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古里物語

昭和十七年五月

お父さん、今日丘南平氏が見えました。
インドネシやから帰った兄が軍属の徴用となり出発時のことです。
財産整理の為兄は辛抱強くねばったのですが、土地を売ろうとする兄が今に投げ出して安く叩き売りするだろうと云うことになりなかなか買手がつかず徴用が迫ったため、遂に丘南平氏にすべてをおまかせして戦地に発って行ったのです。辣腕家として知られる南平氏に頼めば如何なることに相成るか兄にも私にも結果は目に見えていることです。兄は何の条件もつけずに一任しました。もう目をつぶるより他ありません。
私が東京から帰へった時、売るべき土地、山林、田畑、家、全部方がついた時でした。
人人があれよあれよと見守るうちことはすべてて終了してしまったと云うことです。
今日見えたのは、この家を壊すので、明け渡して欲しいと云うことでした。
否も応もありませんこの家は既に南平さんのものであるのです。
早々荷造りを始めました。
呉服屋の店の残品は殆んどありません。
最後まで残っていた花嫁衣裳や浴衣の類まできれいさっぱりとなくなっていました。買うにも無い時です。店の品物どころか昔小僧さんが使っていた木綿の布団まで農家の人の嫁入り用に売られたていったと云うことでした。
陳列棚、ガラス張りのショーケース、出張販売の為の和紙張りの丈夫な箱、木製の大き過ぎる戸棚の数数、すべて標準より大きなものばかり、大きさ好みのお父さんの残されたものはこの場合大変不便なものです。これ等は一応野外に積み上げて、後に倉庫を作って入れることにしました。
引越し先は家続きの畑を一つこした神田どんのお婆さんの元の住居、農家の隠居所だったと云う六帖と三帖二間の家です。
近所の方に手伝っていただいて引越しをすませました。
広い縁側がぐるっと廻っているので、いい感じです。
縁側に腰掛けてお茶を飲みました。
母はニコニコして云いました。
「お前貧楽ちゅうもんはいいもんだよ、世の中にこんな気楽なことはない。」と
そして「イロリを作ろう。」と
賛成です私もこのイロリなるものが欲しかったのです。
早速縁側をくり抜いて、あの黒柿の大火鉢をはめ込みました。
この時の為に母は既に真黒に焼けた自在鉤を用意して居りました。
自在鉤をかけてヤカンをかけて出来上がりです。
心温まる思いでした。

古里物語

        兄帰へる

「アニカエルトユテキタハハ」
高田馬場のアパートに居る私の処へ母は電報を寄越しました。
その兄に会ったのは武田製薬東京支店の宿舎でした。
通された和室で待っていると兄が入って来ました。
「アア来たか、鹿児島弁はどうした、忘れたのかと。」
お前にお土産げだと云ってワニ皮のバンドバックを差出しす兄、「小ワニの生きているのを見て注文したんだよ。子ワニの皮が上等なのでね。細工も現地人でなく、オランダの職人に頼んだのだと、戦争中で靴も不自由うだろうと牛皮も持って来たよ。」
「それにもうお前も結婚しなくてはね。」ともうとっくに適齢期を過ぎている私でした。兄の心づかいを有難いと思いましたが、お店では職人達に着たきり雀の若松君、結婚はどうした、などと云はれ家への仕送りを続けていた私にはそれ処ではなかったのです。
その頃銀座の洋装店といえば華やかで、職人他は何不自由のないお嬢さんばかりで、サラリーなどどうでもいい方ばかりでした。その中で一番の高給取りの私が着たきり雀なのでした。
久し振りだというのでウイスキーとビールが一打も運ばれて来ました。
ビヤホールにも行列しなければ飲めないこの戦時に会社の方が配給をためて置いてくれたたとのこと、驚いてしまいました。ジャカルタから友達であると云う人も加はって三人でビールの林立となってしまいました。お父さんが飲めない方でしたが、祖父は酒豪であったとのこと、隔世遺伝でしょうか兄は酒に強く、思はぬ酒宴に話ははずむのでした。

古里物語

山萱と遊ぶオネコヤンブシ

父の叱声後に山に走ろうとする私に母は声をかけた。
オシャカサンはな、山に入ってよいことを考へられたのぢゃよ。
私は走った。
小川の一本橋をわたり、一尺程の山道を駆け上がった。
松山の下に駆け下りた。
そこは野原があった。
「なって終わった人生。
他所の土地へ越して来て、仕事をさせていただき、その成果のすべてを今お返へしする。それでよいではないか。
夢まぼろしの如き人生、いくばくかの骨の他何も残らぬ。
裸で生まれ骨となって消える人の命、死に逝く人にとって、家が土地が何の役割も果たすことはない。」と。
若松の家は代代そのようにして来たと。

古里物語

          家を売る母の話


「お父さん、この家を売って小さな家に引越しませんか、丁度渕崎旅館の友次郎小父さんが旅館にするのに欲しいと云って度度見えていることですし、世帯を小さくして暮らせば気を張らなくても済むし、費用も少なくして楽に暮らせますから」と、もう商売も出来なくなって、それでも借金の利子に追はれる日日のことでした。
暫く考えていたお父さんはひどく気軽に答へました「うんそうしよう、但しこの家と寸分違わぬ家を立ててからな。」と
總杉の家、杉は直に通ずると杉を好んだお父さん、大きな杉があると聞けばどんな山奥にでも出向いて手に入れた杉、杉の一枚扉を作り、兄の入営の時一度に百五十人のお客にお膳を出した広間のある家、黒塗りの高膳、二の膳付きの御馳走、直介が云うちょった。」と
その恐ろしいような景色の中で、中国の人、朝鮮の人達と一諸に上陸前の検査を受けて叔父は不合格で再び日本へ送還されたと云うことです。
時は明治末か大正かも分りません。
「医師拝見仕方ない」おぼつかない日本語で慰めてくれたという中国の人、噴出する原油の原。

古里物語

          再び玄関に立つ

東京に仕事場を持つ私は東京で暮らさねばなりませんでした。
それで半年ぶりに入来に帰へって参りました。
私は目を見張る思いでした。
ペンペン草やアレチノギクの枯草が茫茫とおっ立つていた屋根は、何と見ごとに修復されていたのです。
瓦屋根は生き返って居りました。
まるで真新しい紺縞を見るように、瓦と瓦の間は漆喰で塗り固め、紺と白の鮮やかな縞が描かれているのです。
この瓦の模様はサツマ特有のものかも知れません。
旦っての夕日を浴びて甍が輝き、淡いグレイの壁がどっしりと家を取巻きいかにも大様な風貌を持った家でした。
目立つのは大きな松の木、そして花見が出来た桜の木に数、ススキの群生、そしてそのその向こうは崖縁、庭の境にはコスモスの花の流れ、それは庭の花の風情ではなく野生の群生であった。
「人手に渡す前にきちんと整えて置くのが礼儀だと思ってね。」
そう云う母はシワシワの婆ちゃんではなく、ふっくらとした母に戻って居りました。
アパート暮らしに慣れてしまった私はこの堂堂たる家をまばゆい思いで見上げて居りました。

古里物語

   松の死


お父さん、葬式のあと間もなくのこと、たった一本あった赤松の木が急に枯死ました。
九州には黒松が多く赤松は少ない。
土地に合わないせいかも知れません。
でも大きく育って元気であったのに。
それに印度松は健在なのです。
母は申しました、「松の木はお父さんのあとを追って死んだのだ。」と。
私は隣村、大村の村長さんのことを思い出しました。
蜜柑の木がお好きで果樹園になる程たくさん育ててお出でになったと。
村長さんの亡くなった時、このたくさんの蜜柑の木が全部枯れてしまったと云う話を。
娘さんは云いました。「蜜柑の木は殉死したのです。父は蜜柑の木を愛していたのです。」と。
   
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