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2016年04月04日

川島芳子は生きていた(35)阿尾博政の証言

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

阿尾博政著『自衛隊秘密諜報機関ー青桐の戦士と呼ばれて』には阿尾氏が戦後に古谷多津夫氏の自宅で白髪の老婦人を見かけ、それが誰か尋ねると川島芳子だと告げられたという証言が載せられている。

古谷多津夫とは、戦時中、上海におけるスパイ組織である「南城機関」の機関長をしていた人物である。古谷は三十歳にならずして同機関の機関長となり、日本人、フランス人、インド人、ロシア人、中国人など約八百四十名のスパイを自らの指揮下に置いていた。そして、彼らを上海から広東省までの華南一帯に展開し、国民党、共産党への熾烈な特務戦をおこなってきた人物である。南城機関は日本海軍第三艦隊司令部付兼上海在勤海軍武官府付の特務機関であった。

この当時の上海は〈東洋の魔都〉と呼ばれ、世界四十八カ国および中国国内の各勢力が、生死を賭した諜報戦を展開していた。当然のことながら、諜報の一手段としてテロが横行した。古谷は戦後も内閣調査室の顧問として、日本の各諜報機関の現場において神様≠ニ評価されていた。古谷は、アメリカの安全保障に緊要な地域である極東の日韓台の情報網の中で、優れて信用された人物だった。

 戦後に川島芳子が日本に潜入していたのは某財団関係者によれば1955年前後であるから、阿尾博政氏が古谷多津夫の自宅で川島芳子を目撃したのもこのころになろう。戦時中に上海で海軍のスパイをしていた児玉誉士夫や、児玉を海軍に紹介した笹川良一などとも関係があったことは想像に難くない。

阿尾博政氏と川島芳子のつながりはもう一つある。それは阿尾氏が佐郷屋留雄の書生をしていたことだ。佐郷屋留雄は1930年に首相の浜口雄幸を東京駅で銃撃して暗殺した右翼のテロリストである。佐郷屋が犯行に使用したピストルはもともとは川島芳子が所蔵していたピストルであった。

元はというと、このピストルは張作霖の部下であった張宗昌という男が川島芳子の弟である愛新覚羅・憲開の殺害に使用したピストルであった。川島芳子は死んだ弟の形見の品としてピストルを譲り受けたのだった。

川島家に出入りしていた右翼活動家の岩田愛之助は川島芳子に結婚を迫り、川島芳子はそれを拒否してこのピストルで自分の胸を打ち自殺未遂を引き起こしている。そしてこのピストルはなぜかこの岩田愛之助の手に渡る。そして岩田愛之助が子分の佐郷屋留雄にピストルを渡して浜口雄幸首相を襲撃させたのであった。しかも佐郷屋は小学校までの幼少時代を中国の吉林省で過ごしているから、その当時の中国東北地方の軍閥だった張作霖のことは知っていただろうし中国語も話せた可能性が高い。

佐郷屋の家で書生をしていた阿尾博政氏が川島芳子に出会うというのは、こうして見ると決して偶然ではないことがわかるだろう。阿尾氏が古谷や佐郷屋といった極めて川島芳子に関係の深い人脈と状況に身を置いていたことが読み取れるのである。阿尾氏は佐郷屋のタンスにはいつも多額の現金が収められていたのを目撃している。つまり佐郷屋は自分の意志で浜口首相を暗殺したのではなく、誰かの指示と出獄後の生活の保障を受けて浜口首相を暗殺したのであろう。彼ら玄洋社系の右翼には香港のユダヤ系財閥の金銭的援助があったという黒い噂もある。

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2016年04月03日

川島芳子は生きていた(34)白光の証言

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載
白光は李香蘭らと共に日中戦争期に活躍した中国人の映画スターで歌手である。東京女子大学へ留学経験があり日本語ができるため日本軍の宣伝映画などに出演していたこともある。川島芳子の初恋の相手で李香蘭を歌手としてスカウトした日本陸軍の山家亨と一時期は同棲生活を送っていた。また中国国民党のスパイの親分だった戴笠とも愛人関係にあったようなので、美貌を利用した二重スパイの役割を果たしたのであろう。

彼女が台湾を訪問した際に蒋勲という人からインタビューを受けた記事が『雄獅美術月刊』1978年5月号第87期という中国語の雑誌に掲載されているそうだ。その記事が2011年に舞台で演じられた白光の一生を描いた劇「如果没有你」のパンフレットに再録されている。下はそのパンフレットだ。

白光白光2

この記事の中で白光は1947年に川島芳子に出会ったと述べている。白光によれば川島芳子は死刑を替え玉ですり替えて死刑を逃れて、米国からの依頼で外モンゴルの独立運動に関して情報活動を行っていたという。この記事が正しいとすると川島芳子の処刑は公式には1948年3月だから、すでに1947年の時点で川島芳子が監獄から外に出されて身代わりとすり替えられていたことになる。

また川島芳子の替え玉がソ連と米国の働きかけによるものであったとすれば、川島芳子の死体の撮影を許されたのが米国人記者だけであったことも納得がいく。米国人記者の報道は川島芳子を逃がすためのオトリ報道だったのである。米国はヤルタ会談で外モンゴルを中国とソ連の緩衝地帯として独立させることで密約があったようだ。川島芳子はモンゴル人のカンジュルジャップと結婚し、モンゴルで一時期生活したことがあるためモンゴルに人脈があり何らかの情報活動に携わるのに便利な存在だったのだろう。

 なぜ米国が川島芳子を助けたかというと、東京裁判で日本の戦犯に不利な証言をした田中隆吉は、以前の恋人であった川島芳子を助けようとマッカーサーに川島芳子が隠し持っていた清朝の財宝の一部を贈ったという。その中でも特に値打ちがあったのが赤い琥珀で、元は西太后の持ち物だったが溥儀により川島芳子に贈られた大変に珍しいものであった。これらの清朝財宝により買収されたマッカーサーの指示もあり、米国が川島芳子の救出に関ったという話がある。

以下は原文の中国語
2011年云门演出编舞家林怀民的舞作《如果没有你》的节目单转载1978年5月第87期《雄狮美术月刊》美学家张勋访问白光的文章《向生命投降-访白光》有一段川岛芳子的事。
------------------------------------
「打不打算写一点回忆录之类的东西?」我想应该结束这次访问了,就转入这个话题。
「我自己的?」她说:「没有。我在写一个朋友的故事。我最好的一个女朋友。她在日本侵华计划下,从小被训练成一个情报员,给日本军阀工作,然后卷入中国抗战时几个不同政治组织的斗争中,然后抗日战争胜利了,她以战犯的名义被捕,报上大登特登:XXXX被枪毙。可是他并没有死,美国人花了六根金条买了一个不知名的女人,拉到刑场上代替她就枪毙掉了。她又继续被美国人利用做间谍。我最后一次见她是1947年,美国人送她去外蒙古,准备做控制外蒙的前锋。」她听了一下又说:「这就是人,你认识她,你才知道她其实多么简单,善良,应该是一个普普通通的女人,可是她的一生给几个政治组织在做贱。现在,不知道她还在不在。」
「好像是川岛芳子的故事。」我说。
「就是她。我最好的一个朋友。」
「她太出名了。」我说:「我倒在想那个不知名的女人,给人用六根金条买了。拉到刑场无声无息的就枪毙了。她不应该向生命投降,如果生命是这样子。她应该站起来,用拳头把这样的生命砸的粉碎。」

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2016年04月02日

川島芳子は生きていた(33)金塊で替え玉を買収

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

川島芳子処刑のニュースから数日もしないうちに、北平の新聞には再び金璧輝(川島芳子)のニュースが紙面を賑わし、静かになったばかりの北京は再び震撼することになる。
最新ニュース「金璧輝(川島芳子)の死刑の替え玉となったのは劉鳳玲」
事情は次のようなものであった。名を劉鳳貞という女性は、死刑の替え玉となった劉鳳玲の妹であるが、前後して二度も河北高等法院検察所と新聞社に投書して、(もう一つの説は替え玉の妹である劉鳳貞は南京国民政府監察院に訴えたという)彼女の姉が金で買われて替え玉となった詳細を暴露して訴えた。
一通目の手紙にはこのように書いてあった。

新聞

「私の姉は劉鳳玲といい、親孝行で外見が金璧輝に似ており、日本語も出来ました。私の母親は義理の兄である劉仲儕の甘言に乗って、私の姉を十本の金の延べ棒で売りました。」
「刑が執行される夜に、私と母は姉を監獄の官舎に送り届けて、監獄二科の万、王の二人の科長と典獄長呉さんに会いましたが、彼らは四本しか金の延べ棒を渡してくれず、残りの六本は後で渡すといいました。母親は後悔して泣きだしやめると言い出しましたが、三人の役人は怒って、『お前たちがまた来たら、三人ともみな殺しにする』と言いました。私たちは怖くなって、姉は胃の病気で死ぬ身だし、親孝行にもなるからと、母親を説得して家に帰りました。」
「劉仲儕が後で言うには、金璧輝(川島芳子)は女子監獄から庭に出てきた所で、私の姉と入れ替わり、小門から東北に逃げたということです。」
「劉仲儕は阿片製造の罪で収監され、刑が満期になった後で、私の姉を売った金の延べ棒をネコババして職員の地位を買収した。刑を受けた人間が、官吏になれるなど全く不思議だ。」
「王科長は家で座っていながら看守の禄を貪り、呉典獄長は大金持ちになった。王科長は民国三十一年に第一監獄の科長となり、賄賂を好み、陳医官、秋専門員らも皆呉監獄長が金儲けするのを助けている。私は彼らを恨むのではないが、彼らが金の延べ棒が少ないと、私たち親子を害するのを恐れる。」

この一つ目の手紙が出されて数日もしないうちに、法院と新聞社はさらに劉鳳貞からの二番目の告発文を受け取った。

「四月十九日の夜に、私の母親劉李氏は呉典獄長と、万、王の二科長と秋専門員に会って、私の姉が金璧輝(川島芳子)の替え玉となって銃殺された身代金の残り金の延べ棒六本を要求したが、万・王の二人の科長に殴られた。呉・秋の二人は『お前たちは生かしておけぬ!』と脅したので、母親はそれ以上は言えなかった。」
「私の母親はそれから義理の兄の劉仲儕を探して説得したが、モルヒネ製造で捕まって、なおかつ金で事務員の地位を買った劉仲儕に説得など効くはずもなく・・・・・・」
「四月二十日の夜、私の母劉李氏は再び第一監獄に行き、呉典獄長、万・王二科長、秋専門員に金を要求したが、その日以来母親が戻ってこない。私が劉仲儕に訪ねると、『お前も早く逃げないと命が危ないぞ』と言った。私はすぐにあちこちへ身を隠し、表に出られなくなった。私の姉は替え玉にされ、母親の命も取られてしまった。どうぞ法院で調査してください。」

疑問の余地なく、手紙の差出人がこの二つの手紙を発表したことにより、金璧輝(川島芳子)が処刑に「替え玉」とすりかわった内幕を暴露しただけでなく、第一監獄に金璧輝(川島芳子)の死刑に賄賂が使われて汚職により法が曲げられたという幾多の事実を暴露することとなった。劉鳳貞が新聞にこの驚くべき事情を明らかにした後、南京政府の腐敗ぶりに失望し、憤りを抱いていた北平市民たちは疑問を抱くと共に、徹底的にこの事件の裏を調査するように要求した。
ことがここまでにいたっては、国民党の北平当局に巨大な圧力を与えざるを得ず、さらに加えて国民党がけし掛けたはずの内戦ではすでに国民党の全国統治風前の灯のような状態であった。この情勢に押し切られて、国民党北平当局は人々の不満をやわらげるための政策を取ることを強いられ、新聞上に大きな紙面を割いて、記者の取材調査報告を発表させた。そのなかには、女子監獄主任趙愛貞のインタビューや、死刑を執行した当事者の談話、看守長の証明があった。死体を引受けた日本人古川大航のはっきりしない言い方も、市民の疑問を解くためであった。
その後に、当局は以下のような文書を発表した。

「劉鳳貞が典獄長を収賄で告訴した案件は棄却
 監督部門が調査し全くの虚構と判明
法院の命令により河北第一監獄長呉峙沅らが賄賂を受け取って金璧輝(川島芳子)を逃がしたとされる事件を調査し、ここにその調査結果を謹んで報告する。
(一)執行経緯:記録によれば、河北高等法院検察処は今年三月二十四日、核丁学第一八三号に基づき、河北北平第一監獄典獄長呉峙沅に訓令し、最高法院検察署寅魚捷事一六号代電により主席検察官は命令に従い、当該犯人金璧輝(川島芳子)を取り調べ、本人であることを確かめて、法に基づき死刑を執行した。今月二十五日午前七時に、本院は検察官何承斌を派遣して、命令どうりに執行されているかを監督し、協力して執行した結果を報告した。この事件調査の責任者である検察官何承斌は命令を受けた後、二十五日午後六時ごろに、書記官、法医、警吏などを率いて、第一監獄に赴き刑を執行した。監獄へ到着後に当該監獄の科を主管する王科長が女子監獄へ行き金璧輝(川島芳子)を引き取りに行き、女子監獄主任の趙愛貞が金璧輝を監房から呼んで女子監獄の横門で王科長に引き渡し、王科長は金璧輝を高等検察所の警吏に引き渡して処刑場に連行した。処刑場についた後に、検察官何承斌は自ら確認をして、金璧輝(川島芳子)本人に間違いないことを確かめ、遺書を残すかどうか訪ねた後、刑執行を宣告し、再び同じように検分して、三回にわたり確かめ、すでに死亡していたため、監獄吏に命じて、死体を後ろ門の外に運ばせた。これが当日の死刑執行状況の概要である。
(二)告訴内容:
(劉鳳貞の二つの告訴状と同内容のため略す)
(三)事実分析:
一、第一の告訴状の情況によれば、被害者劉鳳玲は金璧輝(川島芳子)の替え玉となって死ぬことを甘んじて受けたのであり、その原因は親孝行であったからで、その代価は金の延べ棒十本で、その動機は母が義理の兄劉仲儕の言を容れたことで、選ばれた原因は「外観が金璧輝に似ており、日本語が出来た」という以上四つの原因により、死刑の替え玉となったとされている。しかしその挙げたところの紹介人である劉仲儕は、一貫して義理の妹に劉鳳玲なる人間がいたことを否認しており、かついかなる親戚友人関係も、さらにはその人との面識も否認している。かつ告訴人が顔を出さず、また住所もなく、その紹介人とされている人間もそのことを否認していることから、告訴人が姿を現して質問に応じない限りは、劉仲儕が否認していることを嘘と証明することが出来ない。この理は明らかである。
二、その告訴状に述べるところによれば、「劉鳳玲は胃の病気を患い余命幾許もなく、また親孝行にもなるからと、母に家に戻るよう説得した」とあるが、胃の病気を患い余命幾許もない人間であれば、その病気の程度が重いはずである。金璧輝(川島芳子)が死刑を執行される前には、健康は普通で、余命幾許もない病人が健康正常な人間の替え玉になれば、たとえ告訴状の言うように「外観が金璧輝に似ていて、日本語ができた」にしても、その健康状態は、大きく差があり、このように死刑執行検察官をだまそうとしても、その検察官が騙しとおせるものであろうか。
三、「金璧輝(川島芳子)が女子監獄から庭に連れ出され、劉鳳玲と入れ替わり、小門から東北に向かって逃げた」とあるが、女子監獄の主任趙愛貞の供述によれば、「本監獄王科長が女子監獄に来て金璧輝(川島芳子)を要求したので、自分が金璧輝を女子監獄の側門から連れ出して、王科長に手渡した。」と述べており、また「私は側門の外側で、王科長が金璧輝死刑囚を女子監獄側門から刑場に連行するのを見た。」と語っている。その後にその場にいた警護人員、当該監獄科員秦紹武に供述したところによれば、本監獄王科長は金璧輝死刑囚を女子監獄側門から連れ出し、高等検察所の何検察官が連れてきた法官に手渡し、刑場へ連行し、その場で何検察官が本人であることを確かめ、姓名、年齢、本籍を尋ね、遺言を尋ねるなど各種の手続きをした後、何検察官の命令で刑執行人により執行された。また当該看守の饒希曽に質問したところ、このものは当日の刑場で警護責任者であったが、確かに処刑されたのは金璧輝本人であったと認めた。すなわち金璧輝死刑囚は女子監獄の側門よりでた後、高等検察所の法官が連行したことは事実であり、女子監獄と刑場の距離はわずか五〇ヤードで、法院唯一の小門すなわち非常門とは距離が七、八〇〇ヤード隔たっており、告訴人の言うようなことは、大勢の人が見ている中で不可能な事である。
四、「劉仲儕が刑を受けたことがある人間で、事務員の地位を金で買った」とか「呉、王、万、秋は賄賂で財を成した」などは本件とは関係なく、別の収賄事件とする。
「母は四月二十日晩に受け取っていない六本の金の延べ棒を要求しに行って、それから帰ってこない」、また告訴人が「あちこちに身を隠して、身元を明らかに出来ない」。上述の通りであるとすれば、告訴人の劉鳳貞は、その姐を金で売り母が失踪した後に、仇を討つためには、当然名乗り出て治安機関に保護を求め、社会の援助を求め、母と姉の仇を討つのが当然であるのに、ただ「身を隠し、身元を明らかにしない」のは、世の愚か者が出てくるのを恐れているのであり、でたらめを言っているのは、別の意図があるからであることが想像できる。
(四)告訴への疑問
一.告訴状の各段を見て、もし仮に賄賂があったという部分が事実であるとしたならば、請負人はすでに賄賂と誤殺人犯の二種の罪状があるのに、なぜ再び本件とは無関係の賄賂事件を持ち出す必要があるのか。もし告訴人がか弱い女子の身で、自分の母と姉の命が奪われたというなら、どうして監獄の過去の様々な汚職事件を詳細に知ることが出来たのか?疑問の一つである。
二、告訴人が告訴状に述べるような被害を受けたなら、即ち姉が金十本で命を売り、親孝行であったなら、告訴人は母と妹の仇を一身に担っているのに、どうして恐れて隠れるのか。これが疑問の二つ目である。
三、査察団が任務執行期間中に記録を調べると、過去の匿名で呉峙沅等を訴えた二つの告訴状にある告訴人の筆跡と本案の筆跡がよく似ており、さらに紙質と紙の大小も似ており、同一人物の手になるものが明らかである。劉鳳貞の告訴とどんな関係があるのか、たまたま代書しただけであろうか?全く理解しがたい。これが疑問の三つ目である。

この長大な文章の目的は、ほかでもなく北平市民に「替え玉」など存在しないと言わんがためのものであった。しかし、結果としては逆に民衆に疑わしい感覚を与えただけであった。当局が隠蔽しようとすればするほど、かえって怪しく思われてしまうだけであった。この文章の発表後に、あの「替え玉」の妹であった劉鳳貞も姿をくらまし再び姿を現すことなく、果たして当局に口を封じられたものか今となっては知るすべもない。
国民党政府当局はこのように不細工にもそそくさと金璧輝(川島芳子)事件への処置を終了したが、民衆の心には消しがたい懸念と謎を残したのであった。
一九四八年十二月上旬から一九四九年一月三十一日、天津戦役が終了後に、北平は平和的に解放され、人民共和国の首都北京となって人民の手に帰り、北京市民は新しい心持で偉大な祖国の建設を開始し、金璧輝(川島芳子)の死刑の謎は徐々に人々の記憶から薄れていった。

川島芳子の刑死は六十年余り経った今日でも、やはり彼女自身の足跡と同じくミステリーであり、世紀を超えて歴史的懸案となっている。もし、画家の張玉が祖父段連祥の遺言を世に明らかにしていなければ、おそらく川島芳子の生死の謎はそのまま謎であり続けていただろう。
川島芳子の養父川島浪速は一九四八年十二月十二日に親友の滝沢徳太郎への手紙の中で次のように書いている。
「中国の《大公報》の報道によれば、川島芳子の死刑は実際には執行されておらず、、処刑されたのは替え玉だった。新聞に載った死体の写真は現代中国風の長髪だった。彼女と一緒に生活していて、先に釈放されて帰国した小方八郎は、彼女は男のように短い髪にしていたから、処刑されたのは川島芳子司令ではありえないと言っている。」
古川大航も次のように述べていた。
「死体は血まみれで判別し難かった。ただ髪の毛は肩まで伸びて長かった。」

川島浪速のこの手紙は現在も米国国立公文書館に保管してあり、すでに英訳も添付されている。
当時古川大航が一九四八年九月に、いわゆる「川島芳子」の遺骨の半分を川島浪速に手渡すと、川島浪速は川島芳子の遺骨の安置を手配し、長野県松本市黒姫山雲竜寺の永井徳温住職に託した。
永井徳温の一九六五年の回想によれば、「浪速先生は夫人と芳子の遺骨を一緒に私の寺に預けた。当時も芳子の替え玉説があったが、浪速先生は『たとえ替え玉でも供養しなければならない、もし芳子本人ならなおさらだ。』と言って私どもにあつく供養させた」。

二〇〇八年九月二十四日、日本に留学中の中国人学生孫洋が日本の名古屋市から日本の川島芳子の資料を送ってくれたが、その中には「川島芳子生死の謎」に関する次のようないくつかの噂が含まれていた。
一、日本政界で親中派の政客であった藤山愛一郎が一九五五年バンドン会議に参加した際、渡航前に周恩来首相と面識のある吉薗周蔵を訪ね、周恩来宛ての紹介状を書いてくれるよう頼んだ。すると、吉薗周蔵はそれと引き換え条件として、藤山愛一郎にことづけて周恩来にあったら川島芳子は生きているのかどうか尋ねてほしいと頼んだ。藤山愛一郎は会議の間に周恩来と親しく会見し、吉薗周蔵からの紹介状を手渡すと共に、吉薗周蔵の名義で周恩来に「川島芳子が生きていると聞きましたが本当ですか?」と尋ねた。周恩来は日本の友人からの言伝を拒否することもなく、「そんなことは答えられる問題ではありません。ただ吉薗先生にはこうお伝えください」と言いながら、手で丸を描いた。藤山愛一郎は帰国すると吉薗周蔵に周恩来からの挨拶とともに、その問題への回答も伝えた。
二、一九九七年八月、日本外務省出身の某議員が日本海軍の特務機関にいた塚田という人物から聞いた話として、川島芳子は金の延べ棒五本で命を贖ったあと当局に軟禁されたと述べた。
三、川島芳子が死刑を執行される十日前に外国人のAP特派員が監獄で単独取材をした。その時、この特派員はその眼で川島芳子が男のような短髪であったのを目撃している。しかし処刑されて公開された死体の髪の毛は首に巻きつくほど伸びていた。
四、二〇〇二年日本ABC記者が愛親覚羅・連伸の紹介で東北地方の暁玲という女性を取材した。この女性が言うには、川島芳子は一九四八年に死刑を逃れた後、中国に残留した旧日本軍人である松本章と結婚し、一人の娘を産んだが、それが彼女暁玲だという。ところが、一九五三年に川島芳子と松本章は自宅で何者かに殺害された。当時、わずか四歳だった暁玲は親切な人に養子にもらわれた。暁玲が大人になった後に、養父母は彼女に出生の秘密を語って聞かせた。愛親覚羅・連伸によれば彼女は「川島芳子」の祭壇に花を供えているという。
 現在、こうして日本に流布している川島芳子の生死の謎に関する数々の噂は、「川島芳子生死の謎」が半世紀以上にわたってずっと議論され、いまなおその余波が続いていることを示している。

我々は当時北平当局が川島芳子を審理した機密文書を手に入れることができた。『川島芳子の秘密―国民政府金壁輝審判文書』というもので牛山僧の編集により香港で少数出版されたものである。当該資料の中には、国民党軍統調査室の尋問記録、検察官の告訴文書、裁判官の審理記録(筆記)、被告の自白と抗告、弁護人の弁護、裁判所と検察院の往復文書、すべて原資料のコピーであるが、その中に意外な発見があった。当該文書の第三十八巻の中に「古月山人」という匿名の人物が、金壁輝に「災いを転じて福となす策」を書いて寄こしているのだ。その文書は以下のようなものであった。

 「大恩人さまがお書きになった手紙を受け取りびっくりしています。私めは今日南京より古都へ戻り、ついでに福星の行方を尋ねますと、すでに北京にきて数日になるとのこと。どうぞ大恩人さま早急に訪ねてください、機会を逃して後から後悔しても遅いのです。さもなければ私めがせっかく恩返しをしたくても無駄になってしまいます。どうぞ大恩人さま疑わないでください。試みに人生の危うさを考えてください、朝に生まれ夕に死ぬものがどうして謀略に打ち勝てるでしょうか。ただ勇敢な者だけが打ち勝てるのです。いま私めは恩に報いるために、危険を顧みずに機会を探っているのです。大恩人のために災いを転じて福となす計画を考えたのに、なお疑って決心しなければ、災いが降りかかってから後悔しても遅いのですよ。どうか考え直してください。私めが早く北京に戻ったのも、この事のためです。明日の朝処刑場に向かわれるときに、この手紙は燃やして、ほかの人の目には触れないようにしてください。さもなければ効力を失ってしまうばかりか、大きな災いを招きます。これは大恩人さまの生死にかかわることですから、決しておろそかにしないでください。金壁輝大恩人さまへ。
古月山人
北京東四九条金宅
金壁輝様親展
古月山人封」

この手紙の文面を表面的に見ると次のことが読み取れる。
一、送り主の古月山人(筆名か号)はかつて川島芳子に救われたことがあるか、財政的援助を受けたか、その恩返しのために動いている人物である。
二、古月山人は南京国民政府の人間か、あるいは国民党軍統の成員か、あるいは南京当局の権力者とつながりのある人物である。
三、この手紙は同じような内容の二番目の手紙で、しかも処刑の前日(一九四八年三月二十四日)に送られている。当事者は大恩人(川島芳子)に最後の機会(救出の)を逃すことないよう忠告している。
四、手紙は川島芳子の手に渡ったが、なぜか焼却処分されず、この裁判の関係者により資料の中に入れられたのは、後世の人に示すためであろうか。川島芳子がなぜ焼却処分しなかったかといえば、おそらく生死の境を前にしてそれどころではなかったのであろう。
 総じて言えば、この手紙が伝えているのは次のような情報である。川島芳子を救い出す秘密の計画があり、最後の最後にいたる直前まで、緊密に連絡を取り指示をしていた人物がいるということだ。

2016年04月01日

川島芳子は生きていた(32)川島芳子の処刑と逃亡

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

一九四五年十月十一日夜、国民党「軍統」(軍事統計調査局)の北平第二粛奸小組が、北平東四楼牌九条公館の大門を叩き、川島芳子の逮捕を実行した。はじめは国民党第十一戦区長官孫連仲司令部の倉庫部屋に拘留された。その年の十二月に、彼女は北平第一監獄に移された。
その後は、大体毎月一回は川島芳子に尋問が行われた。最初の段階では、彼女の国籍問題がおよそ論争の焦点となった。その後、法廷は川島芳子を中国人金璧輝として審判することとした。中国の法律によれば、「中国人が中国に対し不利な事を行った場合」は漢奸罪が適用されることになっていた。こうして、川島芳子は死刑判決を受けることとなったのである。
川島芳子は事実上日本人川島浪速の養女であったが、しかし日本の戸籍上は正式な手続きが行われていなかった。
一九四七年十月二十二日、検察官の起訴に基づき、川島芳子に河北法院から死刑が宣告された。その主要な罪状は以下のようなものであった。

(一)被告がたとえ中国と日本の二重国籍を有していたとしても、その父(清朝)粛親王善耆は疑いなく中国人であり、これにより漢奸罪が適用されるべきである。
(二)被告は日本軍要人と密接な交際があり、上海で「一・二八事変」(第一次上海事変)のさい、上海でダンサーになるなどしてスパイ活動を行った。
(三)「満州事変」後に、被告は関東軍と関係を保持し、満州安国軍を組織した。
(四)溥儀と婉容の天津脱出を手伝い、満州国建国の陰謀に加担した。
(五)各方面から提供された証拠に基づき、被告を漢奸罪、スパイ罪と判決し、国際スパイ処罰条例第四条第一項に基づき、被告に死刑を宣告する。

死刑を宣告された後も、川島芳子は生への望みを捨てなかった。死刑執行前の五ヶ月間に、彼女は何度も養父川島浪速に日本国籍の証明を送るよう手紙を書き、養父に彼女の出生日を十年遅らすように頼んだ。そうすれば、満州事変の際に彼女は十五〜六才の少女ということになり、そのような重大事件に関わることはできないと主張するつもりであった。その他にも、彼女は手紙で養父に彼女を多方面から死刑を逃れる方法を講じてほしいと頼んだ。その他、川島芳子が最大の希望を寄せていたのは、愛新覚羅家と彼女の兄である憲立らが、彼女の為に金を「替え玉」を用意することであった。

一九四八年三月二十四日になると、すでに死刑が宣告されていた川島芳子が数ヶ月行ってきた刑を逃れるための努力はどれも功を奏さなかったように思えた。
二十四日の夕方、河北省高等法院裁判長、検察官、北平第一監獄天国長は突然に省高等法院の会議室で会議を開いた。人々はこれはきっと川島芳子の死刑と関係があると推測した。様々な動きから見れば、明日の二十五日が執行日だと、人々は噂した。
確かに、二十五日明け方四時ごろ、実弾を込めた銃を担った軍警を満載した軍のトラックが、省高等法院から北平第一監獄に到着すると、軍警たちは第一監獄の周囲を厳しく警戒し始めた。朝六時に、一台の黒塗りの乗用車が監獄の大門に入ると、薄暗い朝方の光の中で、車から執行検察官、書記官、検験員の三人が降りてきた。
監獄の後ろの庭の西南の角には畑があったが、そこを臨時の刑場として一台の長方形の机と三脚のイスを並べた。机の上には硯と巻紙が置かれ、いたって簡単な配置であった。川島芳子がこの小さな刑場に引きずり出されると、刑場は水を打ったように静かになり、人々は声をひそめた。執行検察官は形式どうりに被告の姓名、本籍、年齢などを尋ねるとこう言った。
「金璧輝!お前の抗告は棄却され、その裁定書は昨日の夜に手元に届けたから、すでに承知のことだろう。本検察官は命令に従い今日お前に死刑を執行するが、何か言い残すことはないか?」
しかし、川島芳子は何も言わなかった。続けて、習慣どうり死刑犯への二個の饅頭を与えようとしたが、川島芳子は受け取らなかった。ちょうどこの時に、監獄の大門の外からますます大きくなる人声が聞こえてきて、刑場の静寂を破った。それは監獄の大門の外で夜中から張っていた記者達と市民の叫び声で、門をドンドン叩く音と共に、「門を開けろ、門を開けろ、中に入れてくれ!」という声が聞こえてきた。
この時に執行検察官が手を振るうと、二名の法官が川島芳子を支え、一人が身を翻すと、彼女を後方に数十歩退かせ、それから彼女の肩を抑えて、川島芳子は検察官を背に声を出すことなくひざまづいた。法官が身を避けて遠ざかると、この時に一人の頚執行官が銃を掲げ、川島芳子の後頭部から銃弾を打ち込み、川島芳子は銃声と共に倒れた。用いられたのは「爆裂弾」で、死者の後頭部から打ち込まれ、顔の額の部分が爆発で裂け、頭部は血漿と泥にまみれていた。
執行検察官が腕にある時計を見ると六時四十分であった。この時、ようやく黎明の曙光が徐々に天を照らし始めた。検死官は死体を検分するために、いまだ硬化していない死体のほうへ向かったが、死者の顔はすでに血漿によって黒ずんだ泥土にまみれており、完全にはっきり顔を確かめることは出来なくなっていた・・・・
監獄の大門の外では徹夜で待っていた人たちが、先を争って門を入って女スパイ川島芳子の最後を見ようと騒いでいた。しかし監獄の中から聞こえた一発の銃声は彼らの希望を打ち砕き、彼らの憤激を引き起こした。北平の十数社の大小の新聞社から来た写真機を手にした外回りの記者たちは全て入場を拒否され門外に留め置かれた。怒り狂った群集は、新聞記者たちと一緒になって門を叩いたり蹴ったりしていたが、重い鉄の大門はびくとも動かなかった。

二十五日午前九時前後に、一台のアメリカ式ジープが監獄の前で止まり、車からはアメリカ人記者が降りてきて、人ごみを掻き分けて、鉄の門扉を叩いて叫んだ。
「ハロー!門を開けてくれ!」
この外国人の叫び声を聞くと、監獄の鉄の門扉にあるのぞき穴がすぐに開いた。門衛の軍人は金髪碧眼の外国人が門で叫んでいるのを確認すると、いささかも躊躇わずに、このアメリカ人記者の名刺を持って指示を仰ぎに行った。戻って伝えられた回答は、川島芳子は国際的なスパイであるから、外国人記者の取材は許可しようというものであった。そこでこのアメリカ人記者だけが中に入れられたが、中国人記者は一人も中へ入ることを許されなかった。
監獄のこうした外国人だけ優遇するやり方は、民衆の怒りを買ったばかりでなく、さらに待機していた数十名の中国人記者たちの怒りを引き起こし、彼らは抗議のため声を大きくして叫んだ。
「外国人だけに媚を売るな!どうして外国人記者だけに取材させて、自国の中国人記者に取材報道させないんだ。」
「お前たちは何かたくらんでいるだろう!どうして公開審判だったのに、秘密に刑を執行するんだ?」
「どうして執行後にも取材を許可しないんだ?」
しかし、人々がどのように叫んでも、鉄の門扉は堅く閉じられたままであった。
AP通信記者が川島芳子の死刑執行後の写真を撮影し「独占配信」することになった後、川島芳子の死体は監獄の門外に運び出された。

死体

おおよそ、一週間が過ぎたころに、再び門のところに人がやって来た。やって来たのは身を袈裟に包んだ日本人僧侶で名を古川大航と言った。この七十八歳の日本人僧侶は日本の静岡県興津清見寺の住職であった。一九三八年に日本の対中国侵略戦争がまさにたけなわのころ、彼はふらりと海を越えて中国の華北にやってきて、中国軍民の攻撃を受けて戦死した日本軍人のために冥福を祈っていたのである。日本降伏後に、彼はなおも北平の単牌楼観音寺胡同二十号の日本臨済宗妙心寺に住んでいた。
古川は法院に紹介状を持ってきて来意を告げると、門衛の軍人は指示を求めに奥へ行った。
古い板の上に川島芳子の硬直した死体が載せられ、その上にはムシロがかけられていた。周囲には二、三十名の軍官がとりまいて人垣を作り、野次馬たちが入り込まないようにしていた。古川大航はひざまづき、ムシロをあげて覗くと「金璧輝」の顔は血と泥土で汚れて、彼女の面影を認識することは出来ず、ただ長い髪の毛が方まで伸びているのを見た。死体を包んでいた灰色の囚人服が見えたが、「彼女」はがっちりとした、やや中太りしたような体格に見えた。古川は死体を見取ると、目を閉じて手を合わせて、口の中で念仏を唱えて、「死者」のために祈祷を始めた。一緒にやって来た川島芳子の親戚が泣きながら古川は持ってきた新しい敷布団を死体の下に敷き、さらに白い毛布で死体を包んで、それを新しいシーツにいれ、上に日本人が死人のために用いる覆いを掛けた。これらの処理が終わると、古川大航は荷役を雇ってきて、この死体を荷車に運び上げると、北平朝陽門外の日本人墓地に隣接した火葬場に運ばせた。
川島芳子が荼毘に付されると、古川大航は川島芳子は日中両国に属していたということで、彼女の遺骨を二つに分け、半分は中国に葬るために残し、もう半分は日本に持って帰った。古川大航と川島芳子の親戚が火葬上で「墓地」を選び、その後で遺骨を半分に分け、半分は遺骨箱にいれ、もう半分は骨壷に入れた。親戚は川島芳子の遺骨を入れた骨壷を、「墓地」に掘ってあった穴の中に入れて、「墓前」には小さな墓碑を立てた。墓碑には「愛新壁苔妙芳大姐之墓 昭和二十三年」と刻まれた。古川はもう半分の川島芳子の遺骨が入った遺骨箱を持ち去った。
一九四八年九月、古川大航はついにあの川島芳子の遺骨が入った遺骨箱を手に船に乗り日本へ戻ってきた。

二十六日は「金璧輝(川島芳子)」が処刑されてから二日目の朝であったが、北平の各社新聞は川島芳子が処刑されたというニュースの外にも、記者たちの連名の抗議書を掲載し、各種の疑問を引き起こすこととなった。これらの疑問は詳細かつ具体的で、ずばり核心を突いた理屈に合うもので、それらをまとめると大体以下のように集約される。

一、過去にはずっと金璧輝(川島芳子)の案件は見せしめの典型として、新聞ラジオで過剰なほどに宣伝して、破格にも立錐の余地がないほどの公開審判をやり、映画記録まで撮影しておいて、名前最後の刑執行の場面になって、こうも秘密裏にしかも急いで処理したのか、全く解せない。
二、どんな理由があって慣例を無視して、新聞記者が刑執行前の尋問現場を取材するのを許さなかったのか?処刑が何故これほど秘密に行われたのか?
三、一歩譲って、被告が脱走するのを防止するためあるいは思いがけない自体が発生するのを防ぐためであったとしても、何故処刑後にも現場と刑執行の情況を新聞記者に公開しなかったのか?さらに不思議なのはどうして中国人記者は門外で拒否され、アメリカ人記者だけが現場に入れたのか?
四、どうして死者の顔面部が血と泥ではっきりせず、誰だかわからないようになっているのか?
五、金璧輝(川島芳子)は男装で短髪がトレードマークで、公開審判の際にも人々にそうした印象を与えたのに、どうして使者の髪の毛は首にまとわりつくほど伸びていたのか?
六、どうして人の顔がはっきりわかりにくい薄暗い明け方の時間を選んで死刑を執行したのか?
これらの疑問により北平市民が一致して次のように疑った。三月二十五日の明け方に処刑されたあの長い髪の女性は、本当は金璧輝(川島芳子)本人ではないのではないかと。
北平記者が連名で出した抗議書の前文は以下のようなものであった。

「冀北高等検察処は昨日命令により金璧輝(川島芳子)を死刑にした際、冀北第一監獄は記者たちの入場を拒否し、本市の外回り記者連合会はこのため特に冀北高等検察と冀北第一監獄に質問を提出して、答えを請うために以下のごとく質問状を提出する。
関係者に金璧輝の死刑執行に関し、本会は会員報告に基づき、数点の質問を呈するものである。
(一)中国の各新聞社のデスク(中央社、天津大公報弁事所、民国日報北平弁事所、中電三厰、華北日報、明報、民強報など)は昨日明け方五時頃に高等検察所主任書記官陳潔夫の電話連絡を受け、六時に第一監獄へ金璧輝(川島芳子)死刑執行のニュースを取材に出かけ、各社記者は時間どうりに赴いたにもかかわらず、貴監獄が記者の入場を拒否したのはなぜか。貴監獄は司法部門であるのに、どうしてこのように言を反故にするのか。
(二)昨日明け方に米国の新聞記者は、貴監獄で許されて中に入り金璧輝(川島芳子)の死刑執行のニュースを取材できたのに、知らせを受けて取材に行った中国の記者三十人余りは門前払いを受けた。貴監獄官員によれば、昨日の金璧輝(川島芳子)の死刑は秘密執行の命令を受けたと言っているが、秘密執行でありながら、しかも記者の参加を許したのに、中国人記者三十余人が皆門外に待たされ、中国と外国の新聞にニュースを配信する中央社も例外でなかったのは、貴監獄のこの措置はいかなる法律に根拠があるものか?またいかなる心理によるものか?はたまた別の事情があるのか?我が会の会員は納得できない。ここに謹んで貴監獄にお答えを要求すると同時に、我が会は司法の尊厳と報道の自由が損害を受けたことに極めて大きな遺憾を表明するものである。」

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