2018年09月14日

あの先生、嫌いです

「うるせぇ、くそばばぁ。」
周りに聞こえるように、悪態をつく。
相手は二十代のA先生。

中高生ともなると、時折こんな場面が見られる。

しかし、私には、「クソじじい。」とは言わない。
心の中では叫んでいるだろうが、少なくとも面と向かっては言わない。
信頼関係があるから、という訳でもない。
おそらく、勇気がなくて、「これを直接言ったらまずいな。」という思いが働くのか、それとも、私を怖がっているだけか…。

私は、その生徒を呼んで話をしてみることにした。
「むかつくことがあったとしても、口に出していうのは、どうかな。」
「…」
「冷静に考えれば、してはいけないことではないかな。」
「はい…」
「嫌な思いをしたことを思い出して、むっとしたのだろうけど、百歩譲って、心の中でそう思ったとしても、口に出してはいけないし、ましてや皆に聞こえるように言ってはいけない。本当は、心で思ってもいけないんだけど、それはまだまだ修行が必要だから。」
「…」
「本当は、A先生が嫌いなんじゃない。」
「いいえ。」
「いや、本当はA先生が嫌いなんだろう?。」
「…はい。A先生は嫌いです…」
「好きになれとは言わないが、社会はいろいろないろいろな人がいる。どうしても会わない人だっている。しかも、その中で、お互いが傷つき、傷つけ合いながら生きている。それが、この世の修行だ。だから、そのようなものと思って、自分の思いを変えてみたらどうだ。」
「はい。」
「人間、面と向かって悪口、言われると、傷つくよ。たとえ君は今は反抗期でもね。」
「はい。」

彼はからは一切の言い訳はなかった。

私は、何があったかをすべて知っていた上で、彼と話をしたのだ。
陰で「クソじじい」と言われることを知っていながら…。
【このカテゴリーの最新記事】

清掃活動 〜心を磨く〜

以前訪ねた、オーストラリア学校では、敷地内や校舎内にゴミが散乱していた。
「こんな環境下で教育が行われているのか」
と、驚いたが、生徒たちも先生たちも、あまり気にしていないらしい。

オーストラリアでは、2時間目と3時間目の間に、軽食タイムがあり、自宅から持ってきたスナックや、菓子パン、フルーツなどを食べるのだが、その時に出たゴミは、かなりの確率で散らばっている。その時間は、先生たちも、スタッフルームでお茶タイムなので、生徒たちの様子は、あまり見ていないだろう。また、4時間目後には、昼食タイムのあるわけで、当然、放課後は構内はゴミだらけだ。
当然のごとく、オーストラリアでは、生徒も教師も掃除をしない。学校の掃除をするのは、専門の業者だ。

清掃活動は、日本の教育では当たり前だが、欧米諸国では、「掃除は低い階層の人間がやるものだ」という考えが根強い。しかし、その効果が見直され、日本の清掃活動は、昨今は、アジア圏でも受け入れられ、日本式の清掃活動が行われている学校も増えているそうだ。

私たちにとっては当たり前の掃除活動だが、実は、その中には『感謝』の思いがこもっている。

「普段自分たちが使わせてもらっている校舎内外を、ピカピカに綺麗にしよう。学校があるから、自分たちは勉強することができるのだ。そういう思いを込めて、学校中を綺麗にしよう。」

そうした思いで、教師側も、「あたりまえ」ではない、「ありがたさ」を感じさせるべく、工夫を重ねながら、清掃活動を指導し、将来自分の意志で、いろいろな所を清掃できるように、仕込んでいる。その活動の中では、授業中には見られない、生徒たちの性格や人間性が、よく見えるものだ。

また、トイレ掃除を徹底して行うという取り組みをしている学校も多いだろう。汚れやすいトイレを、徹底的に磨き上げる。床も磨き上げ、そのまま寝っ転がられるような美しさに仕上げることもできる。
「トイレは汚くない」
と思わせることもできれば、一見汚いと思われる部分でも、細かな注意を払えば、とても綺麗になるものだ、と教えることもできる。「綺麗なのだから、汚さずに使おう」、と指導することもできる。

素手で掃除させていることが紹介され、「衛生的に問題だ」などと騒ぎ立てた方もいらしたようだが、とにかく方法はどうあれ、心を込めて磨くことに意味があるだろう。

また、清掃指導は、教師側の率先垂範を示せるいい機会でもある。
生徒が気づかない部分を指摘し、お互い協力し合って、感謝を込めて磨き上げる。

磨き上げているのは、結局は、自分自身の心なのだ。
posted by 丹澤三郎 at 13:15 | Comment(0) | 教育活動

2018年09月13日

授業が騒がしいです

新人教員にとって、『生徒が分かる授業』は、当面の達成目標の一つだか、「分かる授業」の前に、授業の環境整備をしなくてはならない。

「授業にのぞむ心構え」、「ノートの書き方、作り方」、「宿題提出について」、「忘れ物について」、「様子すべき筆記用具」、「授業中の発言の仕方」、「座席」、「プリント配布、回収の方法」、「挨拶の仕方」などなど、授業の初めから終わりまでで、授業運営に必要と思われることは、最初から自分の方針として、生徒たちに伝えておく必要がある。

そうした環境を整えつつ、『分かる授業』を目指す(行う)のである。

もちろん、新人教員が、こうした環境整備を完璧にこなすことはできないだろうが、少なくとも、達成すべき努力目標として、踏ん張らなくてはならないだろう。そして、毎回の授業で、少しずつ向上してもらいたい。

私だって、新人時代があり、新たに赴任した学校で授業引き継いだ頃は、「先生の授業は○○先生と比べて分かりにくいです。○○先生が良かった…」などと、言われ続けた経験がある。前の担当者の授業が素晴らしければ素晴らしいほど、次に受け持つ新人教師は、ハードルがぐんと上がる。しかし、それがきっかけとなって奮起すれば、自分自身のスキルは格段に上がっていくのだ。その頃の私は、その先生の授業を陰に隠れて聞き続けた。板書、話術、プリント、生徒への促し方など、すべてが学びになった。

「若いときは、『情熱』しかない」

今は亡き高校時代の恩師から、私が教員になったときにに教えていただいた一言である。

経験が少ない中、下手は下手なりにも、その情熱、熱意が生徒たちに伝わるか、ということは、授業をする上で、何より大切だろう。

情熱にあふれていれば、別に授業が騒がしくたっていいのだ。生徒がその思いを感じ取っていれば、あるとき、騒がしい状態が、さっと静まって、先生の指示が通るはずだ。

「授業は、基本的に騒がしいです。」
新人の先生が恥ずかしげもなく語った。

「授業が騒がしくて授業が成立しない」ならば、「授業が単調でつまらない上に、レベル設定が間違っていて生徒が理解できない」か、「環境整備ができていないか」、であろう。

新人諸氏は、試練と思って鋭意健闘されたし。

マスク君とマスクさん

涼しくなると、マスクをしている生徒が増える。
気温の変化が大きい季節になるので、体調を崩しやすいということもあるが、必ずしもそうではない。

マスクは顔の大部分をい覆うことができる。
頭髪規定が厳しい学校でなければ、前髪で目を隠すこともできる。
つまり、顔の表情を他の人に見せまい、とマスクをつけるのだ。

以前、舌にピアスをつけた高校生が、「そのまま学校に行っても、マスクをつけてたから気づかれなかったよ。」、という話を聞いたことがある。そういう強者は少ないだろうが、中高生で、目を隠し、マスクをつけ始めたら要注意である。さらにこれにパーカーを着て、頭からフードをかぶったならば、これで、自分の世界に閉じこもることができる(と考えている)。いわゆる引きこもりの始まりである。

引きこもりは、学校に行けずに家に引きこもっているばかりではない。たとえ学校に行けたとしても、集団を極端に嫌い、自分だけの世界に閉じこもろうとする。

時に笑顔を見せたとしても、それは、一種の防衛反応であって、たいていの場合は作り笑いである。彼らにとって、作り笑いは、かなりのエネルギーを要し、けっこう体力を消費する。だから、一人になったときにどっと疲れが訪れる。

引きこもりにもレベルがあるようで、彼ら、彼女らなりにランクを決めていたりする。
とあるアニメにならって、レベル4だの、レベル5などの、自分たちでレベルを決めている。

以前、私の学校では、『引きこもり同好会』なるものを、密かに立ち上げ、仲間同士で集まっていることがあった。学年をまたいでのグループなので、なかなか始末が悪い。いろいろな意味で、先輩が後輩に影響を与え、引きこもりに学年連鎖ができていた。たいていは、学校や社会、友人に対する不満が共通項となり、波長同通の法則で、互いが集まってくる。

集団を形成していると、必ず集団のカラーから外れる人が出る。子供でも大人でも同じである。昨今は、『違いを認める』ことが重視させているので、以前のように一律に排除する教育は行われていないが、思春期の頃の生徒には、その違いを理解させることは、そう簡単なことではないだろう。

今日も、校内を隠れるように歩いているマスク君やマスクさん。
『自分の世界に足を踏み入れないで欲しい』、と思いながらも、実は、『私の存在に気づいて欲しい。声をかけて欲しい。』とも思っていることも多い。

彼らを見て見ぬふりをするのではなく、積極的に声をかけてみよう。

『できることは何でもやる』という姿勢が我々教師の務めだ。

2018年09月12日

ギリギリ生活

学校の朝は早い。私の学校の先生の朝の打ち合わせだって午前7時40分だし、たいていの学校は8時半には始業する。

こんな学校の世界だから、大学生のとき完全に夜型になっていた新卒教員は、赴任早々、かなりの苦しみを味わうことになる。また、外部から来た校長も、生活習慣が違えば、学校の生活パターンと合わずに、教員たちとトラブルになる。以前、「朝から来ない校長が、夜8時から延々何時間も会議をするんだよ」という話も聞いたことがある。

多くの教員は、打ち合わせ時間より前に出勤する。かくいう私も、以前は一時間以上前に学校にいなければ、何となく気持ち悪さを覚えたものだ。当時は自動車通勤ということもあり、道路事情で一時間くらい渋滞にはまっても、遅刻はしない、という訳だ。

一方で、就業時間ギリギリに来る先生も何人かいて、「よく、そんな綱渡りができるなぁ。」と、逆に感心する。

前任の私立学校では、遅刻ギリギリに来ることが当たり前で、週に一度くらいは遅れてしまうということを繰り返していた先生が、翌年クビになった。タイムカードなどなくても、見ている人はいるのだ。

どんな職場であっても、余裕をもって朝の時間を使っている人は、概して仕事ができるものだ。

しかし、昨今の若手の先生方は、ギリギリ生活が得意なようで、結果、何度も遅れてこられる方がおられる。

学校は、チャイムが時間を知らせるが、時計時間では、チャイムが鳴り終わった頃には、とっくに就業時間を過ぎている。打ち合わせが始まった頃に、こっそりと扉を開けて、職員室に入ってくる姿は、何度見ても美しくない…。

だいたい、「生徒に時間を守れ。」と、言っている教師が遅刻していては、示しがつかないし、説得力もない。『時間を守る大切さ』を語ったところで、言葉に力はない。

夜中まで、教材研究をしていたのかも知れないけれど、「何があろうと、一秒たりとも遅れては駄目だ。」と言うのが、私の持論だ。

そんなギリギリ生活の若手が、職員室で仕事を始めたかと思ったら、すぐに、こくりこくりと居眠りを始めた。授業が終わって、職員室に戻るたびに、授業のない時間は寝ている…。さすがに、これはまずいだろうと、隣席の若手の先生が動いた。

「どうなっているんですか?」

こんな場合、公立学校ではどうなるのだろう…。今度同僚に聞いてみようっと。

生徒と食べる昼食

ほとんどの中学校では、学校給食が導入されており、担任の先生は、教室で生徒と給食を食べることになる。学校では、これを給食指導と言って、各校様々な工夫や取り組みをしている。

おそらくは、この生徒と『一緒に食べる』ことが、負担になっていて、「できたらやめて欲しい」と思っている若手の先生もいるのではないだろうか。

「今月はうちは、完食でしたよ」
「やっぱり中学三年生ですね…」

近隣の公立の先生たちからは、そんな会話が聞こえてくる。完食は、クラスの誰一人残さず食べるわけで(いろいろ仕組みがあるでしょうけど…)、当然、相応の給食指導になるのだろう。

私立学校では、ほとんどがお弁当制なので、生徒と先生が一緒に昼食を食べる機会はほとんどない。特に、中高一貫校でも高校専門の先生は、
「生徒と一緒に昼食を食べることなど、あり得ない。食べた気がしないし、お昼の時間くらいゆっくりさせてくれ。」
「生徒と一緒に食べると、逆に生徒にストレスが溜まってしまうから、せめてお昼くらいは、自由に食べさせましょうよ。」
などと、豪語していたりする。
なるほど、中学校の先生は、よく頑張っておられる。

私の学校は、中高一貫の私立学校だが、食堂で食べる給食形式だ。昼食時間になると、各自食堂に行き、各自食事を受け取り、友人同士、開いている好きな席に陣取って食べる。時間内であれば、どの時間に食べてもよい。先生たちも、注文すれば、同じ食事を食べられる。

特に、入学したての中学一年生は、一ヶ月間、学年全体で昼食を一斉に食べる、というシステムにしている。入学したての生徒の人間関係を構築させ、孤立した生徒を防ごうというねらいである。

私は、生徒と一緒に食事をするのが好きである。彼らと話しをするにも、話題に困ることはない。生徒が座っている席に、積極的に飛び込み、たわいのない会話をしながら、会話を楽しむことができる。

もしかしたら、彼らは嫌がっているのかも知れないけど、お互いが楽しくなるのならいいじゃないか。

監視ではない。彼らと話をしながら食事をすることそのものが、楽しいのだ。副産物として、彼らの考えや、いろいろな情報も手に入れることができるが、あくまでそれは「おまけ」である。

最近は、カロリー過多になるので、別の食事をすることが多いが、生徒と食べることは好きである。
給食指導、とまではいかないが、生徒と一緒に昼食を食べることは、教育活動の一環としても、教員にとっての大切なスキルの一つであろう。

※文科省の平成28年度給食実施状況調査によると、小学校で99.2%、中学校で88.9%とのこと。ただし、都道府県によって、ばらつきが大きい。

2018年09月11日

午後の授業

「先生、この時間、寝ませんでしたよ。」
6時間目の英語の授業を終えた時に、ある生徒が、得意げに語った。

その話を聞いた翌日、その生徒に、
「授業はそんなに寝ているのか?」
と、尋ねると、
「6時間目の授業は、どうしても眠くなってしまって…。いや、いつも寝ている訳ではないんですよ。たまには眠くならないこともあるんですけど、やっぱり6時間目は眠いです。」
「夜遅くまで起きてるからだろ…」
などと、ジャブを入れて、
(まぁ、8割は先生の世金だと思うけどね…)
と、ほくそ笑む。

私の学校では、食後に昼休みらしい時間を与えないで、そのまま掃除の時間に入り、それが終わるとすぐに5時間目がスタートする。5時間目も眠くなるだろうが、食後すぐ、と言うわけではないので、眠気のピークは6時間目になるのかも知れない。

そうなると、授業の先生の頑張りどころ。いかに眠くならない授業展開をするかが、勝負となる。

『教師は 五者であれ』と言われる。つまり、「教師は、学者・医者・易者・役者・芸者であれ」ということだが、こと授業となれば、「絶対に寝かせないぞ」と、気合いを入れて、役者に徹することになる。

私自身、以前授業で、忘れ物をしたとき、『算数チャチャチャ』などの楽しい歌を歌わせるというイベントを組み込んだことがあるが、昨今は、なかなか恥ずかしがって大きな声で歌えない。

しかしそれ以上に、私自身、年甲斐もなく、恥ずかしげもなく、全身全霊で授業に臨む…。
密かに日常での生徒との会話と授業中のギャップを大切にしているからだ。

もちろん今でも、『次から次へと、生徒に刺激を与え続け、全員参加の活気ある授業を目指さねば』と、鋭意修行中である。

生徒との接点が全くない臨時講師が、特別に公開授業をするのと違い、学校の場合は、大抵は人間関係構築後に授業が行われる。

私は、教科内容の授業準備以上に、授業中のお話(生徒たちは私の話を雑談と言っているが、私は断じて雑談ではないと思っている。)に準備を費やしている。これは、脱単調な授業の一つの方法として、そして、生徒に集中させて話を聞かせる一つの手段としての私の授業のセールスポイントでもある。

さて、午後の授業に出掛けるとするか…。
ファン
検索
<< 2021年04月 >>
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
最新記事
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
丹澤三郎さんの画像
丹澤三郎
プロフィール
リンク集
おすすめ