、義務教育開始時の国策である『富国強兵』のためには、従順な労働者が必要とされ、経営者的視点や、独自の発想は排除されたのだ、と言う。

現在の教育内容に、消費者教育はあっても、投資者教育がないのも頷ける。

『改訂版 金持ち父さん 貧乏父さん:アメリカの金持ちが教えてくれるお金の哲学』(ロバート キヨサキ著)を読んでも、いかに日本のお金に対するマインドや教育が欧米の常識とかけ離れているかが分かる。

倹約を美徳とし、ただただ貯蓄をしている中では、なかなか経済は発展してゆかないという。
日本では、今や銀行は単なる金庫となり、これ以上倹約できないくらい、税が重くなってしまった、

そんな中で、お年玉が単なる『浪費』にならないように、世の大人たちは、子供たちに『投資』についても教えるべきだろう。

私も、自信を持って教えられるよう、鋭意奮闘中でもある。








2019年12月31日

『紅白歌合戦』

大晦日くらいは、のんびりテレビを見て過ごそうと思ったのだが、今日は朝から隠れ家で漏電が起こり、昼前から夕方近くまで電気屋さんが悪戦苦闘していて、あまりのんびりできなかったのだ。
古い家は、次々と想定外のことが起こるものだ。

何十年かぶりでNHKの『紅白歌合戦』を見ている。

先日母が、
「最近は若い人の歌は分からないわ…。」
と言うので、
「積極的に歌を聴かないと、若い人との会話がかみ合わなくなってしまうよ。そして話をしなくなって、ぼけるよ。」
と答えたのだ。

これは、私が、「自分自身に言っているのだな…」、と答えた直後に思った。

日常からほとんど音楽を聴かない私だって、生徒をはじめとする若者と歌の会話は成り立たないのだ。
だから、「何の曲を聴いているの?」、と尋ねても、「たぶん先生は知らないよ」、と返ってくる。

…という訳で、多少、消去法的なチャンネル設定ではあるが、『紅白歌合戦』を見ているのである。

「もしかしたら、昨今の若者は、『紅白』なんて見ないのだろうな…」、と思いながらも、「うんうん、この曲もどこかで聞いたことがある…」、などと妙に納得しては、歌唱力の高さや、ダンスやバックダンサーの美しさに感心しながら見ているのである。

こうして、2019年、令和元年が暮れていく…。
玄関では、愛犬たちが、これ以上のリラックスはなかろう、という格好で寝ている。

いろいろあったが、何か新しい人生の萌芽を感じさせる一年だった。

新しいビジネスもいろいろ仕込んでいる。
どれが伸びてゆくかは分からないが、行動しなければ何も始まらないので、動き始めたわけだ。

新しい年は、オリンピックの年だが、おそらくいは今年以上にいろいろなことが起こるのだろう。
そうした一つひとつの出来事に一喜一憂することなく、自ら信じる道を歩み続けてゆこうと思う。

ふと、ドラマ『北の国から』の一シーンを思い出した。
五郎たちが、富良野町に向かって「さよなら1980年」、と叫ぶシーンである。(※)

いろいろなことがあっても、明日に希望をつなぐ。
新しい年に夢を望むのである。

(※)『北の国から』(フジテレビ)第8回








2019年12月30日

正月飾り

「あらめずらしい門松…。」
母が私の住む田舎に来たとき、ある店の前に置いてあった門松を見てそう言った。

以前はマーケットにせよ、すこし大きめの店舗には必ず門松が置いてあったが、昨今はそうしたことは行われないらしい。
長く続く不景気による経費削減なのか、日本人として信仰心が薄れたのか、はたまた伝統文化の衰退
か…。

確かに昨今、正月飾りがすくなくなった。
以前、アパートやマンションに一人で暮らしているときですら、私自身、正月飾りを玄関につけた記憶がある。それより前は、自家用車にも正月飾りをつけていたこともある。

ところが、このところ、飾りをする家の方が少ないように思える。
ここ田舎でもそうなのだから、都市部ではなおさらだろう。

「一夜飾りはだめよ。」
と、執拗に母に言われたことを思い出す。

今日、回覧板で『どんど焼き』の案内が来たが、正月飾りのない家は、『どんと焼き』の時に、何をお炊き上げするのだろうか。

政治の失策により、経済成長が二十五年以上止まっていることを考えれば、経費削減もやむを得まい。

一方で、日本人として信仰心が薄くなっているのは、核家族化と教育によるものが大きいだろう。
令和の時代になり、あらたに天皇陛下即位した。

一連の儀式は、日本神道の伝統的な儀式であり、すべては『日本の神々に感謝を捧げ、国民の平安と繁栄を願う』ものである。

儀式だけが取り上げられ、世界中にアピールされたが、果たしてその心は伝えられたのだろうか。

伝統文化の衰退も急速に進んでいる。
時代とともに変わりゆくものもあるが、変わってはいけないもの、守るべきものもあるのだ。

伝統を子どもたちに教えるのは、家庭や地域の役割だったが、今や、学校でも関わりを持たないと、ますます廃れてしまうに違いない。

人知を超えた存在である神さまによって生かされているのが人間なのだ。

堂々とそう教育できる日は、いつになったらやってくるのだろうか…。








2019年12月29日

スター・ウォーズ

映画『スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け』を見た。
スターウォーズシリーズのエピソード9である。

この映画を見ると、「たとえ光の存在であったも、ほんのわずかの油断や隙により、闇に転落する危うさがある」、ことがよく分かる。

そのためには、継続的な自己研鑽と、たゆまない修行が必要であり、あらゆる人間的な煩悩からの解脱が求められるのだ。

この生き方は、まるで宗教聖職者のようではないか。

怒りや失望は、本当に悪の勢力にとって格好の餌なのだと、よく分かる。

そうした魔の手口に陥らないためにも、チーム力と仲間を信じる心がなにより大切なことなのだということもよく分かった。

アクションものの娯楽映画なのかも知れないが、その中に一本の宗教的真理が通っている。
アメリカでの興行成績は、ディズニーとしては今ひとつだったそうだが、心に響く宗教性は、万人の感動を生むものであって欲しいと思う。

だからこそ、真の生き方に目覚めた主人公を象徴する、「スカイウォーカーの夜明け」というタイトルがついているのだろう。

CGの緻密さでは、なかなか日本で作れる映画ではない。
それでも、多くの日本人のファンに受け入れられているのは、「たとえ闇の存在であっても、光の存在に変わりうる」、という視点だろう。

それこそ、人類の希望の原理であり、「たとえ悪をなしたとしても、心を入れ替えれば、立ち直れる」のである。

また、最期は光の勢力が勝つというストーリーも、宇宙の正義と平和のためなら、「命を賭してでも悪と戦う」、という姿勢が、日本の武士道精神とつながっている。

前作も何度か見たので、今作もあと何回か見ても良いかな…。

正義のヒーローは、最初からヒーローなのではない。

「成功者は最初から成功者なのではない。」
とも言い換えられそうだ。








2019年12月28日

親の気持ち

東京から母が来た。
私に会いに来たのか、愛犬たちに会いに来たのかは分からないが、バスや電車を乗り継ぎ、新幹線に乗って、私の済む北関東の田舎までやってきた。

私にとって有り難いのは、久しぶりに母の手料理が食べられること。
そして滞在中は、自宅の風呂ではなく、近くの温泉に浸かれることだ。

ただ、冬のこの地はかなり冷え込むので、暖冬はいえ、母にはかなり寒いに違いない。
自宅をガンガンに温めて迎える。

それでも、一晩中ストーブをつけておかないと、結構寒い。
私は寒さに慣れているが、母は東京の暖かい所で生活しているので、部屋でも厚着をしている。

母のありがたさを思うのも、この歳になっても変わらない。
逆に、息子を愛おしく思うのも、母の本能なのだ。
私を産んで55年経ったとしても、可愛い息子には違いないのだ。

そう考えると、私が関わっている中高生ともなれば、その母親たちは、その子どもたちを目に入れても痛くない、という気持ちなのだろう。

教員は、時に、親たちを批判することもあるが、それも「親が子供も思う気持ちが強い故」、と思えば、その理不尽さや、我が儘な発言には耐えねばなるまい。
それが、教師としての仕事の、ある意味尊い部分なのだろう。

それがなければ、単なる冷徹なビジネスと変わらなくなる。
教師が生徒たちに寄り添い、親たちの気持ちを推しはかってくれているからこそ、安心して学校に委ねることができるのだ。

そう考えると、教育の無料化はますます教員たちの仕事を困難にするだろう。
人間は、「どうせただなのだから」、と思えば、感謝の気持ちが薄らいでいく。

世の保護者たちの多くは、口には出さずとも、教師たちに、「申し訳ない」、という気持ちと、「ありがたい」、という気持ちを持っている。

それを感じるかどうかは、教師自身の心がどれだけ安定しているか、による。

「理不尽な親たちとは会いたくもないし、話したくもない。」
そう、私自身思っていたこともあった。
確かにそうした思いに到る事例は、頻繁に起こる。

そうであってもなお、保護者を理解し、時に保護者に対してもよき相談相手として、立ち振る舞うことが必要なのだろう。

母の姿を見て、改めて自らを省みる…。








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