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白き部屋の記録38

おんかーかかみさんまいそーわか A

明るい廊下を調子のいい流行歌が走ってくる。

食器を満載した車に白い帽子、コック姿のお兄さん、次の車には頬っぺの赤いお姉さん。

若いことはいいなあ、と思いながらドアを開ける瞬間ギョッとする。

石膏のように白い顔に目の窪みが骸骨を思はせる丸い影を作っている。

「オンカーカカミサンマイソーワカ。」その顔は突然口を開いて唱えた。

ベッドにはやせこけた一人の老婆。

私の患者さんである。今日から一週間泊り込み昼夜通しの看病だ。

御主人であるお翁さんが看病疲れで休むと云うので一週間の約束、私もガクンとする思い。

「イチジク浣腸を買って来て下さい。」お婆ちゃんの声は蚊のなくような声でした。

病院で患者が何でイチジク浣腸を使うのか変だと思う。「浣腸は病院ですから看護婦さんがやってくれるんではないですか」と云って見る。

お婆ちゃんは首を振った。「一日三回はやってくれないの。」

何とお婆ちゃんは一日三回浣腸をやるつもりなのだ。それで浣腸三回、尿十五回と云う生活が始まったのです。昼も夜もお婆ちゃんは殆ど眠らない、ものの十分も目を閉じていると思うとすぐ目を開けるのです。結核であるのと、神経症なのであると云うのですがよく体がもつものだと呆れる。

浣腸は夜三回やる、その間「どうしてこんなに痛いのか看護婦さんと先生に聞いて下さい。」と繰返へす、血壓(ケツアツ)を計り痛み止めの注射をしても結果は同じ、度度の事に危険状態になるからと云はれても「先生は私の痛みを分かってくれない、こんなにつらいのに誰もわかってくれない。」と繰返すばかり、深夜も同じ状態、隣ベッドの患者さんも眠れないと訴える。私も全全眠る処ではない。

白き部屋の記録37

ラブホテルではない

瀕死のお婆ちゃんは弱弱しい声でイタイ、イタイ、と云い続けている。二人部屋を一人で借りているのだと云う空いているベッドには時時息子さんが看病に来て泊まるのだと云う。

付添が付いていないので隣の部屋の付添さんが手伝ってあげているのです。

その付添さんの話。

「困るのよその息子さん、五十才くらいの人だけど一週間に一度か二度来るだけ、髪を長く伸ばしているしサラリーマンではない見たいよ、口もろくにきかないし、何だか変な感じ、夜中にオムツを取替えてあげようと思ってカーテンを開けると、女の人が居てね、一渚に寝てるのよ、それも裸でね、もつれ合っているのよ、奥さんではないでしょうね、奥さんならお嫁さんだから、たまにはお婆ちゃんの看病する筈でしょう。

お婆ちゃんはイタイ、イタイ、と云っているのに聞こえないのか知ら、看護婦さんも怒っていたわ、病院をラブホテルと間違えてるって。」

白き部屋の記録36

元警官のおえら方

剣道の匂いのするご老体である。

白髪を整えた厳しい貌、その顔は苦痛の為だけではあるまい。

輸血の連続である。一本三十分で終わる、とても眠るどころではない。ベッドも出してはいけないとの事、動脈破裂を手術した方であると云う胸も腹部もコチコチにかたくなっている。

七十八才、体にふれてもいけないと云はれる。

奥さんと云うより奥方と云う方が似合うような婦人は椅子にかけて御主人を見守っている。

「口うるさい人でございましてねえ、ほんとに毎日毎日が大変だったでございますよ、私の云う事何一ッ聞き入れないんですから、宮中に召される事がございましてね、それを名誉に思ってる人なんですよ。」

翌日再び破裂、もう死んだような顔の御老体、ご子息が見える、がっちりと頼もし気な紳士てある。

「お父さん!!」と呼ぶ声に目を開いた御老体、死の顔が見る見る悦びに溢れる、久し振りに見る善き父とその子の像と云えるす姿、其処には父としての務めを立派に果たした恵まれた父の姿がありました。

続いて二男、三男、と駆け付ける御子息に悦びは絶頂に達したかに見えました。

こうした満足のうちに御老体は亡くなりました。

奥方云はく、「ああこれで済みました、これからは独リで気楽に暮らします。」と。

白き部屋の記録35

鳩ポッポお婆ちゃん

ポッポッポ ハトポッポ

マメガホシイカソラヤルゾ

ミンナデナカヨクタベニコイ

ポッポッポ ハトポッポ

マメガホシイカ・・・・・・・

ナニカチョウダイヨー チョウダイヨー

チョウダーイと喚く声

続いて何を云っているのかわからないがまるで牛のような声、ほえるような低い声。

向かいの病室である。

おかめ美人の若い付添さんがドアを開け「オダンゴタベナイ」と誘う。

遠慮なしに入ってみると、何と小柄な可愛いお婆ちゃんである、ドラ声の主とは思えない。

元英語の先生であったと云う、牛のほえるように聞こえたのはその英語をしゃべっていたのだと云う、脳軟化になっても昔の記憶ははっきりしているものだと聞いているが、このお婆ちゃん、口で云うのがもどかしくなると、紙に英文で用事を書くのだと云う、新制中学出の付添さんは負けずに横文字でイエスと書く。

それを見たお婆ちゃん「字下手だね」と。

食べた事をすぐ忘れるお婆ちゃん、付添さんは何時もオセンべを細かく千切って用意しておく、チョーダイヨーが始まると口に入れてあげる、一寸留守にすると先のようにチョーダイヨーチョウダイと喚くのです。

「英語の先生であろうと無学であろうと、婆さんになれば元元(もともと)さ、只の婆さんよ。」と付添さん。

白き部屋の記録34

杏の木

昔昔中国の医者で病気全快の度に杏の木を一本づつ患者から貰い、それを治療費にしていた人がいたと云う。

杏の木のたくさんある病院である。

手術を受けた友人に頼まれて、この病院に来ました。

或る日真紅の花を手にフカフカの毛のコートを着たお嬢さんが見舞いに見えました。

大きな瞳、貴族的な面立ちの人である。

「私二郎さんの友人でございます。」わが友Aさんは軽く頷いている、話に聞いていた息子さんのフィアンセであるらしい。

背の高いハンサムな二郎君にお似合いの人と見る。

大学で一緒であったと云う、豪邸にお父様と二人住まいであると云うこの人には孤独な影がただよう、真紅の花を壷に生け、ソファーに掛けている細細とした姿、名は梨可さん。

杏の木の間を白いベンツが廻るように門外へ、梨可さんのお帰へりです。

白き部屋の記録33

五人の男

足を折った五人の男が、それぞれに右足を包帯し、台の上に足を上げて寝ている。

一種壮観である。六人部屋。

工事現場で働いていた人達であると云う。

中の一人五十才位の人は巻いた包帯も人の倍位大きい、当木をしてあるらしい。

クレーンからおちて来た鉄骨に足を砕かれ秒の差で体もやられる処であったと云う。

足の骨はめちゃめちゃになっていると云う。

奥さんと息子さんと二人で面倒を見ている。

五人は大声で話をし大声で笑い、てんでにテレビを持込み音を出しててんでに見ていて賑やかな事。

老人部屋や結核病棟とは大異いである。

私の患者さんは四十二才、歩いてはいけないと云うのに一人でトイレに行く、「おかしくて、ベッドで小便垂れられるかい。」と、体もさっさと自分で拭いてしまう。

これでは私の出る幕はないので、ナースに話をし止めることにしました。

白き部屋の記録32

付添さん4

買物車に鍋釜積んで病室に来たのは七十才位の夜勤の人、鍋釜持った人を見るのははじめて、「病院で鍋釜は入りません、すぐ始末して下さい。」看護婦さんに怒られる。

この方入って来るなりべらべらと喋りつづけているのです、喋り病とでも云いたい位。

脳軟化のお翁さんが、まわらぬ舌で「オシッコ、オシッコ」と云っているのに聞こえないらしい、ベッドの脇の椅子に腰掛けて喋っているのです。

次の日病院に行くとこの人は居りません。

一晩で病院から断はられたのだと云う。

オチョボ口に口紅をつけてお化粧をして、真白い顔をして寝巻きを着て(夜勤は昼のまま寝る)寝る処を看護婦さんに見られたのだと、もう一人の夜勤さんが云いました。

その寝化粧の品名は「マックスファクターなのよ。」と七十才のお婆ちゃんは云ってましたと。

白き部屋の記録31

付添さん3

にこやかに入って来たのは品のいい美人の付添さん、あっという思いである。

元看護婦であるという、五十才そこそこ、昔映画で見た愛染カツラの場面をなんとなく思い出す。

「もう死ぬんだから何でも食べさせろ」

患者さんが突然怒鳴る。

「ハイハイ只今」美人は白衣をつけてベッドへ。

白き部屋の記録30

付添さん2

「家庭に40日居たので気疲れしました。」と入って来たのは四十位の田舎風の人、そのやつれた顔、雇主の子供を抱いて四十日子供に添寝して看病したのだと云う、「今日からよろしくお願い致します」と昨日手術したばかりの老人のベッドへ、気を使った家族というのは医者の一家であると。
子供の祖父、祖母、父母、伯父、伯母、皆同居していて皆医者だという。

一月七日暗色にくっきりと富士山が暮れて行く。

白き部屋の記録29

付添さん

待っていたのはスラリとスタイルのいい御婦人。

まるで応接間にでも客を迎へるように「どうぞどうぞ」とドアを開ける。

白衣は付けず、しゃれたエプロンをかけている。

大学卒の付添さんであると云う。

ご主人は学者、白衣をつけて廊下を歩くと外来の患者さんがお辞儀をするのだと云う。

女医さんと間違へるらしい。十二月の末、赤電話の前「パパ毛皮のコート見つけたの、買ってもいいでしょ。」
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