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2016年03月28日

江戸前寿司発祥の言われ【歴史】

今は回転すしチェーンが流行っています。





庶民が格式高い値段も表示されていないような老舗の寿司屋の時価の寿司を食べる機会はほとんどない。





支払い時の伝票を見たら卒倒するかも?(笑)





回転すしは江戸前の「にぎり寿司」です。





寿司と言えば昨今ではほとんど江戸前のにぎり寿司を指し、大阪のバッテラに代表される棒寿司や押し寿司のようなモノは例外です。





元来寿司は「なれずし」と言う魚の魚の保存したものがその発祥でした。





今の時代のように冷凍冷蔵庫がない時代に、たくさんの魚がとれたときの保存の仕方は、塩蔵あるいは干物、あるいは米とともに漬けて発酵させてしまうしか手段がなかったのです。





フナ寿司に代表される発酵した寿司です。





実は米と一緒に漬けて保存するという方法は、タイやカンボジアなど稲作文化の地域では古くから行われていた手法なのです。





これが段々インスタント化して、米と塩で10日ぐらい漬け込んだだけで米ごと食べたのが、室町時代であると言われています。





米を発酵させた酢が調味料として手に入るようになると、ご飯に酢をかけて魚とあわせて箱に入れて、オモシをして一晩寝かせる大阪寿司のスタイルが完成しました。





この箱寿司は大阪が本場のような気がしますが、江戸でもこのスタイルが当時は主流でした。





ですが、江戸っ子のセッカチが、ここで我慢しきれず、「なぜ一晩も待たなきゃいけねぇんだい!!」ということになった。





今の東京湾は当時魚の宝庫。





アジ、コハダ、タイ、アナゴ・・・など新鮮な魚が刺身で食べられるので、「酢をしためしにこれらを乗せて食べればいいんだろうが!!」ということになり、誕生したのが、「にぎり寿司」だったわけ。





とにかくその場でにぎって立ち食いするという、セッカチな人や忙しい人にも重宝なスタイルが、江戸に定着したというわけなのです。





じゃ〜、にぎり寿司がそれ以来ずっと寿司の主流だったのか?と言うとというと、さにあらず。





第二次世界大戦で東京から地方へ疎開した寿司職人が広めた戦後になってからのお話なのです。





まあ、歴史的にはそんなに古いわけでもないと言うことです。
posted by AZARASHI at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 魚と歴史

2016年03月26日

ナマズと地震の関係の歴史

江戸の地震と鯰絵

地震と鯰の関係の始まりは江戸時代の1855年。この年の10月2日に安政江戸地震(M6.9)が起きた。この時の江戸の地震被害は大きく、多くの家屋が倒壊した。この地震の時に鯰絵が描かれた。鯰絵は地震後にたくさん刷られた木版画。地震は、地下深くに住む巨大ナマズ「地震鯰」が起こすものだとして、当時いろんな鯰絵が描かれた。
地震鯰は、普段は鹿島大明神が「要石」と呼ばれる大きな石で押さえつけられて暴れられないようになっているが、神無月(10月)は、八百万の神々が出雲大社に集まる。鹿島大明神はそれに出席しなければならないために、自分の留守の間の地震鯰の番を恵比寿様達に任せて出雲へ旅立つ。しかし、恵比寿様は鹿島大明神に比べて弱いので、その隙を狙って地震鯰が暴れる。だから10月に地震が起きる、というのが当時の話だったらしい。
地震直後に描かれた鯰絵は、地震を起こして庶民に被害を与えた鯰が寄って集って殴りつけるものなど、地震に対する人々のやり場のない怒りが描かれるものが多かった。しかしその一方、いじめられる鯰をかばう人々も描かれるものがあった。その人々とは、大工など、地震によって仕事を増やし、思わぬ儲けを得た者達だ。大工達と鯰が盃を交わす鯰絵もある。地震は庶民から多くのものを奪った一方で、一部の人には多大な利益を及ぼした。そういった世間への風刺がこの鯰絵には込められているのであろう。
その後、大工など地震で富を得た人々は飲み食いで多くの金を使い、金が世の中を多く回ることによって、地震後に思わぬ好景気がやってきた。この頃には大工などが金を口から吐き出し、その下で庶民がその金を奪いあっている絵も描かれている。庶民は徐々に生活に落ち着きを取り戻し、地震を冷静に振り返ることができるようになると、地震を起こした鯰を神様のようにあがめられている鯰絵が描かれるようになった。
このように地震後にたくさんの鯰絵が描かれてきたが、鯰絵が世の中に出回ることによって世直しの気風が高まることを恐れた幕府は、地震発生の2ヵ月後、鯰絵の木版をとりあげてしまって、鯰絵は描かれなくなってしまった。こうして鯰絵は当時の世間から消えてしまったのである。
ただここで興味深いことをひとつ。鯰というのは日本では南から北へその生息地域を広げていったのはそれほど昔のことではなく、現在までの調査によると、安政江戸地震が起きた頃はまだ江戸には鯰が生息していなかったのではないか、とのこと。(琵琶湖には当時もいたらしい。)ってことは人々はなんで地震の原因を鯰に求めたんだろう。

琵琶湖とナマズ

鯰はうろこがなくて体の表面は粘液で覆われている。琵琶湖には3種の鯰がいるらしく、一般的なマナマズの他に、イワトコナマズとビワコオオナマズがいて、マナマズ以外の2種は琵琶湖固有種らしい。当時京都大学の友田淑郎さんが発見したとのこと。ちなみにイワトコっていうのは琵琶湖周辺での鯰の呼び名。ビワコオオナマズは体長は大きいもので1.2mにもなり、琵琶湖最大の魚だそうだ。

世界の鯰

ナマズ目の魚は多くの種があって、その生態はまだまだ知られていないことが多く、生態学の立場からも結構注目されているみたい。アフリカのマラウィ湖のカンパンゴは、孵化した子供がある程度大きくなるまで親が育てるのだが、その間の子供の餌はなんと母親が産む卵だそうだ。また、ナマズの仲間には体内受精するものもいるらしい。


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2016年03月23日

世界の「7つの海」

地球上の海は、太平洋、大西洋、インド洋の3つの「大洋」と、この3つの大きな海の「付属海」とにわけて考えます。もっとも大きい海は太平洋で、1億6,525万km2あって、大西洋の2倍の広さです。付属海は大陸に深く入りこんだかたちの「地中海」と呼ぶものと、島や半島で大洋と区切られているように見える「縁海(えんかい)」とにわけられます。ヨーロッパにある地中海や、アラビア半島とアフリカにはさまれた紅海は地中海になります。また、日本海やアラビア海は縁海になります。




 ところで「7つの海」といういいかたをよくしますが、どの海をさすかは、じつは時代によって変わります。風まかせの帆船で行き来していた中世のころは、南シナ海、ベンガル湾、アラビア海、ペルシア湾、紅海、地中海、大西洋をさしていました。現在は南太平洋、北太平洋、南大西洋、北大西洋、それにインド洋、北極海、南極海をさします。7つの海は法律などで決められているわけではありませんので、ふつう「7つの海を行く」といえば「世界中の海を行く」という意味でつかわれます。
posted by AZARASHI at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 魚と歴史

2016年03月22日

「錦鯉」の歴史を紐解く。そして世界の「NISHIKIGOI」へ。

「錦鯉」のそもそもの種である「鯉(真鯉)」は、一般的に中央アジアのペルシャが原産と言われています。しかし、近年の調査では、日本の約2500万年前〜500万年前の地層から鯉の化石が出土していることもあり、最近では鯉は日本でも天然に分布していたと考えられています。

720年に完成した歴史書『日本書紀』には、景行天皇(71〜)が鯉を池に放っていたという記述があります。
つまり日本では、鯉は1900年以上前から人により飼育されていたことになります。

真鯉から錦鯉へ
現在知られている「錦鯉」は、今から約200年前(1804〜1830)の文化・文政時代に新潟県の旧・山古志村(現・長岡市)・小千谷市で食用鯉の突然変異種として誕生しました。





つまり「錦鯉」の発祥は、日本の新潟県の山古志村・小千谷市ということになります。

この地は山間部で、住民たちは山肌を段のようにならし「棚田」を作り、米や野菜を栽培していました。そしてこの「棚田」に水を引くため、棚田の上層部に作られた貯水池で鯉を飼育しており、主に雪深くなる冬の食料(動物性たんぱく質)として利用されていましたが、
この鯉がある日突然変異を起こし、真っ黒な真鯉の中に、色の違う鯉や、模様のある鯉が生まれたのです。


農民たちはこれを珍しがり、より美しい、 より珍しい鯉を作ろうと改良を重ねました。
この「突然変異の鯉」は、始めはこの地域の人々たちだけの娯楽でしたが、やがて他地域との物々交換に使われるようになって広く知られることになりました。これにより、それまで娯楽として改良を重ねていたものが、仕事としての養鯉業となり、現在までの間に様々な品種が生まれることとなったのです。

「錦鯉」という名称
錦鯉自体は約200年前に誕生しましたが、当時は「色鯉」「花鯉」「模様鯉」「変わり鯉」と呼ばれていました。

錦織りの反物これら様々な名称で呼ばれていた錦鯉が「錦鯉」と呼ばれるようになったのは、竹沢村(後の山古志村の一部)で行われた品評会で大正三色を見た新潟県庁水産主任官の阿部 圭氏が、そのあまりの美しさに「これはまさしく錦鯉だ!!」と感嘆したのがきっかけです。
この「錦」とは、金を交ぜて織り込まれた絹織物を意味し、そのように美しく優雅なものを「錦〜」(錦絵など)と呼びます。錦鯉は、まさに絹織物のように優雅な鯉と言えるでしょう。

その後、1940年頃には日本国内で「錦鯉」という名称が定まり、今日では世界中で「NISHIKIGOI」という名称が用いられています。

寿司の歴史

日本における「酸し(すし)」「熟すし(なれすじ)」の歴史は長く。塩漬けにした魚を米に漬け込んで発酵させた保存食として発展したすしは東南アジアから稲作とともに日本に伝わったとされています。

それらは酢を使わない熟すしと呼ばれる古いもので、今もその名残が琵琶湖名物の鮒(ふな)寿司に残しています。

だが、この方法では発酵などで半年はかかるため、より手っ取り早くより美味しく食べたい需要が高まり。酢の醸造技術が発展した江戸時代は1700年頃までに酢を使った人工ずしが発案されました。

酢を使った人工ずしは「押しずし」「一夜漬けずし」などと呼ばれ。その後、大阪では箱ずしと呼ばれる押しずしが、江戸では散らし寿司が相次いで生まれ、庶民の人気となりました。

しかし、現在は寿司と言えば日本でも外国でも。板前さんが酢飯の上にネタを載せて握って出す江戸前寿司とも握り寿司とも言われる物ですが。

短気でせっかちな江戸っ子を魅了したこの即席すしの原型を作ったのは1825年ころに華屋与兵衛(はなやよへい)が江戸は両国に店を構えて「与兵衛すし」として出したのが始まりと言われています。

これが珍しいものや目新しいものが好きな江戸っ子に大人気となり。行列も出来て。
「こみあいて、待ちくたびれる与兵衛ずし、客ももろ手を握りたりけり」
と狂歌が残るほどの大人気でした。

華屋与兵衛の考案した握り寿司は市民権を得ましたが。それが稲荷ずしや散らし寿司をおしのけ、都市部で主流になったのは第2次世界大戦後からとなります。

地方でも食べられるようになったのは魚介類が地方にも流通したのと、冷蔵庫の普及により1970年代からとなります。

ですので、寿司がどこでも食べられるようになったのはつい最近の出来事だったりします。

2016年03月18日

クロダイの実釣日本記録は何センチ?

クロダイのファンは実に多く、日本全国でクロダイを専門に狙う釣り人は本当に多いものです。





江戸時代の文献にもクロダイ釣りに関することが多く書かれており、「塩焼きはカイズに止めを指す!」とも書かれています。





クロダイファンであればカイズとはどういうものなのか?ということは既にお分かりだとも思いますが、全国的にはそれほど知られてはいません。





関東では20センチぐらいまでの当歳魚から2歳魚のクロダイをチンチンと呼び、
25センチから30センチぐらいをカイズと呼び、
30センチ以上を以上をクロダイと呼びます。





つまり、出世魚なんです。





九州ではクロダイの小さなサイズをメイタと呼び、大物をチヌと呼びます。





ところが一体何センチまでがメイタで、何センチ以上がチヌであるのかという正式な線引きはなく、
釣り人のプライドや風説・俗説などが入り混じっています。^^;





他人が釣ればメイタ、自分が釣ればチヌと言い張る釣り人もいるかも?^^;





出来れば、人が釣ったクロダイを大きさにかかわらずチヌと賞賛したいものです。





ところで、クロダイ釣りを始めた方にとっては50センチ&2キロオーバーのクロダイが当面の憧れになると思います。





このサイズを自分ひとりで場所の選定、エサの選定、仕掛けを作って、自分ひとりで釣り上げるまでには、多くの場合かなりの年月を要するといわれています。





もちろん運も味方にすると、比較的早めに釣ることができるかもしれませんが、次がなかなか出会えません。





長崎県の対馬の浅茅湾では、ダイバーが1メートル以上のクロダイを目撃しただとか、
90センチのクロダイが網に入っていた??という様な漁師がいる??という噂があります。





噂ですから真偽のほどはさておき、なかなか夢とロマンのあるお話です。





これまで釣られたクロダイの日本記録は、平成23年5月に、釣りあげられた71.6cm(拓寸)、重量:5.72Kg、のクロダイです。





私はこれまで50センチオーバーであれば、少なからず釣っていますが、3キロを超すロクマルオーバーのクロダイも釣ったことがありません!!(汗!)





なのに、5・72キロとは!!





クロダイ釣りをされている方ならば、この記録の凄さがお分かりいただけるはず。





もしかすると、対馬の浅茅湾の1メートルクラスのクロダイ伝説はあながちウソではないかも?





そんな大きなクロダイを釣るだけではなく、見るだけでも大いに満足できるのではないでしょうか?





夢もあり、ロマンもあるお話です。

2016年03月16日

江戸の金魚ブーム、きっかけは武士のサイドビジネス?!


金魚はどこから来た?!歴史を紐解く「金魚のススメ」





江戸の金魚ブームの頃から創業し、

いまだ都内に唯一残る金魚問屋があります。



その名は、文京区本郷の「金魚坂」。創業350年の歴史を誇ります。



今回は日本文化としての金魚をテーマに、

その波瀾万丈な舞台裏を解き明かし、

さらには金魚の粋な楽しみ方まで学べる「金魚のススメ」を開催!

金魚屋の女将が直々に伝授する、前代未聞のワークショップとは?!






意外と知らない金魚ヒストリー。そのルーツやいかに?

金魚すくいでおなじみの「和金」は金魚のルーツと最も近い体型。丈夫なので初心者にも飼いやすいそう。



日本人なら誰もが知っている「金魚」。

夏の風物詩であり、日本文化のひとつとしても馴染みが深いものですよね。



でも、そもそも金魚は一体どこからやって来たのか、ご存知でしょうか?



実は金魚の先祖は、およそ1700年前に中国は長江で発見された突然変異の赤いフナ。

西暦3世紀頃のことで、その後10世紀には宮廷で飼育されるようになりました。

尾びれの改良などが進んで徐々に華やかな姿へと進化すると、

金運をもたらす魚として「金魚」と名付けられます。



そう、金魚は偶然生まれた姿を人間が世に留めた、自然界には存在しない魚。

人が創り得る唯一の“生きた芸術”と言われているのです。



江戸の金魚ブーム、きっかけは武士のサイドビジネス?!









さて、日本に初めて金魚がやって来たのは、室町末期の大阪でした。

当時は高級品で、一部の貴族の間でひそやかに話題になります。



そして江戸中期になると、藩士が副業として金魚養殖を始めます。

この流れに火が付き、大量生産されるようになると、いよいよ金魚の価格がダウン。

またたく間に庶民に広まり、江戸に金魚ブームが到来したのです。



金魚は「上見」せよ!





当時はガラスがなく、陶器に入れて上から見るのが主流のスタイルでした。

実は、この「上見(うわみ)」こそが金魚の正しい鑑賞法。



尾びれが水の推進力を得てどうしたら花開くように見えるか、

人間によって考え抜いて創られているので、

金魚の最大の見どころは「尾びれの揺れの美しさ」なのです。





















沸き起こる金魚の謎…というわけで、

浮足立って門を叩いたのが、都内唯一の金魚問屋、「金魚坂」です。



戦時中、店に焼夷弾が落ちて焼けてしまっても、

先代たちは金魚を必死で守り育ててきたそう。



戦後嫁入りし、現在七代目女将となる吉田智子さんは、

全国あちこちで文化としての金魚を広める活動をされています。



「金魚屋は、すごく儲かるなんてことは絶対にないけどね。

残していかなくちゃならないものがあるの」




魅力的な店内は、見て回るだけでもワクワクします。

金魚の価格は日によって変わりますが、一匹1000円以内で買えるものもたくさん。

柄が美しい品種は一万円を超えるものも…!

みなさまも一度足を運んでみてはいかがでしょうか。































ちなみに…

お店に通じる「菊坂」は昔、菊を作るお店が並んでいたそう。



実はこの菊坂界隈は、文人が多く住んでいた歴史ある一角。

森鴎外や樋口一葉、宮沢賢治、坪内逍遥、二葉亭四迷、

竹久夢二、島崎藤村、坂口安吾、内田百間…などなど、

数多くの文人の邸宅跡が残っています。



ちょっと路地に入れば雰囲気ある住宅街なので、

帰り道にぶらぶら散策するのもおすすめ。

近くの「文京ふるさと歴史館」では、

古くから独特の文化を持つ文京区の歴史や文化財に触れることもできます。



思い思いに本郷の街を味わってみてくださいね。


posted by AZARASHI at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 魚と歴史

2016年03月14日

フィッシュ&チップスの歴史

幕末の1854年にペリー率いる黒船がやってきましたが。その目的は開国によって捕鯨船に水や食糧が補給できるようにする事でした。



石油の採掘が始まるまで鯨油(げいゆ)はランプの燃料と潤滑油として大量の需要がありました。
理由は温度が下がっても固まらない、粘結度があまり変わらないので引っ張りだこでした。



髭や骨は女性のコルセットやペチコートの材料として使われました。

鯨油は石鹸にも使われ当事の石鹸の包装に鯨の絵が使われている事からもうかがえます。


しかし、1800年代半ばから値上がりした鯨油に取って代わってココナッツ・オイルが石鹸の材料に使用されていきます。



石鹸が変わっていくのは材料だけでなく、当事は糸で切り分けていたのが現代の石鹸のように使いやすいサイズへと変わり。

有名な画家を使って広告にも力を入れた石鹸が洗練されていくと同時に1851年の万国博覧会には727ものメーカーが出品していましたが。石鹸のシェアはナイト、ギブス、ヤードリー。それと新規参入したサンライトとペアーズに半数以上占められました。

競争に敗れた数百もの石鹸メーカーは石鹸を作るための銅鍋をフライパンに、ココナッツオイルを揚げ油に転用する事によってフィッシュ&チップス屋に転業していきます。

石鹸からフィッシュ&チップスへ転業された頃、この料理にとって重大な発明がされています。



1856年に実用的な冷凍装置をオーストラリアのジェームズ・ハリスンが発明しました。



この冷凍装置は1864年以降、蒸気トロール漁船にて使われた結果、氷詰めで輸送されたタラがイギリスで安く出回るようになりました。



こうして、1860年代からロンドンとランカシャーでタラのフライとポテトのフライが組み合わされたフィッシュ&チップスが売り出されると爆発的に広まり、1870年代にはイギリスの他の地方でも労働者の食べ物つぃて広まっていきました。



こうして現代では自分は外国にいった事が無いので、伝聞ですが。イギリスはロンドンのヒースロー空港に降りたつや、空港内に”世界で最も有名なフィッシュ&チップスの店”というキャッチフレーズで知られる、ハリー・ラムズデンが迎えてくれますが。創業者のハリー・ラムズデンは石鹸業者ではないらしく。ブラッドフォードの下町マンチェスター・ロードで店を開き、1900年前後にフィッシュ&チップスがイギリスでポピュラーな庶民の味となっていきます。


日本でも売られるようになりましたが、ソーセージとポテトを揚げたソーセージ&チップスというのも存在します。

魚肉の歴史 History of Fish

◆魚食の起源◆

魚肉は最も古くから食べられていた食材のひとつです。漁業の歴史は10万年以上も遡れると言われ、日本各地にも、漁業の証である「貝塚」がたくさん残っています。JR大森駅そばに残る「大森貝塚」から日本の考古学研究が始まったことも、よく知られているところでしょう。
魚を食べる一番お手軽な方法は、もちろん生でそのままかぶりつくことですが、魚は牛肉などに較べ1.5倍の水分が含まれますので、そのまま放っておくとすぐに腐敗してしまいます。そこで、古代の人々は、天日に干したり、火にくべたりして乾燥させ、保存する方法を思いつきました。いわゆる「干物」とか「燻製」と呼ばれる方法です。海に近い地方や、塩がふんだんに取れる地方では、塩漬けなども試されたことでしょう。
魚の身をすり潰してペースト状にする「練り物」も、既に5000年前の古代バビロニア(現在のトルコ)で考え出されていたそうで、人間と魚がいかに古くから結びついていたかが、この事実からも伺うことができます。




◆古代ギリシア・ローマの魚食◆

魚食の文化は世界中に分布していますが、中でもとりわけ大量の魚を食べたとされるのが、古代ギリシア・ローマの人々でした。「臭い食物、難破した人がやむを得ず食べるもの」と魚を毛嫌いしたホメロスのような人もいましたが、周辺を海に囲まれたギリシア・ローマにとって、最も手っ取り早く手に入れることのできた食べ物であったのです。実際、ローマの遺構からは魚を解体する台や、水を流す溝などが見つかっていますし、シチリア島からは漁の様子を描いたモザイク画も見つかっています。
当時の人々にとって最も一般的だった魚はイワシやニシンですが、意外にマグロやカツオなどの回遊魚もよく食べられていたようです。現に三世紀の詩人オピアノスはマグロ漁の様子を詩に残していますし、賢人アリストテレスも、クロマグロの回遊経路を論文にして残しています。
さらには牡蠣(カキ)などの貝類、カニ、エビなどの甲殻類、果てはクラゲやチョウザメ、「悪魔の魚」とヨーロッパ人に忌み嫌われているイカやタコでさえ、彼らは口にしたと言われています。
古代ローマでは魚の養殖も行われていて、富裕層の中には自前の生簀を持っている人もおりました。紀元前一世紀の軍人ルクルスも、家に大きな養殖池を持っていて、ウツボやウナギなどの魚を養殖し、大きな収益を挙げていたということです。




◆アジア・アフリカの魚食◆

その古代ローマ・ギリシアに較べて、アジア・アフリカはどうだったのかと言えば、食べていたことは食べていましたが、あくまでも一般庶民のための食べ物で、非常に安く、あるいはタダで取り引きされており、神官やファラオ(国王)といった階層にある人は決して口にしなかったそうです。旧約聖書にも「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す」(民数記第11章)などと書かれています。労働賃金の半分がこの魚で支払われたこともありました。
このように、アジア・アフリカでいまいち魚食が富裕層に広まらなかったのは、恐らくこれらの地方が牧畜中心の生活を送っていて、魚に頼らなくても何とかなったこと、河川や海がギリシア・ローマに較べて小さく、魚介類に接する機会があまりなかったことなどが影響しているのではないかと思います。
そのせいか、ユダヤ教でもイスラム教でも、肉食への禁忌は厖大にあるのに、こと魚となるとほとんど禁忌は存在しません。わずかにユダヤ教で「ウロコのない魚は食べてはいけない」とされているくらいです。




◆中世ヨーロッパの魚食◆

中世ヨーロッパは肉や乳製品のイメージが強いせいか、あまり魚が食べられていないような印象ですが、もちろんそんなことはなくて、彼らは魚もよく食べました。ニシンやイワシをはじめとして、鱈やマス、ニジマス、サケ(サーモン)、カレイ、ヒラメ、マグロ、鯖、アジ、アナゴ、カワカマス(カマスによく似たニシン科の魚)、ウナギ、チョウザメ、鯉などの魚類、蟹やエビ、ザリガニ(ロブスター)などの甲殻類、ムール貝やアサリ、牡蠣(カキ)などの貝類、果てはクラゲなども食していたようです。
意外なことに、「悪魔の魚」として忌み嫌われていたハズのイカタコ類や、現在論議を呼んでいるクジラやイルカでさえも、当時の人々はけっこう口にしたようなのです。
当時のフランスのガスコーニュ地方には、多くのクジラがやって来ていて、彼らはその脂身やベーコンをよく食べていたと言われています。この地方には鯨で財をなした「鯨御殿」みたいなものが今もいくつか残っています。スペインのバスク地方でも、クジラの舌と言えば珍味中の珍味であり、食通たちの垂涎(すいぜん)の的となりました。




◆ヨーロッパの漁師たち◆

当時の漁法は付近の海を廻る近海漁業が中心です。捕獲された魚は近くの港へすぐ水揚げされて、周辺の街に配送されました。ハンザ同盟(ハンザやケルンなどのバルト海沿岸の都市で構成された都市同盟)やオランダは、ニシンの取り扱いで巨額の財を成し、オランダの首都アムステルダムの街は「ニシンの骨で建てられている」などと言われました。日本の小樽や松前にも、ニシン漁で財を成した人々の「ニシン御殿」がいくつも残っています。
港から内陸部へは魚介類専門の業者が搬送しますが、その範囲は馬車が一日で駆け抜けられる距離、100〜120キロメートル以内に限られたそうです。それ以上の距離となると、干物や塩漬けなど、何らかの形に加工し直す必要があり、例えばアイスランド海域で遠洋漁業をする船には、捕らえた魚を塩漬けにする設備が整っており、倉庫には乗組員用の食料のほかに、一トンを超える塩と、塩漬け魚を貯蔵するための大量の樽が用意されていたと言います。




◆魚の食べ方◆

漁師によって水揚げされた魚は、新鮮な場合はそのままムニエルなどに加工されて、人々の食卓にのぼります。新鮮だと、私たちは刺身を思い浮かべてしまいますが、恐らくは魚のような薄味の食材に合う、日本の醤油みたいな濃い醤醢(ひしお)がヨーロッパになかったため、チーズや酢など、濃い味の調味料と合わさざるを得なかったのかも知れません。鯉のようにそのままでは泥臭くて食べられないものが多かったというのも理由の一つでしょう。
新鮮でないものや、保存の必要があるものについては、干物や燻製、塩漬けやパテ(練り物)などに加工されて人々の口に入りました。ちなみに、ニシンの干物は当時のヨーロッパにおける最も一般的な食材の一つだったそうで、そのまま囓(かじ)るか、もしくは煮物に混ぜて食べました。ベトナムのニョクマムのような魚醤(ぎょしょう)を作って、それをかけて食べることもあったようです。日本で言うところのあんかけ料理みたいなものでしょうか。




◆国王の魚◆

ところで、港から離れた場所では鮮魚を食べるのは無理だったのかと言えば、必ずしもそういうわけではなく、川や湖にはカワカマスや鯉などの淡水魚がたくさん棲んでおりましたので、そういった魚を食べていました。時期によっては遡上してきたサケやウナギなどをも口にする場合もあったようです。
もっとも、そうした淡水魚の棲む池や川は、たいてい領主か教会の支配下にあり、人々はお金を払わないとこれらの場所から自由に魚を捕ることができませんでした。
この「水利権」は、製粉に使う水車の利用権などとともに、当時の領主にとって非常に大きな収入源となっていました。時には、捕った魚そのもので税金を物納することもあったそうです。15世紀のスコットランド王ジェームズ四世は、国王の管理下にある河川でのサケ釣りを固く禁じていて、違反者には厳罰を課しました。また、水産資源保護のために小さな魚を捕らないことも法令で定められており、中世フランスでは「8プス(およそ22センチ)以下のカワカマスを捕った者は罰金を支払わなければならない」という法律が制定されました。




◆魚の養殖◆

魚の養殖も古い時代から行われていて、カール大帝の時代(8〜9世紀ごろ)には各地に養殖池が整備されています。修道院でも「四旬節」などの宗教行事と結びついて魚を食べることが奨励され、敷地内の貯水池ではさまざまな魚が飼われました。
当時、最も多く養殖の対象となったのは「鯉」でした。この魚はきわめて悪食で、どんな汚れた水にも棲み、しかも生命力が旺盛で、味も比較的良好です。また、水から揚げてもエラに水をかけるだけでしばらく生きているので、運ぶ際にも移動生簀のような大がかりな道具が必要でなく、箱に詰めるだけで良いという利点があるので、各地で積極的に養殖されたと言います。

posted by AZARASHI at 15:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 魚と歴史

世界で一番船を持っている国は「パナマ」? 島国、日本の順位は…

世界中にはたくさんの船が走っていますが、いったいどこの国の船が多いのでしょうか。船の総トン数の合計であらわす船腹量を国別に見てみましょう。


 2013年末の調べでもっとも多かったのは、中米のパナマで2億1,827万総t、2位がリベリアで1億,2644万総t、3位がマーシャル諸島で9,503万総tでした。4位以下は香港、シンガポール、バハマ、マルタ、中国、ギリシャとつづき、日本は11位で1,980万総tでした。


 このうち、パナマ、リベリア、バハマなどの国は便宜置籍船(べんぎちせきせん)のために、船腹量が多くなっています。便宜置籍とは、船にかかわる税金の負担などが軽く、日本人船員とくらべると賃金の安い外国人船員をやとうことで、運航費用を下げることができるので、世界各国の船会社が便宜的に船籍をおくことです。ですからパナマやリベリアは自分の国の貿易や輸送のために船をたくさんもっているわけではなく、ほとんどが外国の船会社の船です。
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