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タグ / 中国 東京裁判

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中国と東京裁判(20):『梅汝璈日記』17 [2015/11/22 07:38]
1946年5月8日水曜日 朝起きて新聞を見ると中国のニュースが依然として重要な地位を占めていたが、良いニュースはなかった。公亮(朱世明)によれば、このたびフーバーが東京に来てマッカーサーと数時間会談したが、中国の事情についてはとても悲観的で、彼は記者から中国のことを尋ねられても沈黙を守り、ただ中国での災難は悲惨だと述べただけであった。  私はマッカーサーの四月の日本管理報告書を読んだが、そこでは日本が次第に真の民主の道を歩んでいるとあった。これはいくぶん粉飾しすぎでは..
中国と東京裁判(19):『梅汝璈日記』16 [2015/11/21 01:00]
1946年5月6日月曜日 今日はとても緊張した一日であった。裁判所は九時半に開廷し、観衆は依然としてすべての傍聴席に一杯であったが、貴賓席には前の二回ほどの人はおらず、我国の朱世民将軍もフーバー前大統領の閲兵式典に参加して席にはいなかった。 開廷してから一つ目のことは、検察庁が法廷で新たに東京に到着した陪席検察官のメノン氏(Menon)を紹介し、それから被告弁護士代表清瀬一郎博士(Dr.Kiyose 東条の弁護士)を紹介し、それから一人一人各戦犯の招聘した弁護士を紹介..
中国と東京裁判(18):『梅汝璈日記』15 [2015/11/20 07:12]
1946年5月4日 土曜日 今日は極東国際軍事裁判の開廷第二日目である。朝起きてスター・アンド・ストライプス紙とジャパン・タイムス紙を見ると、どのページも裁判の昨日の開廷のニュースと裁判官や戦犯や法廷警備などのいろいろな写真があった。最も注目を引くのは半ページを占める法廷の全景で、新聞でも大川が東条の頭を叩いたことが細かく描写されていた。 今日は九時半から開廷で、私は九時に裁判所に到着し、同僚たちと会議室で三十分ほど話をした。開廷の儀式は完全に昨日と同じで、傍聴席はや..
中国と東京裁判(15):『梅汝璈日記』12 [2015/11/17 01:55]
1946年4月30日火曜日 今日は裁判官の会議はない。天気は曇り雨である。私は午前裁判所に行かなかったが、方秘書と羅秘書を裁判所に様子を見に行かせた。何か臨時に起こっていないかどうか心配だったからである。私は自分の部屋でもう一度こまかに訴訟手続き細則を研究し、幾つかの裁判所の翻訳の問題に関する幾つかの仕事をして、それから日記を補足した。 昼に方秘書が中央社の記者宋徳和氏を連れて来た。ホテルで昼食を取る約束であった。宋氏は我国のたいへん有名な従軍記者で、かつて連合軍に従..
中国と東京裁判(14):『梅汝璈日記』11 [2015/11/16 01:00]
1946年4月29日月曜日 今日の裁判所は正式に一つの大きな仕事を処理した。それは起訴書の法廷への提出儀式があったからだ。提出の儀式は十時半ころに挙行され、私は九時半に方秘書と法廷に赴き、幾つかの事務処理をしてマクドゥガル氏らと裁判官会議室へ行って話をした。 十時半、検察長のキーナンが一冊の起訴書を携えて会議室に来て、その後に各国の陪審検察官も到着した(我国の検察官向明思氏は帰国していて、今日は劉子健秘書が代理)。裁判官たちは会議テーブルを囲んで座り、検察長は裁判長に..
中国と東京裁判(13):『梅汝璈日記』10 [2015/11/15 07:01]
1946年4月24日水曜日 今日は午前に法官会議を開き、続けて訴訟手続き細則の草案と文書ファイルの翻訳の問題を討論した。草案にはわずかな修正があるだけで、全部あわせるとこれで第四次の草案となる。 ちょうど草案を討論している時に、秘書がマッカーサー元帥の回答状を持ってきて、中には極東国際軍事裁判憲章修正条文の草案が附されていた。修正案には私たちの質問状の問題に対し、その規定は被告の自己弁護あるいは弁護士を雇用しての弁護を許すが、二者のどちらか一つを選択できるとあった。そ..

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