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2015年12月13日

中国内陸部のB−29基地

今日の中国テレビのドキュメンタリーチャンネルの番組「大後方」では中国内陸部に建設されたB-29の基地が取り上げられていた。太平洋戦争末期におけるB-29の日本空襲のための基地として、中国内陸の重慶・成都・昆明などに巨大な滑走路が建造された。飛行機はインド経由で飛来し、長い航続距離を利用して日本本土まで爆撃した。

中国では中学生の子供たちや子供を背負った婦女までが滑走路建築に動員され、お碗一杯の臭い飯と大根に塩を欠けたおかずだけで働かさせられた。B-29は大型の航空機だったため滑走路も大変に長く、滑走路の舗装に用いるローダーも人力で押していたため、下り坂などでローダーが暴走して人がひかれてしまう事故が発生したという。

米軍陸軍航空隊21連隊の延べ1000機以上のB−29が日本を空襲し、1944年6月には成都から飛び立ったB-29が八幡製鉄所などを爆撃した。ただ中国内陸からの爆撃は燃料を大量に消費し燃料を確保することが困難なため、後にはグアムやサイパンなどの太平洋側からの爆撃が多くなる。日本側はレーダーがあまり整備されていなかったことや高高度を高速で飛ぶB-29を迎撃するのが困難であったことなどがあり、B-29の空襲で本土のインフラは壊滅状態になった。

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2015年12月12日

第3回東北アジア比較法学会

本日は中国の吉林省で開催された第3回東北アジア比較法学会に参加してきた。この学会は3年に一度大会が開かれ、日本・韓国・モンゴル・ロシアから数名の学者や法律関係者が招待され公演をする。私がこの学会に参加するのは第二回大会から2回目である。場所は国家検察官学院吉林分校で、建物だけは大学並みに施設が充実して立派で新しくて美しいがあまり使用されている形跡がない会議にはもってこいの場所であった。

今回日本からは北海道大学の尾崎一郎教授と北海道大学名誉教授で明治大学教授の鈴木賢教授が招待講演者であった。尾崎一郎教授は法廷での外国人の扱いや翻訳の問題を発表しておられた。また鈴木賢教授は流ちょうな中国語で性転換をした人の婚姻や、性転換をした人に生まれた子供の認知の問題などについて発表された。

今回の比較法学会から見えてきたのは、以前の日本を近代化の手本としてその法律を学ぶといったスタイルの発表が全くなくなったことである。さらに以前は多かった日本との法律の比較そのものがあまり発表されていなかった。これは日本の国際的地位の低下や経済力の低下、また日中関係の緊張状態により需要そのものが減少していることもあるだろう。また中国の近代化がすでに日本を凌駕しつつあり、日本がすでにモデルたりえなくなってしまったことが関係している。

その代わりにロシアやモンゴルとの貿易や知的財産権を巡る実務的な問題の解決方法についての議論が増加していた。これも現在法廷や法律関係者の間で需要の大きいトピックであり、中国東北地方でのロシアやモンゴルとの貿易量の拡大が関係しているのであろう。また台湾と中国の間では専門に部会が開かれて主に知的所有権について論じられ、確実に中台の関係が密接になっていることが見て取れた。

タグ:中国 法律

2015年12月11日

重慶時代の老舎

今日の中国中央テレビのドキュメンタリーチャンネルの番組「大後方」で取り上げられたいたのが作家の老舎である。老舎は北京で生まれた満州族で、父親は義和団事件の後の八か国聯合軍の攻撃でなくなったため母親が女手一つで育てた。1924年にロンドン大学に留学し1930年に帰国して斉魯大学教授などをしながら作家として数々の小説や戯曲を書いた。
老舍
1938年より中華全国文芸界抗敵協会常務理事となり重慶に移り,重慶の国泰劇院という劇場で演じる風刺劇『残霧』を発表した。この劇の中では救国を口にしながら戦争を利用して大金儲けをする国民党高官への風刺が描かれていた。また『面子問題』を発表したが、これも些細なことで言い争う官僚を風刺したものであった。

老舎の妻と3人の子供たちは老舎の母親の世話もあり北京に残り、家族が重慶で再開できたのは6年後のことだった。妻たちが再会した時には老舎は盲腸の手術の後で病床に臥せっており、いっぺんに年を取って老人のようになっていたという。終戦間際には大作の『四世同堂』を書き上げ、日本軍占領下の北京の様子を描き出した。

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タグ:老舎

2015年12月10日

中国の兵器工場と李承幹

今日の中国中央テレビのドキュメンタリーチャンネルの番組「大後方」で取り上げられていたのが、南京の金陵兵器工場をいち早く重慶に移転させた李承幹という兵器製造の専門家の話であった。李承幹は1888年に湖南の長沙に生まれ、1917年に東京帝国大学で電気工学を学んで中国に帰国する。それから南京の金陵兵器工場で機関銃や迫撃砲の開発と生産に携わっていた。
李承干
南京の金陵兵器工場は清朝末期に李鴻章が建設したものだが、幹部の腐敗や職工の怠慢などが原因で生産効率が上がらなかった。李承幹が工場長となってからは、職工の賭博や麻薬の使用を禁止するだけでなく職工の福利厚生に力を入れて給料を上げたので生産効率が飛躍的に伸びたという。

日本軍の南京や上海の攻略により、南京や上海の兵器工場は重慶などの土地へ移転せざるを得なくなった。この兵器工場の移転の指揮を執ったのも李承幹で、重慶の岩山に半分は地下の防空壕に工場を作り半分は地上に即席の建物を建てて武器の生産を再開した。

東京に留学中は孫文らの同盟会に所属し辛亥革命の運動にも参加したが、蒋介石の指導する国民党には批判的で国民党入党を拒否し台湾にも渡ろうとはしなかった。表面的な肩書としては国民党軍の中将の肩書だったが、秘密裏に中国共産党員にもなっていた。中国共産党政権成立後には国家計画局局長や全人代代表などを歴任している。

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タグ:李承幹

2015年12月09日

翁文灝と石油開発

今日の中国中央テレビのドキュメンタリーチャンネルの「大後方」では、戦時中に甘粛省玉門油田を開発した一家の物語が扱われていた。戦時中は海岸沿いを日本軍が占領し海岸線の輸送を封鎖したため、中国では石油不足に陥り自動車も飛行機も石油が無くて動かせない状態に陥った。そこでビルマルートを使って陸路で石油を運ぶ方法と、石油の中国国内での開発が試みられた。中国国内で石油開発を始めたのが翁文灝の家族であった。

ビルマの援蒋ルートはインドのカルカッタからビルマを経由して雲南省まで運ぶというもので、人海戦術で道路を建設し戦争末期にはパイプラインまで敷いた。もう一つはスティルウェル将軍の指揮で飛行機でヒマラヤを越えて物資を運ぶというものであった。どちらも距離が長い上に日本軍のビルマ攻撃などでしばしば中断させられた。

甘粛省の玉門に油田を開発したのは翁文灝とその息子たちであった。翁文灝は清末にベルギーのルーベン大学に留学し、地質学を専攻して帰国した石油開発の専門家である。北京大学や精華大学でも教授として地質学を教え、中国の地質学の基礎を打ち立てた。
翁文灝
翁文灝の長男の翁心源はアメリカに留学してパイプラインの建設を学び、中国の玉門油田の輸送パイプラインを設計建築した。また翁文灝のいとこに当たる翁文波は英国に留学して地質学を学び、数々の油田を発見し後には黒竜江省の大慶油田を発見している。

もし満州国時代の日本が黒竜江省に大慶油田を発見できていれば、その後の歴史もかなり展開が変わっていたたであろう。

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2015年12月08日

龔澎と喬冠華

今日の中央テレビのドキュメンタリー番組では龔澎と喬冠華という夫婦で中国共産党の外交部で活躍した人物を取り上げていた。どちらも重慶の共産党の事務所で周恩来と密接に働き、主に外国人向けの報道や宣伝などに携わった人物である。

龔澎は1914年に日本の横浜で生まれ、父親は孫文と共に辛亥革命に加わった革命家であった。燕京大学を卒業した才媛で日本語や英語などを流ちょうに話したため周恩来の目に留まり、重慶の共産党の事務所で秘書や外国人向けの報道官として働いた。このころに後にハーバード大学の中国学教授となるフェアバンクなど外国人と親しくしていた。
龔澎
夫の喬冠華の方は精華大学を卒業した後に日本の東京大学へ留学し、さらにドイツのチュービンゲン大学で哲学博士号を取得するなどして帰国した大変な秀才であった。中国に帰国後はやはり周恩来の下で「新華日報」の編集や国際記事の執筆に携わった。戦後は外交部の部長となり国連代表団となったり、ニクソン訪中の下準備などに関わっている。
喬冠華
中国共産党の中には海外留学の経験があったり高学歴のものが少なくない。周恩来やケ小平はフランスに留学していたし、朱徳はドイツに留学していたし、葉剣英や江沢民はソ連に留学していた。当時からしてもかなりのエリートの集団であったといえるだろう。現在の習近平主席と李克強首相も中国で一流の大学の出身で、二人とも博士号を取得している。中国は日本以上の学歴社会なのだ。

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タグ:龔澎 喬冠華

2015年12月07日

ジョージ・ハテム

中国中央テレビのドラマ「歴史永遠銘記」で取り上げられていたのは、中国共産党軍で軍医として従軍した外国人医師のジョージ・ハテム(中国名:馬海徳)である。共産党軍で軍医として従軍した外国人には、もう一人有名なベチューン(中国名:白救恩)というカナダ人もいる。

ジョージ・ハテムはレバノン系アメリカ人でニューヨーク州のバッファローに生まれた。その後にノースカロライナ大学やスイスのジュネーブ大学などで医学を学び、上海にやってきて診察所を開いた。1936年にジャーナリストのエドガー・スノーと共産党の根拠地を訪れて、医者が必要とされていることを知り共産党軍の軍医となる。
馬海得
中国人と結婚して1946年に中国共産党政権が誕生すると中国籍を申請して、外国人で初めて中国国籍を獲得した人物となった。文化大革命では迫害も受けたが、一貫して北京の病院で皮膚科の医者として勤務した。アラビア語を話し、中国のイスラム教徒からしばしば尊敬されたという。

共産党軍に加わった外国人の手記や報道を見てみると、中国国民党が腐敗ゆえに多くの外国人から非難されたのと対照的に、戦時期の中国共産党がその清貧さでまじめな外国人を引き付けたことがわかる。つまり中国が共産党政権の国家となったことには一定の内在的な歴史的原因があったことは否定できないのである。中国の共産化についてはアメリカの外交の失敗やコミンテルンの陰謀を強調する議論もあるが、それらのみに原因を帰することはできないだろう。

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2015年12月06日

重慶大空襲

今日の中国中央テレビでのドキュメンタリーチャンネルでは重慶大空襲が取り上げられていた。日本人は東京大空襲は知っていても、日本軍が中国の首都であった重慶を何度も空襲していたことはあまり知らない。日本軍は占領した漢口の飛行場から1938年から1943年までの間に218回も重慶を空襲し、出動した爆撃機は延べ9000機、投下した爆弾の数は11500発にも上るという。

また、この爆撃では焼夷弾も用いられたが中国の家屋は日本とちがい木造ではなくレンガ作りが多いので東京大空襲ほどには効果がなかったようである。重慶市民は防空壕を掘って対応したが、それでも長期にわたる頻繁な爆撃で2万人以上が空襲で死んだと推計されている。

中国側も防衛のため飛行隊を飛ばして反撃したりソ連の志願飛行部隊による反撃を試みた。また地下に大規模な防空壕を掘り対応したが、初期には防空壕に入るためにチケットを金を出して購入する必要があり金持ちしか入れなかったという。また後期にはあまりに多くの人が防空壕に殺到したため、酸欠になり防空壕の中の人が呼吸困難で死ぬという事件もあったという。

重慶大空襲は日本軍の陸軍航空隊指揮官であった遠藤三郎中将が度重なる爆撃にもかかわらず、あまり効果がないことを知り「重慶爆撃無用論」を陸軍参謀本部に提出し爆撃を中止したという。遠藤三郎中将によれば、中国側は深く張り巡らされた防空壕や郊外への疎開により対応しており、首都への爆撃という心理的な作用に対する効果は期待されないとする内容であった。

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2015年12月05日

西太后は漢族だった説

西太后と言えば清朝末期に権力を振るい、光緒帝を幽閉したり珍妃を井戸に投げて殺したりと残虐な悪女として知られている。正史では西太后は満州族の中のイェヘナラ氏という氏族の出身ということになっている。このイェヘナラ氏は皇帝の一族である愛新覚羅家に部族争いで滅ぼされた時に、いつか一族の女が愛新覚羅家を滅ぼすだろうと呪いをかけたので皇帝家はイェヘナラ氏から嫁をもらってはいけないという言い伝えがあったという。その言い伝えを守らずに咸豊帝が西太后を寵愛したために清朝が滅びたというまことしやかな伝説まである。

ところが西太后は実は満州族ではなく漢族の出身で、満州族に奴隷として売られた子供だったという説が中国で急速に認知度を高めている。満州族の貴族だった養父が自分の子供を宮廷に差し出すのが嫌で、買ってきた漢族の子供を身代わりに宮廷に差し出したところ皇帝の目に留まって妃となったというのである。

この説を唱えているのは山西省の長治県の歴史研究家で、長治県には西太后が生まれたと伝わる場所があり、そこのある家には西太后が何度か生家に送って来た贈り物や手紙の一部が残っているという。その西太后の生家と伝わる家の子孫の話では、貧困な家庭に生まれた女の子をその地に赴任してきた満州族の高官に売ったところ、その高官が宮廷に自分の子供の身代わりとして差し出して妃となったというのである。生家と西太后とは大きくなってからも手紙などでやり取りがあり、その一部が残っているという。

そしてその証拠として、山西省の生家に送って来たとされる物品は確かに清朝の宮廷のものだという。また西太后の満州語があまり上手でなかったことや山西省の歌をよく歌っていたことを思わせる記録があることなどを挙げている。
西太后
この西太后は漢族だったという説は数年前には中央テレビで紹介されたため、中国で徐々に認知度を高めてきている。確かに李鴻章との密接な関係や自分の妹の子であるはずの光緒帝との衝突を考えると、西太后が漢族出身であったと考えると納得できる部分もあり歴史ミステリーとして面白い説である。

下は日中合作で撮影された西太后のドラマ「蒼穹の昴」で、中国でも「おしん」で有名な田中裕子が西太后を演じている。

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タグ:西太后

2015年12月04日

蒋百里

今日の中国中央テレビのドキュメンタリーチャンネルの番組「大後方」で取り上げられていたのが、蒋百里という軍事理論家であった。あまり日本では有名ではないが、1904年に日本の陸軍士官学校を卒業しており奥さんも日本人だ。蒋百里は日本留学後もドイツに留学して軍事を研究し、帰国してからは中国の保定陸軍軍官学校校長や中国の陸軍大学校長などを歴任した。
蒋百里
軍人なのだが実戦で軍隊を率いるタイプではなく、どちらかというと専ら軍事理論と教育の方面で活躍した人物だった。奥さんは日本人で女の子ばかり五人を産んで育て、そのうち三女は後に銭学銭というロケットや原爆の開発で有名な物理学者と結婚した。蒋百里自身も学究肌で梁啓超や胡適や徐志摩といった文人とも交流があった。

1933年には日中戦争が起こることを予見し、日中がもし開戦した場合には中国は海岸沿いを放棄して内陸深くに後退し持久戦に持ち込んで日本の消耗を待つという作戦を立てた。そして蒋百里の作戦通りに中国は以前の首都であった北京や南京が陥落すると四川の重慶という内陸の都市に移動して、持久戦に持ち込んだのであった。

また西安事件では張学良に軟禁された蒋介石を説得して周恩来と会談するよう仲介した。蒋介石は若い頃に蒋百里が校長だった保定軍官学校の生徒であったことがあり、このかつての恩師を尊敬していたという。

今年は習近平と馬英九が握手するなど中国共産党と国民党が再び合作する姿勢を見せているせいか、これまであまり取り上げられることのなかった国民党系軍人が再評価されており、蒋百里はその再評価された一人であろう。

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タグ:蒋百里
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