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2016年03月21日

川島芳子は生きていた(21)川島芳子と澍培法師

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

段霊雲の記憶によれば、彼女が初めて釈澍培法師に出会ったのは、方おばあさんについて長春般若寺に行った時のことであった。段霊雲は幼い頃に皮膚に過敏症を煩い、夏になって熱くなると、ことさらひどくなり、手の上には沢山の水ぶくれができ、とても痒く、父親は病院に連れて行き皮膚科に見てもらったが、ついによくならなかった。仕方がないので、父親の段連祥は彼女を連れて新立城の方おばあさんに会いに行った。方おばあさんは段霊雲の手を見たあとで、治す方法があるといい、ただ寺院の中に行き「吉祥樹」にお願いして、何本か線香をあげればよくなると言った。二日目に方おばあさんは早々に段霊雲を連れて長春般若寺にやって来た。それはちょうど農暦七月十五日で、お盆であったので、寺院の両側には沢山の屋台が出ており、数珠玉器、蝋燭絵馬、線香食品など様々なものが売られて、大変にぎわっていた。
釈樹培
お寺の門を入ると、段霊雲は方おばあさんについて沢山の参拝客の人だかりの中で、四大天王殿と大雄宝殿を過ぎ、三聖殿と観音殿を迂回して、方丈禅堂にやってくると、一人の小和尚が彼女に、澍培法師は用事でさきほど出かけたが、すぐに戻ると伝えた。段霊雲と方おばあさんが待っている間に見たのは、広い禅堂内に、正面には一座の法台があり、台上には払子や禅杖が並べてあり、台の下には客用のイスが並べてあった。四方の壁にはさまざまな書画がかけてあり、そのうちの幾つかは「石蘭朴訥」「竹葉図」「妙菩提」など、すべて澍培法師の手によるものであった。この時、僧が客があるのに気づいて二人に呼びかけ、申し訳なさそうに「お茶をどうぞ、私が大師を探してきます」と言った。小和尚が二碗の茶と四皿の果物を運んできた。方おばあさんと段霊雲はお茶を飲んでいると、澍培法師が帰ってきた。大師と方おばあさんはよく知っていたので、遠慮なく来たわけを尋ねると、法師は方おばあさんと段霊雲に彼について大殿に来させ、法師が大木魚をたたきながら法事を始めた。

災いを消し病を治すように「吉祥樹」に願いをかけて、方おばあさんと段霊雲は手におのおの二本の「吉祥樹」を持ち、木床の上に敷かれた座布団の上に跪き、近くにあった火鉢の中で「吉祥樹」を燃やした。段霊雲は方おばあさんが仏像の前に土下座して祈る敬虔な姿を見ると、家の中でのいつもの荒っぽい態度と結び付けがたく、まったく別人のように感じた。段霊雲は心の中で、もし方おばあさんがいつもこのようであったらいいのにと思った。

仏事が終わると、澍培法師は方おばあさんと段霊雲を食堂に招き、精進料理を食べると、彼女たちは再び澍培法師について禅堂に行った。法師は机の上に積んである経書の中から一冊の『瑶池金母の秘法と料理』という本を取り出した。澍培法師は方おばあさんに、家に帰ったらこの書にある秘法の薬と食事を食べさせるように言った。法師は特に段霊雲に諭して、これは疥癬だから、汚い水で遊ばないように。毎日手をよく洗って、辛い食物を避けるように。感染と風邪に気をつけて、傷をつけないように気をつけるように。これらはみな疥癬の発生と再発の原因になると述べた。またあまり緊張しないように、緊張すると皮膚の細胞の成長に影響して疥癬が出やすくなると言った。

その日の午後、方おばあさんと段霊雲は澍培法師に感謝して、『瑶池金母の秘法と料理』と言う本を大事に包んでカバンの中に入れて、すぐに般若寺を離れて新立城の家に戻った。般若寺から帰った後、方おばあさんは毎日経書にある秘法によって、段霊雲に薬と食事を作り、半月もすると段霊雲の疥癬は基本的に好くなった。方おばあさんが言ったように寺院で「吉祥樹」に願いをかけて線香をあげたから治ったのではなくて、実際には寺院にあった医学書を読んで、科学的な方法によって段霊雲の疥癬は治ったのである。

一九六六年于叔(于景泰)死後のある日に、方おばあさんは再び段霊雲と父親段連祥に長春般若寺へ向かわせて、法師に于叔の亡霊を調伏させた。方おばあさんはまた一通の手紙を書いて、父親の段連祥に澍培法師に手渡せさせた。段霊雲と父親は方おばあさんのいいつけに従って、般若寺に行き澍培法師に会い、自ら方おばあさんの手紙を手渡した。段霊雲が二回目に澍培法師にあったときには、もう知った人であったので、詳細に法師の姿形を眺めた。法師の赤く透き通った頬に、広い額、炯炯と輝く両目を見ると、彼女は方おばあさんが澍培法師は道を会得した高僧で、長春般若寺の主任住持であるだけでなく、民国二十八年には遼寧省朝陽県の故郷雲培山に興福寺を創建したと言っていたのを思い出した。澍培法師は方おばあさんの手紙を見終えると、また段連祥と段霊雲を見つめて、微笑しながらこう述べた。「あまり悲嘆することはない。『往生浄土地蔵経』を念じさえすれば、死者は浄土に行くことができる」と慰めた。
段霊雲はこの時にあどけなく法師に尋ねた。
「叔父さまのように死んだ人は再び人間に転生しますか?」
澍培法師は答えた。
「来世で人に転生することもあるが、もし極楽浄土に行きたいと願ったときはそうではない。極楽浄土に行きたいと願えば、必ず仏になれるんだよ。往生した後に、もし続けて修行修練すれば、極楽浄土の世界にいけるんだよ。」
段霊雲は澍培法師の説明を聞いて、興奮してまた尋ねた。
「西方極楽浄土の世界はどんな所ですか?それはどこにあるのですか?」
澍培法師は立ち上がると、書棚の中から『地蔵菩薩本願経』を取り出し、ページを開いて、その書には彩画が描いており、その中には亭、台、楼閣、仙鶴、雲霧、山石、樹木の画があり、澍培法師は書の中の画を段霊雲に指さして言った。
「この本の中の景色が極楽世界の図だよ。佛母摩耶夫人は釈迦牟尼仏を生んだ後、すぐに極楽世界に行ったんだよ。釈迦牟尼が成仏した後に、母の恩に報いるために、この『地蔵菩薩本願経』を口述したんだよ。」

段霊雲がその後三回目に澍培法師に出会ったとき、澍培法師はまた段霊雲に沢山の道理を説いて聞かせた。彼女が気に入らないことに直面しても我慢して、焦らないように。失敗を恐れないように。人生で最も重要なのは失敗から立ち上がって、自己に打ち勝つことができる人間が最も成功した人だよ。澍培法師がこう述べるのを聞くと、段霊雲は砂漠の中でオアシスを見つけたように、旱魃の時に待ち望んでいた甘露が降りてきたように、彼女の中の心の焦りや憂慮が突然軽くなったように感じた。以前は彼女は自分の家だけが困難や逆境にあるように思っていたが、この世界の生きとし生きるものは、どの人もそれぞれ苦難があり、苦難こそ人生の教師なのだと気づかされた。そこで段霊雲は恥じ入るように感じ、仏に向かって大悟した人間に成る決心をした。

澍培法師は段霊雲の悟性がとても高いのを見て、彼女が成仏したいと思えば必ず見性が必要で、自分の本心を認識し、自分の本性を見て、自分の心を悟らねば、法を学んでも無益で、心を明らかに悟ってこそ、大きく目が開くのだと教えた。

 当時方居士が澍培法師に送った彩粉画の『蒙古の娘』の行方を調査し、また仏寺の知識を得るために我々は二〇〇九年一月十八日午前に元長春市民族事務委員会宗教所所長候暁光の紹介で長春般若寺で釈成剛を訪ねた。候暁光所長の紹介によれば、長春般若寺は一九三二年に建立され、「文革」の始まった一九六七年に「休寺」となり工場(紙箱工場)となった。「四人組」が打倒された一九七九年後に、ケ小平の正常化の指示により回復した。釈成剛は一九八一年に仏門に入り、一九八六年に澍培大師が逝去した後に方丈となり、吉林省仏教協会会長となった。成剛方丈は我々の取材に関する内容に、以下のような回答を寄せてくれた。
(一)帰依書は仏教信者の身分証明書である。寺で大きな法事活動がある時に、寺に参観した新しい信者が仏堂で登録をして集中的に手続きをして、寺には「記録」は残さない。成剛方丈が強調したのは、帰依書はただ信者の身分を証明するだけで、証明を持った人は居士と呼ばれるが、その他の世俗とは一切何の関係もない。ただ毎月農歴初一、十五と仏教のお祭りの際に、男女の居士は帰依書を持参すれば寺で記帳して、無料で寝泊まりできる。
(二)澍培法師の字画。我々が成剛方丈に澍培法師が方居士本人に贈った写真、経典、墨竹図、偈語書などの物証を見せると、成剛方丈は一つ一つ確認して次のように説明した。写真は澍培法師の御遺影である。書もすべて澍培法師の真筆である。成剛方丈はさらに我々にこう説明した。「澍培法師はとても学問があり、書道にも絵画にも造詣が深かった」。我々は成剛方丈に、方居士が澍培法師に贈った「蒙古の娘」画を見たことがあるかないか尋ねた。成剛方丈は「見たことがない」と答えた。成剛方丈によれば、澍培法師の遺品はとても貴重であり、法師が寂滅後には遺物はすべて弟子たちが争うように持って行った。今では南方のある寺に澍培法師の記念室があるが、長春般若寺には今のところ設けてないということであった。

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2016年03月20日

川島芳子は生きていた(20)長春般若寺と川島芳子

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

大家の逯興凱の証言によると、方おばあさんは新立城の日常生活において、普段はほとんど部屋から出ず、よく方おばあさんの部屋から線香の匂いが漂っていたという。
段霊雲と張玉母子の証言でも、方おばあさんは新立城の家の中で、仏壇に供え物をして、暇なときには線香を焚いて、念仏を唱えるのが方おばあさんの日常生活の主要な内容であったという。
張玉の紹介では、祖父の段連祥も仏門の在家の弟子であり、居士と呼ばれていた。彼女は祖父の帰依証(居士証)も見たことがある。

帰依証は居士証とも呼ばれ、中国の仏教寺院が発行する仏教信徒(居士)のための身分証明書である。昔は帰依書は比較的簡単なもので、一枚の紙の上に、居士の名前と法名と本人の写真が貼り付けてあり、証明書を発行した寺院の印章が押されてある。現在の帰依証はビニールのカバーがあり、折りたたんで携帯と保管により便利になっている。
帰依証は仏教信徒の身分を証明するほかにも、これがあれば国内のどんな仏教寺院でも登録して宿泊でき、食事をして仏事に参加できる。中国でまだ住民身分証が発行される以前は、帰依書が実際的に身分証名書の役割を果たしていた。
我々の考証によれば、方おばあさん(川島芳子)と段連祥の帰依書は、ともに長春般若寺が発行したものであった。

ちょうど都合のよいことに、九年前(一九九九年)に張玉はある「居士」の家で、公主嶺市仏教協会会長釈正成法師と知り合った。張玉が祖父の段連祥が仏門の在家の弟子であると告げると、正成法師は張玉に、段連祥居士を知っていること、また段居士には《方居士》(方おばあさん)という妻がいると聞いたことがあると語った。それで張玉は正成法師に一種の親近感を抱いて、連絡を取るようになった。六年前(二〇〇二年)に、正成法師は彼の故郷―伊通満州族自治県靠山鎮向陽村西朝陽濠屯に、般若念仏堂という寺院を建設した。二〇〇七年、正成法師は女流画家の張玉に電話をかけてきて、彼女に般若念仏堂に数幅の仏教風の画を描いて、仏堂の装飾をしてほしいと依頼があった。張玉は電話を受けた後で、我々が画を贈る機会を借りて正成法師と話をし、彼が段連祥と《方居士》について何か知っているか尋ねてみれば、我々の調査の手がかりを提供してくれるかもしれないと提案した。李剛は直ちにそれに同意を表明した。
張玉は数年前に韓国の某仏教団体と提携して、仏教風の一連の画を描いたことがあり、その中から二組を選んで二〇〇七年十二月上旬に、何景方と一緒に般若念仏堂に向かった。
伊通県東遼河畔に位置し、大恒山麓の般若念仏堂は山並みに囲まれ、我々は冬季にあっってすばらしい景色を見たわけではなかったが、しかし紅色と黄色に塗られた質素な寺院で、この都市の喧騒から遠く離れた寒村で、一種耳目を清めるような感覚を与える、修行に適したよい場所である。
正成法師と仏堂の居士たちは熱心に我々をもてなしてくれ、その夜何景方と張玉は寺院に泊まることにした。何景方は正成法師と夜を徹して語り合い、以下の点を聞きだした。正成法師は当地の俗家の生まれで姓を趙、名を光成といい、一九六二年の生まれである。一九八二年彼が二十歳のときに仏縁を結び、長春般若寺の歴史では主任住持(方丈)となり、八十五歳の澍培法師に付き添い、大師の生活起居と仏事活動の手配を世話し、澍培法師が一九八六年末に長春般若寺で円寂するまで五年の長きにわたり身辺に仕えた。これも正成法師が建設した寺院を般若念仏堂と名づけた由縁である。
正成法師が紹介していうには、彼は澍培法師の晩年五年間生活を世話する中で段連祥と出会った。段連祥は澍培法師の在家の弟子で、法名を「成章」と呼ぶ。毎回長春般若寺で会う際には、段連祥が必ず四平から長春に駆けつけていた。しかし彼が澍培法師に会うときには、必ず正成法師を通じて知らせて、接見時間を取り決めていたので、それが重なり正成法師と段連祥もよく知る仲となった。
段連祥はどのように澍培法師の在家の弟子とななったかについては、澍培法師は生前にかつて正成法師にこう話したことがあった。段連祥居士の妻である《方居士》が、昔から澍培法師の在家の弟子で法名を「成静」と呼んだ。《方居士》の紹介により、段連祥も自然と澍培法師の在家の弟子となった。

釈澍培法師は、俗家の姓を包、名を鴻運と呼び、蒙古族で、清光緒二十三年(公元一八九七年)三月二十四日遼寧省朝陽県二十家子村黄士坎屯に生まれた。
澍培法師は幼くして私塾に学び、努力してよく勉強して、十六歳(一九一三年)遼寧錦州眦盧寺で剃髪して出家し、法号を深根といい、二十三歳(一九二三年)瀋陽万寿寺で具足戒を受けた。一九二一年瀋陽万寿佛学院で三年学び、倓虚法師の学生となり、一九二五年倓虚法師二従って北京の「弥勒佛学院」で二度目の学習をして、三年で卒業した後に北京普済佛学院の教務主任となった。
一九二二年、倓虚法師が長春に般若寺を創建した。一九三二年、倓虚法師が澍培法師を長春に招き、般若寺の建設と管理を任せた。長春般若寺が建立した後に主任住持(方丈)となり、一九三二年十月十三日に昇座典礼を挙行した。長春般若寺は澍培法師の指導の下、東北で一大名刹となった。満州国時代には、澍培法師は三度日本に渡り仏法を宣揚した。
一九三九年澍培法師は退座し、長春般若寺の住職の職を善果法師に引き渡した。その後、彼は専心仏典を学び、後学の僧を育成した。
一九五六年澍培法師は長春般若寺の住持(方丈)に再び任じられた。一九八〇年、八十三歳で高齢となった澍培法師は《文革》後に長春般若寺の第一住持に任じられ、吉林省仏教協会会長となった。一九八六年十二月八日澍培法師は涅槃に円寂し、八十九年の生涯を終えた。
澍培法師は詩を作るのを好み、蘭花や墨竹の絵を描くのに優れていた。彼は一生のうちに三百余首の詩を作り、蘭・竹の書画を多く描いたが、《文革》の無常な時期にほとんど捨てられてしまった。
正成法師の証言では、澍培法師は書道や絵画に優れ、特に彼の墨竹画は造詣が深いということであった。澍培法師は生前に正成法師に、彼は嘗て《方居士》に一組の「墨竹四季折頁図」を送ったことがあると語っていた。《方居士》も嘗て大師に一幅の「蒙古の娘」のクレヨン画を贈ったことがあった。その画には一人の蒙古の娘がモンゴルの自分のパオの前に立ち、遠くを見つめている姿が描かれていた。正成法師の印象が深かったのは、嘗て彼が澍培法師の居室でその画を見たことがあったからである。しかも、正成法師が現在でも覚えているのは、澍培法師が《方居士》の「蒙古の娘」の画の中に四句の仏教の偈を描いていたことで、「忙しいさなかでも修行し、弥陀を唱えるのが最適だ。念仏を唱えて対応すれば、すぐに七宝の炎に至る。」とあった。
この《方居士》が澍培法師に贈った「蒙古の娘」の寓意について、正成法師は次のように解釈した。澍培法師はモンゴル族であり、《方居士》は澍培法師の出身を知り、それで「蒙古の娘」を描いた。澍培法師は彼女に「墨竹図」を贈って返答とし、また蒙古民族の感情を表現した。
正成法師がまだはっきり記憶しているのは、澍培法師が生前彼に《方居士》のことを話した際に、特に述べていたのは浙江天台山国清寺と長春般若寺はともに天台宗の仏門に属し、《方居士》は毎年国清寺で冬を越していたので、毎年夏に長春に戻ると、必ず般若寺に来て澍培法師に国清寺での感想を報告していた。ある夏に、澍培法師が《方居士》はもう年齢が高くなったので、国清寺は長春からあまりにも遠いので、もう行かなくてもいいのではと彼女に勧めた。そして筆を取って《方居士》に四句からなる寓意の深い偈を書いた。
「青山踏破して往時休す。仏に帰依して心に印す。人生八万四千の夢、無声一念に収む。」
ちょうどうまい具合に、澍培法師のこの四句の偈の墨蹟を、我々は段連祥の遺品の中から探し出すことができた。澍培法師のこの墨蹟は、一九七五年夏に《方居士》(川島芳子)のために書いたものである。およそ十年後に、澍培法師はまたこの四句の偈を一字も誤りなく正成法師に話して聞かせ、正成法師もまた二十年後に一字も誤りなく我々に暗証して伝えたのである。これは正成法師の記憶力のすばらしさを証明するだけでなく、《方居士》(川島芳子)が澍培法師の心に占めていた重みをも充分説明しているだろう。樹倍法師は一生をかけ長年にわたり仏法を説き、仏縁の弟子(在家弟子も含め)は大勢いたが、ただ《方居士》(川島芳子)だけには、多数の書画・私人の写真・経典などを贈り、さらに書いて与えたことのある墨蹟の内容を十年後も忘れていないというのは、法師と《方居士》(川島芳子)の関係の深さを物語っているといえよう。
澍培法師のこの四句の偈は、正成法師が先に述べた「蒙古の娘」の画に書かれた四句偈と異曲同工の妙がある。我々の理解では、澍培法師は《方居士》(川島芳子)にこう諭したものと考える。
「あなたは祖国の名山宝刹を巡り、過去の一切の往時をすべて忘れて、再び考えないようにしなさい。振り返って、仏陀を心に置くのが人生の真諦である。人生(八万四千の法門)は夢のごとく、すべて仏陀の掌の上にある。」
わかりやすくいえば、澍培法師は《方居士》(川島芳子)を諭して、一切の雑念を忘れて、昔のことを再び懐かしんだりするのではなく、敬虔に仏門に帰依するのが、人生の最後の寄宿であると言いたかったのであろう。
我々は川島芳子の資料を読む中で知ることのできたのは、川島芳子が小さい頃から粛王府で仏教の薫陶を受け、彼女の養父母の川島浪速夫妻もまた仏教信者であり、日本もまた仏教を厚く信奉する国であるということであった。川島芳子は七歳にして日本へ渡り、自然と影響を受けて成人するまでに仏縁を結んだのであろう。満州国が一九三二年に新京(長春)で「建国」された時に、川島芳子は皇后婉容を天津静園から東北に連れ出した功績により、日本関東軍の賞賛を得たばかりでなく、満州国執政溥儀と皇后婉容の好感をも得た。後に、彼女はまた満州国軍政部最高顧問多田駿の権力を背景に、満州国の「安国軍司令」となり、満州国で有名な大人物となった(一九三二年から一九三五年の期間)。この時期に澍培法師はちょうど新京(長春)の護国般若寺で最初の住職に任じられ(一九三二年から一九三九年)、また満州仏教総会の代表人物の一人であった。澍培法師と川島芳子は共に満州国時代の上層社会にいた人物であり、面識がなかったわけではあるまい。そこで、澍培法師は後に正成法師にこう述べたのである。「方居士は早くから私の在家の弟子だった。」そのうちに含まれている意味は推して知るべしである。

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2016年03月19日

川島芳子は生きていた(19)川島芳子と方居士

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

仏教は東漢明帝の時期に、天竺(インド)より中国に伝わってきた。中国南北朝時代の陳の時代または隋の時代に、高僧智が中国南北の仏教を統一し、体系が完備しており独特な教理を持つ宗派を打ち立て、南北諸師の公認と尊敬を集めた。大師は天台山に住んでいたので、その一派は「天台宗」と名づけられた。天台宗の創立により、中国仏教史の新紀元が開かれ、仏教の中国化の過程が初歩的に完成し、真の意味での中国仏教が誕生した。

西暦六世紀に、仏教は中国は朝鮮半島を経て日本へ伝わり、日本における仏教史が始まった。その後に天台宗の主要な経典である『法華経』が相次いで日本に伝わり、日本僧侶が必読の経典とされただけでなく、護国の聖典としても崇められた。

天台宗の日本伝播は、日本が送った遣唐使と密接な関係がある。中国の唐の時代二百八十九年間のうちに、日本は遣唐使を十八回組織して送り、留学僧は合計九十人に及び、その四分の一の僧は天台山国清寺へ来て、仏縁を取り結んだのである。

これに続き、中国唐代の僧鑑真大師が日本弘法の要請を受けて、様々な困難と危険を経験しながらも、十二年の間に六度渡航を試みてついに成功した。第四回目に渡航した際には、自ら弟子三十余人を率いて、寧波(明宗)阿育王寺から徒歩で旅程を開始し、一路山を越えて水を渡り、ある日の大雪が降る黄昏に、有名な天台山国清寺に到着した。彼らは天台宗を研究し、天台宗を日本に広める決意を固めた。西暦七五三年、鑑真大師は日本の鹿児島に上陸し、日本の朝野は彼を大和尚と呼んで称えた。鑑真は天台宗の教義を広め、日本の僧である最澄を啓発して唐に行き仏法を求めたいとの強烈な願望を抱かせた。

西暦八〇四年最澄大師は弟子兼通訳の義真を連れて遣唐使船に乗り込み、寧波から上陸して、台州を経てそこから直接に長いこと望んでいた天台山国清寺へ登った。最澄の唐での遊学は八ヶ月であったが、持ち帰った経典は合計二百三十部四百六十巻に及び、日本の天皇から賞賛を受けた。このときより日本の天台宗が始まり、平安時代の日本仏教が創立され、今日に至るまでずっと誉れ高い。日本の仏教はずっと中国仏教の影響下で発展してきた。天台宗を中心とする大乗仏教はずっと日本仏教の主流となっている。

長い歴史の営みの中で、日中間の仏教における関係は非常に密接であり、深い友誼を取り結んできた。しかし二〇世紀に入って後、日本軍国主義の中国侵略と《文革》による損害を受け、両国の仏教の正常な関係は破壊された。しかし時代の変遷と日中国交正常化に伴い、両国仏教界の友好活動は日増しに正常化され、ますます密接にますます発展する春の時期を迎えた。このことについて一例を挙げて説明しよう。
一九八〇年四月十四日から十五日、鑑真大師像が日本より中国に帰国して故郷を訪問した。中里徳海を団長とする日本の「天台宗中国天台山参拝訪中団」一行十七人が天台山国清寺を参拝した。中里徳海団長はこう述べた。
「中国天台宗は日本天台宗の祖先で、天台山と日本比叡山は父子のようなものです。我々が今回参拝したのは、祖先の恩に報いるため、また祖先の故郷を参拝するためです。我々両国は一衣帯水で、その友好的な往来は歴史が古く、必ず世々代々伝えていかなければなりません。」
仏教訪中団
中国仏教協会会長であった故趙朴初は、一九七五年十月二十六日に日本天台宗座主山田恵諦長老に付き添って国清寺を参拝したとき、山田長老に一種の五言律詩を贈った。

喜迎
昔日霊山会、同聴法華経
喜今嘗宿願、振錫自蓬瀛
珠耀垢衣解、花飛宝座分
叡台承相照、万古弟兄情

 国清寺と日本仏教の繋がりは長い歴史があり、川島芳子が日本で生活した二十年近くの間に、知らず知らずに感化されて、彼女も大勢の日本仏教徒と同じく、国清寺を日本仏教天台宗の源流とみなして、深い感情を抱いたかもしれない。国清寺に到ったことは、仏門の弟子たちにとって「根」あるいは「家」に到着したのと同じである。国清寺はあたかも巨大な磁石のように、深く川島芳子を引き付け、たとえどんなに困難でも、あるいは旅程がどんなに遠くても、やはり彼女の心は国清寺に始終あったのではないか。

浙江省は中国の亜熱帯地域に属し、気候が温暖で湿潤である。国清寺は浙江東南天台の南麓にあり、四周を五つの峰に取り囲まれ、国清寺は八桂峰の日の当たる側面に建てられている。寺の西北にある映霞峰が最も高く、加えて寺の西には霊芝峰があり、さながら天然の障壁に囲まれて、寺院のために冬季の寒冷な風を遮っている。寺の東にある霊禽峰と寺の南にある祥雲峰の間には、比較的広い峡谷があり、そこが寺院の入り口となり、また夏期には東南からの風の通り道となり、これにより国清寺は冬暖かく夏涼しく、冬は寒さを避け、夏は暑さをやわらげている。つまり国清寺は寒さを避けて冬を越すには絶好の土地であると言うことだ。

その外にも、国清寺は悠久の歴史を有し仏法が厚く信奉され、国内外の仏教界でもとても高い知名度があり、そのため香の煙は絶えることなく、長く衰退することがなかった。国清寺は歴史上「知客」という接待係の職を設置し、専門に僧侶や民衆の出入りを管理し、巡礼の僧侶の参拝を接待したり、山に登ってくる参拝客や、在家の弟子たちが登記して宿を取る管理をしている。この伝統のため、日々に心地よく、客に至れり尽くせりで安らぎの感覚を与える。

何景方と張玉が泊まったのは万字楼の旅館で、寺院内の東部生活区に建設されており、二階建てで円形の建築で、宿泊客二百数人を接待できる。二階の食堂には大食堂と小食堂があり、同時に数百人の食事を寺院内に用意できる。

寺院の北側には、山の形勢によって比較的高級なホテル式の宿泊施設が建築されている。一つの建物は迎塔楼で一九三二年に建築され、五丈部屋二層建築で、二階のバルコニーからは、祥雲峰の上に高く聳え立つ緑影上の隋塔を眺めることができるので迎塔楼と名づけられており。賓客接待用に用いられる。聞いたところによれば、蒋介石の元妻であった毛福梅たしばしば浙江奉化渓口より国清寺へ参拝に訪れ、その宿舎の便として、毛福梅の出資でこの建物が建築されたという。迎塔楼にかかる額の題字は民国の学者である蔡元培の筆であった。

もう一つの建物は吉祥楼で、迎塔楼の東側に隣接している。一九八九年に新築され、三丈部屋の二層建築で、中には宿泊部屋、会議室。小食堂など設備が整っており、古い樹木が鬱蒼と茂り、静かな環境で、賓客用に用いられる。この建物が最初に接待した賓客が故中国仏教協会会長趙朴初と日本天台宗座主山田恵諦長老一行であった。

このことが説明するのは、国清寺の冬の気候は北方に住む方おばあさん(川島芳子)が冬を越すのに適しており、同時に国清寺の宿舎や食事などの条件が比較的完備しているということである。なおのこと、川島芳子の類まれな聡明さと、仏門在家の弟子の身分からして、このように国清寺が家と同じように便利ならば、我々の考えでは、彼女にはありうることである。しかし、詩や画に秀でた川島芳子であるので、国清寺でそれらの寺でどの僧侶と交友があったのか、国清寺になにか書画や筆跡が残されていないか調査したが、それらを見つけることができなかったのは甚だ遺憾であった。

方おばあさん(川島芳子)が毎年国清寺で冬を越したことは、彼女が国清寺をよく知っていたことを説明するだけでなく、なにか知られていない縁があるのかもしれない。方おばあさんの一九七八年死後における遺骨の問題は、段連祥が生前に打ち明けなかったため行方が不明となっていた。張玉がこの問題を母親の段霊雲に尋ねたときにも、段霊雲もはっきり記憶していなかった。しかし、偶然にも手がかりを示す情況が出現した。

 張玉の父親張連挙は彼女ら母子の話を聞いた後、話を引き継いでこう述べた。一九八〇年に彼が軍事工場から四平に戻って親族を訪ねたときに、ちょうど岳父の段連祥が日本の友人を接待しており、同時に国清寺から一人の老齢の僧が来ており、方おばあさん(方居士)の命日のために来たと言っていた。張連挙はまず車を借りて岳父のために日本の客人を送り、二日目に国清寺の僧を送った。老僧は去る時に方おばあさんの遺骨を持ち去った。張連挙の記憶が比較的はっきりしているのは次のような原因である。岳父段連祥が彼にバンを借りて国清寺へ僧を駅まで送るように言ったが、バンは借りることができず、ただ一台のサイドカー付きのバイクを借りることができるだけであった。バイクで送る途中に、うっかり通行人の一人と接触してしまい、通行人には怪我がなかったが、相手が賠償金を要求してきたので、岳父の段連祥が十元をだしたが、相手が少ないといったので、張連挙がいざこざを避けるために、ふたたびポケットから十元を取り出し、示談にした。それで張連挙は、国清寺の僧侶が方おばあさん(川島芳子)の遺骨を持ち去ったことをはっきり記憶していたのである。

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2016年03月18日

川島芳子は生きていた(18)国清寺での調査

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

大家であった逯興凱が我々に方おばあさんの情況を紹介する時に特に指摘していたのは、彼女は毎年冬になると新立城にはいなかったことで、毎年冬になると方おばあさんの家の中から人影がなくなることであった。この現象は段霊雲と張玉母子はあまり気にしていなかったが、彼女たちが一点だけ肯定したのは、前世紀五、六〇年代に段霊雲が方おばあさんに付き添っていた頃にせよ、七〇年代に張玉が方おばあさんと一緒に生活していた頃にせよ、彼女たちが記憶にあるのはいつも夏の時期であった。冬は彼女たちは新立城に行ったことがなかったのである。

新立城の冬は三四十年前は確かに非常に寒かった。当地の一般の農家は、部屋の中のオンドルと火鉢(釜を焚いた薪木の燃えカスを入れる鉄の鉢)の外に、その他の暖房設備というものがなかった。それでは、毎年長い冬季に、方おばあさんはどこに寒さを避けて行っていたのであろうか?

大家の逯興凱の記憶では、段連祥は毎回「新立城」に到着すると、彼らの家に来て顔を出し、逯興凱の父親逯長站と世間話をしていた。おりには、冬越えのことについて話していることもあった。段連祥が言うには、通常の場合は方おばあさんは浙江省の国清寺で冬を越しているとのことであった。

方おばあさんのこの普通の人の生活と異なる点は、彼女の神秘性を増しただけでなく、我々が今までよく知らなかった国清寺という仏教寺院への関心を引くこととなった。我々はネットで調べた結果、以下の点を知った。国清寺は中国浙江省天台山麓の天台県に位置し、中国仏教天台宗の発祥地で、また日本仏教天台宗の発祥地でもある。我々は国清寺が我国の仏教界でこのような重要な地位を占め、さらに東洋日本仏教にもこのような歴史的に深い関係があるとは予想すらしていなかったので、我々は国清寺への興味をさらに深めたのである。特に、方おばあさんがどうしてこの国清寺を選んで、冬季の隠遁先にしていたのか?国清寺の魅力はどこにあるのか?熟考の末、李剛は決断を下し、何景方と張玉を一緒に国清寺へ向かわせて、方おばあさんが国清寺で生活した記録があるかどうか探し、方おばあさん(川島芳子)の新立城以外の土地での生活の軌跡を探ることとした。

十一月初めの北国長春は、早くも風が落葉を吹きつけ地上には霜が降りる季節である。何景方と張玉は一緒に南方行きの汽車に乗り込み、汽車の中で二泊の旅程を経て、まだ暖かく緑が茂る杭州にやって来た。杭州から長距離バスに乗り天台県に向かい、蕭山、紹興、上虞、嵊州、新昌などの市県を通り過ぎた。特に新昌から天台の区間は高速道路ではなく、険しい山の間を走る山道で、バスはくねくねと起伏する山の周囲を縫うように走り、何景方と張玉の二人はこう考えざるを得なかった。三四十年前には浙江の山地の道路はまだ整備されておらず、交通機関もいまだ発達していなかったのに、すでに高年齢になっていた方おばあさんが、毎年寒い冬の季節に、東北の長春から、千里はるばる天台山の国清寺のような逼塞した地方に来るには、十日から八日かかるはずで、どう考えてもたどり着けないだろうと考えたことからも、その苦労の程度が想像できるだろう。しかし、大きな山を越えて天台県に来ると、まるで別天地のようであった。天台県はとても美しく、天台山の霊気に満たされているようであった。天台県から国清寺へは専用のバス路線がある。多くの観光客がいることからわかるように、国清寺は今でもやはり旅行のホットスポットであった。
国清寺
何景方と張玉は天台山の麓に来ると、当時方おばあさんが国清寺に行くのに通ったであろう路線に沿って、山に入る道路から木魚山を経て、雲の上の峰に高くそびえる千年隋塔を見ながら、寒拾亭、七佛塔を経て、豊幹橋を渡り、国内外に広くなを知られる千年の歴史を持つ古刹―国清寺へ到着した。
七仏塔
二日間をかけて、何景方と張玉は敬虔な面持ちで、国清寺の殿内にある仏像を参観し、寺院周囲の景観を遊覧し、さらに真慧法師、延如小師弟、接待室の梅吉異居士と九十四歳になる高齢の以前は食事係だった林若水老居士らと会い、国清寺の歴史や現状などを尋ね、方おばあさんがかつて国清寺で冬を越し、仏事に参加していた足跡が見つからないか話を聞いた。しかし、既にかなりの年月が経っており、方おばあさんのように普通の在家の仏門弟子の身分では、寺の中には何も記録はないだろうとのことであった。たとえ当時方おばあさんが川島芳子であると寺の住職やそのたの僧が知っていたとしても、他人には決してそのことを口外しないだろうというのである。しかし、何景方と張玉は二日間の国清寺でのおぼろげな理解を通じて、方おばあさん(川島芳子)がどうして毎年国清寺へ来ていたのか、寒さを避けて冬をすごすという客観的な原因の外に、国清寺という千年の歴史を持つ古刹に実際に身をおいて深く考えることができただけでも、今回の旅行は無駄でなかったといえよう。

『国清寺志』の記載によれば、中国南北朝のとき陳国の太建七年(西暦五七五年)、一人の高僧定光が天台山で修行していた智大師に言った。「山の下の皇太子が基礎を据えて、寺院が造成されるだろう」さらにつぎのように予言した。「寺を造成できれば、国すなわち清まる」(国清寺の名前はここに由来する)。こうして高僧智は寺院建設の志を立てた。隋の時代の陳国の後、智は晋王楊広と深い仏縁を取り結んだ。隋の開皇十七年十月、智は遺書を晋王に贈り、寺院建設を求めた。

「天台山のふもとの土地で、非常によい土地があり、伽藍を建設したい。最初は木材を切って基礎をすえ、弟子に建設するよう命じた。寺が完成されなければ、死んでも気がかりだ。」

晋王は書を受け取ると感動して、隋開皇十八年(西暦五九八年)司馬王弘を天台に派遣し、智の遺言に従って寺院を建設した。隋の文帝仁寿元年(西暦六〇一年)に、寺院が完成して、天台寺と呼んだ。大業元年(西暦六〇五年)に隋の煬帝が即位すると、天台寺に「五百段の贈り物」を寄進して、「国清寺」の名を賜った。
国清寺は長い年月の間、皇帝や王からの寄進を受けて、教勢が盛んとなったが、やはり戦乱による災難や皇帝による仏教迫害などにより衰退したこともある。盛衰を繰り返したが、衰退よりも盛んであった時代の方が長く、これが国清寺千年の発展史の特徴でもある。

国清寺に現在残っている建築物は清代の雍正年間に再建されたもので、近代国清寺の建築風格を規定した。一九七三年中国人民政府が全面的に修復し、現在ある寺院は合計一四座、部屋は六百間余り、総建築面積は二万平方米、占地面積は三万平方米近く、中国漢族地区の著名な古刹の一つとなっている。一九八三年、国務院は国清寺を漢族地区百四十二座の仏教重点寺院の一つに認定した。

国清寺は千年に及ぶ悠久の歴史を持ち、仏教中国化の長い年月の中で重要な伝承作用を果たしてきた。歴代の高僧の苦心の研修を経て、仏法は厚く広く深く極められ仏教が東アジアに広まるさいに大きな貢献を果たした。このような寺院であればこそ仏門に入り在家の弟子となった川島芳子が、どうして千里はるばる国清寺へ来て、しかも毎年参観していたのか理解するのはそう難しいことではない。

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2016年03月17日

川島芳子は生きていた(17)逯興凱の証言

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

幾らかの準備をした後、二〇〇七年十月四日の国慶節ゴールデンウィークに、何景方ならびに段霊雲と張玉母子は自動車に乗り新立城の斉家村があったところを探しに向かった。車が長春市を出ると、何景方は運転手に新立城鎮政府の所在地に向かわせた。なぜなら彼はそこの地名が斉家村と言うことを知っていたので、それが当時の斉家屯であるかどうか、聞けばすぐにわかるからである。
車をドライブして長春市区から新立城鎮へ向かう片道あるいは二車道の一級道路上で、改革開放後の長春市近辺の変化がとても大きいことに感慨を禁じえなかった。
百年前、すなわち一九〇七年(光緒三三年)四月二十日、清光緒皇帝は命令を発布して、東北地方に奉天、吉林、黒龍江三省を設立し、「吉林省印」を鋳造させた。それにより、吉林省が正式に現在の中国の歴史的版図に出現した、しかし長春の歴史は吉林省の歴史よりさらに百年ほど早い。
清嘉慶五年五月戊戍(西暦一八〇〇年七月八日)清王朝は吉林将軍秀林の求めにより、まず蒙古の境界内に「借地統治」を決め、長春庁が成立し、理事通判衙門を設置した。
たいへん優雅で美しい名前―長春がここに伊通河畔に誕生した。長春庁の名称は長春から東に五キロ離れたところにあった長春堡に由来する。長春という名前の意味はこの吉祥を象徴する二字で、四季のなかでも春が長くあるように、生命が溢れ、万物が復興する春を待望する気持ちが詩的に表されている。
長春庁は最初は長春堡の伊通河東岸に建設された小さな町にあり、その名を新立城と呼んだ。長春庁の行政長官は理事通判で、巡検衙門はここで所属民の戸籍や訴訟や治安などの事務を扱った。
当時の長春庁の人口は一万人にも足らず、管轄範囲は、南は伊通河、北は吉家屯で南北の長さ百八十里、東は沐石河、西は彦吉魯山で、東西二十里、行政区分は懐恵、沐徳、撫安、恒裕の四郷であった。
長春庁遺跡は新立城(屯)小街南側に位置する。現在もとの位置に「長春庁衙門」が復元建設され、観光客の訪れる旅行スポットとなっている。
一八二五年、長春庁は開墾地区の不断の拡大に伴い、元の新立城の土地が交通不便で、行政区が南に偏って、地勢が比較的低地だったため、長春庁は衙署を寛城子に移動した。すなわち現在の長春市南関区一帯が、昔の都市の廃墟上の比較的住民が多かった地点で、人々が集中して住んでいた場所であった。長春庁が移動した場所は、現在の南関区四道街一帯であるが、そこに庁衙が修築され、周りにも街道、商店、作業場などが出現し、現在の長春市都市区の歴史的雛形となった。
それゆえ、新立城の成立の方が先で、長春市の成立の方が後なのであり、ただ歴史的な大きな変化により、今日の都市と農村の配置が形成されたのである。
我々の自動車は新立城鎮政府の所在地の道路西側の、新立城鎮斉家村民委員会の額が掛けられた建物の前に停車したが、ちょうど二人の農民がそこでお喋りしていた。段霊雲は車を降りなかったが、何景方と張玉の二人がそこへ近寄って尋ねた。
「すみません。お聞きしたいのですが、斉家村はむかし斉家屯と呼ばれていた場所ですか。」
土地の村民はとても親切で、我々が遠くから自動車で来たのを見て、詳しく我々に説明した。
「斉家屯は上斉家屯と下斉家屯に分かれておって、上斉家屯はこの道路の東側で、今の斉家村民委員会の所在地が下斉家屯じゃ。あんたら誰を探しに来なすったんじゃ?それとも何か他の用事かの?」
「ちょっとお尋ねしたいのですが、誰か三十年ほど前に、ここに住んでいた老夫婦を知りませんか。男の方は段連祥と言い、女の方は《方おばさん》と言うのですが。」
張玉はすぐに我々がここに来た来意を二人の村民に喋ってしまった。
ちょうどそこ西側の小道から一人の背の低い、三十過ぎの中年の男がやって来た。少し年長のほうの村民が彼を指差して我々に言った。
「あそこの逯家の次男に親爺のところに連れて行ってもらうがよかろう。あそこの親爺はここでも古くからおる村民で、解放前からここにおるから何でも知っとるよ。」
我々はこう聞いて、「ありがとう」と言って、すぐに振り向いて、逯家の次男を迎えた。逯家の次男も親切な人で、彼は自信たっぷりに我々に言った。
「おいらに出会えたのは丁度良かった。おいらの親爺はここらの生き字引じゃからの。おいらが連れてってやろう。」
そこで、何景方と張玉の二人は逯家の次男の来た方向に、彼に付いて行き、二回角を曲がると、一軒の普通の民家にたどり着いた。
「親爺!人が来たぞ。」
逯家の次男は家の戸を開けると、中に向かって一声かけた。
中に入って、左の方に曲がると、東向きの部屋から一人の六十歳過ぎの老人が出てきた。体はとても痩せ細っているが、大きな二つの目ははっきりしていた。老人は客人を部屋に招きいれると、逯家の次男が我々に代わって我々の訪問の目的を説明した。
老人はしばらく躊躇してから、こう説明した。
「わしは逯興凱、今年六十四歳で、この村に昔から住んでおる。この村は昔は斉家屯と呼ばれておった。公路の東側の集落が上斉家屯じゃ。二つの屯の三十年前の旧家はみなわしが知っておる。じゃが、あんたらの探しておる段連祥と方おばあさんというのは知らんの。」
逯興凱は一つ一つの家を数えるかのように、二つの村の旧家を説明した。当時、何景方と張玉の二人は互いに目線を交わし、二人とも心の中で、陳良の言った地名が間違っているのではないかと思っているようであった。この時に張玉はさらに逯興凱に、付近に十里堡という屯がないかどうか尋ねた。逯興凱はうなずいて答えた。
「ここから西に五、六里離れたところに、十里堡という屯があるが、やはり新立城鎮の管轄じゃ。」
これほど土地勘がある逯興凱が段連祥と方おばあさんの二人を知らないと言うからには、何景方と張玉は当時こう考えた。きっと陳良の勘違いだ、帰ってからもう一度陳良によく聞いてみよう。こうして、我々は逯興凱に別れを告げてから、成果を挙げることなく戻ってきた。
新立城から帰ってきた後に、何景方は方おばあさん(川島芳子)調査の結果を李剛に報告し、二人は調査中に何が間違っていたのかを分析した。まさか陳良が嘘をついて、段霊雲と張玉母子に話しを合わせて、故意にでっち上げているのでは?しかし我々は再び思い直した。陳良には嘘をつく必要が何もないと。もし彼が段連祥と方おばあさんと会ったことがないのなら、どうして段霊雲が説明した段連祥と方おばあさんが新立城にいた時期の経歴とこんなに符合するのか。そこで、二人は張玉に再び陳良に会ってよく確かめさせることに決定した。
張玉は疑惑を抱いて陳良の家に二回目の訪問をした。陳良は張玉が方おばあさんの旧宅を訪ねた結果を聞き、少し考えていった。
「わしは今年でもうすぐ七十歳になるが、まだ親爺の住んでおった土地を間違えるほど耄碌はしておらん。斉家村には逯という姓の家があるはずじゃ。お前さんたち、もう一度行って段連祥と方おばあさんの住んでいたところがわからなければ、わしの所に戻ってきなさい。わしが案内してやろう。」
張玉は陳良が確信を込めて話すので、それ以上何も尋ねなかった。張玉は帰ってきた後に、我々に説明して、陳良は我々がもう一度新立城へ行って、もし祖父と方おばあさんの住んでいた土地を探し出せなければ、また自分のところへ来るようにと言ったと報告した。
もう一度新立城に行くかどうかで、我々の間では当初意見の相違があった。何景方は言った。「逯さんはもう高齢だから、知っていて言わないなんてことはないだろう。それに彼は解放前から《文革》期間もずっとあそこに住んでいて、家を一つ一つ挙げることができるのに、段という姓の人間も方おばあさんという老婦人のことも言わなかった。もう一度行っても無駄だろう。」
李剛は話を続けて言った。
「逯興凱が事情を知っていて我々に言わない可能性もあるのではないか。我々と彼とは初対面でもあることだ。これには逯興凱に言えない事情があるのかもしれない。」
最後に、張玉が発言した。
「陳良さんがせっかく言ってくれたのだから、もう一度斉家村に行ってみて、無駄足でも確認してみましょう。」
我々は三人ともこのことについて心の中では確信が持てなかったが、ともかくもう一度新立城に行くほかはなさそうであった。
二日目に、張玉は朝早くに李剛の事務室を訪れて、部屋に入るなりこう尋ねた。
「誰か財布に三枚の五角コインを持ってないかしら。私、まず今日の出発がうまくいくかどうか占ってみたいの。」
何景方が財布から三枚の五角コインを取り出して張玉に手渡した。張玉はコインを両手で握って振り、繰り返して三回投げた。出たコインの裏表を記録して占ってみた結論は
「上上、大吉、今日は必ず成功する。」
李剛と何景方の二人は互いに見合わせて笑った。なぜなら二人はコイン占いなどというものを理解できなかったからで、ただ調子を合わせて
「そうなることを願うよ。順調に行けばいいな。」と言っただけだった。
今回は何景方と張玉の二人で行く二回目の新立城であった。
一〇三路線の公共バスに乗り斉家村のバス停で降り、何景方と張玉の二人は逯興凱の家に真っ直ぐ向かった。
逯興凱はどうやら我々が再び来ることを予想していたようで、我々に席を勧めると、疑惑の目線を向けて、我々を見ながら尋ねた。
「あんたらは何がしたいんだ?どうして段連祥と方おばあさんを探してるんだ。」
逯興凱の言葉に含みがあるのを聞いて、張玉はすぐに答えた。
「私は段連祥の孫娘です。私の祖父と方おばあさんが三十年前に昔新立城の斉家屯に住んでいたので、私たちは斉家村が当時の斉家屯かどうか知りたくて来たのです。もしそうなら、この二人をご存じないですか?」
逯興凱はこの時目が輝いて、張玉に向かってすぐに尋ねた。
「そういうと、あんたは段連祥があのころいつも連れてきていた孫娘の小波叨かい?」
張玉はこれを聞いて、逯興凱がすでに三十年も呼ぶ人がいなくなった自分の子供の頃の呼び名を口にしたのを見て、我々が事情を知る人を捜し当てたことを確信した。この逯興凱こそ祖父段連祥と方おばあさんがここに住んでいたことを知っている人のはずだ。
逯興凱はこの時に本当の事情を告白した。
「そういうことなら、本当のことを話そう。前に来たときに、段連祥と方おばあさんの二人がいるかどうか尋ねられたとき、わしは知っておったが、言わなかったのじゃ。わしはあんたらが何しに来たのか知らんかったし、知らない人に突然来られても、知ってることをなんでも話せるもんじゃないからの。わかってくれ。わしのとこの逯家はここの大地主じゃったが、土地改革のときに富農分子にされて、過去に何度も政治運動でひどくやられての。それじゃから、責任を問われるのを恐れて用心しておったのじゃ。もちろん今はもう前とは違って、罪を問われるようなことはないがの。じゃが、あんたらはこの二人のことを何の目的で聞くのじゃ。うちの家族に何か悪い影響がありやせんか。」
逯興凱のこの内心からの言葉は、我々が理解できるだけでなく興奮もさせた。興奮したのは、「あちこち探していたときは見つからないのに、探すのをやめたら見つかった」からである。意外にも段連祥と方おばあさんの新立城での生活の痕跡を、この逯興凱の所で答えを得ることができた。我々は張玉が祖父の段連祥と方おばあさんを回顧して本を書く準備していること、彼らが新立城で暮らしていたかどうかを確かめたいという思いを伝え、逯興凱に説明した。さらに彼に安心するように、絶対に家族に累を及ぼすようなことはないことを言い含めた。
そこで、逯興凱は彼の記憶を語り始めた。
「わしは段連祥をしっておるぞ。彼とわしの伯父于景泰は満州国警察学校の同窓生だった。」
段連祥と方おばあさんについて、逯興凱は言った。
「父の逯長站(一九八七年逝去)がこう話すのを聞いたことがある。解放前夜、だいたい一九四八年末から一九四九年初ごろ、わしはまだ幼い頃じゃった。ある日、わしの伯父の于景泰が段連祥と方おばあさんを連れてきて、もう一人男がおったが、名前は知らぬ、全部で三人の男が連れてきた。伯父の于景泰が、この三人が家に住みたいといっているが、どこか空いている部屋はないかと言った。当時、わしの親爺は伯父の面子を立てて、わしの大伯父(当時すでに逝去して、妻はほかに嫁いだ)が残した部屋に住ませる事にして、少し整理してそこに住まわせた。この家は部屋が三間あり、その他にも東西の小部屋と門に番小屋があり、門を閉じれば一戸の家になった。そのとき相談して、彼ら三人はこの家を借りることにした。しかし段連祥はわしの伯父の同窓生で、もう一人来たあの男は(背は高くなく、少し太っていて、金縁めがねで、少し威張っていた)、やはり伯父と段連祥の昔の警察学校の教官で、わしの父親もいくら長く住んでも金を幾らくれと要求するのも気が遅れていたようであった。」
「住居が決まったあと、方おばあさんは臨時にこのわしの家の小部屋に数日泊まり、あの教官が去って、残った段連祥と伯父の于景泰が部屋を片付けているうちに、天気が寒くなった。二年目の春になると、やはりあの四人、方おばあさん、于景泰、段連祥、それからあの教官が、馬車で大きな荷物や小さな荷物を車一杯運んできて、正式に修理したわしの大伯父の部屋に住むことになった。わしの親爺は二人の姉を連れて行き、彼らが住んでいる家の庭に各種の野菜やトウモロコシの種をまいた。」
逯興凱の印象では、段連祥は大柄で、少しやせており、白髪まざりであったが、意志が固そうな顔つきであった。方おばあさんは背丈は普通で、目が大きく、皮膚が白く、体型は普通で、とても綺麗好きでテキパキしており、北京なまりがあった。
逯興凱はこう紹介した。段連祥と方おばあさんが食していた米と小麦粉は、みな彼らが自分で買い、食べていた野菜は逯家の人間が手伝って家の前後の庭に植えた物で、火を焚くマキは逯家のものを使っていた。
解放初期、前世紀の五〇年代に段連祥はしばしば娘の段霊雲をここに残して方おばあさんのお供をさせていたが、段連祥の娘である段霊雲と逯興凱の年齢は近かったので、幼いとき二人はよく遊んでいた。
およそ一九五八年ころ農村に人民公社が成立する頃になると、段連祥は来なくなったが、逯興凱が伯父の于景泰から、段連祥は経歴の問題と「右派言論」で労働教育に送られたと説明するのを聞いた。それから《文革》前になると、逯家の者は再び段連祥が方おばあさんを探しに来るのを見た。この六、七年の期間は、ずっと于景泰が方おばあさんの生活の面倒を見ていた。当時、于景泰は逯家の小部屋に住んでいた。
一九六六年《文革》が始まったばかりの頃に、どういう原因か不明だが于景泰は捕まって連行され、旧満州国皇宮近くにあった長春監獄か収監所(長春市郊区公安分局の逮捕と聞いた)に入れられた。取調べが終わらないうちに、于景泰は収監先で死んでしまった。
前世紀の七〇年代初頭、段連祥はほとんど毎月のように方おばあさんのいるここへ二回ほど訪れ、外孫娘の「小波叨」を連れてきて「小波叨」を残して方おばあさんの供をさせた。およそ「四人組」が打倒された後の一九七八年のある日に、段連祥は陳連福という名の老人(新立城鎮十里堡住人)を連れて逯家に来て、逯興凱の父親に方おばあさんの住んでいた家を売買したいと言った。その時、逯家ははじめて方おばあさんが既に死んだということを知った。段連祥の仲介で、逯興凱の父親は方おばあさんが住んでいた家を陳連福に売り、当初部屋の値段は二百元と話していたが、陳連福は百五十元しか払わなかった。陳連福は数年も住まない内に、また部屋を同じ村の張某に売った。前世紀の八〇年代に新立鎮の道路拡張に伴い、方おばあさんが住んでいた部屋はちょうど道路に当たっていたので、政府の補償を受けて立ち退きになり、現在はもう跡形も残っていない。
逯興凱の証言は陳良の証言と基本的に一致している。我々は段連祥の臨終の遺言の真実性に確信を深めた。方おばあさんは新立城に来た時期は、解放前後の一九四八年末で、川島芳子が北平第一監獄から脱走した時期とも符合している。さらに段連祥と于景泰ならびに彼らの教官《老七》が一緒に付き添っていたことも、当時川島芳子と関係のあった者が北平から東北に逃げるのを助けたという伝聞を検証することになった。

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2016年03月16日

川島芳子は生きていた(16)陳良の証言

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

段連祥は臨終での遺言の中で、川島芳子は一九四八年三月二十五日に北平で死刑から逃れ、《七哥》と于景泰による護送のもと、瀋陽を過ぎる途上で段連祥を探し出したと語った。彼ら三男一女は長春市郊外の新立城の農村にやって来た。川島芳子は対外的には方おばあさんと呼ばれていた。段霊雲は彼女を《方おばさん》(或いは《方ママ》)と呼んでいた。我々の調査は新立城に方おばあさんが実在したかどうかを確かめるところから始まった。
段霊雲の記憶の中の新立城は、張玉が一九六七年に生まれる前のことで、すでに四十年も過ぎていたので、彼女はただ次のことを覚えているだけであった。方おばあさんの家に行くには、バスに乗りまず胡家店という地点に行き、バスを降りて、さらに農家の馬車に乗り方おばあさんの家に行く。張玉が方おばあさんと別れたのは、まだ十一歳に満たないときで、すでに三十年が過ぎていたため、方おばあさんが新立城にいたころの記憶はかなり薄れていた。新立城(鎮)はさほど大きくはないが、数十平方キロの農村の範囲の中で、何の手がかりもない状況下では三十年前の方おばあさんの住んでいたところを探すのは、海で一本の針を探すくらい難しいことである。どうしたらいい?張玉は最初は自信たっぷりに言った。
「新立城(鎮)の範囲内で、あちこち聞きまわれば方おばあさんの手がかりが得られないとは思わない。」
段霊雲と張玉母子はかつて新立城で方おばあさんと一緒に暮らしたことがあるので、我々は必ず探し出せると自分たちを励ました。
我々は相談の結果、何の目的地なく新立城の区域を村から村へ探し回っても、苦労多くして効果少なしで、無駄が多いだけだ。段霊雲が新立城の方おばあさんの家に行くには胡家店を経由したと証言しているからには、先にそこをあたってまず胡家店で手がかりを探して見ようということになった。
調べてみると、長春市区から新立城(鎮)に向かう道沿いに胡家店と言う名前の地点は二箇所あり、一つは長春市区からさほど遠くないところにある胡家店で、十数年前には浄月潭公路の料金所の名前であった。もう一つの胡家店で新立城ダムを過ぎて、長春市から二十五キロほど離れた場所であった。段霊雲が言うには、記憶している方おばあさんの家はさほど離れてはおらず、長春市区からさほど遠くないということであった。そこで、我々は長春市区から出たばかりの所にある胡家店を訪ねてみることにした。
八月のある日、何景方ならびに段霊雲と張玉の母子は自動車で「胡家店」へ真っ直ぐ向かった。改革開放後に、長春市の都市区には大きな変化が起こっていた。長春市経済開発区が長春市の東南郊外に新しい町並みとして建設されていた。三十年前の以前の様子はもはや見る影もなくなっていた。窓から目に入るのは全て真っ直ぐな大きな道と両側に並び立つように立つ高層ビルであった。我々はあちこちと走り回った後に、もともと胡家店公路の料金所跡地で、かつて胡家店村民であった一人の清掃員から聞くと、かつての胡家店(屯)は、現在既に市経済開発区の新世紀広場にほとんどを占められ、残りの土地はすでに道路か高層ビルに占められているとのことであった。胡家店(屯)の以前の住民も計画された住宅地区に引越し、もともとの農家はみな無くなってしまっていた。それでも我々はあきらめられず、胡家店がもとあった地点を歩き回って見たが、ちょうど先ほどの五十歳くらいの清掃員が述べたように、家を探すどころか、手がかりを与えてくれそうな人までいなくなっていた。
数日してから、おそらく記憶がはっきりしていなかったか急いでいたためか、段霊雲は突然ある人物のことを思い出した。それは前世紀の五〇年代初めに、彼女が方おばあさんの家に住んでいた頃、陳連福という名の老人が、毎年息子の陳良と方おばあさんの家に鴨卵を持って来ていたというのである。現在、陳連福はとっくに世を去っていたが、その息子の陳良はまだ生存していた。陳良は数年前によく段霊雲が住んでいた団地に野菜を売りに来ており、段霊雲に家の住所を書き残していた。陳良という証人が見つかれば、我々の調査もなにか手がかりが見つかるかもしれない。何景方と張玉は陳良が段霊雲に書き残した住所をたよりに、陳良を訪ねることにした。

初秋、農村ではちょうど農産品の収穫の季節であった。長春市朝陽区永春鎮平安村窩瓜屯に住む陳良夫婦は、親切にも農家で取れた野菜で客人をもてなし、トウモロコシ、ジャガイモ、ナス、ネギの味噌漬け、新鮮なトマトなどで何景方と張玉の二人に農村風味の料理を振舞った。
陳良はいまだ七十歳に達していないが、歯は全て抜けて総入れ歯になっており、耳も遠くなっており補聴器を使って人と話をしなければならず、顔中に深く刻まれた皺が多年の苦労と風雪を物語っていた。しかし往時のことを話し出すと、彼は楽しそうに話し始め、声も弾んできた。段連祥と方おばあさんのことは彼の記憶に深く残っており、さっそく我々に証言を提供してくれた。
もともと、陳良の父親陳連福の祖先は山東省昌邑県で、幼いときに陳良の祖父に従って関東地方に移住し、長春市郊外の新立城の十里堡(屯)に落ち着いた。村の中で、陳連福も故郷の山東の習慣である鴨の養殖を学び、十里堡周辺の十里八村では鴨の養殖家で有名だった。
中華人民共和国になって初期のころ、陳連福から鴨卵を買う人が少なからずおり、その中に張玉の祖父である段連祥もいた。段連祥と方おばあさんは十里堡から五、六里はなれた斉家村に住んでいた。段連祥は鴨卵を買うときにはいつも一籠ごと買い、甕の中に塩漬けにして、方おばあさんに少しづつ食べさせていた。さらに陳連福と息子陳良は毎年端午の節句の前にいつも鴨卵を籠一杯にして方おばあさんの家に届けていた。長年そうしていたので、段連祥と陳連福は顔見知りになった。
今でも陳良がよく覚えているのは次のようなことである。段連祥は背が高く、少し白髪があり、体がやせており、なかなか男前で、話を聞くと学問があるようであった。陳良も父親の陳連福が段連祥は満州国時代に日本語通訳をしていたと話していたのを聞いたことがある。
毎回鴨卵を部屋に届けていたので、陳良は《方おばさん》の家と本人のこと良く覚えていた。方おばあさんと段連祥は独立した家に住み、部屋は三部屋あり、東西両側には小部屋があった。庭の門は黒漆の木の門で、門の両側には番小屋があった。庭には野菜が植えてあり、さらに鳩を飼っており、ウサギと小鳩のような鳥がいた。方おばあさんはとてもやせており、とても色白で、大きな目が炯炯と光っていた。格好をきめて小奇麗にしており、てきぱきしており、頭の上に曲げを結い、少しモダンな感じで、一目見て農村のおばあさんのようではなかった。部屋の中は比較的きれいにしており、屋内の配置も整っていた。大きなタンスがあり、タンスの上には大きなラジオと置時計が並べてあり、部屋の中には壁沿いに大きなテーブルと幾つかイスがあり、赤ペンキを塗った床板が敷いてあった。
前世紀の五〇年代後半には、農村では人民公社化が始まり、鴨の養殖も個人ではできなくなったので、陳連福と陳良親子は段連祥と《方おばさん》に鴨卵を届けることはしなくなった。しかし段連祥と陳良の父親の陳連福はその後も連絡を取り合っていた。文化大革命が終了してまもなく、方おばあさんが病気の期間には、陳良と父親の陳連福は見舞いにも行ったことがある。
方おばあさんが逝去した後に、段連祥が紹介人となって、大家に方おばあさんと彼が住んでいた部屋を陳連福に売った。陳良は当時の価格二百元で話をつけたが、父親の陳連福は大家に百五十元しか払わなかったことを覚えていた。陳連福が部屋を買い取った後に、家族は十里堡から斉家村に引っ越した。そのときは陳良も既に結婚しており、妻は実家で一人っ子であったので、陳良は妻方の実家に引っ越して落ち着き、それが現在彼が住んでいる場所―長春市朝陽区永春鎮平安村窩瓜屯である。
前世紀の八〇年代初め、新立城鎮は道路拡張計画により、陳連福の家はちょうどその立ち退き範囲に入っていた。陳連福はそれを聞いた後、前もって家を四百元で同じ村の張さんに売り、彼も陳良の現在住む家に引っ越してきた。一九九五年に陳連福は享年九十二歳で病逝した。
陳良家から帰って、我々はとてもほっとしたが、それは方おばあさんを知っており見たことのある人が段霊雲と張玉母子のほかに、陳良という第三者の証人として現れたからである。さらに陳良の証言を通じて方おばあさん(川島芳子)が新立城に住んでいたころの村の名前は斉家村(屯)であることがわかった。

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2016年03月15日

川島芳子は生きていた(15)于景泰の死

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

段霊雲の記憶によれば、于景泰は大家の逯家の脇部屋に住んでいた。彼の容貌は痩せており背が高く、大きな目が何かを語っているようで、性格は温和で忍耐があり、段霊雲にとてもよくしてくれた。彼女はしばしば于景泰の部屋に遊びに行った。于景泰の家に行くと家から何か美味しいものを出して食べさせてくれたり、彼女に本の中の知識を教えてくれたりした。
段霊雲は一九五八年に父親段連祥が労働教育所送りになったので、一家は生活の術を失い、一五歳にも満たなかった段霊雲が仕事に参加して、家を養う責任を負うことを余儀なくされた。段霊雲が休みの日に新立城の方おばあさんに会いに行くと、会った後に方おばあさんは「小雲子、お前は仕事に出て忙しいだろうから、会いに来なくてもいい。私のところは于景泰おじさんが世話してくれるから大丈夫だ。お前は時間があったら、輝南の父親のところへ行きなさい!」といつも言うのであった。
段霊雲の記憶では一九六〇年夏に、彼女は職場に数日の休暇を申請して、新立城の方おばあさんに会いに来た。方おばあさんはもう早くから準備をしていたようで、于景泰も傍にいた。方おばあさんは段霊雲と挨拶を交わした後、引き出しの中から紙と万年筆を取り出し、すばやく一通の手紙を書いて、彼女に父親段連祥の元に届けさせた。手紙の内容は次のようなものであった。
「我が弟の安寧を願う。しばらく便りがないが、平穏だけを祈っている。いま娘の雲子が面会に行くので、手紙を書く。おまえは男なのだから、決して挫けてはいけない。体は最も重要だから特別に用心しろ。人は逆境に遭わなければ意志を鍛錬できないものだ。おまえは元々良い人間で、正直で、心根が良いのだから、必ず改造できる。私はここで景泰と雲子と無事を祈っている、心配無用。」
方おばあさんは手紙を封筒に入れると、もう一つの封筒にお金を入れて、于景泰に段霊雲と一緒に輝南へ段連祥へ面会に向かわせ、さらに一組の布団を持って行かせた。出発前に、方おばあさんは潤んだ目で雲子を見つめて、彼女の手を引いて、くどくどと彼女と于景泰に道の途上に気をつけるよう諭した。
段霊雲は于景泰と共に一昼一夜汽車と車に乗り、ようやく輝南杉松岡労働教育所に到着した。于景泰は外で待って中に入らず、ただあらかじめ書いておいた手紙を段霊雲から段連祥に手渡させた。段連祥は涙を流しながら方おばあさんと于景泰の手紙を読むと、震える手で何度も方おばあさんが彼のために作った布団をなで、その間はずっと言葉を発しなかった。

一九六六年六月のある日、段霊雲の一番下の弟の続順が八歳の誕生日を迎え、母親は朝早くから二人の弟を連れて公園に遊びに行ったが、父親はまだ夜勤から戻らず、ただ段霊雲一人だけが家の中で山になった衣服とシーツを洗っていた。ラジオからは中央から地方へ展開していた文化大革命のニュースが流れていた。段霊雲が衣服を洗って外に行き干し終わると、すぐに強風が吹いてきて縄の上に干した服が飛ばされて地面に落ちた。段霊雲は急いで地面に落ちた服を部屋に取り込んで家の扉を閉めたところに、父親の段連祥が顔面蒼白でふらふらと外から帰ってきたのが見えた。父親は魂が抜けたかのようにオンドルの上に座り込むと、口からは絶えずぜいぜいと荒い息をしていた。その様子を見た段霊雲が父親にどうしたのかと尋ねると、段連祥はため息をついて、段霊雲に告げた。
「七叔が長春から悪い知らせを聞いてきた。于景泰は警察機関に捕まって、方おばあさんはとても心配して、七叔と自分と一緒にどうしたらいいか対策を練っている。このことは絶対に母親には告げてはいけない。」
段霊雲は当時そんなに多くを考えず、父親を慰めて
「今はちょうど運動期間だから、ちょっと口を滑らせただけで『密偵』に捕まってしまうわ。于景泰はきっと誰かに嵌められたのよ。きっと数日で釈放されるわ、たいしたことないわよ。」と言った。段連祥も段霊雲の言うことも一理あると思ったようで、うなずきながら答えた。
「もしそうなら、ちょっと方おばあさんのところに行って、心配しないように言ってこよう。」
段連祥は妻の庄桂賢にも言わないで、すぐに長春新立城に向かった。
三日後の夜に、段連祥が四平の家に戻ると、さらに悪い知らせを聞いてきた。于景泰が拘留されて服毒自殺したというのである。段霊雲はこの突然の知らせに驚いて、どうしたら良いかわからなかった。
父親の段連祥は、今回は特に彼女を迎えに来たのだと言った。于景泰が死んだので、方おばあさんがとても悲しんでいるから、段霊雲に新立城に行き方おばあさんに数日付き添って欲しい、職場にはもうすでに休暇を申請しておいたと言うのであった。
二日目の午後に、段霊雲と父親の段連祥は方おばあさんの家に行った。ちょうど七叔も来ていて、ちょうどオンドルの上で胡坐をかいてタバコをすって、段連祥と段霊雲の親子が来たのを見ると頷いただけで、何も言葉を発せずに、一本また一本とタバコを吸っていた。方おばあさんは部屋の真ん中に立って、涙の跡がある顔は満面悲壮な様子であった。大きな机の上には線香が焚かれて、于景泰の写真がすでに大きくされてそこに立て掛けられており、写真の額の上には黒い布が付けてあった。
方おばあさんは段霊雲の前に来ると彼女の肩に手を掛けて「おまえの于景泰おじさんは生前よくお前を可愛がっていた。彼はずっと息子も娘もいなかったから、お前を本当の娘のように思っていたんだ。彼が監獄でお前に残した遺書があるから、読んで見なさい・・・」方おばあさんは引き出しから二枚の手紙を取り出して、段霊雲に手渡した。良く知った于景泰おじさんの筆跡を見ると、段霊雲の目から涙が止め処もなく溢れ出してきた。
それから何年かたった後でも、段霊雲ははっきりと遺書の言葉を覚えている。
「雲子、于おじさんは遠くへ行かなければ行けなくなった。何も残して遣れる物はないが、古い本が数冊あるから、お前が持って帰って読んでくれ。時間があったら方おばあさんに会いに来い。方おばあさんは個性が強くて、お前にとても厳しくするが、心の中ではとてもお前のことを思っているからなんだぞ。お前も方おばあさんの母親のような気持ちを察して、親孝行な娘になってくれ。于おじさんはあの世で祈っている。」
読みながら、段霊雲はいたたまれずに声を出して泣き、涙で手紙を濡らしてしまい、手紙はぐしゃぐしゃになってしまうほどであった。
昼ごはんを食べる時に、方おばあさんと七叔、父親段連祥の三人は一緒にどのように于景泰の今後を処理するか相談していた。食事後に方おばあさんは父親段連祥と段霊雲に長春の般若寺に行って、澍培法師に于景泰を弔ってもらうように言いつけた。方おばあさんは紙を取り出すと手紙を書いて、父親段連祥に持たせて澍培法師に渡すようにと言った。
午後に、段霊雲は父親段連祥に付き添って方おばあさんの言いつけどうりに、一緒に長春般若寺に行った。般若寺では方おばあさんが書いた手紙を澍培法師に手渡した。段霊雲は初めて澍培法師のあの赤い光に透き通った顔に、広い額に、炯炯と光る目を見た。彼女は以前に家で方おばあさんが、澍培法師は会得した高僧で、早くも民国二十八年に遼寧省朝陽県の雲培山で興福寺を創建したと言うのを聞いたことがあった。
澍培法師は方おばあさんの手紙を読むと、微笑んで段連祥と段霊雲の父子に悲しまなくてもよいと告げた。また法師は彼らを慰めて、于景泰は彼らの祝福によりすでに西の天にある極楽世界に行って、仏のもとに仕えていると述べた。それから、澍培法師は于景泰のために法事を執り行った。
于景泰の事情を知るために、我々は前後して長春市緑園分局(元市郊外地区分局)長春監獄、新立城鎮派出所に出向き、さらに于景泰の甥に当たる逯興凱を調査したが、手がかりは見つからなかった。現在のところ我々が知っているのは、段霊雲と于景泰が接触によって知ったことを我々に述べてくれた幾つかの点だけである。この人物に関する調査は今後も継続されるだろう。しかし一点だけはっきり言えるのは、于景泰が自らの職責に死に至るまで忠実を保って川島芳子のことを供述しなかったということである。

2016年03月14日

川島芳子は生きていた(14)川島芳子と于景泰

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載


于景泰は段連祥が満州警察学校に通っていたときの同級生で、一九四八年末に川島芳子を長春新立城に護送しただけでなく、段連祥を紹介した人物でもある。この点についてはすでに長春市郊外新立城斎家村に住む方おばあさんの大家の息子で于景泰の甥に当たる逯興凱も証言した。于景泰は一九六六年初めに原因不明の死を遂げたが、段霊雲には深い印象を残した。
段霊雲の記憶によれば、父親段連祥は生前にかつて彼女に于景泰の家のことを話したことがあった。于景泰の母親の姓は樊氏で、名は蓮花、祖籍は寧波で、彼女の父親の樊運生は清朝末期の秀才であった。蓮花は幼い頃から頭がよく優秀で、よく読書をして、よく詩文を作ることが出来た。蓮花がまだ十五歳にも満たない時に思いがけず、彼女の父親はまだ若くして早逝してしまった。生活の為に母親の栄氏は蓮花を連れて友人に身を寄せて東北地方の瀋陽に来たが、その後母親も肺病のために死んでしまった。母親が生前に病を治すために高利貸に借金していたため、蓮花は債権主に賭博場に売り飛ばされ、賭博場でアヘンをすったり賭博したりする客相手の「売り子」となった。ある日、彼女は東北軍で兵を率いる旅団長に見初められ、この旅団長が彼女を買い戻して、彼女を「外室」として娶り、その後生まれた男の子が于景泰(当時は母の姓を名乗り樊景泰)であった。この旅団長は樊蓮花と于景泰の母子になにも名分を与えなかったけれども、彼ら親子の生活はまあまあ快適であった。
段連祥の叔父である于徳海もしばしば樊蓮花が働いていた賭博場に足を運んでいたので、樊蓮花を知っていたばかりか、あの旅団長が樊蓮花を「外室」とすることを支持して、旅団長が婚礼を執り行えるよう金も出してやったほどであった。このため、于徳海とあの旅団長は義兄弟の契りを結んだ。またたびたび旅団長の家に行き于景泰とも一緒に遊んだ。于景泰は段連祥よりも一歳年上であった。後に彼ら二人は満州国四平警察学校に入学した。一九四五年八月十五日の終戦により、満州国四平偽警察学校は解散となり、于景泰は旅団長だった父親と共に南京へ行った。
于景泰の旅団長だった父親は国民党軍統のトップであった戴笠との関係が親密であった。戴笠は初めて于景泰に会ったときから彼を気に入り、以後彼を重点的に訓練すると言った。後に于景泰は軍統からアメリカに派遣され訓練を一年受けてから、帰国後には軍統で情報員となった。
一九四九年于景泰の父親は蒋介石とともに台湾へ逃げたが、去る前に自ら瀋陽の樊蓮花を訪ねて別れを告げた。彼は一時期戦略的に移転するがすぐに戻ってくると述べて、樊蓮花に生活費を残したが、それ以後は音信不通となってしまった。于景泰は父親と共に台湾には行かず、特殊任務を受けて、大陸に潜伏するために残り、長期の「スリーパー」となった。
段霊雲の記憶では、彼女が初めて樊蓮花に会ったのは一九五七年農暦九月九日であり、それはちょうど重陽節にあたり、また樊蓮花の六十歳の誕生日であった。そこで方おばあさんはあらかじめ樊蓮花のために画いて置いたお祝いの祝寿図を送ったが、それは日本の漆画を真似たもので、上下に二匹の鶴が舞い、周囲にはバラや菊や桜の花が配され、長寿吉祥を祝う意味を表したものであった。父親の段連祥はこの方おばあさんの画を額縁に入れて、九月九日のその日に彼女と一緒にお祝いに行った。樊蓮花は背丈は高くなく、比較的やせており、言葉は優しくおっとりしていて、声が非常によく、大きな目をしていて、彼女がかつて普通の女の人ではなかったことを伺わせた。この于景泰の母親が一九六五年に突然心臓病により長春で亡くなった後に、于景泰は方おばあさんが母親の祝寿の為に描いた鶴の画を段霊雲に渡した。
段霊雲の記憶では、于景泰は普段は大家の逯家の脇部屋に住み、部屋の中には一対の箱と、一対のイスと、一つの机があり、机の上にはいろんな書籍が積まれていた。

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2016年03月13日

川島芳子は生きていた(13)段霊雲と七叔

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

段霊雲の記憶の中ではっきりと覚えているのは、父親の段連祥が《七叔》の前では慇懃に敬意を払って、タバコや水を渡す時も「下僕」のような態度を取っていたことだ。ご飯を食べる時も、《七叔》と方おばあさんが母屋で食事し、父親段連祥と彼女は東の脇部屋で食事していた。《七叔》がいない時だけ、方おばあさんは父親段連祥と彼女を母屋に呼んで一緒にご飯を食べていた。
子供時代の段霊雲の印象に残っているのは、父親の段連祥は第三者がその場にいる時には、《七叔》のことを《七哥》と呼んでいた。しかし彼ら二人だけでいる時には、段霊雲は父親が《七叔》のことを《七爺》と呼ぶのを聞いた。その内情は今となっては知る由もない。しかしこれまでのところ、我々が知りえたのは秀竹はかつて四平の満州警察学校で于景泰と段連祥の教官(上司)であったこと、また秀竹が段連祥から《七爺》と呼ばれていたのは彼らが上下の「組織で」の地位にあったためか或いは秀竹の出身家系や身分と関係があるのかもしれない。これらは皆さらなる検証が必要である。

段霊雲(小雲子)の眼から見た《七叔》はやさしく親しげであった。二〇世紀の五〇年代に、新立城の方おばあさんの家で《七叔》に会うと、《七叔》はいつも尋ねるのであった。
「小雲子、最近方おばあさんから何首詩を教えてもらった?字はどれくらい覚えたか?学校では先生の言うことを聞いているか?七叔がしばらくいなかったから、七叔のことが恋しいかったか?ほら七叔がお前に何を買ってきたかわかるか?」
《七叔》はまるで変装でもするかのように、後ろのほうから布の袋を取り出し、バサッと袋をひっくり返すと、沢山の物がオンドルの上に出てきた。罫線のあるノート、白紙のノート、筆箱、ペン、鉛筆、それからオハジキなどがあった。小雲子は次々と手にとって並べると、うれしくて何度も「ありがとう七叔!」と言った。この時に方おばあさんが部屋に入って来た。《七叔》が彼女に向かって言った。「雲子、ここにいないで、オハジキを持って庭で遊んできなさい。」そのころは、《七叔》が方おばあさんの家に来ると、毎回のように小雲子に彼女が好きな文房具とかお菓子のような物を持ってきてくれた。
段霊雲の記憶では、《七叔》はめったに方おばあさんのところには来ず、方おばあさんと《七叔》の連絡は、どうやら伝書鳩で伝えているようだった。なぜなら新立城では方おばあさんは鳩を沢山飼っていたからである。
《七叔》は《文革》が始まって間もなく、雲南にいる老母の世話に行くからお別れだと言って、段霊雲は長春駅まで彼を見送りに言ったのを覚えている。それ以後は、《七叔》が新立城に来ることはなくなった。

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2016年03月12日

川島芳子は生きていた(12)川島芳子と秀竹

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

段連祥が臨終の遺言の中で告白したところによれば、直接に川島芳子の護送に参加し長春新立城へ向かったのは三人の男たち、すなわち秀竹(老七)と于景泰と段連祥であった。一九四八年末、于景泰は秀竹と川島芳子を連れて瀋陽の段連祥の元を訪ね、それから四人で一緒に于景泰の長春市郊外新立城に住む姉の嫁ぎ先である逯家に向かい、そこで段連祥(易に通じていた)に「風水」を占わせた後、そこを川島芳子の長期滞在先とした。それから于景泰と段連祥は部屋を片付けるために長春に残り、秀竹と川島芳子は再び南方へ向かった。年を越えて一九四九年の春になってから、川島芳子と秀竹は于景泰と段連祥の三人を引き連れて、馬車で生活用品を持ってきて新立城斎家村に隠れ住み、そこで三十年後に逝去するまで生活した。その長い歳月のうちに、秀竹は「神出鬼没」的に姿を現し、毎回一定期間共に居住し、川島芳子を于景泰と段連祥に託して、再び神秘的に姿を消すのであった。一九六六年に于景泰が原因不明の死を遂げると、「文化大革命」の発生により社会が混乱したため、秀竹も「別れを告げ」て、それ以来音信がなかった。
これらのことよりわかるのは、川島芳子を長春新立城に護送し匿ったのは彼らの「義侠心」や「同情心」などではなく、綿密に計画し組織的な手配の上で、一歩一歩組織的に行為が実行されたと言うことである。さらに方おばあさん(川島芳子)が一九七八年に死去して三年後(一九八一年)に、浙江省国清寺から僧侶(おそらく秀竹と同一人物)が来て遺骨を持ち去ったことからも、その組織的計画の厳密性が伺える。
では秀竹とは一体何者か?
段霊雲が新立城で方おばあさんと共に生活していたころ、よく彼女が《七叔》と呼ぶ人が来た。顔つきはとても元気よく、背格好は普通でやや太り気味であった。しかし方おばあさんの周囲の人たちの秀竹を呼ぶ名前は異なっていた。

【方おばあさんは《老七》《秀竹》と呼ぶ】
秀竹は川島芳子を長春新立城に護送する際の責任者で、川島芳子を保護して三人組の中でリーダー的役割を果たしていたことからすると、方おばあさん(川島芳子)との関係もただならぬものを感じさせる。段霊雲の記憶によれば、彼女はまだそのころ年齢が小さかったため、《七叔》と方おばあさんがどんな関係かはわからなかった。しかし《七叔》がやって来ると、方おばあさんは興奮剤を飲んだかのように、にわかに元気になった。段霊雲がまだ記憶しているのは一九五五年の夏に、父親の段連祥は彼女を方おばあさん家に送り届けて自分は家に帰ったときのことである。二日目に、《七叔》が何処からかやってきたが、灰色の半そでを着て、汗だくになって、手には一匹の鶏、一籠の卵、また二瓶の白酒、一袋のシイタケと一袋の果物を持っていた。方おばあさんはちょうど部屋の中で餃子を作っていた。方おばあさんが部屋の外の物音を聞きつけて、頭を挙げて《七叔》を見ると、すぐに手にしていた箸を手放し、オンドルから飛び降りると、まるでチョウチョが舞うように走って行き、《七叔》の手から差し入れを受け取りながら、喜んで嬉しそうに叫んだ。
「秀竹、帰ってきたのね!」。
ある時には、方おばあさんは父親と于景泰の前で彼のことを《老七》とも呼んでいた。

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