2014年01月10日
「毒舌訳 哲学者の言葉」 有吉弘行
世界の哲学者の名言を挙げていき、それを有吉が独自の解釈でぶった切るというもの。紹介には「そうだったのかー!!哲人の言葉が身近に感じられる、有吉流・言葉遊び傑作選!」とあるのだがなかなか、内容は深い。
「なんじの敵には軽蔑すべき敵を選ぶな なんじの敵について誇りを 感じなければならない
−ニーチェ」
「なんか言ってることが『少年ジャンプ』っぽい。なんていうか、言ってることが幼い。(中略)『好敵手』って書いて『ライバル』って読ませたいタイプの人ですよね。そこが『少年ジャンプ』みたいな感じがするんです。敵に誇りなんか感じる必要ないです。戦うのは、明らかに自分より下のレベルの奴でいい。”絶対勝てる”っていう相手しか選んじゃだめです。」
「あらゆる人は同等である それを異なるものにするのは生まれではなくて、徳にあるのみ
−ヴォルテール」
「『世の中で一番平等なものって何かな?』って考えたとき、僕、風俗だと思うんですよ。風俗って客に平等なんですよ。あんまり裏表がないんですよね。(中略)プロですね。目の前の1万5千円しか見えてないんですよね、あの人たち。金があろうがなかろうが、売れていようがいまいが、1万5千円払えばもう平等に扱ってくれる。僕のこと、『1万5千円分の客』としか見てないですから」
このように有吉流の見方でどんどん哲人たちの言葉がかすんでゆく。有吉のような極めて現実主義的、実利的な人間の出す結論と、机上型、思索型の人間の結論との違いを考えさせられる。
「吾輩は猫である」の中で「分からぬところには馬鹿に出来ないものが潜伏して、測るべからざる辺りには何だか気高い心持が起るものだ。」と猫が知識人の性格に根源的批判を投げかけるシーンがあるがそれを面白おかしく笑い飛ばせる形にしてくれた本。
余談だが、セネカの「仕事は高貴なる栄養なり」という言葉について「なんか言ってることが国の人っぽいんですよね。(中略)こんなんじゃ国民はもう騙されませんよっていう典型的なダメなキャッチコピーの見本。」と散々にこき下ろしている。
セネカのみならず過去の思想家の言葉を解釈する際、現代人は主義思想ばかりを気にして、発言者のもっと俗な部分を見落としてないだろうか。有吉のゴキブリのような現実感覚が、吾猫のネコのように問いかける。
「なんじの敵には軽蔑すべき敵を選ぶな なんじの敵について誇りを 感じなければならない
−ニーチェ」
「なんか言ってることが『少年ジャンプ』っぽい。なんていうか、言ってることが幼い。(中略)『好敵手』って書いて『ライバル』って読ませたいタイプの人ですよね。そこが『少年ジャンプ』みたいな感じがするんです。敵に誇りなんか感じる必要ないです。戦うのは、明らかに自分より下のレベルの奴でいい。”絶対勝てる”っていう相手しか選んじゃだめです。」
「あらゆる人は同等である それを異なるものにするのは生まれではなくて、徳にあるのみ
−ヴォルテール」
「『世の中で一番平等なものって何かな?』って考えたとき、僕、風俗だと思うんですよ。風俗って客に平等なんですよ。あんまり裏表がないんですよね。(中略)プロですね。目の前の1万5千円しか見えてないんですよね、あの人たち。金があろうがなかろうが、売れていようがいまいが、1万5千円払えばもう平等に扱ってくれる。僕のこと、『1万5千円分の客』としか見てないですから」
このように有吉流の見方でどんどん哲人たちの言葉がかすんでゆく。有吉のような極めて現実主義的、実利的な人間の出す結論と、机上型、思索型の人間の結論との違いを考えさせられる。
「吾輩は猫である」の中で「分からぬところには馬鹿に出来ないものが潜伏して、測るべからざる辺りには何だか気高い心持が起るものだ。」と猫が知識人の性格に根源的批判を投げかけるシーンがあるがそれを面白おかしく笑い飛ばせる形にしてくれた本。
余談だが、セネカの「仕事は高貴なる栄養なり」という言葉について「なんか言ってることが国の人っぽいんですよね。(中略)こんなんじゃ国民はもう騙されませんよっていう典型的なダメなキャッチコピーの見本。」と散々にこき下ろしている。
セネカのみならず過去の思想家の言葉を解釈する際、現代人は主義思想ばかりを気にして、発言者のもっと俗な部分を見落としてないだろうか。有吉のゴキブリのような現実感覚が、吾猫のネコのように問いかける。