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2016年03月31日

川島芳子は生きていた(31)川島芳子と戴笠

http://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

歴史的記録によれば、川島芳子は一九四五年十月十一日に北平の住まいで逮捕されたが、国民党軍統粛奸小組が逮捕した第一陣の対象であった。しかしながら、国民党北平当局による逮捕の過程と案件の処置においては、名実の伴わない個人的動機がかなり混じったものであったようだ。

歴史的記録によれば、かつて満州国安国軍司令であった金璧輝(川島芳子)は一九三五年初めに「関東軍」により職務を剥奪されて事情聴取を受けている。つまり、その時から川島芳子はすでにいかなる日本軍内部での身分も持たなくなったのであり、彼女はただの日本人川島浪速の養女であった。一九三五年から日本敗戦に至るまでの十年の間、川島芳子は天津で東興楼の食堂を経営したが、その期間は日本軍の駐華北の高級将官多田駿と密接な交際があった。しかし個人の身分で当時の日本陸軍大臣東条英機に自推で「日中和平工作」の仲介役を買って出た際には、東条英機の厳しい制裁を受けて日本から追い出されてしまったのである。こうして寄る辺をなくした川島芳子は故郷北京へ帰るしかなかった。この時期の川島芳子はたいした力のない品行不良な個人に過ぎなかった。それなのに彼女は華北政務委員会の大物漢奸である王揖唐・殷汝耕・斎燮元や、汪精衛政権の要員など重量級の漢奸と同様の待遇を受けているのである。その原因は一体何だったのか、我々は国民党の軍統内部から暴露された秘密から知ることが出来た。それは軍統北平弁事処主任馬漢三が背後で操った私怨から生じていた。

我々が調査した歴史資料によれば、国民党の軍統(情報機関)内部で、川島芳子の死刑問題に関連して、二つの派による勢力闘争が存在していた。軍統北平事務所の主任馬漢三を主とする一勢力は川島芳子の処刑を主張し、彼女を殺して口封じをしようとしていた。しかし局長戴笠をトップとする軍統当局者は川島芳子を生かしておき、馬漢三の裏切りと日本への敵通を調査する証人とすることを考えていた。馬漢三と戴笠はどうして一人は殺そうとし、もう一人は生かそうとしていたのか?その主要な原因は川島芳子の北京の住宅に隠してあった、清朝乾隆帝の宝物である九龍宝剣という一振りの剣にあった。この宝剣が原因となって、川島芳子は捕縛され、さらには戴笠の生命まで奪うことになるのである。

戴笠

一九二八年の下半期、東陵は大盗掘に遭ったが、それは国民党四十一軍軍長孫殿英が軍事演習という名目で、清朝の東陵にあった乾隆帝と西太后の墓荒しをしたことによる。一九三九年八月上旬に、孫殿英は沢山の宝物を持って重慶を訪問して、彼はまず国民党の軍統局長戴笠に面会し、いつもの通りに盗掘品の宝物を上納した後、戴笠にそっと打ち明けた。彼にはこれらの宝物の他にもっと貴重な九龍宝剣があり、それを戴笠を通じて蒋介石に渡したいというのである。この九龍宝剣というのは、乾隆帝の帝墓のなかから盗まれた宝物で、剣の長さは五尺、柄はやや長くそこには九匹の金の龍が象嵌してあり、「九九帰一」と至尊の皇位を象徴していた。剣の刀身は光り輝き、錆も欠損もなく、その鋭いことは毛が触れただけで切れ、鉄を泥のように切ったという。剣の鞘は高級なサメの皮で造られており、ルビーやダイヤモンドが沢山ちりばめられており、太陽の光をあびると、キラキラ輝いて眩しいほどであった。孫殿英はかつてこれを見せびらかして言った。
「この剣を得た後、私は密かに考証させたが、それによるとこの剣は乾隆二十八年、新疆、アフガン、バダクシャン、フェルガナ、カザフ各部落の使節が北京を訪れ、高宗乾隆帝に謁見した際に献じた宝物である。当時乾隆帝は玉座に座ってこの剣を帯びると、宮殿中が光で満たされ、光で目がくらみ、宮殿の中が天上の雲の上の世界のようで、朝廷にいた文武大臣はみなこれを称えた。乾隆帝は大いに喜び、特に龍泉と二字を命名し、使節と文武大臣に紫光閣で宴を賜った。これから後、乾隆帝はこの剣を愛して身から放さず、崩御するまで常に持ち歩き、遺言によりこの剣をともに葬り、永遠に離れることがないようにした。」
戴笠はこの情報を得た後に、各地を視察する機会を利用して、山西五台山孫殿英の部署にわざわざ出向いてこの宝物を受け取りに行った。

孫殿英はこっそりと戴笠の耳にささやいた。「この剣は私が東陵から盗み出した数多くの珍宝貴宝の中でも最も貴重なもので、この剣を得てからは秘密の場所に隠し、誰にも見せませんでした。いまこの宝剣を渡しますから、雨農(戴笠の号)から蒋委員長に献じてください。」

戴笠はこの剣を得た後、手にとってまじまじと眺めてみると、宝剣はたしかにその名にまごうことなく、今まで見たことのないような珍宝で、次のように考えた。確かにこの宝剣を校長(蒋介石)に献ずれば、校長の歓心を買い、信任を得るだろう。戴笠はこの宝剣を重視したが、まだ引き続いて中原に赴き各部隊を視察しなければならず、この剣を身辺に置いておくと徒に噂を招き万一の紛失することを恐れて、戴笠が河南林県を過ぎる際に、この宝剣を特務の馬漢三に自ら手渡し、よくこの剣を保管しておき、後々に彼本人が校長蒋介石に手渡すようにと命じた。馬漢三は元々は軍統北平区張家口察綏所所長であったが、このたび戴笠により配置換えされて軍統陜壩工作組組長となり、内蒙古一帯のスパイ活動を専門に受け持つこととなった。

馬漢三は戴笠の手中よりこの九龍宝剣を受け取ると、すぐにこの類まれなる宝物に驚かされた。彼にはその価値が黄金でも計算できないことがよくわかった。この宝剣を手に入れて後、彼は終日この剣に魂を奪われたかのように、食事ものどを通らないのであった。馬漢三はもともと非常に貪欲な男で、手に入れた剣を重慶に送り手放すのが惜しくなったが、またその後に載局長に罪を問われることを恐れた。いろいろ考えた挙句、ずるがしこい彼は、宝剣の上納をしばらくせずに、状況を見守ることにした。戴笠はしばらくしても馬漢三が宝剣を重慶に持ってこないので、至急電報で問い尋ねると、馬漢三はびくびくしながら戴笠に電報で答えた。宝剣はとても貴重なもので、現在の形勢は不利であるので、安全の為に宝剣は孫殿英のところに送り保管させ、時機を見て再度計画したい等々言い訳をならべた。戴笠が再び電報で孫殿英に尋ねると、孫殿英はとっくに戴笠に宝剣を差し出したはずなのに、戴笠が今になって再び宝剣を差し出せと言うとは、どういう意味かわから疑問に思うのみであった。その他に、彼はちょうど日本軍へ投降する手続きについて話し合っている最中で、その他のことを顧みる暇なく、そのためすぐに電報に答えなかった。戴笠は孫殿英が宝剣を手放すのが惜しくなりネコババしているのではと疑ったが、再びこのことを持ち出すの機会もなかった。孫殿英は日本軍に投降したことが明らかになり、宝剣を要求することはなおさらできなくなったのである。馬漢三はこうして幸いにも隠匿した宝剣を私蔵したままやり過ごすことができたのであった。

戴笠は馬漢三が大胆にも宝剣を隠しているとはまったく思いもつかなかった。彼はただ、この宝剣がなお孫殿英の手元にあると思っており、もう一方では、彼自身もすぐにこの宝剣を蒋介石に献じる気がしなかったので、真剣にこのことを調査することもなかった。こうして戴笠が目を放しているうちに、この九龍宝剣はまたも持ち主を変えることとなった。一九四〇年代初頭に、馬漢三は商人の身分で張家口一帯で活動していたときに、日本の特務機関が運営していた大隆洋行と接触した。馬漢三の金遣いが荒く、生活が豪華であったため、大隆洋行の影の支配人である日本軍特務田中隆吉の注意を引いた。

田中が特務を派遣して調査した結果、馬漢三の本当の身分がすぐに露呈し、田中隆吉はすぐに張家口特務機関長田中新一に指示を出して馬漢三を逮捕して尋問させた。馬漢三は自分が既に残虐な日本特務田中隆吉の手中に陥ったことを聞き、状況が好ましくないことを悟って、全ての情況を供述し、さらに命を助けてもらうために九龍宝剣を差し出した。思ったとおり、田中隆吉はこの宝剣を得た後にたいそう喜んで、馬漢三をの命を助けただけでなく釈放して、影で日本軍特務機関の為に働かせた。一九四〇年春、田中隆吉は日本軍部により日本軍山西派遣軍の少将参謀長として派遣され、同年十二月に、田中隆吉は山西作戦の指揮で失敗したため、免職されて国内での職に回された。田中隆吉は自身の仲間内で好き勝手に振る舞い、評判が悪かったため、帰国後の先行きに不安を覚え、中国で一番信頼できる人間を探して、九龍宝剣を保管させようとした。いろいろ考えた挙句に彼の頭に浮かんだのは以前の恋人であった川島芳子だった。

芳子のことを思うと、田中隆吉の心は底なしの沼に落ちて抜け出せないかのようであった。彼の心の深いところでは、以前に上海で芳子と過ごした美しい日々のことがずっと忘れられなかったのである。一九三二年初頭に、川島芳子が彼の下を離れて行ったのは、田中というこの重荷を遠くに捨て去りたかったからだということを、彼は知りすぎるくらいにわかっていた。彼のように独占欲が人一倍強い人間から言えば、惚れた女から捨てられるというのはこれとない屈辱であった。それで田中は悩み苦しみかつ怒り狂い、彼の手にある権力を利用して、一九三五年には日本軍に川島芳子を始末させようとした。それにより、田中隆吉と川島芳子は愛憎半ばした感情を骨にさらに一層深く刻み込んだ。しかし時が経つにつれて、芳子と別れてこの八年間というもの、芳子と過ごしたあの刺激に満ちた忘れがたい日々を思い起こすたびに、田中はなおも捨てがたくも苦しい恋の思い出がよみがえるのであった。

田中隆吉が手中の九龍宝剣を撫でながら、最終的に決断したのは、この世にまたとない宝をいまも忘れられない芳子に贈ることであった。そこで、田中隆吉は帰国の途上に北平に立ち寄り、わざわざ北池子に住む川島芳子を探し出し、九龍宝剣を贈って彼女の許しを求めたのであった。川島芳子も高価なものには目がない人間であったので、この貴重な宝物をひと目見てそれが自分の手に入るとなると、自然と機嫌もよくなり、以前の田中隆吉への怒りも恨みも消え去ってしまっていた。この宝剣に免じて、再び田中とベッドを共に温めさえした。しかし、川島芳子も田中隆吉もまだ気づいていなかったことだが、この九龍宝剣には手にするものに不幸と流血をもたらす呪いがかかっており、後々に川島芳子はこの九龍宝剣のために命を危険にさらすことになるし、戴笠も自分の命を失うことになるのである。

馬漢三は田中隆吉から釈放されると、彼のこの裏切りと敵への投降はいまだ暴露していなかったが、馬漢三の心は病的にも宝剣のことが気に係り、彼は常にこっそりと田中隆吉の行方を注視して追っていた。
一九四一年に田中隆吉が帰国した後、馬漢三は田中のような敗戦の将の身分では、この宝剣を日本に持って帰るような危険は冒すまいと考えた。そこで、馬漢三はあちこち聞き回り、田中隆吉が帰国前にどんな人間と接触したのかを調べた。こうして、彼はついに田中隆吉が帰国前に、北平へ行って川島芳子と密会していたことを知った。そこで、馬漢三は秘密裏に手下の特務を送り、日本側の情報を盗撮するという理由で、長期にわたり川島芳子の住所の周囲に潜伏し、情況を把握しようとした。

抗日戦争勝利後に、馬漢三は軍統北平事務所の主任、平津地区粛奸委員会主任委員、北平行営軍警督察処処長に任命された。馬漢三は宝剣を早く探し出すために、北平に赴任すると最初に手をつけたのは、始まったばかりの漢奸粛清を利用して、自から川島芳子逮捕の命令を下すことであった。川島芳子は九条会館の三重の門の中の四合院に居住していたが、馬漢三の右腕である鐘慧湘が人を率いてまる半日かかって、土地を三尺掘り進めて探し、ようやく川島芳子の住所の秘密の地下室に九龍宝剣を見つけた。一九四五年末に、戴笠がちょうど日本軍の漢奸特務を捜索していた時に、内蒙古方面の反共特務を組織して、内蒙古の広大な地区に派遣して活動させた。川島芳子は長期にわたり華北地区で活動し、またかつて蒙古族のカンジュルジャップと婚姻していたため、内蒙古方面の情況に比較的詳しく、彼女の手にある人間関係を利用することができた。そのため、戴笠は北平で秘密裏に北平第一監獄にいた川島芳子を尋問した。川島芳子はこの有名な載局長が自分と差し向かいに座るのを見て、すぐにあることを思いついた。彼女は戴笠が必要としている情報を提供する外に、戴笠があっと驚く秘密を密告した。それは軍統特務の馬漢三が抗日戦争時期に裏切って日本に投降したことや、彼女の家から九龍宝剣を持ち去ったということであった。

川島芳子が宝剣のことに触れたとき、本来の意図はただ馬漢三がこの宝剣を田中隆吉に贈ったことを証明して、彼が日本に投降したことを示そうとしただけであった。しかし意外にも、戴笠は「九龍宝剣」という四文字を聞くと、すぐに神経を緊張させ、すぐに孫殿英が当時彼に送った九龍宝剣のことを思い出し、詳細に川島芳子にこの宝剣の情況を尋ねた。川島芳子がこの剣の外観、長さ、剣の柄に彫られた龍および鞘の上にちりばめられた宝石の数や形状を詳細に戴笠に説明すると、戴笠はすぐにこの剣が孫殿英が差し出したあの九龍宝剣であると断定し、数年来心にひっかかていた疑問がついに解けたのである。自分がずっと追い求めてきた九龍宝剣がいまだ馬漢三のところにあると知り、馬漢三が影で団体を裏切り、国家の異族に歯向かったことを知ると、大きな怒りが心中に巻き起こり、すぐにでもその肉を食らわなければ気がおさまらないほどであった。そこで、戴笠は心腹の秘書龔仙舫を呼んで対策を密かに話し合い、まず龔仙舫が馬漢三に話を伝えることに決定した。そのさいただ「金璧輝の家から出てきた宝剣」のことだけを尋ねて、その他のことは話さないこととした。龔仙舫が宝剣のことを話すと、馬漢三はすぐに内情が暴露されたことに気づいたが、その場では調子を合わせるふりをして、すぐに宝剣を差し出して、彼がいかに命をかけて宝剣を保護してきたかを釈明したが、このすぐにばれる嘘は当然謀略にたけた戴笠をだますことはできなかった。載局長は考えを表に出さなかったが、しばらく馬漢三を泳がしておき、しばらくたってから、手を出して彼を片付けても遅くないと考えていた。馬漢三はかねてより準備していた十箱におよぶ莫大な価値のある書画骨董、金銀財宝を宝剣と一緒に、自ら北平弓弦胡同什綿花園にある戴笠の住所に護送した。戴笠はよろこんで受け取り、馬漢三のこの忠実な行動に疑いを少しも抱くことなく、すぐにまえもって準備してあった軍統特務文強に宛てた手紙を馬漢三に手渡した。この戴笠の失策が、ついに彼を馬漢三の手により非命に至らせることとなる。馬漢三は戴笠がすぐに彼に手を下して殺そうとしないのを見て、先手を打とうと自分の秘書劉玉珠を呼び出して、二人で戴笠が文強に宛てた手紙を盗み見た。手紙には、戴笠のこの度の旅程が書かれており、まず天津に行き、その後青島に行き、上海に行く行程が書かれてあった。そこで馬漢三は先手を打って証拠を戴笠ごと隠滅することとした。そこで劉玉珠は車を駆って飛行場に急行し、二二二号戴笠の専用機を警備する特務に飛行機の中に入り安全情況を検査させるよう要求した。劉玉珠は軍統華北督導員という特殊な身分であったし、軍統内の特務はみな彼をよく知っていたので、誰も彼を疑うことはなかった。そこで劉玉珠はなんなく一人で飛行機に入り込み、馬漢三が彼に渡した鍵を使って、九龍宝剣の入った木箱を開けて、中に偽装した爆発力の高い時限爆弾を入れて、時限爆弾の時刻をセットした。

戴笠専用機は青島の滄口飛行場を離陸した後、濃霧が発生していたため、飛行時間がさほど経っていない間に、上海の龍華飛行場と連絡すると、相手方は上海方面が大雨のため、飛行機が着陸できないと述べたため、戴笠は南京に直行することに決定した。飛行機が南京地区の上空に差し掛かった際、大雨に遭遇し、さらに雲が低層に立ち込めていたため視界が悪く、飛行機は通常の飛行ルートから外れてしまった。午後十三時十三分、飛行機が南京郊外区江寧県板橋鎮上空に差しかかった時、劉玉珠が飛行機に仕掛けた時限爆弾が爆発し、飛行機はコントロールを失い、板橋鎮南の二百米ほどの高さの載山に激突した。飛行機には充分に燃料が備蓄してあったので、飛行機が墜落した後、雨の中でも火は消えず二時間あまりも燃えた後にようやく鎮火した。戴笠と同乗者十三人は全員死亡した。興味深いことに、戴笠が一生忌み嫌っていた十三という数字と、彼が水の欠乏により死ぬ運命という予言が、全て重なって的中した。三月十七日は陰暦の二月十三日、十三時、十三分、十三人が濃霧と大雨の中で載山で死んだ。戴笠の死体は困雨濠の水中から引き上げられた。さらに山麓には載廟があった。三月十九日、軍統成員の沈酔などは戴笠の遺品の捜索のため、わざわざ載山の飛行機墜落現場に踏み込み、古剣を探し出したが、この剣こそは戴笠が馬漢三の手中から奪還した九龍宝剣であった。この剣は烈火にさらされて、鞘と柄は共に毀損していたが、剣身は依然として鋭く光り、切れ味は鋭く、人々を感嘆させた。三月二十一日、国民党『中央日報』及びその他の新聞は戴笠の搭乗した二二二号専用機が青島から上海に行く途中に、南京上空で大雨に遭遇し、飛行機が江寧県で山に衝突し、戴笠および机上の人員全員が死亡したとのニュースを掲載した。

戴笠の死因は、『中央日報』のニュース報道により結論とされた。国民党全体および軍統内外な基本的にこの結果を受け入れている。こうしてこの事件の真相は隠蔽された。一時盛名を轟かせたスパイ王は、結果的に原因不明の死を遂げた。戴笠のような一代の英雄が、やすやすと馬漢三の手中に落ちたと言うことは、まさに信じがたいことであった。二年後に、戴笠が自ら書いた手紙に基づき、軍統局北総督察王蒲臣は、戴笠が生前に秘密裏に託した使命を果たすべく、馬漢三およびその一党の平津での行動を監視し、軍統局に戴笠の死が馬漢三の手によるものであるとの確実な証拠を報告した。軍統を受け継いだ毛人鳳は馬漢三らのグループを消すよう命令を下し、馬漢三と劉玉珠などを秘密裏に処刑し、内々に戴笠の死の謎を解決した。毛人鳳は川島芳子の生死に関する問題を処理する際に、戴笠が生前に残した遺言に基づいて妥当に処理するよう指令したであろう。

川島芳子の馬漢三が敵に投降したという供述と、九龍宝剣の行方をしゃべったために戴笠は生前に川島芳子のことを自己の忠実な部下である王蒲臣に任せ、川島芳子を生かしておいて馬漢三を処置する際の証人にしようとしたのではないか。馬漢三はすでに河北省高級法院に川島芳子を死刑判決を下すよう圧力をかけていたのだが、彼の勢力が失墜すると同時に、王蒲臣が馬漢三の地位にとって代わり、新たに川島芳子の死刑の問題を処理したと考えられる。当然、一九四七年十月にすでに川島芳子の死刑が宣告されており社会的影響も大きいため、判決結果を変えることはできずやむなく「替え玉」という方法によって馬漢三を除くのに功があった川島芳子を救った。我々が後に調査した結果から見て、川島芳子の保護のため北平から東北長春に護送した秀竹・于景泰・段連祥の三人は、軍統の王蒲臣など上層部の支持を受けていた可能性がある。この三人の中に軍統の成員がいた可能性があり、于景泰がおそらく軍統の特別任務を帯びていた可能性が高い。

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2016年03月30日

川島芳子は生きていた(30)川島芳子の遺骨発見

http://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

二〇〇七年十一月初め、我々研究団は証人逯興凱の「方おばあさんは夏は長春新立城に住み、冬は国清寺に行った」という証言に基づいて、川島芳子の国清寺での証拠探しに出かけ、何景方が浙江省天台県国清寺で探索を行った。探索の結果、国清寺の悠久の歴史と中国仏教会における重要な地位について認識を深めた。また国清寺が日本仏教天台宗の源流であり、日本仏教と切っても切れない関係にあることが分かった。そこから方おばあさん川島芳子が毎年冬に国清寺へ赴く理由を察することが出来た。

二〇〇八年、我々の研究はまた新たな進展を見せた。張玉の父親張連挙が次のように証言したのである。「一九八一年国清寺の一人の老僧が四平に来て方おばあさんの遺骨を持ち去った。」獅子像の中から出現した紙片から秀竹の実在が確認できたが、彼は一九四八年三月二十五日以後に川島芳子護衛の責任者でもあり、さらに秀竹の仏教法号は「広幸」であると推測された。我々はそこで、方おばあさん(川島芳子)の遺骨を持ち去った国清寺の僧侶は秀竹である可能性が高いと判断した。方おばあさん(川島芳子)の遺骨の行方を探し、《秀竹》が国清寺にいた証拠を探すため、日本のテレビ朝日撮影スタッフと共に、李剛の委託を受けた研究者の何景方と顧問王慶祥が二〇〇九年一月十六日―十九日再び国清寺を訪れた。

方おばあさんが住んでいた大家の逯興凱は方おばあさんが毎年寒くなる前に南の国清寺へ冬籠りに出かけ、いつも次の年の春に暖かくなってから新立城に戻っていたと証言した。しかし、方おばあさん(川島芳子)が毎年国清寺で半年も生活したというのは、これは女居士の身から考えて実際に可能なのかどうかというのが始終我々の心の中に一つの疑問となっていた。我々はこの点を確かめるべく、国清寺で実地調査を行った。
研究の便を図って、我々は寺院内の客室に宿を取り、数日を寒い部屋で精進料理を食べる「苦行僧」の生活を過ごした。四日の探索期間で、我々はこの寺の住職である可明方丈、徳の深い克慧、乗方、法方などの老僧を尋ね、また国清寺公安派出所の老警備員から事情を聞いた。また彼らの紹介を聞き、寺院の参観と宿での自らの体験により、我々は次のように感じた。一千四百年の歴史がある国清寺は歴代王朝の拡充と修理を経て、土地と建物をかなり多く所有するようになった。「文化大革命」の無情の歳月の間に、仏堂の仏像は重大な損失と破壊を受けたとは言え、すでに「人民公社」化した「国清寺大隊」はなおも存在していた。改革解放前に、寺院内に住んでいる僧と仏像を拝んで香を焚いている居士は今日のように多くはなかった。それゆえ、寺院を訪問する居士は男女に限らず、何らかの力が及ぶ限りでの生活手段があれば、寺院内の修行や寂寞にも耐えることができ、また食事や宿舎にも事欠くことはなかった。さらに方おばあさんは居士証を所有して合法的な身分だったのだから、たとえ「文化大革命」の時期でも、ここに住むことが出来たであろう。

このたび国清寺では我々は百を超える「参拝客」のための宿舎である「万字楼」、また賓客を招待するための「迎塔楼」と「貴賓楼」を見ることができた。また同時に数百人分の食事が用意できる二階建ての大食堂、また寺院の中の各隅に分布している小食堂と僧の宿舎があった。我々は以下のように想像した。国清寺のこの桃源郷のような世俗を離れた静かな地なら、方おばあさん(川島芳子)が後半生を過ごす場所として選択してもなんら不思議ではない。当然のことだが、長い冬季に川島芳子が南方のその他の寺院や場所に立ち寄った可能性も否定できない。

寺院内で、我々は出会う人毎に尋ねて、一九六〇年代から七〇年代にかけて、毎年冬にやってくる俗家の女弟子である「方居士」と法号を「広幸」と名乗る僧侶がいなかったかどうかを尋ねた。八十二歳になる可明方丈は両耳が遠くなっていたので、筆談で我々の質問に答えてくれた。可明方丈は十数歳の時に出家して国清寺に来て以来七十年にわたりここを離れたことがない。「文化大革命」で僧侶が散らされた時にも、可明方丈が「国清生産大隊」の労働責任者となっていた。一九九七年に彼は寺の住職(方丈)となって今に至る。しかし彼はこの女性の《方居士》についてまったく印象が残ってなかった。我々が《方居士》の写真を見せて知っているか尋ねた時も、彼は写真の人物を知らないと答えた。我々は紙の上に川島芳子と四文字を書いて、彼がその人を知っているかどうか尋ねると、可明方丈は我々に「これは日本の地名ですか、人名ですか。」と尋ねた。傍で待機しいてた延如さんが補足して「方丈は小説も読まないし、テレビや映画も見ないので川島芳子が誰かなんて知りませんよ」と述べた。

しかし我々が克慧と乗方の二人の僧侶を訪問した時、思いもかけない結果を得ることが出来た。
克慧法師は年齢八十歳、一九五七年に剃髪して出家し、一九六七年三〜九月紅衛兵により原籍の浙江象山の実家で半年を過ごした外は、国清寺で修行して五十年余りになる。我々が彼に三十数年前に女性の《方居士》という名前と《広幸》と言う僧侶を見たり聞いたりしたことはないかと尋ねると、彼はあっさりと答えていった。「私は僧侶のことは管理していないから《広幸》という僧侶の名前は知らないし聞いたこともない。しかし《方居士》というのは聞いたことがある。」我々はさらに彼に《方居士》にはどんな記憶があるかと尋ねた。彼は「これは僧侶の間の噂話でだが、《方居士》という在家の女弟子がいると聞いたことがある。しかし彼女は私の在家の弟子ではないので、会ったことはないが、名前を聞いたことはある。」

その後に我々は乗方法師を訪ねた。乗方は七十八歳で、一九六一年に国清寺へ来てから今までそこを離れたことがない。「文化大革命」中には「国清大隊」の保林防火員を担当し、国清寺にたいして発言権を持つ徳のある僧侶である。我々が再び《方居士》と《広幸》の二人について尋ねると、彼はなんの戸惑いもなく女性の《方居士》と《広幸》という僧侶の名前を聞いたことがあるが、会ったことはないと答えた。

どちらも寺院内で数十年修行してきた老僧侶であるが、《方居士》と僧侶《広幸》に対して、どうしてある人は聞いたことがあるのに、そのほかの人はまったく印象がないのだろうか。我々が居士の遺骨を保存している「五峰塔院」の老僧である法方師を訪れた時に、その答えが分かった。法方師は七十五歳で、「文化大革命」の後に国清寺で出家して、克慧法師は彼の先生に当たる。しかし、すぐに我々がその疑問を解くことが出来たのは、彼は国清寺に四十年もいるのに、同じ寺でしかも長年いる乗方法師のことをなんと知らなかったのである。もとより、寺院が比較的大きいことも一つの要素であるが、更に主要な原因は寺院内の僧侶の仕事の区別がはっきりしており、どの僧侶も自分の持ち場で余計なことに耳をはさまずに、一心に修行したり念仏しているため、老僧の間でも相互に知らないという現象が珍しくもないのである。

国清寺の克慧と乗方の二人の高僧は、どちらも《方居士》の記憶があり、また乗方法師はさらに僧侶《広幸》にも印象があった。このことは、方おばあさん(川島芳子)が一九六〇、七〇年代に、かつて国清寺の居士として常客だったことを証明している。途中で出家した僧侶《広幸》(秀竹)も国清寺にしばしば宿を取っていたのではないか。彼が四平から方おばあさん(川島芳子)の遺骨を持ち去って、国清寺の風水に優れた土地に頬むったというのは、可能性としてまったくありうることである。

我々がこのたび国清寺を訪れたのには、さらにもう一つの重要な任務があったからである。それは《方居士》(川島芳子)の遺骨の行方を探すことであった。我々が寺院内の各殿堂で細心の注意を払って調査した後に発見したのは寺院の西北角にある「地蔵殿」で、たくさんの物故した居士の位牌が置かれている。可明方丈の紹介によれば、これらの位牌の居士たちは、みな国清寺の改修の過程で力を貸したり寄付をしたり、あるいは家族や友人が寺院に供養代を供えている場合で、寺院には「仏事登記所」がありそこにすべて記載がある。しかし、我々が「仏事登記所」に来て《方居士》の位牌を探そうとしたところ、登記所を管理している僧は我々に位牌を具えているという「証書」を提出するよう求めた。しかし、我々の手元には「証書」がなかったので、調査は拒否されてしまった。しかしこの熱心な管理係の僧侶は我々に一つのヒントを与えてくれた。それは寺院の外にある霊芝峰南麓に、居士の遺骨が置いてある「五峰塔院」があり、そこを訪ねて見てはどうかということであった。

二日目の早くに寺院で精進料理を食べてから、我々は寒拾亭から潤渓を過ぎて、山沿いの小道をあるいて小さな峰に登り「五峰塔院」にたどり着いた。ちょうど、塔院の管理事務所の僧である法方師が出勤してきて、我々が可明方丈の許しを得て居士の遺骨を捜していると聞くと、彼は熱心に我々を建物の中に入れてくれた。塔院は三合院で、正殿は南向きで、三間続きである。殿門の正面の上に「同登極楽」の額がかかっている。殿内の正面には仏像が三体祭っており、中間には阿弥陀仏、左は観世音菩薩、右は大勢至菩薩である。両側には一画一画ガラス戸がついた木の棚があり、なかに遺骨箱が置かれている。法方師は、殿の左側に置かれているのはすべて女居士の遺骨箱であると述べた。我々は女居士の遺骨箱が安置されている左殿に入り、一つ一つを丹念に調査した。

突然、一つの格子の中にガラス窓を通して、毛筆で書かれた「方覚香骨灰盒」を発見して、我々は目の前が明るくなったような気がした。この漆が塗られてもおらず、花が彫られてもいない木製の遺骨箱は見ただけで数十年前の古い箱であることがわかり、またこの部屋の中でただ一つだけ死者の姓が方で、また女性でもある。覚香の二文字は仏教の法号のようでもある。我々がまた理解できたのは、川島芳子の出身は愛新覚羅皇族であり、覚香の「覚」の字はちょうど愛新覚羅の「覚」である。さらに清朝皇族が世を去るとみな香冊があるが、方覚香の「香」の字は香冊の「香」の字と符合する。また、あるいは「香」の字は「芳香」を意味するのかもしれないし、「李香蘭」の「香」の字であるのかもしれない。また「方」の字は川島芳子の「芳」と同じ音である。まさに靴も擦り切れるほどにあちこち探したものが、突然何の苦労もなく目の前に現れたかのようであった。まさかこれが我々の捜し求めていた《方居士》(川島芳子)の遺骨ではあるまいか?我々は胸の高鳴るのを抑えられなかった。

方覚香

テレビ朝日記者と相談の後、塔院の管理をしている僧侶の同意を経て、「芳覚香居士」の遺骨をDNA鑑定用に採取した。法方師の許可を得て、何景方と王慶祥はマスクとゴム手袋をつけて、棚から「方覚香」の遺骨箱を取り出し、細心の注意を払って蓋を開け、中を補填している綿を取り去り、遺骨を入れた白い布の袋を開けると、一枚の新聞紙にくるまれた遺骨が出てきた。新聞紙を注意してみるとそれは一九八八年七月十七日の『寧波日報』であった。ここから推定できたのは、遺骨は一九八八年七月十七日以後にこの塔院に送られたか、あるいはそれ以前にこの塔院に送られていたものをその頃に新たに入れ直したかである。

幾つかの遺骨を採取した後、何・王の二人は遺骨を再び新聞紙でくるみ、袋の口を閉めて、綿を箱の中に詰めて、丁寧に拝んだ後に再び遺骨箱を元の場所にもどした。法方師はずっと我々が塔院の山門を出るまで見送ってくれた。

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2016年03月29日

川島芳子は生きていた(29)川島芳子と李香蘭

http://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

方おばあさんの隠居生活における趣味の一つは、李香蘭のレコードを聞くことであった。李香蘭の歌の中でも方おばあさんが特にお気に入りだったのは『蘇州夜曲』と『蘇州の夜』である。この二つの歌は題名が良く似ているが異なる歌で、『蘇州夜曲』は作詞西條八十、作曲服部良一で映画『支那の夜』の中で李香蘭が歌ったが、レコードは渡辺はま子の歌で一九四〇年に発売されている。一方の『蘇州の夜』は同名映画の歌で、作詞西條八十、作曲仁木他喜雄、レコードは李香蘭の歌で一九四一年に発売されている。張玉が方おばあさんから教わった歌にはこの二曲が共に含まれており、『蘇州の夜』のレコードが残されていた。
蓄音機

晩ご飯の後、張玉がオンドルの上にトランプを並べると、方おばあさんはとてもご機嫌がよかった。方おばあさんは香を焚き、コーヒーを沸かして、手で蓄音機のハンドルを回し、『蘇州の夜』が部屋に悠々と流れてくるのを聞いていた。突然に方おばあさんは寝椅子から立ち上がると、しばらく経口モルヒネを口にして精神が高揚してくると、周りの木イスの傍にもたれてダンスを始め、あたかも以前に李香蘭と一緒だったひびを思い出したかのようであった。方おばあさんは李香蘭は彼女が最も好きな映画スターで、とても優しくて人の気持ちをよく理解してくれ、歌が上手で演技もすばらしく仙女のように美しい姿をしていると語っていた。李香蘭は方おばあさんが最も慕っていた女性の一人だった。李香蘭の歌は方おばあさんが最も好んだ日本の歌で、伊藤宜二作曲『乙女の祈り』や服部良一作曲『蘇州夜曲』がお気に入りの曲だった。張玉の記憶に残っているのは方おばあさんが大病が癒えたばかりのときに、張玉と祖父が彼女の傍で見守っていると、方おばあさんが眼を覚まし、「万一私が死んだら、喪服を着たり葬儀に哀歌を流さなくてもいいから、あなたたちが『蘇州夜曲』を歌ってくれればそれでいい。私の霊魂を永遠に蘇州の寒山寺に残したい」と語っていた。一九七八年初頭に方おばあさんが亡くなった時も張玉と祖父の段連祥は方おばあさんの遺言に従って、『蘇州夜曲』を歌って彼女を見送ったのであった。

方おばあさんが使用していた蓄音機はスイスで生産された初期の「銀盆式」で、性能がとても良かった。この蓄音機には電源は要らず、「ハンドル」を何度か回して、ターンテーブルの上にレコードを置くと旋回して音声を発する。当時の農村で電気がまだ十分整備されていなかった状況下では、確かに大変実用的なものであった。

方おばあさんが生前に語っていたのは『蘇州の夜』のレコードを李香蘭に届けてほしいということであった。我々が丁寧なつくりの箱を開けると、白い布にくるまれた黒いレコードがあり、レコードは多年にわたって使用されていたため、見るからに古く、真ん中の赤いラベルもすでに文字がかすんでいた。望遠鏡で拡大するとかすかに読めたのは、このレコードが松竹映画録音の『蘇州の夜』の主題歌で、西条八十作詞、仁木他喜雄作曲、李香蘭歌、レコード番号は一〇〇三三三、日本コロムビア社が一九四一年に発売したものであった。

野崎の紹介によれば映画『蘇州の夜』の内容は、李香蘭演じる中国の乙女が佐野周二が演じる日本人青年と恋に落ち、二人は互いに深く愛し合う。しかし様々な原因で二人は最後は別れ離れになるというものである。この映画の筋書きは川島芳子が経験した身の上と大変似ている。川島芳子と日本人はとても密接な関係があり、戦後小方八郎と李香蘭は日本へ帰ったが、川島芳子は中国に永遠に留まることとなった。もし方おばあさんが確かに川島芳子であったとするならば、彼女が『蘇州の夜』を好んで聞いていた原因は、きっと自身の経歴にあり、遠く離れ離れになった友人の小方八郎と李香蘭を恋い慕ってのことであろう。李香蘭と川島芳子は同じ時代の歴史舞台でともに日中の政治と戦争に巻き込まれたが最終的な運命は全く異なっていた。またレコードの裏面にある『乙女の祈り』は西条八十作詞、伊藤宜二作曲、仁木他喜雄編曲、李香蘭歌である。

『蘇州の夜』のレコードに収められた二曲の歌詞についてはさほど多くを語る必要はないだろう。総じて言えば、これらの曲の歌詞に反映された思いは当時の川島芳子の経験と重なるものがあったということである。張玉と母親の段霊雲が証言して言うには方おばあさんが一生のうちに最も重いが深かった三人の一人は李香蘭で、段連祥も臨終前に養孫の張玉に機会があれば『蘇州の夜』のレコードを李香蘭に渡すようにと遺言した。こうして、外見だけ見れば薄いレコードだが、その意味は極めて重厚なレコードを前にして、我々はこれをいつ李香蘭に渡せばいいのか、また李香蘭はどういう反応をするだろうかと考えた。

李香蘭は現在でも健在の日本人で、本名は山口淑子といい、一九二〇年中国遼寧省撫順に生まれた。十三歳の時に父親と親交のあった当時の瀋陽銀行総裁を勤めていた李際春将軍(一九三一年十一月天津暴動の際の「便衣隊」指導者)の義理の娘となり、その際に李香蘭という中国名を付けられた。瀋陽、天津、北京などでも生活し、中国の小学校と中学校を卒業している。彼女は生まれつきの美人で、そのはっきりした顔立ちから「東洋屈指の美人女優」と呼ばれた。流暢な中国語を話すことができ、またロシア人歌手に師事して美しい歌声を響かせて、「満州映画協会」の看板女優となり、満州と日本で映画スターとして売れっ子になり、日本の侵略を正当化する国策映画に出演させられた。当時の満州映画協会第二代理事長甘粕正彦は李香蘭を多方面で支援した。満州映画協会の初代理事長は川島芳子の兄である金璧東で、当然に甘粕正彦と川島芳子も大変に良く知った間柄であった。李香蘭は『万古流芳』や『百蘭の歌』などの映画に出演し、また彼女が歌った「夜来香」は大ヒットして、後にテレサ・テンのカバーで中国でもよく知られている。李香蘭は日本の敗戦後、川島芳子と同様に漢奸罪で中国の裁判にかけられたが、日本人であることを証明する戸籍謄本があったため、漢奸罪の適用を免れて無事に日本に戻ることができた。また彼女は外交官の大鷹弘と結婚し、大鷹淑子の名前で参議院議員にも選ばれ、日本の環境政務次官などを務め、日本でも異色の女性政治家と知られ、日中国交回復後の一九七八年に中国の長春映画製作所に昔の友人を訪ねている。

メディアの報道により、李香蘭は我々の川島芳子「生死の謎」研究を知った。かつて国会議員まで務め、現在八九歳の高齢に達した李香蘭(山口淑子)は「川島芳子生死の謎」に関するニュースを聞いた後、二〇〇八年十一月十八日の時事通信社のインタビューに次のように答えている。

李香蘭

「信じられない気持ちがある一方で、あり得ない話ではない」と当惑しながらも、「もし証言が本当なら、あーよかった。心が安らぐ思いがする」と語った。「妹のようにかわいがってくれた」。山口さんが芳子と初めて会ったのは十六歳の時、天津の中華料理店「東興楼」でだった。芳子は「君も『よしこ』か。ぼくも小さいときに『よこちゃん』と呼ばれたから、君のことを『よこちゃん』と呼ぶよ」と最初から打ち解けた。山口さんは十三歳年上で、りりしい男装姿の芳子を「お兄ちゃん」と呼んだ。
「方おばさん」として処刑から三十年生き延びたとされる芳子が形見として残したものの中に、李香蘭が映画「蘇州の夜」の主題歌を歌ったレコードがあった話を知ると、「そう言えば、お兄ちゃんと最後に博多で会ったときに、李香蘭のレコードを擦り切れるまで聞いているよ、と言ってくれたのを思い出した」。
「生存情報とともにレコードが残されていたということも縁を感じる」と感慨深げだった。 清朝の王女ながら日本人の養女となり、日本籍を取得していなかったため、中国人として死刑判決を受けた芳子。中国で生まれ育ち、中国名で活躍した山口さんも終戦後、中国で「売国奴」として裁判にかけられたが、国籍が日本だったため帰国を果たした。 「国籍という紙切れで、私とお兄ちゃんは運命が変わった」と山口さん。「七八年まで生きていたのなら会いたかった。でも、隠れて暮らしていたんでしょうから、会えなかったでしょうね。切ない思いもする」と声を詰まらせた。

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2016年03月28日

川島芳子は生きていた(28)獅子像の中の暗号文

http://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

二〇〇八年十一月十六日午前、李剛の事務所。『新文化報』記者の劉マが段霊雲と張玉母子に対してインタビューを行っていた。李剛・何景方と研究顧問王慶祥など多数の人がインタビューを見守った。方おばあさんが川島芳子であることを証明するため、記者の劉マが再び方おばあさん(川島芳子)の遺品である獅子像の底の封印を解いて、中に何が入っているのか見るよう要請した。なぜなら、二〇〇四年末に段連祥が臨終の前に養孫の張玉に、もし可能ならこの獅子像に入っている手紙を小方八郎に渡して、方おばあさん(川島芳子)の遺言を実現して欲しいと言い残したからである。

それならば、獅子の「腹中」には一体何が隠されているのか。少し開いた隙間から見えるのは古い新聞紙の補充物であるが、他にも秘密が隠されたのだろうか。これ以前にも、多くの人が獅子像の底を開けるよう説得したが、張玉は始終同意しなかった。理由は彼女はまだ祖父の遺言を果たして、獅子像を小方八郎に手渡してないからというものであった。二〇〇八年三月十八日張玉はかつて日本の小方八郎に手紙を送ったが、宛先不明で送り返されていた。野崎が現れてから調査してもらうと、小方八郎はすでに二〇〇〇年に逝去しているとのことであった。このような情況であったので、張玉は研究責任者の李剛に決断をゆだねた。李剛は助手の何景方の同意を取り、さらに王慶祥先生の支持を得た後、この秘密の「封印」を解く決定を下した。

そこで、二〇〇八年十一月十六日午前一一:三〇分、李剛の事務室で関連する人々が期待しながら見守る中、李剛が小刀と錐を持ってきて、机の上に新聞紙を敷いて、獅子の底を慎重に剥し始めた。その漆による封は大変丈夫で、少しづつ少しづつしか剥げなかったが、五分余りほじくったところで、ようやく獅子の底の漆の封印が全部はがすことができ、底に直径数センチの穴が現れた。李剛はまず中から二つの丸められた古新聞を引っ張り出した。それを広げてみると、二〇〇二年五月十七日の天津市『毎日新報』であった。続けて中から取り出したのは暗褐色の燃えカスの結晶体で、我々は少量保存された川島芳子の遺灰ではないかと疑った。その他に一掴みの茶色の毛糸が出てきたが、川島芳子の遺品ではないかと感じられた。
李剛

最後の瞬間が訪れた。第三番目の丸まった新聞を引っ張り出すと、それと共に小さな巻紙が獅子の「腹中」から落ちてきた。それを開いてみると、長さ十二センチ、幅七・五センチの紙の上に、毛筆で篆字十六文字とそのほか落款と十文字が書かれていた。文字は規範通りではなく、また現場にいた人たちはあまり篆字に詳しくなかったので、個別の字を識別することができなかった。そこで李剛はすぐに古代文字の専門家を呼んで、現場で解読してもらったが、やはり全部は解読できなかった。
李剛

紙の上に書いてある文字ではっきり識別できたのは、「芳魂」「帰来」「今奇才」「秀竹敬具小方閣下」という文字と、ヒョウタン型の図章の中に書かれた「広幸」という文字だけが解読できた。そこから我々はただちに次の推測を立てた。
1、「芳魂」は川島芳子がすでに死んだことを意味する。
2、「秀竹」とは即ち川島芳子を北平から長春に護送した責任者で、その他にこの文章が秀竹が書いたものを証明するために「広幸」という秀竹の筆名を用いている。この紙の上に書かれた「広幸」の二字は方おばあさんの描いた「日本風情女子浴嬉図」に書かれた落款にある図章と「広幸」と同一人物の筆名であり、それはすなわち秀竹を意味する。小方閣下とは即ち日本人小方八郎であり、川島芳子のかつての秘書であり理解者であった。

二日目、吉林『新文化報』がこのニュースと図を報道すると、長春市と吉林省の関心を持った人々から沢山の反響があった。自分が暗号を解読したという人が続々と新聞社に電話をかけてきたので、幾つかの異なる暗号文への解釈が出現した。

吉林省旅行局の王さんによれば、この十六文字は、「芳魂西天、尚未帰来、含悲九泉、遺今奇才」と読む。第五番目の字は尚であるが、書いた人が草書体を用い、逆さに書いている。さらに王先生が言うには、前の八文字は「芳魂西天、尚未帰来」はおそらく「川島芳子の魂はまだ天国に行っていない」という意味で、「含悲九泉」は川島芳子の身代わりとなった人を暗示し、「遺今奇才」は川島芳子が生き残ったことを意味する。

吉林大学古籍研究所馮勝君教授の説によれば、この十六文字は「芳魂西去、至未帰来、含悲九泉、古今奇才」と読む。馮教授が言うには、これらの篆文には書方の不明な点がある。「私は第四番目の文字が去と読めるかどうか確定できない以外は、その他十五文字はこれで確定できたと思う」と述べた。馮教授がさらに説明するに「第四番目の字は篆文の角度から見れば、《天》の字に見えなくもないが、前後の文書から見て、私は《去》の文字だと思う」「字面からすると、この人物が死んだという意味を伝えるものだ」と述べた。

我々は景泰藍の獅子像を再び面前で調査し、獅子像の底を開けて中の新聞紙と、そのなかの紙片を取り出し、獅子像の頭部近くにあった茶色の燃焼物の顆粒と小豆色の毛糸を科学鑑定することにした。
調査の結果、新聞紙は二〇〇二年五月十八日天津市『毎日新報』であることが分かった。さらにここに三つの科学鑑定を要する問題が提出された。
暗紅色の燃焼物の顆粒は川島芳子の遺灰か?
小豆色の毛糸は川島芳子の遺品か?
景泰藍獅子像は二〇〇二年五月十七日以後に封印されたのか?
 
これらを鑑定するため、我々は二〇〇八年十一月に中国科学院長春応用科学研究所へ赴き、高級エンジニア葛遼海が熱心に我々の要望に応じてくれた。葛遼海は軍隊から転勤後に応用科学研究所に来て、そこですでに二十数年勤め豊富な実験経験を持ち、犯罪現場の遺物や痕跡の検査などを通じて公安機関に協力して幾多の犯罪事件の解決に貢献し、事件を扱った部署から賞賛され、その鑑定意見が正確かつ権威のあるものと見られている。

葛遼海高級エンジニアは獅子像の中の結晶体の「燃焼物顆粒」と「毛糸」を観察した後、微量部分を採取して検査を進め、その場で真剣な検査を行った。その後に検査結果として、獅子像は普通のガラスではなく、その含む成分から景泰藍製品に間違いない。また獅子像の中の燃焼物の顆粒は有機物質ではなく無機物質であり、炉のコークスであり遺灰ではない。毛糸は化学繊維である。

その後、葛遼海高級エンジニアは証印の押された鑑定書を我々に発行してくれた。その鑑定書は我々が待ち望んでいたもので、とても興奮させるものだった。まず、獅子像は確かに「景泰藍」で、それ自身が「貴重」なもので送り主の感情が大変深いことを表している。その次に、遺灰と思われていたコークスの顆粒は遺灰ではなくて炉の灰であった。加えて補填物の中の新聞は天津市二〇〇二年五月十七日の『毎日新報』であったが、このことから推定できるのは方おばあさん(川島芳子)は一九七八年に死亡し、一九八一年に浙江天台県国清寺の僧が吉林省四平市から遺灰を持ち去ったので、二〇〇二年に再び天台県国清寺から少量の遺灰を取り出して景泰藍の獅子像の中に入れたとは考えにくい。その次に、毛糸は化学繊維であることが分かったけれども、量がとても少なく、それを特別に入れたとは考えにくく、おそらく偶然に入り込んだ可能性が高い。

最後に、コークスは補填物として入れられたのか、あるいは何か意味があって入れられたのかということについて、我々が獅子像を開けた過程から推理するに、当該のコークス様の顆粒が先に中に入れられ、獅子像の頭部に位置していた。その後に新聞紙を丸めて(その間に紙片を挟み)空洞を充填してから、さらに黄泥を底の部分に塗り、それをあぶって乾かした後にさらに漆で封をしていた。すなわち、コークスは黄泥の付着物や偶然入り込んだものではなく、一種の象徴的な意味を表すために故意に紙片と共に入れられたのであり、小方八郎に対して川島芳子がすでに死んで炉の中の灰と化したと伝えたかったのであろう。

我々はさらに検証を重ねるため、景泰藍獅子像の中のコークス状の顆粒を、日本の新聞では遺灰ではないかと報道していたが、二〇〇九年一月十八日に日本の鑑定専門家林葉康彦博士が長春に来て鑑定した結果、コークス状燃焼物と確認し、我々の鑑定結果と同じ結論を下したことを付け加えておこう。

方おばあさん(川島芳子)の遺品――景泰藍獅子像の底を開けると、確かに予見していた通りに、獅子像の「腹中」には文字が書かれた紙片が隠されており、これが六十年にわたる川島芳子「生死の謎」論争についに決着をつけ、真相を明らかにする決定的証拠となった。この小さな文字の書かれた紙片は、我々が川島芳子「生死の謎」を解く自信をさらに深めさせた。

川島芳子は「替え玉」によって死刑を逃れ、秀竹(老七)および于景泰の護送により、北平から煙台を経て船に乗り大連に向かい、そこから瀋陽で段連祥と合流して、三人で一緒に川島芳子を長春新立城に護送した。秀竹は川島芳子を新立城の斎家村に匿い、于景泰と段連祥の二人に委託して川島芳子の身近で護衛させ、彼自身は南方(江蘇・浙江一帯)に戻り、不定期で夏になると北方へ川島芳子を訪ねて来ていた。

一九六〇年代中期、「文化大革命」が始まると于景泰は獄舎で死亡し、秀竹も最後に川島芳子と別れを告げてからは、おそらく浙江国清寺へ行き剃髪して僧となり、それ以来東北には来なくなった。「文化大革命」の十年間に、川島芳子は夏は新立城に住み、冬は国清寺へ行き、毎年このようにしていたのは、秀竹(おそらく背後にさらに高位の僧侶の支持があった)が国清寺にいたので、川島芳子は苦とせずに喜んで赴いた。

一九七九年初頭、川島芳子は四平で病気によって死去し、三年後の一九八一年にすでに僧となっていたらしい秀竹が四平に来て、川島芳子の遺灰を持ち去った。二〇〇二年春に、すでに死期を迎えようとしていた秀竹は川島芳子の死を川島芳子の日本にいる友人である小方八郎に伝えようと、ずっと前に書いておいた小さな紙片を持ち出し、国清寺から四平に来た。途中で天津に立ち寄った際に『毎日新報』を一部購入した。秀竹がこの紙片とコークス状燃焼物を段連祥に渡した後、段連祥はこの文字の書いた紙片とコークス状燃焼物を景泰藍の獅子像の中に入れて、さらに秀竹が残した『毎日新報』を補填物として詰めて、その後に漆で封印をした。段連祥は臨終前に再び獅子像をメッセージとして養孫の張玉に渡し、彼女にもし機会があればメッセージとしてこの獅子像を方おばあさん(川島芳子)の以前の親友である日本人小方八郎に渡して欲しいと遺言した。

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2016年03月27日

川島芳子は生きていた(27)川島芳子と小方八郎

http://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

段連祥が臨終の前に、「獅子像」を指して養孫の張玉に次のように語った。「方おばあさんは元秘書の小方八郎をとても気にかけていた。将来機会があれば、この物を小方八郎に渡して、《形見の品物》として欲しい。」ここからすると、小さなこの七宝焼きの獅子像は相当重要なものであるらしかった。この小さな七宝焼きの獅子像は、それから数年後に、日中の専門学者から新たな解釈を与えられ、さらに底の封印を解いた時に人々を驚かせる発見があったのである。

方おばあさんの遺品の中で、手紙として渡すように遺言された七宝焼きの獅子像があった。詳しく我々の前に置かれた獅子像の大きさを観察すると、獅子像の高さは十センチ、長さは九・五センチ、幅は六・三センチである。獅子は細い銅線を組み合わせ、外側を景泰藍の外面で包まれており、その外表面の厚さは約二ミリで、中は空洞になっている。獅子の底の部分はすでに泥とニワカを固めたもので封じられており、中に何が入っているかは当初分からなかった。
獅子像

この獅子像は情報によれば明朝時代に制作されたもので、獅子の体はステンドグラスのような透明な結晶体に鮮やかな色彩を帯び、遠くから見ると深緑色に見えるが、近くから見ると緑、青、赤、紫、黒、黄色など多種の色が斑点模様にちりばめられている。顔は黒い眼玉に、緑の眼底、黒の眉毛に黄色の髭と丁寧に色分けされている。二つの赤い花が耳の辺りを覆っているのが目を引く。獅子の体全体に赤い花や緑の葉が象嵌されており、質感の美をあらわすと共に、光に当てるとまばゆいばかりの光を放つ。正面からみると、この獅子像は怖い凶暴な動物ではなく、ユーモラスなかわいらしい表情をしている。

この芸術的工芸の技術を見ると、この七宝焼きの獅子像は透き通るような輝きと、精巧な細工が見事で、また生き生きと表現されており、全く珍しい歴史的文物である。この獅子像は室内に置けば魔除けにもなり財と福を招くとされている。一見して、普通に手に入るおもちゃや土産物の類ではない。

川島芳子と小方八郎との関係について話すには、七・七盧溝橋事件から話さねばなるまい。一九三七年七月早朝に、ちょうど日本で外傷性の脊椎炎を治療していた川島芳子は、ラジオで日本軍が七月六日に宛平城外で発砲し、一人の日本兵が失踪したことを理由に盧溝橋に砲弾で攻撃をしたとのニュースを聞き、敏感に日中全面戦争が始まったことを意識した。彼女は傷がまだ癒えないうちに川島浪速夫婦に別れを告げて帰国の途についた。川島芳子が長崎に立ち寄った際に、彼女を特に慕う日本の青年小方八郎に出会った。ちょうど、川島芳子は適当な秘書が欲しかったので、しばらく様子を見てから真面目で誠実なこの青年が気に入り、彼を連れて中国に戻ったのである。

小方八郎

天津の東興楼の食堂時代から北平の東四牌楼の九条公館時代まで、八年の長きにわたって小方八郎は芳子の秘書となり、公館の財務を管理したり芳子の世話をするために生活と起居を共にした。その忠実で誠実な性格により、彼は深く芳子から信頼をされていた。一九四五年八月十五日に日本の敗戦によって、九条公館の川島芳子の周りの人々にも去るものがいたが、小方八郎は変わらず主人の芳子に付き添って守っていた。一九四五年十月十一日夜、国民政府北平当局「漢奸粛清」組長馬漢三が行動開始して第一の目標としたのが川島芳子を逮捕することであった。川島芳子の逮捕の際に芳子をかばおうとした小方八郎も一緒に身柄を拘束された。

その日は憲兵が川島芳子の寝室に突然入り込んできて、有無を言わせずに彼女に手錠を掛け、また黒い布で彼女の頭を覆うと、小方八郎は平素のおとなしい秘書の態度とは一転して激怒して憲兵たちに抗議した。「あなたたちの任務執行を妨げるわけではないが、このようなやり方は無礼すぎるではないか。何も言わずに女性の寝室に入ってきて、病気で寝ている婦人に手枷をつけて、服を着替える暇も与えずに連行するとは何事か!」
小方八郎は憲兵たちの威嚇をものともせずに、従容と芳子の衣服を探してきて、彼女を着替えさせようとした。おそらく小方八郎の態度に圧倒されたのか、憲兵たちも一歩引いて小方八郎が主人のために行う最後の奉公を見つめていた。さらに連行される車の中で、小方八郎は川島芳子の隣で彼女の慰めてこう言った。
「何処に行こうとも、私がきっとあなたを保護します。しっかりしてください、大丈夫です。」
拘留されている時にも、小方八郎は川島芳子を極力弁護して、「金璧輝は女性で、中国生まれながらも、日本で育ちました。さらに今は病気の身です。どうぞ、彼女にご配慮を・・・。」と述べた。
一九四七年二月八日、北平地方法院は小方八郎の尋問を行い、裁判官は被告の申し出を受けて、川島芳子が出廷して証言することを許した。二人は別れて一年余り経っていたが、主従は法廷でまた見えることが出来たのである。小方八郎のすっかりしょげて元気のない様子を見ると、川島芳子は小方八郎を励まして、さらに何のためらいもなく全力で小方八郎を弁護しようとした。法廷で、川島芳子は小方八郎のために証言をしたが、実際に彼女は内心から小方八郎を守るために大声で釈放を求めた。川島芳子はこう証言したのである。「小方八郎の行動はすべて、彼が自発的にしたものではなく、すべて僕の命令に従ったに過ぎない。もし罪ありとするならば、罪があるのは僕であって、彼は何の関係もない。もし私の罪を問うというならば、彼は即刻釈放されるべきだ。」

小方八郎は何度も法廷で発言しようとしたが、そのつど川島芳子に遮られるのであった。彼女は小方八郎に何の罪をもかぶせようとはしなかったのである。間もなくして、小方八郎は保釈されて日本に帰国した。川島芳子は一九四七年七月に小方八郎が日本の長崎から寄せた手紙を見て、始めて小方八郎が釈放されたことを知った。そしてすぐに小方八郎に返信を書いている。川島芳子が一九四七年七月に小方八郎の日本からあてた手紙を受け取ってから、一九四八年三月二十五日に「死刑執行」されるまでの八ヶ月の期間中、彼女は頻繁に日本の知り合いに連絡を取り、釈放されるための手段を積極的に指示していたが、それらはすべて小方八郎との手紙の遣り取りによって進められた。小方八郎は自分のかつての主人を救うために、出来ることは何でもやり川島芳子に対する忠誠のほどは誰にも真似できないほどであった。それで死刑を免れた後の川島芳子は三十年後にも、なお彼女のかつての秘書を忘れられず、七宝焼きの獅子像を形見として残して小方八郎に渡すように託したのである。ここからも主従二人の感情の深さがうかがえるだろう。

一九四八年四月、小方八郎は日本で川島芳子が「死刑執行」されたというニュースを聞いたが、一九四八年四月二十日に川島浪速にあてた手紙の中で、芳子に対する切実な思いを語り、芳子が「死刑」とされたことを悲しみ、川島芳子が中国でなしたことについて弁解をしている。さらに、もし当局の許しが得られれば、川島芳子の遺体を粛親王王府の墓地あるいは川島浪速の傍に葬って欲しいと書いている。このことは彼の芳子への思いをよく表しているといえるだろう。

川島芳子と小方八郎の主従の感情と友情がこのように厚かったのであれば、どうして七宝焼きの獅子像を送る必要があったのか。獅子は中国でとても尊崇されており、多くの企業の門前には日本の狛犬と同じように獅子像が据えられており、魔除けとされている。さらに家の中に小さな獅子像を置くのもやはり同じ魔除けの意味である。一九四八年三月二十五日以後に川島芳子と小方八郎は別れ離れとなり、お互い合うことも連絡を取ることもできなくなった。であるから形見として送るべきものは決して適当に選ばれたわけがない。ならばどうして「虎」や「象」や「豹」やその他の物ではいけなかったのか?方おばあさんがそうしたものを選ばずに、なぜか獅子を送って小方八郎に渡させようとしたのも、やはり魔除けと財と福を招くためであったのであろうか。

野崎はこの点を推理した後に述べた意見は我々が参考に値するものである。野崎によれば、獅子の日本語の発音は、「子子」あるいは「死し」に非常に近い。それゆえ、この獅子像を小方八郎に渡す者すなわち張玉が川島芳子の養孫であるということを伝えるとともに、芳子はすでに「死し」て灰になったということを伝えようとしたのではないかと推理した。小方八郎は生前に川島芳子の「処刑」後の写真を見て、髪が長いことを不審に思い、あれはきっと替え玉で川島芳子はどこかで生きていると信じ、彼女からの便りを待ち続けたという。張玉の回想によれば、方おばあさんと山に登ったときに、方おばあさんは山の上で「オーガーター」と大きな声で叫んでいたという。これらのことは、方おばあさんが川島芳子であり、川島芳子と小方八郎の主従がそれぞれ別れ離れになっても三十年の長きにわたって互いを思い続けていたことを証明している。

著名な骨董品の鑑定家郭相武先生は吉林省所蔵家協会の創始者で、吉林省民俗学会の名誉理事長でもあり長年にわたり各種の民間の骨董品数十万点を鑑定し、清朝の歴史にも大変詳しい。彼が七宝焼の獅子像の「真相」について異議を提出した。景泰藍はまた「焼青」と呼ばれ、ガラス質の釉薬を銀(銅)の土台の上に焼き付けて製作するエナメル質の美術工芸品である。明の代宗皇帝景泰年間に流行し始めたので、景泰藍と呼ばれる。
銅(銀)の土台の上に銅(銀)線を嵌めこみ、斑状にしてから、窪みにガラス粉を埋め込み、釜に入れて焼き、さらに表面を磨いて作成する。ガラス粉はほとんどが緑色か青色で、花瓶や碗や皿やコップなどを製作する。清朝から民国に至るまで、土台には銅銀以外に、磁器、陶器、紫砂などが使われた。しかし、これらは本当の意味での景泰藍ではない。

獅子は一目見て日本風であり、土台は瑠璃ガラスで、そのなかにある金属質の線があるが景泰藍の工芸とは異なる。景泰藍の場合は、銀や銅の器の表面に金・銀・銅などをまず嵌めこんで、磨いた後で色をつけて焼く工程により製作される。だから、この獅子像は伝統的日本の工芸品あるいは置物である。おそらく日本が中国に進出し、開拓団がわたってきた時に中国にもたらされたものであろう。吉林省は日本の侵略の中心地区であったので、戦後も様々な物品が残されている。郭相武先生の獅子像が日本の物であるという鑑定は、我々を興奮させた。ここから、さらに方おばあさん(川島芳子)の日本への思いと小方八郎との関係がさらに証明できる。検証によってさらに「真相」に近づき、結論はさらに合理的になった。

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2016年03月26日

川島芳子は生きていた(26)愛新覚羅・徳崇の証言

http://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

吉林省社会科学院研究員で国内で著名な溥儀研究家王慶祥先生は、我々の「川島芳子生死の謎」をテーマとした調査と研究に大きな支持と支援を表明し、調査団団長の李剛の招待を受けて、「川島芳子生死の謎」課題研究顧問となった。

ちょうど二年に一度開催される第二回溥儀研究国際学術討論会が、二〇〇八年六月二十八日に天津で開催された。王慶祥先生は長春溥儀研究会の副会長として、積極的に天津会議準備委員会に「川島芳子生死の謎」の研究課題を推薦した。我々は、愛新覚羅皇族の成員で歴史上かつてラスト・エンペラスの婉容を天津から東北に連れ出した川島芳子の天津での活動、およびその「生死の謎」の最新調査成果を論文の形式で天津会議に発表し、「調査の手がかりを探す宣伝」とする目的を達しようとした。

「天津会議」では、調査員の何景方が会議に参加できなかった調査団長の李剛に代わって、『川島芳子の天津での活動及び「生死の謎」の最新調査』と題する論文発表をした。川島芳子に関する「生死の謎」の爆弾発言が披露されると、すぐに天津会議で反響を呼び起こした。会議の休憩と参観活動の期間に、少なからず会議参加者が調査員何景方に川島芳子が死刑を逃れた証拠とその後三十年にわたる生活の軌跡について質問し、あるものはさらに詳しく調査員何景方が持ってきた天津会議の証拠写真や資料を閲覧した。
天津会議

天津会議の期間、王慶祥先生の紹介により、調査員何景方は会議に参加していた二人の愛新覚羅家の成員と知り合った。一人は遼寧省満州族経済文化発展協会常務副会長の愛新覚羅・徳崇(溥旻)先生。もう一人は中国承徳避暑山荘保護協会理事で、中国で著名な書道家である愛新覚羅・兆基先生である。会議が用意した天津「静園」参観に向かうバスの中で、何景方と徳崇先生は隣に座り、二人がお喋りしていると自然と川島芳子生存説の話題になり、徳崇先生は何気なくこう述べた。「川島芳子(金璧輝)のことは、うちの家族のものは昔から知っていた。」徳崇先生が無意識に発した言葉が、すぐに何景方の琴線に触れた。しかし、何景方がさらに徳崇先生に「家族の人が川島芳子(金璧輝)について知ったのは何時頃のことですか?」と尋ねると、徳崇先生はただ笑うだけで答えなかった。この時バスは「静園」の門前に到着し、何景方と徳崇先生の談笑もそれで終わった。天津会議の日程はとても忙しく、何景方と徳崇先生はその後このことを話す機会はなかった。
溥儀研究会

天津会議の後、調査員何景方はずっと徳崇先生の何気ない「一言」が気にかかっていた。二〇〇八年九月初め、我々調査団が『川島芳子生死の謎新証』の原稿を討論していた際、王慶祥先生と当事者張玉もその場にいたが、何景方は天津会議期間に徳崇先生に接触した際に、徳崇先生がふと漏らしたあの「一言」を皆に聞かせた。彼が思うに、徳崇先生は早くから川島芳子が一九四八年に死刑を逃れた事を知っていたようだと語った。王慶祥先生は始めてこのことを何景方から聞き、やはりそこには何か裏があるに違いないとにらんだ。張玉の反応はさらに敏感で、彼女はその場で王慶祥先生に徳崇先生へ電話を掛けさせ、さらに徳崇先生の「川島芳子生死の謎」調査結果への見解を聞いてみるよう促した。最後に調査団長の李剛が徳崇先生の言葉は我々の調査にとても重要なので、王慶祥先生に徳崇先生に連絡を取って詳細を尋ねるよう要請した。

二〇〇八年九月十六日、王慶祥先生は徳崇先生に電話をかけ、まず長春の『川島芳子生死の謎新証』という前清朝皇族と密接な関係のある書籍が出版予定であることを告げて、徳崇先生に支持と貴重な意見を提供してくれるよう頼んだ。徳崇先生は王慶祥先生と電話で話す過程で、ついにその口から「一九五五年―一九五六年の冬に、彼が瀋陽の家にいた際、その目で川島芳子を目撃した」と我々を震撼させる史実が出てきた。

王慶祥先生は我々にこの知らせを継げたあと、我々はまるで「新大陸」を発見したかのような興奮を味わった。王慶祥先生はさらに我々に言うには、徳崇先生は自ら長春に来て『川島芳子生死の謎新証』のために題字を書き、そのついでに川島芳子(金璧輝)の養孫の張玉に会いたいと述べていると伝えた。李剛はすぐに王慶祥先生に徳崇先生へ次のように伝えてもらった。「彼の大きな支持に感謝するが、わざわざ遠い長春までご足労願うのは申し訳ないので、我々が瀋陽を訪問したい。」こうして約束を交わして、二〇〇八年九月二十五日我々調査団一行六人は、瀋陽の徳崇先生のもとを訪れた。

徳崇

徳崇先生は彼の事務室で熱心に我々を接待し、我々に対し事実を追及し歴史の真実を明らかにする態度で、愛新覚羅家の成員の一人である川島芳子(金璧輝)の六十年にわたって懸案となっている「生死の謎」を新たに緻密に調査し、新たな成果を発表することに支持を表明した。そしてその場で我々に王慶祥先生が九月十六日に電話で話した内容の録音を公開した。「あれは私が北京から瀋陽の家に来たばかりの頃でした。当時、我家は瀋陽市の皇姑屯三義桟胡同の門がある大きな邸宅にありました。一九五五年―一九五六年の冬に、確かに綿入れを着て、ショールを被った女性が我家に来て、家の人は彼女を『壁輝』と呼びました。」「当時は私はまだ子供で、私の家には決まりがあり、客が来ると子供は客人の居る部屋から出て行かなければなりませんでした。私は大人たちが満州語と日本語を交えて話していたのを憶えています。何を話していたのかまでは、聞いていません。私は当時十七歳だった姉の溥賢(私より七歳上の異母兄弟)なら知っていたでしょう。彼女は接客をしていて、ずっと部屋でお茶を入れたり、煙草に火をつけたりしていましたから。その後に姉は私にこう言いました。あの日家に来た璧輝は学問があり、忍耐力があり、文武に優れ、多才多芸で、代わりに死んでくれる人までいると」

愛新覚羅・溥賢は徳崇より七歳年上だったので、家の中のことや愛新覚羅家の事は良く知っていた。彼女はよく暇な時に徳崇に家のことや家族のことを話して聞かせた。「母親の家はどうだこうだ、父親の副官たちの現状はどうだ、家族の中の誰それが抗聯で、誰それが八路軍幹部で、誰それが義勇軍英雄だとかいう話です。また国民党中央軍の兄について、外蒙古で死んだ兄について、香港に逃げた姉についても話してくれました。それから家族の財産は誰それの手に渡ったとか、こういうことを彼女は良く覚えていました。それから溥賢は父親の愛新覚羅・載驌の最も信頼できる家の管理者でした。彼女は思想が進歩的だっただけでなく、何事も果たすことが出来ました。ただ惜しいことに彼女は文化大革命の嵐の中で死んでしまいました。もし溥賢姉がまだ健在なら、川島芳子(金璧輝)が一九五五年〜一九五六年の冬に我が家を訪れたことを、さらに詳しく語ることが出来たでしょう。」徳崇先生の提供した証言に対し、当時現場で聞いて証人となったのは王慶祥先生とその夫人張素娥、本書の作者である李剛、何景方、当事者張玉と孫仁傑である。『川島芳子生死の謎新証』の書の出版に対し、徳崇先生はすぐに筆をとり本書の為に満州語と中国語を対照した書道作品を揮毫してくれた。

徳崇先生は「愛新覚羅」という特殊な家系身分を有し、このために一九五〇年代中期にその目で川島芳子を目撃した唯一の証人となった。我々はすでに得た多くの物証と文献証拠に加えて、さらに目撃証人の証言まで得ることが出来たのである。川島芳子が死刑を逃れて東北に潜伏していたという歴史的事実を証明するため、我々の『川島芳子生死の謎新証』のための証拠をさらに充実させることができた。

二〇〇七年夏に、我々は段霊雲に対し方おばあさんの印象と見方を聞いた際に、段霊雲はかつて書面の形式で我々に次のように証言していた。一九五五年春節の後に、彼女は敗血症を患い、長春鉄路中心医院では治せないとのことで、遼寧の湯岡子養院に一ヶ月ほど入院し、さらに大連の海浜療養院、天津の外国人医師がいる病院、最後にさらに北京協和医院に行って治すことができた。彼女の記憶では、方おばあさん(川島芳子)はかつて天津の医院に彼女を見舞いに来て、彼女の治療のために多額のお金をくれた。

二〇〇八年九月二十五日、我々が瀋陽から長春に戻ると、張玉が徳崇先生がかつて一九五五〜一九五六年の冬に、瀋陽で方おばあさん(川島芳子)を見たことを母親の段霊雲に告げた。段霊雲はその知らせを聞いた後、「映画を見るように」一九五五年の冬の病気を患っていた時のことを思い出した。そのとき方おばあさんは養女の段霊雲が病気になったことを聞くと、遠くの国清寺から長春にすばやく戻って来た。長春鉄路中心医院で彼女は《小雲子》(段霊雲の幼名)の病状を見ると、《小雲子》を遼寧の「湯岡子」の温泉で治療させるように主張した。段連祥はいつも方おばあさんの言葉にすぐに従っていたが、そのときも例外ではなく、二人は段霊雲に付き添ってまず瀋陽鉄路総医院に連れて行き、それから湯岡子療養院に一ヶ月以上入院して、その後また大連の海浜療養院に行った。道理から言えば、段霊雲の病気は四平でも長春でも治せなかったのだから、すぐに医療条件のもっと良い大病院で治療させるべきなのに、段連祥と方おばあさんはなぜか娘を湯岡子療養院に連れて行ったのである。このことは次のことで説明できるのではないか。満州国時代に静かで世俗を離れた湯岡子温泉を川島芳子は良く知っており、彼女の主観的考えでは、湯岡子の温泉につかれば《小雲子》の血液病が良くなると思ったのであろう。一ヶ月近く温泉で療養しても《小雲子》の敗血症は好転する兆しがないので、ようやく天津の病院と北京協和医院に連れて行ったのである。段霊雲が今まではっきり記憶しているのは、あの冬の日に、方おばあさんは綿入れを来て、黄色のショールを被って、さらに方おばあさんの綿入れの帽子のふちには狐の毛皮が付いていたことである。

段霊雲と徳崇先生は一方は瀋陽に住み、一方は四平に住んでいて、それぞれ別々に暮らし、これまで面識もなく、話したことすらないのに、彼等の半世紀前の歴史のそれぞれの記憶が驚くべき類似を見せたのである。方おばあさん(川島芳子)の瀋陽での出現は時間においても着ていた服装にしても、二人の説明は完全に符合している。これに我々は驚きを禁じえなかった。全く我々の予想を超えて、徳崇先生と段霊雲の証言が期せずして一致したのである。

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2016年03月25日

川島芳子は生きていた(25)川島芳子の立ち往生

http://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

方おばあさんと生活していた期間に、張玉は方おばあさんがいくらか奇妙だと感じることがあった。彼女は嬉しい時には躍り上がってはしゃぎまわり、気に入らないことがあると泣き叫んだ。よく一人で座っている時には長い間ボーッとして、長時間にわたり口をきかないこともあった。張玉はまた時折方おばあさんが夜に泣いているのを見たが、こうして心の中の煩悶と悲しみを吐露していたのである。このことに留まらず、さらに奇妙なことがあった。ある時に張玉があちこち物を探していて、方おばあさんに怒られた。少し経つと方おばあさんは機嫌を直して、一碗のスープを作り、彼女を宥めるために、彼女を「波濤ちゃん」と呼んだ。「波濤ちゃん」はまだ怒っていたので、唇をとがらしてスープを飲もうとしなかった。「あなたは何が飲みたいの?」と方おばあさんが尋ねた。「おばあちゃんの血なら飲んでもいいよ・・・・」と張玉はすねて小声で言うと、方おばあさんは良く聞こえないともう一度彼女に言わせた。「波濤ちゃん」はこんどは大声で「おばあちゃんの血が飲みたいの!」と言うと、思いもかけず方おばあさんは声も出さず、立ち上がって机の傍に行くと、引き出しから果物ナイフを取り出し、本当に彼女の人差し指と中指を切りつけてた。血が指からあふれ出してきたが、なんと方おばあさんはその血をスープの中に注いだ。この短い間に出来事に、張玉は驚き入ってしまった。方おばあさんは人が変わったようになっていたが、張玉は飲もうとしなかった。
「さあ、このスープを飲みなさい!これは命令よ。」方おばあさんは厳しく言いつけた。
張玉は仕方なく、作戦を変えて引き伸ばすことにした。「水の中に落とした血なら飲む」。それを聞いた方おばあさんは部屋を出て行くと、井戸ポンプのある部屋にいくと一桶の水を持って帰り、それをお碗に注ぐとまた手を洗いにいった。手の指にはまだ血が流れており、方おばあさんは指の上にある血を再びお碗にたらすと、お碗を張玉の前に持ってきた。「波濤ちゃん」は愕然として方おばあさんを見て、再びその血がたらされた水を見て震え上がって一言も言葉が出てこなくなった。
方おばあさんの怒りに燃えた目に促されて、「波濤ちゃん」はやむを得ず彼女の地が入った水を飲んだ。方おばあさんは声を和らげていった。
「お前は私の一番大事なものよ。私の血が飲みたいなんて言わないで。お前には私の命をあげたっていいのよ・・・・。」
「私の小さな天使ちゃん。お前が一日一日と大きくなるのを見て、おばあちゃんはどんなに嬉しいか。・・・お前のこんなすねたところを見ると、おばあちゃんが小さかった頃にお前のようにお転婆だったのを思い出すわ。」
張玉はこのことを語ると、とても感情が高ぶったようで、目の周りを真っ赤にして、このことは一生忘れられないと言った。
歴史的記述によれば、若い頃に川島芳子は「恋愛感情」のこじれから、自分の左胸に向けてピストルを打って「自殺」しようとしたことがある。どうやら、川島芳子が幼い頃にとてもお転婆であったというのは事実で、張玉の身に自分の幼年時代を重ねたのであろう。

張玉の証言によれば、彼女が幼かったある朝に、方おばあさんの庭の生垣の隅で用を足していると、隣の家の犬が彼女に向かって走ってきて、当時張玉は驚いて恐怖の叫びを上げた。方おばあさんはちょうど部屋の中で朝ごはんを作っていたが、叫び声を聞くと手に火かき棒を持って、庭にすっ飛んできて張玉の目の前でその火かき棒で犬を叩き殺してしまった。このことで隣の家の人が訪ねてきたので、大家の逯家が顔を出して、賠償として二袋のトウモロコシを差し出して事なきを得た。今思い返してみると、方おばあさんが当時身のこなしが敏捷で、犬を殺すほど叩いたことは、張玉に普通の農村のおばあさんが出来ることではないという印象を与えた。この小さな事件からも、方おばあさん(川島芳子)が若かった頃の面影を見ることが出来る。
張玉の母親段霊雲の記憶によれば、一九六六年に于景泰が死んだ後に、方おばあさんはとても悲しんで感情を吐露するために、ある夜に方おばあさんは段霊雲を連れて新立城ダムに魚釣りに行こうと、彼女たちは自転車に乗って方おばあさんの家から十数キロ離れた新立城ダムに行った。ダムの傍で方おばあさんは魚釣りをするでもなく、なんとダムの傍にあった木に登り、両足を木の枝にかけて逆さづりになって、手を開いて段霊雲を手招きすると石をひろって手渡すように言った。方おばあさんは一つ一つ石を水に映る月に向かって投げ、心の中の悲しみを発散しているようであった。すでに六十歳を過ぎた老婦人がこのような身のこなしをすることに、当時の段霊雲は奇妙な感じがした。今から思い返せば、彼女が川島芳子だったとするならば、このような奇妙な行動も不思議ではない。
我々が後に知ったのは。一九二二年に川島芳子が十六歳の時に日本松本女子高等学校を退学したのち、養父川島浪速はその実父粛親王善耆の遺言に従って、王女としてまた女スパイとして任務を果たせるよう川島芳子を訓練し、彼女に騎馬・剣道・自衛・突発事件への応対など各種の危険を伴う技術を教え込んだ。それでこのような基礎があったために、方おばあさんの身のこなしは普通の人から見れば少し不思議な行動と見えることがあったのであろうと考えられる。

張玉の記憶によれば、方おばあさんは背丈は普通で、比較的やせており、皮膚は白く、大きな目が特別に光っており、耳がめだって大きくて突き出ており、髪の毛は少なく、頭の後ろに束ねて髷にしていた。来ていた服は普通だったが、いつも小奇麗にはしていた。話す言葉は北京なまりがあった。
張玉の感じでは、方おばあさんの性格は変化が激しかった。ある時には方おばあさんは張玉の目の前で、彼女を聞分けのよい子と褒めて次のような話をした。張玉が三歳の時(張玉には記憶がない)、あるとき方おばあさんが風邪で熱を出してオンドルの上で寝込んでしまったとき、張玉はそれを見て、タオルを洗面たらいでぬらして、方おばあさんの頭の上に置いた。それで方おばあさんはとても感動して、病気が少なからず軽くなったのであった。しかし、ある時に張玉が幼いため、学習に興味がもてないときには、方おばあさんが彼女に字を書かせようとしても書こうとせず、彼女に詩を覚えさせようとしても憶えようとしないと、方おばあさんはとても怒り、彼女の母親段霊雲に対するほど酷くはなかったものの、方おばあさんは手を出してビンタして教育しようとすることがあり、これは張玉に方おばあさんの厳しい一面を感じさせた。
張玉が今でも覚えているのは、彼女が幼い頃に方おばあさんの家で次のような情景を見たことがある。部屋に方おばあさんと祖父段連祥の二人しかいなかった時に、祖父の段連祥は満州族の儀礼方法で、片足をひざまづいて、方おばあさんに挨拶をしているようであった。さらに彼ら二人はよく日本語で話をしていた。祖父段連祥と方おばあさんがどうしてそうしているのか、彼らの間に何か他人に知られたくない秘密があったのかは、張玉にもわからない。
張玉がまだ覚えているのは、彼女が幼かった頃に方おばあさんと同じオンドルの上で寝て、ある時夜に起きてみると、月の光に照らされて方おばあさんが涙を拭っているのが見えた。彼女には方おばあさんが泣いたばかりのようであるように感じられた。方おばあさんが家族を思って泣いていたのか、はたまた昔のことを思い出して泣いていたのかは知る由もない。

一九七〇年代のある年の夏の夜に、新立城の家には方おばあさんと張玉の二人だけだった。方おばあさんはお碗と箸を片付けた後に、いつものようにレコードの箱の中から一枚のレコードを取り出し、手回し式の蓄音機の上に置いた。レコードから歌声が聞こえて来て、張玉は京劇であることが聞いてわかったのでこう尋ねた。
「おばあちゃん。この歌っている人は誰?教えて頂戴?」
方おばあさんは軽い感じで答えた。
「これは京劇の大役者馬連良が歌う淮河営の歌よ。」
彼女は張玉にさらに紹介して、彼女が最も好きなのは馬連良の歌う男役であると言った。
張玉は続けて尋ねた。
「おばあちゃん。この馬連良さんを知ってるの?」
この時、方おばあさんの顔色が突然に重く固まった。この時、彼女はつばを飲み込み、寂しそうにまた声を落として言った。
「話すと長くなるけどね、馬連良の歌声を聴くと、胸がいつも苦しくなるよ。波濤ちゃん、お前が大きくなって、もしいつか馬連良さんに会うことがあったら、私の代わりに『ごめんなさい』と言っといておくれ。」
こう言い終わると、涙が方おばあさんの二つの目から溢れ出していた。彼女は身をめぐらすと、すぐに部屋を出て行った。方おばあさんは張玉に自分が涙を流す姿を見せたくなかったのである。張玉は自分の質問の何かが悪くて方おばあさんの心の傷に触れたのかと後悔して、すぐに庭へ追いかけていき、稚拙な言葉で方おばあさんを慰めようとした。この時の方おばあさんは張玉に情緒不安定な様子を見せまいと、涙を服の袖で拭うと、張玉に笑いながら言った。
「波濤、もう二度と聞かないで。言ってもお前にはわからないことよ。全てはみな過ぎ去ったことよ。世の中は思いどうりにはならないの・・・・・。」
方おばあさんはむりに笑い顔を取り繕い、歌を口ずさみながら、張玉をあやして彼女の胸の中で寝かせた。
この生活の中の小さな一コマから、見て取れるのは方おばあさん(川島芳子)が「大役者」馬連良とかつて交流があったということである。我々が資料の中で見つけたのは、川島芳子が一九四〇年代初めに、以前の勢いを失って北京に戻った後、金を巻き上げるために馬連良を脅迫したことがあるということだ。それで、三十年を隔てた後も、方おばあさん(川島芳子)が馬連良の歌声を聴くと、昔のことを思い出して、内心苦しく感じたのであろう。
その後、一計を案じた張玉は、方おばあさんに内緒であの馬連良の京劇のレコードを祖父の段連祥に持って帰らせて、再び方おばあさんが心を痛めることがないようにした。


張玉は毎年早く夏が来るのを待ち遠しかったが、天気が温かくなれば、方おばあさんに会えるからであった。彼女は方おばあさんと家の前にある古い楡の木に登って本を読むのがとても好きだった。方おばあさんは彼女を先に木の枝の上にあげて、それから自分も上に登ってきた。彼女と方おばあさんはとてもこの古くて皮の厚い楡の木がお気に入りだった。この木は大して高くなく、とてもごつごつしていて、枝にはたくさんの葉が茂っていた。木の枝に座ると両足を前の木の枝にかけることができ、青空を見つめながら日光浴したり、吹いてくる清らかな風が周りの木の葉をサラサラと鳴らすのを聴くと、さながらリズムのある音楽を聴いているようだった。方おばあさんは彼女の真向かいに座り、体を木の幹に預けて手には悠然と本を持って、張玉にモンゴルや日本の昔話を聞かせてくれたり、彼女にシャーマン歌を覚えさせたり、手を伸ばしては楡の実を一つ一つ取っては、彼女の口に食べるように渡すのであった。あの香ばしくてすっきりした味は今でも彼女の心に甘い思い出となっており、彼女がそのことを思い出すたびに、口の中のつばを飲み込むのである。いまはもう張玉が時折、あの方おばあさんの家の楡の実を食べて、方おばあさんの話を話を聞き、一緒に歌を歌うことが出来るのは夢の中だけになってしまった・・・・・。

張玉が十二歳になる前には、毎年夏になるといつも方おばあさんに会うことができ、方おばあさんの家で一、二ヶ月住み、ある時には三ヶ月ともに過ごした。あの頃の日々は彼女にとって自分の家の中にいるのと同じだった。なぜなら彼女は幼い頃から人見知りのしない子供で、知らない環境でもすばやく適応できたからであった。方おばあさんと一緒にいると、いくらか寂しくはあったが、その寂しさのために却って話がしたければ幾らでも長く話し、話がなければ別に話さなくても気兼ねがなかった。おそらく彼女と方おばあさんは早くから気が合ったのであろう、互いの一挙手一挙足がすべて互いの目に止まり、いつも気にかかり、この一分を知れば後の一分がわかるという具合であった。
「私は方おばあさんの腹の中の虫でした」
張玉はこのように自分と方おばあさんの関係を形容している。
方おばあさんは彼女の周囲を見回してこれは何かと次々と尋ね、その折に人差し指と中指で張玉の鼻をつまんで、彼女の鼻は小さいなと言った。そこで張玉は方おばあさんに尋ねた。
「禅知内供(芥川龍之介の小説に出てくる鼻の長い和尚)の鼻が大きいと言うけれど、おばあちゃんは私の鼻をつまんであの禅智内供のような大きな鼻にするつもり?」。
方おばあさんはこれを聞くと意地悪そうな笑顔を浮かべて、彼女を「頭の良く回るガキだ」と言った。
また張玉が「私は斎天大聖だ。妖怪をやっつけるぞ。」といってオンドルの上に登って方おばあさんの大きな鼻をまじまじと眺めた。方おばあさんは怒らないだけでなく、面白がって張玉にどうして自分を「妖怪」と呼ぶのか尋ねた。張玉は答えて「おばあちゃんが年をとってもまだ化粧をするのは、妖怪じゃなかったらなんなの?」と言って、張玉は方おばあさんの体の上で空手の真似事をして、また土間に下りては木の棒を孫悟空のように回して遊び始めた。すると方おばあさんは急いで降りてきて、部屋の中で遊ぶと部屋の中のものを壊すといけないからと、張玉をせかして外の庭に連れて行って言った。「おばあさんの武道を見せてあげよう」。方おばあさんは朝の体操に使う木の棒をとると、雑技団のように木の棒を振り回し始めた。張玉は傍らで拍手をしながら「すごい、すごい!」と叫んだ。

時はあっという間に流れて、一九七九年正月十五日に、方おばあさんは四平に遊びに来て、張玉は方おばあさん臨時の住所である新立屯で方おばあさんと一緒に住んでいた。その日の夕暮れに、方おばあさんはちょうど李香蘭のレコードを聞いていたが、彼女は小銭を出して張玉に与え、街に行ってタバコを買ってくるように言いつけた。張玉は方おばあさんのくれたお金が五銭余っていたので、自分で爆竹と飴玉を買い、飴玉を食べてからようやく方おばあさんの家に戻ってきた。張玉が方おばあさんの家の近くまで来ると、部屋の中から仏教の菩薩を唱える声が聞こえてきたので、方おばあさんが念仏を唱えているのだろうと思った。そのとき道端では二人の友達が爆竹を鳴らしていたが、彼らは張玉を見ると一緒に遊ぼうと言ったので、彼らとしばらく遊んだ。張玉は少したつと遊び疲れたので方おばあさんの家に戻った。部屋の中に入ると驚くべき光景が目に飛び込んできた。方おばあさんが指揮棒をついて、大きな机に背もたれて、立ったまま動かなくなっていたのである。両目は目の前の仏像をじっと見つめて、仏壇の香炉に点けられた火はいまだ燃え尽きてはいなかった。
香の煙が部屋の中に立ち込めていたが、窓は何処もしまっていた。張玉は方おばあさんが吸うタバコのパイプが彼女の後ろにある大きな机に置かれているのを見たが、パイプの中のタバコはみな灰になっており、その灰が机の上に散らばっていた。彼女の傍らにはただ蓄音機がカラカラと回っていた。張玉はすぐに大変だと思って、叫んだ「方おばあちゃん!方おばあちゃん!・・・」。方おばあさんに駆け寄った。彼女が手で方おばあさんの顔に触れるとまだ暖かく、目もまだ湿り気があり、首も湿っていて、背中の上着も汗でびしょびしょになっていたが、もうすでに言葉を発することはなかった。
この時に屋外から急ぐような足音が聞こえ、張玉が戸を開けてみると、祖父がお米と小麦粉を担いで入ってきた。祖父は方おばあさんが立ったまま動かなくなっているのを見ると、お米と小麦粉を投げ捨て、前に向かって歩み寄ると、方おばあさんを抱きながらおお泣きに泣いて、方おばあさんを抱いてオンドルの上に載せると、上から白いシーツを全身にかぶせた。
方おばあさんは別人の名前で四平の火葬場で荼毘に付された。方おばあさんを荼毘にふすその日は、ただ張玉と祖父段連祥だけが方おばあさんを見送り、その他の数人はみな手伝いに雇った人だった。
四平の火葬場の庭で、祖父は方おばあさんの遺骨箱を持って来て、張玉に手渡した。すでに天候は寒くなっており道が凍っており、気持ちもそぞろであったので、張玉は誤って滑って転げてしまい、遺骨箱を地上の落として、遺骨を外に半分ほど散らしてしまった。祖父は怒って彼女を平手で打った。張玉は小さい時から祖父から打たれたことはなく、これが始めてであり、また唯一のビンタであったので、彼女は今でもはっきりと憶えている。彼女が忘れられないのは祖父の段連祥が方おばあさん(川島芳子)に忠義を尽くし、その死に至るまで忠実にお供したということである。

前述したように張玉が美術専攻の大学を受験するために絵を描いた際に、祖父段連祥の意思に従って、方おばあさんが世に残した唯一の一寸角の白黒写真をもとに、白黒の油彩画の肖像画を拡大して画いた。この方おばあさんの白黒画像を四寸角の写真に焼いたものが、現在でも残っている。
この方おばあさんつまり川島芳子晩年の油絵の写真を、我々は川島芳子の若いときの写真と比較したが、この写真と川島芳子本人とはとてもよく似ており、そうでなければ段連祥も今まで残すことはなかったであろう。
この写真は二〇〇七年末に、段霊雲と張連挙の夫婦が四平に父親段連祥の三周忌に行った際に、息子の張続宏の家から持って帰った段連祥の残した手提げ金庫の中から見つかったものだ。
それ以前に、我々の手には方おばあさん(晩年の川島芳子)の写真がなくて遺憾に感じていたので、張玉がかつて二〇〇七年十月、自分の記憶と方おばあさんへの深い印象を頼りに、とくに方おばあさんの人を見抜くような大きな目と、大きな「福耳」の特徴を捉えて、彼女の画家の技術を生かして六寸角の方おばあさんの彩色画を描いた。この方おばあさんの肖像画を、張玉は以前に公主嶺仏教協会釈正成会長に見せたことがある。正成法師は、画像にある老婦人はとても彼が写真で見た《方居士》に似ていると述べた。彼女の母親の段霊雲も張玉の描いた方おばあさんの彩色画を見て、とても方おばあさんに似ていると述べた。
張玉の二枚の白黒の油画と彩色画の方おばあさん(川島芳子)の肖像画が新立城に住んでいた方おばあさんと同一人物かどうか確かめるため、我々は特にこの写真を持って別々に方おばあさんにあったことのある逯興凱と陳良に見せると、二人とも写真の肖像画の人物は方おばあさんであると確認した。

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2016年03月24日

川島芳子は生きていた(24)張玉から見た川島芳子

http://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

張玉は段連祥の生前の遺言を唯一託された孫である。このことは、張玉は段連祥の最も可愛がっていた孫であることを物語っている。一九七〇年代初、張玉が物心がついたばかりの頃には、母親の段霊雲に代わって、祖父段連祥と方おばあさんの連絡のかなめとなり、母親段霊雲が毎年新立城で方おばあさんに付き添って寂しさを紛らわす役割を受け継いだ。さらに、張玉は気の利く子供で、親戚が語る家族や個人の経歴を注意深く聞いて理解するようにした。それゆえ、段連祥が臨終の際に告白して「方おばあさんは川島芳子だ」という驚天動地の秘密を打ち明けた後に、彼女は我々に秘密を溶くための証拠や手がかりを提供する責任を担うことが出来たのである。張玉が方おばあさんを知り始めてから、彼女と祖父の段連祥で病死した方おばあさんを四平の火葬場で荼毘にふすまで、十数年間のあいだ彼女は子供ではあったが、方おばあさんの言動を心の中に深く刻み付けたのである。

段霊雲と方おばあさんの養母子の関係により、段霊雲が結婚後には方おばあさんはいまだ生まれてないうちから孫に対して愛情を注いでいた。張玉が出生前に方おばあさんは段連祥に「雲子が男の子を生んでも女の子を産んでも、名前はトと呼びなさい」と言っていた。
なぜなら川島芳子には一人の妹がいた。この妹の満州族としての名前は「愛新覚羅・顕g」と呼び、粛親王善耆の第十七王女(一番末の王女)で、川島芳子とは母親が同じで、彼女の漢族としての名前は金黙玉である。現在すでに九十歳と言う高齢であるが、河北省廊坊市経済開発区に住み、幸福な晩年をすごしている。
方おばあさん(川島芳子)は長い間彼女の妹である金黙玉が懐かしく思い、その妹を思う気持ちを表すために、養女(段霊雲)のまだ生まれていない孫にト(宝玉の意味)と付けたのだろう。彼女の深い妹への愛情を良く表しているではないか!

しかし、段霊雲は子供を生む前に父親の段連祥と四平大劇場で波濤歌舞団の演技を見て、帰って間もなくして張玉が生まれたので、段霊雲はこの歌舞団の名前である波濤を取って、新生児に名前として与えたが、方おばあさんの意志には背くことになった。一九九四年、張玉は長春市青年美術家協会に加入し、プロの美術家として働くことになった。職業上の必要から、筆名を名づけることになったが、張玉は学問のある祖父に筆名を付けてもらうことにした。その時になって始めて段連祥は方おばあさんの生前の考えを伝えたのである。しかし、方おばあさんの妹が誰かは、段連祥は張玉に説明しなかった。なぜなら当時は方おばあさんが川島芳子であるという秘密は、まだ打ち明けられてなかったからである。二〇〇四年の段連祥臨終の前になって、ようやく張玉にこの名前の謎と由来を話し、張玉はようやく方おばあさん(川島芳子)が自分の名前に込めた気持ちを悟ったのであった。それで張玉はこの筆名を使用して美術創作をするだけでなく、いろいろな場合にこの名前を使用しているのである。すでにこの名前を使うようになって長くなるので、戸籍上の名前である張波濤を知る者の方が少なくなってしまった。

張玉が物心ついた時には、方おばあさんの家のあちこちに毛沢東のポスターがはってあり、ほとんどどの部屋にも数枚はってあるほどで、大変目立ったが、これもあのどこでも「毛沢東崇拝」の年代からすれば、理解できることではある。張玉がさらに覚えているのは、方おばあさんが沢山の毛沢東バッジを集めていたことで、一個一個フェルト布の上に別に置き、よく取り出しては眺めていた。さらに張玉が忘れられないのは、方おばあさんがしばしば小さな張玉を目の前に連れてきて、別の子供と同じように、張玉の胸の前に毛沢東バッジをつけて、とても嬉しそうな様子であった。このことから、我々は方おばあさん(川島芳子)の内心世界をうかがい知ることは出来ないが、少なくとも孫娘が歴史の流れから取り残されることを望んではいなかったことがわかる。

張玉が五歳(一九七二年)と八歳(一九七五年)の時に方おばあさんと一緒にいた際に、方おばあさん(川島芳子)がB5用紙にそれぞれ張玉のために版画と肖像画のスケッチを描いた。そのうちの版画は、まず木版の上に肖像画を書き、それを彫刻刀で削り、その上に紙を置いて拓本を取ったものである。その画の左隅にはうっすらと「姥留念」の三文字が書かれ、方おばあさん(川島芳子)が自ら書いたもので、この「姥留念」の三文字は川島芳子が一九四八年に北平監獄で養父川島浪速に宛てて書いた手紙の筆跡に良く似ている。

川島芳子
留念

我々はこの二枚の画は、方おばあさんが張玉に示した祖母と孫の愛情を表しているだけでなく、方おばあさんが生前に残した唯一の筆跡として重視している。この二枚の画を我々は特に省内の著名な画家である張成久と甘雨晨に鑑定をしてもらった。彼らの一致した見解は、この二枚の絵は簡単に見えるけれども、絵画に対する技術は高く、作者の絵画の水準がとても高いことを見て取れるということであった。川島芳子が十六歳の時かつて描いた一枚の日本人少女の背後から見たスケッチが残されているが、絵の技術は相当なものであったことがわかる。七十歳近くになった方おばあさん(川島芳子)がなんら画を描くのに適した条件がない情況で、このような技術のある画を描くほど習熟していたのは、当時の技術水準がすでに一定の程度に達していたことを示している。

張玉の証言では、新立城の方おばあさんは家の庭には、五十センチほどの高さの大きな石があり、上は平らであったので、夏は上に座って涼んだり休んだり出来た。ある時、方おばあさんは張玉を石の上に立たせて女役を演じさせ、彼女が男役を演じて、祖母と孫の二人で石の周りを回りながら社交ダンスを踊った。時には部屋の中で、方おばあさんが張玉をオンドルの上に立たせ、張玉の二つの小さな手を取って、オンドルのふちに沿って踊った。この時この瞬間には、すでに六十歳を過ぎた方おばあさんはまるで若いころに戻ったかのようであった。
踊る

我々が知っているのは一九三〇年代初頭に、川島芳子がかつて上海に来た際、当初彼女はダンサーの身分で注目を集めた。「東洋のパリ」と呼ばれた上海で、川島芳子は物柔らかで艶やかなダンスで上海の各地の高級ダンスホールを出入りし、職業ダンサーも顔負けの踊りを披露した。ダンスホールでは彼女は女性の役を演じることもあれば、しばしば男装をして男役として踊り、男役のほうが女役で踊るより得意であるようだった。一説によれば、上海で開かれた国際ダンス大会で男装をした川島芳子が男役の一等賞を取ったこともあるという。その他の優秀な男のダンサーも彼女に比べれば、拙いものであったという。

上述したように、段霊雲は方おばあさんの体の汗を拭く時、彼女の左胸に傷跡があり、さらに方おばあさんはよく《小雲子》に背中をたたかせていた。張玉が母親に代わって方おばあさんに付き添うようになってからも、同様であったことを覚えている。新立城は夏になるととても熱く、祖父段連祥は方おばあさんの為に水浴びの出来る水桶をつくり、土間の高いところに掛けて、上から井戸水を注いで涼めるようにしていた。方おばあさんが水浴びをする時には、上半身は裸であったが、張玉も彼女の左胸に褐色の傷跡を見て、母親と同じように感じた。さらに方おばあさんはよく張玉に背中を叩かせて、ある時には張玉の拳骨では力が足りないと感じたのか、方おばあさんはオンドルの上にうつ伏せになり、張玉に背中を踏ませると、方おばあさんはいくらか気持ちよさそうに感じているようだった。このことも上述したのと同様に、方おばあさんが脊髄炎をわずらっていたことを証明しているのではあるまいか。

方おばあさんは美人に見えたし、祖父よりも若いようにさえ見えたが、どんなに若く見えたところで、やはり彼女の目の細かい皺や厚ぼったくなったまぶたは化粧では隠すこともできなかった。しかし、方おばあさんは年をとっても、しばしば夜に化粧をした。晩御飯を食べた後に、方おばあさんは一人で鏡に向かい、入念に化粧をしていた。さらに張玉にも眉を描いたり、張玉に彼女の眉を描かせたり、ある時には張玉に眉を口紅を塗ったり、おしろいを塗ったりもした。化粧が終わると、張玉は方おばあさんのほうを見てこらえることができずに笑い出し、方おばあさんを「妖怪みたい」と腹が痛くなるまで笑って息ができないほどであった。すると、方おばあさんは指を上げて「シーッ」と大きな声を出さないように注意した。
方おばあさんは昼間は普通化粧しなかったが、祖父がいる時は方おばあさんが化粧をする時もあった。方おばあさんは自分の眉毛を描く時は輪郭を細かくなぞり、最後には彼女の顔は鏡の中で画のようになっており、身動き一つしなかった。この時に張玉は方おばあさんの後ろに立って一緒に鏡に映ったが、その時の様子は長い時間が経っても記憶の中に永遠に留められるだろう。
永遠という言葉についてとりあげると、張玉は方おばあさんとお茶を飲んだ時にこの「永遠」という言葉についての彼女の説明を聞いたことがある。方おばあさんは永遠とは一種の感覚で、生命の流れなのだと語っていた。

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2016年03月23日

川島芳子は生きていた(23)段霊雲の見た川島芳子

http://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

我々は調査中にかつて段霊雲に次のように尋ねたことがある。
「あなたは方おばあさんにこんなに長く付き添い、方おばあさんはほとんど毎日のように字を書いていたのに、どうして彼女の書いた筆跡が残っていない(張玉に書いた版画の隅に「姥留念」の三字が隠すように書いてあるのを除けば)のですか」。
段霊雲の証言によれば、方おばあさんの家にあった大きな机の上にはいつも褐色の彩陶の火鉢があり(現在は残っていない)、毎回字を書き終わると、方おばあさんはいつもマッチをこすって、書いたものを火鉢で焼き捨てるのが、いつも習慣のようになっていた。
段霊雲がさらに証言するには、方おばあさんは筆跡を残さないばかりでなく、写真も残そうとしなかった。ある年の中秋節に父親の段連祥が方おばあさんと彼と段霊雲の三人で写真を取ろうとした時や、家族の集合写真を取ろうとした時があった。段霊雲がどんなに方おばあさんに写真館に行こうと勧めても、写真を残すことに方おばあさんは理解を示したものの、いつも議論の余地なく拒否して、絶対に写真館には行こうとしなかった。
段霊雲はずっと、方おばあさんのこうした態度が理解できなかった。段霊雲が方おばあさんが川島芳子だと知らされてから、今になってようやく理解できたのである。方おばあさんは長年にわたり何の筆跡ものこさず、写真も取ろうとしなかった、唯一の理由は、自衛保護のために川島芳子生存の痕跡を残さないようにしていたのであった。

我々が段霊雲を聴取して、あなたの母親である庄桂賢は方おばあさんのことを知っていたかどうかと質問した時、段霊雲は肯定して「知っていました」と答えた。段霊雲は説明して、
「方おばあさんが長春新立城で三十年生活していた間、私の父親は毎年夏になると平均して毎月三回ほど新立城の方おばあさんの家に行き、私が小さい頃に毎年夏になると新立城に連れて行き方おばあさんに付き添わせ、後に張玉が生まれてからは、張玉が私の代わりに方おばあさんに付き添うようになりました。私たちは親子三代でこのような長い期間にわたり方おばあさんと付き合っていたので、私の母親の庄桂賢に隠そうとしても、隠せなかったでしょう。父親は最初は母親に方おばあさんは遠い親戚の一人で、親戚も世話する人もいないが、年をとったので世話が必要なのだと言っていました。母親は当初から方おばあさんは父親が外で囲っている《愛人》ではないかと疑っていたので、そのことで父親とよく喧嘩をしていました。私が新立城で方おばあさんと一緒に過ごすことにも心の中では不満だったようです。しかし父母はなんと言っても旧社会から生きてきた人間だったので、妻たるものは《三従四徳》といって、夫のなすことに逆らうことも出来ず、父親になすすべもありませんでした。こうした情況でしたから、母親は私に父親と方おばあさんの関係を監視する役目を果たさせ、またそれを母親に報告させようとしました。」
父親が段霊雲と方おばあさんの家に行く時にはいつも、母親が彼女に父親と方おばあさんが一緒に何をしているか注意するように言い聞かせた。段霊雲は母親の言いつけが気に入らなかったので、いつも隠して言おうとしなかった。そのため、母親が段霊雲の口から聞いたのは、彼女が本当に知りたいことではなかった。期間も長くなって、母親もとうとう父親の監視を諦めてしまった。方おばあさんの家につくと、方おばあさんは段霊雲にとてもよくしてくれはしたが、しつけがとても厳しかった。方おばあさんは彼女に日本語を教えようとして、よく憶えられないといつも「ビンタ」が飛んでくるのであった。母親は段霊雲が方おばあさんから日本語を習っているのを知ると、どうにか止めさせようとして、父親は日本語が出来たばっかりに労働教育所送りになったと例を挙げて日本語を習うとろくなことがないから止めるように勧めた。このことは段霊雲を板ばさみにして苦しめ、いつも彼女はこっそり涙を拭うのであった。

段霊雲の記憶では、方おばあさんは既に逝去して三十年ほどになるが、方おばあさんが彼女に残した印象はとても深い。方おばあさんは中老年の女性で、比較的やせており、皮膚はとても白く、大きな目で、話し言葉には北京訛りがあり、人に神秘的な感覚を与えた。彼女は時折タバコを吸ったが、しかしそれほど頻繁でもなかった。彼女は仏教を信じ、規律正しく屋内で線香を焚いて仏像を拝んでいた。彼女は新立城の家の中で、普通の状況下では自分でご飯を作って食べていた。彼女は綺麗好きで動きが早く、部屋の中はよく整理整頓されており、両開きのタンスがあり、タンスの上には置時計と旧型のラジオと花瓶が置いてあった。お茶を飲む茶碗には蓋がついていた。部屋の中には八人がけの大テーブル、オンドルの上には食事用の机があった。米、小麦粉、油などの生活用品はみな父親の段連祥が定期的に送っていた。方おばあさんの食事には特別な習慣があった。いつも自分でご飯を盛り付け、他の人には盛り付けさせなかった。ご飯を食べた後には自分で御わんを洗い、その後にお碗を伏せて箸を伏せたお碗の下に置き、普通の人のように箸をお碗の上に置かなかった。新立城では方おばあさんはさっぱりした生野菜などをよく食べ、特に大家の逯家の部屋の前後に植えてあった白菜や、ネギ、きゅうり、ピーマンなどの野菜を好み、方おばあさんはご飯のときに新鮮なものを選んで生で食べていた。方おばあさんのこの習慣は日本人が生野菜を好んで食べる習慣に似ている。
段霊雲の記憶では、方おばあさんは日本語が話せるだけでなく、嬉しい時には日本の唱歌を歌い、方おばあさんはさらに絵を描くことができ、段霊雲は彼女が山水画と美人画を画くのを見たことがある。現在方おばあさんが残したあの日本女性が風呂にいる画(日本女子風情浴嬉図)は、彼女は方おばあさんが自らの手で描いているところを見た(この画は現在張玉が保有)。段霊雲がいまだ記憶しているのは、《文革》以前に、方おばあさんはかつてこの画と内容の似た画を《七叔》に贈っていたことである。《七叔》が雲南に老母の面倒を見に行った際に、彼女は自らあの画を《七叔》のカバンの中に入れていた。そして残されたこの画は張玉が生まれる前に方おばあさんが描いたもので、幼い張玉に贈る記念の品と考えられる。
段霊雲と方おばあさんは、段連祥の関係があり、親しい一面もあったが、隔たりもあった。なぜなら方おばあさんは段霊雲の前ではとても厳しく、彼女が何かを学ぶ際でも、《小雲子》に何かをさせる場合でも、少しでも気に入らなければ手を挙げて打った。あるとき《小雲子》がオンドルの上で寝転んでいると、方おばあさんはしばしば足でオンドルから地上に蹴り落とした。方おばあさんが彼女を打つときには、時には《七叔》が残したあの指揮棒で彼女の手の上やお尻を打った。彼女を打つときには方おばあさんはしばしば日本語で彼女を罵りながら、あの指揮棒で叩くのであった。そのため、段霊雲は感情面で常に方おばあさんとは距離を感じ、また彼女を恐れて、心の中で何かあっても話したがらず、方おばあさんの性格と習慣を見ては不快に思うこともあった。何故だかはわからないが、段霊雲は今に至るまで、方おばあさんの身上に何か特別なものを感じるのであった。いつも方おばあさんの目を見ると、なにか彼女の目の背後に別の目があるような感じがして、なにか恐ろしく震えさせるものがあった。特に夜には灯りの下でも、《小雲子》は方おばあさんを正視することができなかった。そこで、段霊雲が幼い頃は感情的に不安定で、方おばあさんはとても怒りやすく、顔色が変わると、しばしば《小雲子》に対してあたりつけるのであった。
長年にわたり、段霊雲はずっと方おばあさんの心が理解できず、なおさら彼女が何を考えているのかわからなかった。方おばあさんのこのような心理は謎に満ちており、性格は変化しやすく、情緒が毎日テレビで放送する天気予報のように不安定であった。
以前は方おばあさんが機嫌が悪く、怒りが収まらないと、いつも心中の憤怒をぶちまけて、部屋の中のものがみな気に入らなくなり、手元にあるものをなんでも壊していたので、こういうことが重なると庭にいるニワトリまでもが彼女の顔色を伺った。ある時雄鶏と雌鶏が餌をつついていると、方おばあさんが怒りを爆発させながらやって来たので、鶏はさっさと生垣の隅にもぐりこんで、目を閉じて寝ているふりをしていた。
段霊雲は幼心にも、方おばあさんに恐れを抱いていた。方おばあさんはいつも自分の意思を《小雲子》に強制して、《小雲子》に自分の思うとおりに行動するよう要求した。《小雲子》はなるべく彼女を満足させようと努力したが、かえって方おばあさんの気に沿わないのであった。方おばあさんはよく《小雲子》を馬鹿と言い、ある時は《小雲子》に戯れにこう言った。
「猪八戒の姉はどうやって死んだか知ってる?馬鹿すぎて死んだのよ。」
前世紀の六〇年代初期には方おばあさんの性格はいくらか良くなった。于叔が死んでまた《七叔》も去り、方おばあさんは再び部屋のものに八つ当たりすることはなくなり、何か気分が悪いときも、座り込んで沈黙するようになった。
方おばあさんの内心にはいつも何か隠された苦痛があるようで、この持続する苦痛が彼女の神経を刺激し、常にその苦痛を捨て去る機会を探していたようであった。

一九五八年、段連祥が労働改造に遣られて、家に生活の資源が絶えたので、か弱いいまだ十五歳にも満たない子供の小雲子(段霊雲)も、学校をあきらめて仕事に参加し(大躍進の時期で、仕事は探しやすかった)、非常に若くして家族を養う責任を担うことを余儀なくされた。こうして、彼女は新立城で方おばあさんに付き添う時間は少なくなったが、彼女と方おばあさんの関係は中断したわけではなかった。この時期から段霊雲は、新立城の方おばあさんと輝南県杉松岡労働隊の父親段連祥の間の連絡役を果たすようになった。
一九六四年、段霊雲と張玉の父親―現役の軍人張連挙が結婚した。一九六七年初頭に、段連祥は段霊雲が妊娠したとの知らせを遠く浙江国清寺で冬を越す方おばあさんに知らせると、方おばあさん(川島芳子)はとても興奮した。彼女はすぐに予定を変えて、早めに遠い国清寺からまだ幾分寒い長春へ戻ってきた。新立城の家に帰ると、彼女はすぐに段連祥を遣って段霊雲の住む家に迎えさせ、彼女の買った胎教に関する本を使って、彼女の理解できる妊婦の保健と育成に関する知識を段霊雲に教え、段霊雲が健康で五体満足な孫を産むよう取り計らった。
方おばあさんの指示はいやでも聞かなければならない段霊雲は、新立城の方おばあさんの家に行った後は、完全に方おばあさんの指図に従ってお産に備えた。
毎日朝起きると段霊雲と方おばあさんはそれぞれまず御椀一杯の蜂蜜湯を飲み、レコードの音楽や楽曲を聴きながら、歌を覚えた。朝ごはんを食べ終わると、段霊雲と方おばあさんは一緒に庭の緑色野菜と花園の間を散歩し、方おばあさんは指でいろいろな色の花を娘に見せて「花を沢山見て、花の色を覚えなさい。もし夜の夢の中で花をみたら、それは吉兆よ。」と述べた。
散歩のときに疲れると、彼女たち二人は木陰の下の御影石の上に座り休憩して、ある時には庭の中にいるニワトリや鳩に餌をやった。
庭から部屋に戻ると、方おばあさんは幾冊かの本を選んで娘に見せた。部屋の中の壁には、日本美女のカレンダーが掛けてあり、方おばあさんは娘に毎日数回その十二枚の日本宮廷女官を見て、段霊雲にこの画の美女の様子をよく記憶するようにこう言った。
「こうやって続ければ、生まれてくる子供は賢いだけでなく、女の子なら、画の中の美女と同じように美しく綺麗な子になるのよ。」
方おばあさんの十二枚の日本美女のカレンダーは、一枚一枚が和服を着た日本宮廷女官であった。段霊雲は方おばあさんの言いつけを守って、毎日一枚一枚めくってカレンダーの美女を眺めた。その後に面倒くさくなったので、方おばあさんは部屋の壁に縄を張って、十二枚の美女のカレンダーを一枚一枚並べて掛けた。こうして段霊雲はいちいち一枚ずつめくらくても十二枚の美女画を一目瞭然にできる様になった。
段霊雲が出産する前に、方おばあさんは江蘇芽山乾元観の道士を連れてきて、まもなく生まれる女の子を占ってもらった。
一九六七年十月、孫娘の張玉が生まれると、方おばあさんはとても喜んで張玉を頭の上に掲げて、ひっきりなしに段連祥に「私にも孫ができた!私にも孫ができた!」と叫んでいた。彼女はさらに段連祥に張玉の名前を占わせて、孫娘がお金持ちになるように願った。また段連祥にこう言った。「うちの実家の姓は《金》で、私の妹は《玉》という名前だから、この女の子を《ト》と呼びなさい。」いつも方おばあさん(川島芳子)の言うことなら何でも聞く段連祥は、この時興奮してただ頭を縦に振ってうなずいていた。
そうして、方おばあさんは何かを思い出したかのように、すぐに段連祥を大家の逯家に使いに遣り、半年前に飼っていたウサギとウサギ小屋を持ってこさせた。
父親の段連祥が逯家に行った後に、段霊雲は方おばあさんに尋ねた。
「どうしてウサギを逯家に送ったの?」
方おばあさんは真面目に解説して言った。
「お前がまだ来る前に、私がウサギを逯家に送って、あそこで飼ってもらったのよ。なぜかと言うと、年寄りたちが妊婦はウサギを見てはいけない、ウサギの肉を絶対に食べてはいけない。もし妊婦がウサギの肉を食べると、生まれてくる子供がウサギのように三つ口になると聞いたからなの。だから私はウサギを逯家に送って代わりに飼ってもらったのよ。いまもうあなたは子供を生んだから、タブーも気にしなくてもよくなったから、ウサギをかえしてもらったのよ。ウサギの肉は血を増やす栄養のある食物だし、人体の血液の中にある有害な物質を除いてくれるから、美容に良いし、人に皮膚を白くて肌理細かく光沢のある肌にするのよ。」
方おばあさんは段霊雲にこう言うと、ちょうど庭から人々の話す声が聞こえてきた。ちょうど大家のロク長占と逯興凱の二人がウサギ小屋を担いで窓の前に来て、父親の段連祥が嬉しそうに生まれたばかりの白兎の子を抱いて、手には柳条の籠を持っていたが、なかには籠一杯に白くてふさふさした子ウサギが入っていた。もともと、方おばあさんはウサギを逯家に半年預けただけだったが、逯家の人たちが大切に育てたので、子ウサギを沢山産んだのであった。方おばあさんはうれしそうに言った。
「これはちょうどいい。子供が満一ヶ月を迎えるのを待って、一家でおいしくウサギの肉を食べましょう。」
張玉は三歳になった頃に、段霊雲は夫について軍事工場に行き、張玉は四平の祖父段連祥の家に預けられた。張玉は小さい頃から聡明で、人々から愛された。この時新立城に住んでいた方おばあさんも、待ちきれないかのように段連祥に幼い張玉を彼女のところに連れてこさせ、張玉に対しておばあさんとしての「責任」を果たし始めた。
張玉も期待に背かず、方おばあさんが妊婦の段霊雲に調教した方法は張玉の身上に確かに現れているようであった。張玉は美しく(父母や二人の弟と比べ、張玉は綺麗な女の子だった)育っただけでなく、物分りがよく聡明で、方おばあさんの調教の下、多才多芸を身につけることができた。現在、張玉は有名な女流画家となったばかりでなく、文学上でも一定の造詣がある。

段霊雲の記憶では、方おばあさんの左胸には傷跡があった。新立城の夏のある日のこと、天気がとても暑く、方おばあさんは汗をかいたので、下着のシャツを脱いで、段霊雲に彼女の汗を拭わせたときに見たのである。段霊雲は方おばあさん傷跡の原因が何であるかを知らなかった。彼女は鉄砲傷というのを知らなかったので、鉄砲で打たれたあとの傷がどんなであるか知る由もなかった。そこで、彼女は父親の段連祥に尋ねたことがある。段連祥は少しも隠し立てせずに言った。「たぶん鉄砲傷だろう!」その外にも、方おばあさんはしばしば段霊雲に背中を叩かせたが、段霊雲の感覚では方おばあさんには脊椎に炎症があるようであった。
我々が把握している資料によれば、川島芳子は確かに鉄砲傷を受けた過去がある。鉄砲傷を受けた原因としては三つの説がある。その一つは養父川島浪速が彼女にしばしば性交渉を迫ったため、彼女は羞恥心と欺瞞に駆られて拳銃自殺を図ったという説。二番目は養父川島浪速が初恋に対して粗暴な干渉をしたため、感情のもつれにより絶望して拳銃自殺を図ったという説。三番目は「安国軍」司令であったとき、洮南で張海鵬(後に漢奸)の部隊と戦闘した際に、銃撃を受けたときの傷という説。
鉄砲傷の具体的な原因については確認しようがないが、ピストルの弾が確かに彼女の左胸に入り、銃弾が彼女の左胸の肩甲骨に残ったことは確かである。一九三七年に彼女は北平の同仁医院で手術をし、彼女の兄の金璧東は自ら手術台の側で、飯島康徳院長が川島芳子の左胸肩甲骨上にあった銃弾を摘出したのを目撃している。
川島芳子が日本で学校に通っていた際に、養父の川島浪速は彼女の希望に応えて、日本が「バブチャップ将軍」に送る軍需物資の中から二匹の軍馬を取り、川島芳子に騎馬で登校させていた。川島芳子はまた満州国の「安国軍司令」であった時、行軍作戦にもいつも騎馬を主に用いた。それで、川島芳子は馬上から幾度か地面に落ちたことがあり、それが重なって、外傷性の脊椎炎を患っていた。
一九三五年から、脊椎の痛み止めの為に、川島芳子はアヘンから抽出したモルヒネを使う悪習に染まった。
一九三七年、川島芳子が天津で東興楼で食堂を経営していた際に、脊椎が痛むので、天津医院で身体検査をして、医者の初歩診断で早期脊椎炎と診断された。治療の為に川島芳子は日本へ戻り、東京同仁会医院で院長金子良太博士自らによる診断を受け、外傷性脊椎炎の治療を受けたが、完治せぬままに川島芳子は盧溝橋事件発生のために中国へ戻り、脊椎炎の病根は遺されたままだったのである。

段霊雲の回想では、方おばあさんは何度も彼女に自分の出身について、とてもお金持ちの家に生まれたと打ち明けていた。子供の頃の話として、方おばあさんは幼い頃はお姫様のような生活をしていたと語ったこともあった。
段霊雲が覚えているのは彼女が仕事に就く前の一九五八年ころ、十四歳の段霊雲が新立城へ方おばあさんに会いに行くと、どういうわけか、方おばあさんが突然に涙を流していた。段霊雲が方おばあさんどうしたのと聞くと、方おばあさんは「家が恋しくなった」と言った。段霊雲は怪訝そうに「家が恋しくなったのなら帰ってみれば。私がおばあちゃんに会いたくなるとこうして来るみたいに。」と言った。方おばあさんはため息をついて、「私はあなたみたいに幸せじゃないの。父母はとっくの昔に亡くなり、親戚もどこに行ったか判らず、妹が恋しいけど、何処へ行ったかわからなくなって、連絡も取れないの。」
我々が考えるに、これは方おばあさん(川島芳子)が彼女の子供時代を回想して、粛親王家の家族と同腹の妹である金黙玉が恋しくなったのであろう。段霊雲もこの点に同意を示した。
段霊雲は小さい頃から大きくなるまで、方おばあさんからいろんな知識を教わり、方おばあさんの学識にはとても敬服している。あるとき彼女が方おばあさんを思わず褒めて「おばあちゃん、こんなに良く知っているなら、きっと幹部になれる人材ね!」と言うと、方おばあさんは手を振って、「それは無理よ」と言った。
続けて方おばあさんは段霊雲の前で、自分の一生について概括して言った。
「私の一生は一首の悲壮な歌のようなものよ。結局なんにもならなかったわ。これも運命ね」
我々が思うに、これが方おばあさん(川島芳子)の自己の人生に対する総括であった。

二〇〇九年二月十一日の午前、日本のテレビ朝日の招待を受けて日本へ向かう出国手続きをするため、我々は段霊雲親子を事務室に呼んだ。我々がおしゃべりをするうちに方おばあさん(川島芳子)にも話が及んだ。
我々が方おばあさんの段霊雲に対する感情を述べると、段霊雲は一九五〇年代に彼女が大病を患った際に、方おばあさんが二度にわたり一万元の治療費を立て替えてくれてことを一生忘れないと述べた。
我々がまた、方おばあさんがそんなにお金を持っているのなら、その後の生活であなたを援助したことはないのかと尋ねた。
この過去に触れたことのない話題に、段霊雲は答えて、
「方おばあさんは一九六六年于景泰が亡くなり、七叔が去ると生活の糧を失いました。だから父親と私が彼女を援助していたのです。しかし私には二人の弟がおり、母親は仕事についておらず、父親は臨時の仕事で家計を支えて、生活はとても困難でした。私は毎月に給料から二十元を方おばあさんにあげていましたが、農村での出費は少なく、彼女の一ヶ月の生活費には十分でした。当時、方おばあさんがあんなに沢山のお金を出して救ってくれたので、私がこうするのは一種の《恩返し》だったのです。」
それでは方おばあさんが半年ほど国清寺に行っていた間はどうしていたのか?
段霊雲は答えて、
「彼女が出発する際には私が汽車のチケットを買いました。国清寺についた後は、毎月やはり二十元を送っていました。方おばあさんは、お寺では住むにも食べるにもお金は要らないといっていました。文化大革命以後、方おばあさんは国清寺で住む時間が長くなり、毎年四、五ヶ月、長い時には半年に及びました。」
これにより、我々は方おばあさん(川島芳子)は晩年に世間と隔絶し、生活も大変質素で、すべて段連祥と娘の段霊雲の援助に頼っていたと考えた。
しかし、じつは内情はこれが全てでもなかったようである。二〇〇九年三月一日から八日、我々と張玉と段霊雲が日本に滞在中に、李剛は張玉に方おばあさんの晩年の生活が質素であったと語ると、張玉は以外にも、方おばあさんはお金持ちだったと答えたのである。
「ある時、私が彼女の座る《タタミ》の下にたくさんの手紙を見つけて、その中身にはお金がたくさん入っていました。」
それなら、方おばあさんはお金があるのに、段連祥と娘の段霊雲はどうして毎月お金を届けていたのだろうか。これは一種の「愛情」の表現と見るべきだろう。段霊雲に言わせれば、それは一種の「恩返し」だったのだ。

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2016年03月22日

川島芳子は生きていた(22)残留孤児の段霊雲

http://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載


段霊雲は張玉の母親で、一九四四年の生まれで申年、段連祥の唯一の娘である。彼女の出自についてはかつて謎であった。一九九七年に彼女の母親の庄桂賢が逝去後に、父親段連祥がようやく段霊雲を前にこう告白した。
「雲子、お前の出自だが、今日は本当のことを言おう。お前は確かに日本人の残留孤児だ。以前はお前の母親(庄桂賢)が私が告白するのを止めていたのだ。お前が本当の親を探し出して、お前を失うことを恐れたからだ。今お前の母親は亡くなったから、私ももう遠慮することもなくなった。」
こうして、段霊雲の心に数十年もわだかまっていた疑問がついに晴れたのである。それから、段連祥は日本語で段霊雲のために一枚の日本残留孤児証明を書き残した。
証明書の大意は次のようなものである。段連祥の同級生の一人が、彼に元日本語教師の四人の子供(三女一男)のうちの一人が産んだ赤子を養子とするよう託した。一九四五年に日本が投降した後、教師一家六人は帰国の準備をしていたが、教師の妻は半身不随の寝たきりの病に罹り、幼い娘を世話する余裕がなかった。同級生は教師の経歴を紹介し、教師一家の日本の連絡住所を残した。証人の徐桂芝が証明書にサインと押印をした。段連祥もその上に印鑑を押した。
一九九九年六月六日、段連祥は段霊雲の日本人の伯父に当たる三ツ矢敏夫に一通の手紙を書き、日本人の友人松井氏に託した。手紙の中には、現在中国国内の政策は比較的良好で、中日両国間の友好往来はとても便利である。もしあなたが奉天(瀋陽)に来る機会があれば、飛行場まで私が迎に行くと書かれてあった。
段霊雲は父親の段連祥から聞かされたのは、段霊雲が一歳を過ぎた頃に段家に来て、段連祥は彼女の為に段臨雲と名づけた。現在思い返してみると、段霊雲には思い当たるところがあった。
「父親が私に臨雲と名づけたのは、私が養子の娘だったからで、親が何時やって来て認知して連れ去るかもしれないというので、臨時の娘と言う意味だったのでしょう。」
段霊雲の幼名である雲子というのもやはり段臨雲というこの名前に由来している。その後に段連祥は彼の子供の名前に家系図に従ってすべて「続」という字を入れていたので、段臨雲にも段霊雲という名前を与えた。段連祥が一九四一年に長男段続余を設けた後、その後に生まれた二人の子供は夭折してしまい、幼い臨雲を養子に迎えた後、彼女にはずっと命があるようにとつけた名前が「続敬」であったが、ただその後あまり使うことがなかった。《文革》中に段臨雲という名前を再び段凌雲と改名したからだが、その名は雲を凌ぐほどの志を持てという意味であった。

段霊雲が方おばあさんと接触を開始したのは、およそ一九四九年の新中国成立前後で、そのころ彼女は五、六歳ですでに物心がついていた。彼女は父親の段連祥が彼女を連れて、四平から汽車で長春へ行き、さらに馬車に乗って新立城の方おばあさんが住んでいる地方に行った。方おばあさんという呼び名は父親が彼女に教えたもので、ある時は四十歳過ぎのこの女性を《方ママ》と呼ばせることもあった。しかし、すでに物事が理解できた段霊雲から言えば、新立城のこの中年女性は彼女にとってもう一人の母親を意味した。それからと言うもの、ほとんど毎年夏になると、段連祥は彼女を新立城の方おばあさんの家に連れて行った。ただ父親の段連祥は毎回数日も住まずに、自分だけ四平に仕事に戻り、彼女を方おばあさんのお供においていくのであった。
川島芳子の新立城での歳月は、段連祥など世話する人間がいたとはいえ、生活はやはり孤独で寂しいものであった。女の子の小雲子が定期的に付き添うようになってから、川島芳子の心は計り知れない慰めを得たであろう。外部の人の目からは、小雲子は方おばあさんの娘で、川島芳子からすれば、小雲子は段連祥が自分にくれた養女であった。さらに小雲子は日本人の残留孤児で、感情からいって、この臨時の母子は同病相憐れむ境遇にあったのである。
段霊雲は幼年時代に続けて二回大病を患って、ほとんど命を失うところであった。この二回の病気の期間には、父親段連祥も力を尽くし、労をいとわず、金も惜しまず、彼女の病を治すために尽力したが、方おばあさんも段霊雲が病気の期間に母親の責任を果たした。段霊雲は今でも思い起こすと、感激のあまり言葉に表せないほどである。
第一回目は一九五三年の春、段霊雲が九歳の年に水疱瘡に罹り、伝染病であったので入院できなかった。当時彼女の母親の庄桂賢は弟の段続平を生んだばかりで、彼女を世話することができなかった。父親の段連祥は彼女を新立城の方おばあさんの家に預け、さらに二人の老年の婦人を雇って交代で彼女を看護させた。水疱瘡で全身が痒くなり、段霊雲は痒いのでいつも寝返りをうって、両手でかきむしった。方おばあさんは彼女が顔の上の水痘を引っ掻いて、娘の顔の上があばただらけになるのを恐れた。そこで、老婦人と看護して、段霊雲をむりやりオンドルの上に縛りつけ、手をタオルで包んで、彼女が痒くても動けないようにした。その後、水痘が出終わると段霊雲の病気も好転し、顔にもあばたは残らなかったが、これは方おばあさんの一生懸命の介護のおかげであった。
第二回目は一九五五年の春節の除夜の晩に、段霊雲は遊んで遅くなって家に帰った。二日目の正月の朝から突然に高熱が出て、児童医院で熱さましの注射をしたが、二日目になっても熱が下がらなかった。父親の段連祥は四平鉄路局車輌場の職工だったので、彼女を四平鉄路医院に入院させて治療した。およそ一ヶ月入院したが、化学検査の結果白血球に異常があり、血小板が減少し、臨床診断では容血性連鎖球菌による敗血病と診断された。この時主治医は彼女に長春鉄路中心医院で治療するよう勧めた。この時に、段霊雲が病気になったという情報を知った方おばあさん(川島芳子)も特別に浙江の国清寺から四平に戻り、父親の段連祥と共に段霊雲を長春鉄路中心医院に送った。しかし長春鉄路中心医院でも段霊雲の病状は一進一退であった。このような情況で、父親の段連祥は彼女を瀋陽鉄路総医院と遼寧湯岡療養院に連れて行き、そこで一ヶ月余り療養して、さらについでに大連の海浜療養院に行き、幼い段霊雲のために療養と気晴らしをさせたのである。最後にはやはり天津医院から中国の最も権威ある医院である北京協和医院に移り、三ヵ月半の入院治療により、段霊雲はようやく病魔に打ち勝ち、健康を回復することができた。段霊雲の第二回目の大病では、前後合わせて半年余りの時間をかけて治療し、父親段連祥の全ての心血を注ぎ込み、また家にあった貯蓄を使い果たしたが、方おばあさん(川島芳子)も彼女の養女としての責任を果たし、ようやく娘の段霊雲の貴重な生命を救うことができた。ここに特に挙げておかなければならないのは、段霊雲がこのたびの大病の期間、方おばあさんは天津の医院に彼女を見舞いに来て、彼女の治療費として多額のお金を残していったということである。
方おばあさんと一緒に生活した日々の中で、方おばあさん(川島芳子)は小雲子に対し母親としての責任を尽くし、彼女に日本語、唱歌、舞踊、吟詩などを教えた。段霊雲は余り勉強が好きではなかったので、方おばあさんに少なからず殴られた。唯一段霊雲が学んだと感じているのは、彼女の字がとても綺麗なことで、これも方おばあさん(川島芳子)の彼女への厳しい教育と切り離すことができない。

一九四八年年末に、川島芳子は《老七》・于景泰・段連祥の護送と手配の下、長春市郊外の新立城鎮斉家村に来て、長期にわたり隠居する住所を選択した。その次の年(一九四九年)、五歳の小雲子(段霊雲の幼名)は父親の段連祥の手配で、毎年夏になると新立城に行き方おばあさん(川島芳子)と共に生活し始め、その後十年余りの長期間、小雲子が一九五八年に仕事に参加するようになるまで続いた。
小雲子は幼いときからお喋りが好きで、男の子のようによく動く性格であった。新立城方おばあさんの家で、彼女は方おばあさんの教える日本語や詩歌や絵画などの種類の学業を学ぼうとせず、女の子のような針仕事や家事もしたがらなかった。ただ近所の子供たちと戸外で遊ぶのが好きで方おばあさんの意に沿わなかった。
川島芳子は自身の隠れ住む安全を考慮して、小雲子のお転婆を変えるために、小雲子を叱ることが少なからずあった。普段は方おばあさんのそばで、小雲子は方おばあさんが厳しいのを恐れて、打たれないように家の中でじっとして、あえて危険を冒すことはなかった。方おばあさんには昼寝の習慣があり、小雲子が睡眠中に外へ出て近所の子供と遊ぶのを防ぐために、毎日昼ごはんを食べた後は、家の門の鎖を閉じて、小雲子を呼んで一緒に昼寝をしていた。だんだん、小雲子は長時間にわたり「軟禁」されている状態に耐えられなくなり、彼女は鍵をこっそり盗んで門を開けようと思いついた。
毎回方おばあさんが門の鎖を閉じると、小雲子はこっそり方おばあさんが鍵をどこに置いたかを見ていた。数日観察した後、小雲子は方おばあさんが門を開ける鍵を、いつも仏壇棚の引き出しに置いていることに気づいた。鍵がどこにあるかを知ると、小雲子は方おばあさんの昼寝の習慣を推し量り、万が一の情況に備えた。彼女は方おばあさんが昼寝するころを見計らって、こっそり鍵を引き出しから取り出し、家の門を開けて近所の子供たちと遊びに行った。少し時間が経つと、小雲子は《方ママ》がとても怖かったので、いつも方おばあさんが目覚めて彼女が鍵を盗んで遊んでいる秘密に気づいて、しかられるのではないかと気になって恐れていた。そこで、小雲子は方おばあさんが目覚めないうちに、早めに部屋に帰って、方おばあさんのそばに寝て、寝ているふりをしていた。
しかし、何回も重ねているうちに馬脚を現すもので、ある日の午後に、近所の子供と遊んでいて時間を忘れ、小雲子が遊び疲れて部屋に戻ってみると、ちょうど方おばあさんが仏壇の棚の引き出しを見ているに気づいて、小雲子は恐れおののいて方おばあさんにきっとひどく叱られると思った。自分が間違っていることを知っていたので、小雲子は観念して手を垂れて部屋と地面の間に立ち、方おばあさんの顔を正視できず、頭を垂れて、《方ママ》に叱られるのを覚悟した。
この時、《方ママ》は血相を変えて怒り、大きな目で小雲子を見つめると、何も言わずに《七叔》の持って来た指揮棒を持ってきて、小雲子の右手の手のひらを引っぱると、ビシバシと叩き始め、小雲子の右の手のひらが腫上った。この時満面怒っていた方おばあさんは怒りのあまり涙を流した。それだけでは終わらず、方おばあさんは小雲子に罰として手伝いをさせ、小雲子に庭にいるニワトリの食料を削り、ウサギを食べさせ、窓を拭き、部屋を片付けさせ、仕事が終わると小雲子に垣根を前にして反省のため立たせ、晩御飯の時間になるまで、罰は終わらなかった。
このたびの方おばあさんの小雲子への教訓は、小雲子が幼年の記憶の中で最も深刻なものの一つである。これより、小雲子は心を入れ変えて、方おばあさんが首を縦に振るまで、絶対に彼女の意思に反するようなことは再びしなかった。
方おばあさんは半日にも渡る小雲子への罰を終えると、晩御飯の後に、小雲子をそばに呼ぶと、小雲子の腫上った右の手を擦りながら、小雲子を諭すように述べた。
「雲子!私がどうしてあなたを打ったかわかる?どうしてこんなにひどく打ったか!」
小雲子は答えていった。
「うん。おばあちゃんは私が近所の子供と遊ばないようにでしょ。」
方おばあさんはまた尋ねた。
「じゃあ、どうして外へ遊びに行ってはだめと言うかわかる?」
小雲子は答えた。
「わかんない!」
この時、方おばあさんはため息をつき、その後、小雲子に言い聞かせるように言った。
「ここから遠くないあの池ではね、ここ数ヶ月に二人も溺れて死んだのよ。そのうちの一人は九歳になったばかりの男の子の亮亮ちゃんでね、あそこの池の側でカエル取りをしていて、うっかり池に滑り落ちてあがれずに溺れ死んだのよ。大家の逯家の人がいうにはね、亮亮ちゃんの父母は楡樹市の人で、亮亮はお母さんが新立城のお姉さんから養子にもらって育てていた一番下の息子で、その上には四人のお姉さんがいたけど、男の子はいなかったから一人貰って来たのよ。この間、亮亮は父母と一緒に楡樹からいとこのお兄さんの結婚式に来て、結婚式が酣で、大人たちが酒を飲んで盛り上がっていたときに、亮亮は何人かの子供と席を離れて、池の側でカエルを捕まえていたの。すぐに亮亮が溺れ死んだという悪い知らせが伝えられて、おめでたい結婚式の場が一瞬で滅茶苦茶になったのよ。亮亮はとてもいい子で聞分けのよい子だったから、みんなが死んだことを悲しんだの。亮亮の尾と父母は楡樹に戻った後、毎日死んだ子供のことが忘れられず、父親は悲しさのあまり気が狂い、母親は世間を見限って、娘たちをみんな新立城のお姉さんに預けて、頭を丸めて出家して比丘尼になったのよ。」
小雲子は話に聞き入っていたが、疑問に思って尋ねた。
「方ママ。比丘尼って何?」
方おばあさんは小雲子に続けて言った。
「女の人が出家すると尼さんで、尊敬して言うと比丘尼よ。男の人が出家すると和尚で、尊敬して言うと比丘僧よ。あなたもこれからは出家した人にあったら、尊敬して比丘僧とか比丘尼と呼ばなければだめよ。わかった。女の出家した人を直接尼さんと呼んではだめよ。こう呼ぶのは出家した女の人に無礼なことよ。」
方おばあさんはまたも続けて小雲子を諭して言った。
「あなたを外に出して近所の子供と遊ばせないのは、あなたが池に行ってカエル取りをしないか心配だったからよ。もし水の中に落ちて溺れなくても、あそこの汚い水で遊んだら、あなたの手の疥癬(段霊雲は幼い頃に手に疥癬を患っていた)がよくならずにもっとひどくなるでしょ。」
方おばあさんは再び例を挙げて述べた。
「あなたのような子供はもちろん、この村には、たんこぶ喬爺さんという四十歳の農民がいたのだけど、去年の夏に池の側で数人の農民と土地を耕していたときに、タバコが吸いたくなって、池の側に行ってタバコを出して一服しに行ったの。足が泥だらけで汚れていたので、池の水で足を洗おうとして、池の方に足をのばしたら、思いがけず足がすべって池にはまってしまったの。土地を耕していたほかの農民がいつまで経っても戻ってこないのでおかしいと思ったけど、あいつはいつも仕事をせずに怠けているから、どこかに行って怠けているに違いない、なんでもないだろうと話していたの。そうしてみんなが耕作を終わって家に帰る途中に池の側を通ると、たんこぶ喬爺さんの死体が池の上に浮いていて、みんなびっくりして持っていた鋤を池の周りに放り出して、すぐに派出所に池で人が死んでいると伝えに言ったのよ。ここの池ではここ数年で何人か溺れ死んでいて、何か祟りがあるのかもしれないわ。きっと河童が出てきて言うことを聞かない子供を引きずり込むのよ。小雲子、あなたは河童に捕まえられるのが怖くないの?」
方おばあさんはこう怖がらせるように話をしたので、小雲子はよく記憶しており、そのため二度と近所の子供と遊びに外へ出なくなった。
この二つの例から我々が見て取れるのは、川島芳子が新立城で隠れ住む安全の為に、つねに慎重に行動していたということである。彼女が厳しく小雲子に外へ出て遊ばないようにしていたのは、小雲子が顔を出せば他の人がこの外から来た子供に気づいて、さらに大人を連想させて、方おばあさんが外界からの注目を浴びることを恐れたからであろう。その他にも、もし万が一にも小雲子が新立城でなにか事件を起こしたり、或いは池に溺れでもしたら、当地の人は必ず警察に報告するだろうし、派出所がこのことを調査すれば、家に閉じこもって外出しない方おばあさんの真相が暴露される危険があった。こうして考えると、川島芳子が自分を保護するために新立城という人のあまり知らない辺鄙な田舎町に長期にわたり隠れ住んでいたのは、やはり彼女が熟慮のすえ、あらかじめ発生しそうな危険を予測してそれを避けるためであったろう。
段霊雲の紹介でも、方おばあさんはいつも熱心に仏像に向かい、修行していただけでなく、道家の迷信やタブーなども研究して、何か事が起こると掛をして、吉凶を占っていたのも、一種の迷信とはいえやはり彼女の慎重さの一面を反映しており、無事に余生を送るための苦肉の策であったとも思えるのである。

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