アフィリエイト広告を利用しています

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

古里物語

           馬頭観音

母は云いました。
道づくりはすらすらと運んだのではないと。
椎の木の生い繁る山には馬頭観音がお出になったのだと。  
この山は馬頭観音のお住居であり。その山を無断で崩すわけにはいかないことでありました。
そこで神主に頼んで観音様にお伺いを立てましたと。
その神主は入来文書の出処、入来院氏の元家臣の方でありました。
古式に従いお伺いを立てた処、焼山の地に移りたいとの御宣托。
焼山とは現入来変更の場所。
その頃は牛馬の品評会の催される場所でした。
それで観音様は焼山にお移ししてお祭りすることになりましたと。

古里物語

              父と道

お父さんの道は小さな田舎道。
町も又小さな田舎町。
お父さんの道は土の道。
生きている道、呼吸している道。
雨降れば泥んこの田舎道。
だがその道は白い道、白い大道に通ずる道。
田舎道はついに地球に巻かれた線の大道に通ず。

古里物語

           道と云うもの

私は母にききました。
道道とお父さんは何であのように道を作りたいのでしょうと。
母は云いました。
亀治郎どん肝と云はれたお祖父ちゃんも道を作る人ぢゃったそうな。
そして亀治郎どんの父、曽祖父ちゃんも道を作った人ぢゃげなと。
何と道づくり一家である。
草原と呼ぶ笠野ケ原の萱原に旧暦正月京都を発ち、敗戦の将として落ちて来た藤原氏の一支族近衛氏が祖先であるという。
人知れずかくれすむ草原から里へ、秘かに作ったであろうその昔の祖先、して見ればこれは血の問題である。
否、日本中の道や村落づくりの一つのプロセスでもあろうか。
原始の昔は人の歩くことによって踏み固められて草が消え、細い道が通じたのであろう。
日本中の何処の土地にも、道を作り部落を作り用水を作る人人が居たことを立証する話のように思う。
一筋の道一つの部落、田園、人人が生きる為の小さな開拓に始まったのではないだろうか。

古里物語

     白馬駆ける白い台地

お父さんは白い平地に白馬を放ちました。
たて髪を立てて疾走する馬。
やがて緑の草が萠ゆる頃、お父さんは草競馬を催したということです。
「馬は一せいにスタートしました。」と云いたい処ですが、合図と共にスタートしたのは三頭だけ、本物の競走馬だけでした。
農耕馬と荷車挽きの馬達は今日初めての本番とあって、驚きの余り前足を上げて立つ始末、何とも不揃いのスタートは何回やり直しても同じことでした。
競走馬には騎手が乗り、農耕馬には飼主の小父さん、荷車挽きの小父さんは向う八巻で馬に一鞭くれました。
ぞくぞくと集まる村人達、花見の時かなんぞのように、丸めたゴザをかかえ、焼酎びんを下げ、お重に御馳走を詰めて、もう赤い顔をしている人も居りました。
こうして暫くの間、馬達に地固めをして貰ったのでした。
巨大な白いキャンバスのような平地。
お父さんは先ず自分の家を建てました。
紺地を白く抜いたのれんを掛けました。
丸一 春日屋呉服店。

古里物語

              白い台地


「そいからが大変なこつぢゃったと。」
「私や店が忙しうして見ちゃおらんかったどん、あのたくさんの椎の木を倒おし山ん鍬を振り上げスコップを使い副田から来た小父さんや小母さん達がモッコを荷げて加勢をしてくいやってなぁ。」
「朝早よプープーち彦さん(英彦山の山伏)どんごとホラ貝を吹いて、それが合図で仕事が始まって、賑やかなもんじゃったと。」
山を崩して泥田を埋め、だんだんトロッコも走るようになり、遠く花の丘の方からも人夫に来るようになると、この山山に囲まれた小さな盆地は生き生きと躍動するように見えたと云うことです。
朝六時のホラ貝十時お茶時のホラ貝お昼のホラ貝工事止めのホラ貝、と彦さんどんも顔負けのホラ貝の音。
ホラ貝とはまことに愉快な思いつきです。
人夫頭の小父さんがいとも易易と吹いているので、小学校の頃私も吹いて見たことがありましたが、プープーどころかスースーと息の音ばかりで音など出る代物ではなかったことを覚えています。
かくして三年。
白い平地、白い台地が出現したのです。

古里物語

朝は墓 夜はお話


冬二月朝な朝なの墓参り、夜は夜更けて話を致しました。
椎の実はおいしい、黒ヂョカに七、八個の実を入れて炒るのです。
パチパチとはじける椎の実。
母は語るその昔のことを。
暗いほどに繁った椎の木の山ぢやったと。
山裾は泥の泥泥とした深い泥田ぢゃつたと。
明治四十三年兄陸映誕生の年。
株梠縄でお互いの腰を結び合い、頑丈な男達が数人、山壁を這うように登って行きましたと。
鶴嘴を持ち序序に進んで行く男達を山の下に集まった人人はぢっと見上げていたということです。
山頂には岩石の一団があり、椎の木にかくれて下から姿が見えなくなった時、男達は第一の鶴嘴を打ち込みました。
以来断続を繰返しながら昭和初年まで、町作り道作り、橋を架ける仕事まで、それはお父さんの一生の仕事になったのでした。
その第一期工事の時、まだ三十代であったお父さんは、自分を信じるように人をも信じ、工事請負師に工事費一切前渡ししましたと。
請負師はこれ幸いとその金を持逃げ姿をくらましましたと。
この失敗は後年、測量、架橋時の技術を自分で身につけ、工事一切の監督を出来るようになりましたと。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
もう眠ろや。
こうして眠りにつくのでした。

古里物語

墓参り



小さなタンゴに水を張り、線香を手に表門を出ました。
目の前にユンタ丘が聳え、うずくまるように眠って居りました。
有史以前の噴火、そして今は死火山であるユンタ丘。
山裾に温泉を湧かして人人を温めてくれるユンタ丘。
そのユンタ丘の上に光をおさめて白くかかっている鎌のような月。
シラスの道は白白と続く。
ポクポクと歩く母と娘と。
「ぐらしかったなぁお父さんは。」
母の目から涙が落ちていました。
お父さんが可愛そうだったと云っているのです。
或日、こともあろうに病床の父の枕元を債権者達が取囲んで坐った時のことでした。
財産と負債とをこと細かに計算してその数字を盾に債権者達は即刻倒産を迫ったと云うのでした。
「俺は数理に負ける人間ではない、必ず挽回して返済する、お前たちは帰へれ!!」と。
「死ぬような病気で寝ている人に何とむごいことを。」と母は呟くのでした。
白い鎌のような月は母娘の後から追うようについて来るのでした。

古里物語

墓参り


毎年一月になると咲く梅の花。
濃厚な香りを放つ紅梅の枝と、水を入れたタンゴに柄杓を持って、朝早いシラスの道を歩いて行きました。
まだ人も通らぬ寂かな道です。
寂かなことの好きな母と、この寂かなこの道をポクポクと歩いて行きました。
私は思う、この寂かな母と激しい父と、よくも四十五年一諸に生活出来たのものだと。
農家の一人娘として呑んびりと育ったお人好しの母が、まるで武家の奥方のようであったという父の母、姑に仕えて二十年、厳しかった祖母タメ死の時、「ありがとう。」お礼を云ったと聞いている。
耐え忍ぶという性格とは異う。
母は弾力のある生き方をしていたように思うのです。
「一月二十六日昼過ぎぢやったなぁ、お迎えが来たのは。」母は思い出したように云いました。夢からさめたようにお父さんが云ったと云うのです。
「神様や仏様がたくさん迎えに来てくださって勿体ない勿体ない、神様が俺の頭の上にもとまってお出になる。」と
死きわに幻影を見たお父さん。
茫茫とすすきの繁る副田原につきました。紫の尾を引く紫尾の山。
紫尾山は今日ほほ笑んで居りました。
   
プロフィール

ryobe
リンク集
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。