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2015年11月20日

中国と東京裁判(18):『梅汝璈日記』15

1946年5月4日 土曜日
今日は極東国際軍事裁判の開廷第二日目である。朝起きてスター・アンド・ストライプス紙とジャパン・タイムス紙を見ると、どのページも裁判の昨日の開廷のニュースと裁判官や戦犯や法廷警備などのいろいろな写真があった。最も注目を引くのは半ページを占める法廷の全景で、新聞でも大川が東条の頭を叩いたことが細かく描写されていた。

今日は九時半から開廷で、私は九時に裁判所に到着し、同僚たちと会議室で三十分ほど話をした。開廷の儀式は完全に昨日と同じで、傍聴席はやはり客で一杯であった。我々はゆっくりと審判台に上がり席に就くと、裁判長が書記官代理に続けて起訴書を読むように命令し、第二十三の訴因から始めて、一段読み終わるたびに翻訳し、いささか聞く人を飽きさせた。

朗読の長い過程で、私は今日は注意して各戦犯の様子と表情を観察した。私は彼らの姓名と写真と座席を対照しながらなん度も見た。彼らの名前と顔とは私に多くの記憶と憤激を呼び起こしたが、特に前列右端に座っている顔の丸い土肥原である。彼は強いて沈着を装っていたが、時々ひどく身震いをし、不安な様子を表していた。東条は依然として身動き一つせず粘土の人形のようだった。荒木は七十歳の老人だが(彼は十万の竹刀でロシアを滅ぼすという馬鹿らしい主張をした)、彼の銀白色のヒゲが八字に長く伸び、以前の写真のように整ってはいなかった。この老人の目は静かに見開き、唇は何か言いたげにわずかに動き、見た感じとても頑強そうに見える。そのほかは名前は一時大変に轟いたが、彼らのこの時この場所での様子は大変に普通であった。なるほど今日のスター・アンド・ストライプ紙が戦犯たちを「当時の強大な帝国の統治者の一群には見えない」と形容したのもうなずける。本当にこの人々からは今日は確かに当時の威風と堂々とした様子を見ることができない。彼らはまるで東京で公共バスにたまたま乗り合わせた乗客のように平凡である。最も哀れなのはあの国際的に一時たいへん有名となった松岡洋右で、彼は九一八満州事変の後に日本を代表して国際連盟を脱退し、中国を地理上の名称として侮辱し三国防共協定と日ソ中立条約を締結しモスクワ駅ではスターリンと抱き合って接吻すらした。この男は今日は顔色が悪く痩せて憔悴しきった様子で、顔に口ヒゲが伸びているほかに顎鬚も生やしていた(英字新聞によればHe had a moustache and a beard.)。確かに彼のヒゲは伸び放題で、整えておらず荒れていた。その次は南京大虐殺の元凶である松井石根である。なんということか彼はまるで飼いならされたヤギのように恐縮している。この言葉は全くほかに適当なものがない。松井大将を見て私は『日の出』の中に出てくるあの小職員を思い出した。

この一群の戦犯たちは外見的には全く中国人とたいした区別はない。本来のところ日中は同文同種であり共存共栄するべきなのである。しかしこれらの戦犯と彼らの先達たちは、偏った民族優越の謬論を高く掲げて、その国民を害し彼らを夜郎自大の誰も目の中にないようにし、中国を滅ぼそうと妄想し、東アジアを席巻し、世界を征服しようと企てたのである。これらの徳もなく力もない戦犯は日本国家と民族を空前の災難に遭わせた。彼らは中国の敵であるだけでなく、世界の敵であり、また日本人民の敵である。我々は彼らの困惑した表情を見て、心の中に一面では民族の怒りの炎が燃えたぎり、もう一面では同種の悲哀を感じざるを得なかった。私は私がこのたび参加した歴史的劇で努力する事で、世界各民族の本当の相互の尊敬と相互の許しと共存共栄の新たな原則を作り出すのに貢献したいと願った。

起訴書の朗読が十時半になると、裁判長は十五分の休憩を宣言し、我々は会議室に戻り、それぞれ一杯のコーヒーを飲んだ。十時四十五分になって再び開廷した。松岡の弁護士が松岡の身体の情況が悪いとの理由で退廷を申し出た。ウェッブは「すぐに倒れるような危険がありますか?」と尋ねると、弁護士は「あります。」と答えた。しかしウェッブはその要請を許可せず、この問題は次の休憩時間に裁判官会議で決定すると述べた。
続けて朗読と通訳が行われている間、私は戦犯たちを注視するほかに、同時にいくつの訴因が中国に関係があるかを数えた。私は五十五の訴因のうち、十二個が完全に中国に関係があり、三個が中国と密接な関係があることに気づいた。我々の証拠資料は多くはなく、将来検察処が十分にこれらの訴因を実証できるのだろうか?ここまで考えると、私は少し心配になってきた。

十一時半に起訴書の朗読が終わり、五十五の訴因を二種の言語で読み終わった。しかし、これはただ主文だけで、主文は全体の起訴書の三分の一を占めるに過ぎず、附録が三分の二を占めている。ここまでで、皆は退屈で耐えられなくなってしまった。裁判長が被告の弁護士に附録の公開の朗読をとりやめることに同意するかどうか尋ねた。被告の弁護士は十分間相談してから答えたいと申し出た。その結果附録は読まないことで同意した。これでみんなはほっと一息ついた。もしそうでもしなければ二つの言語で読めば少なくともさらに六七時間は必要だからである。

約十一時半に裁判長が休廷を宣言して、来週の月曜日九時半に再開する事とした。法廷を退出してからバーですこしみなでおしゃべりをした。私はホテルに戻って昼食を取った。この二日はとても神経が緊張し、体も少し疲れたので、昼寝して起きるとすでに四時過ぎであった。

自動車に乗って三十分ほどドライブして新鮮な空気を呼吸して、ついでに中国連参処にここ数日の中国のニュースを見に行った。フーバーが中国に食糧危機を調査しに向かい、マーシャルが国共の調停を行い平和にむけて努力している。国民大会は延期を宣言して、国民政府は正式に五月五日を首都が南京に戻った記念日とした。

ホテルに戻りしばらく休むと公亮(朱世明)将軍からの電話で、私を中華レストランの天華楼に誘って食事をしたいとのことであった。私が七時に到着すると、同じ机に明思(向検事)淡如(王之将軍)、公亮(朱世明)自身の外に、さらに一人の米国運輸司令のバンダ大佐と彼と共に上海から日本に到着した石女史と祁女史(医者)がいた。

夕食を食べて、みんなとても楽しく過ごし、明思(向検事)以外はみな全員で帝国ホテルの音楽ホールでダンスに行った。中国の女性が帝国ホテルでダンスをするというのは、戦後初めての型破りだったので(私は戦前のことは知らない)、たいへんに注意を引いた。十時に日本の舞踊団が西洋のダンスをしたが、先週よりは進歩したようだ。日本人は模倣が得意だが、しかしなにか虎を犬のように描くような感が否めない。十二時にダンスを解散して、みんなと別れた。私は部屋に戻りシャワーを浴びて、寝たときには一時過ぎていた。昨日と今日とは新鮮で刺激に満ちた二日と見なさざるを得ない。

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2015年11月19日

中国と東京裁判(17):『梅汝璈日記』14

1946年5月3日金曜日
今日は極東国際軍事裁判の正式な開廷第一日目で、私が演出に参加する歴史的な劇の第一幕が開ける。私は三ヶ月前に重慶で政府から命令を受けた時のことを思い出していた。わたしは司法経験が欠乏しているし復員して家族の居る故郷に戻ったばかりで離れたくなかったので、政府の命令を受けた次の日に辞職願いを書いて外交部から行政院に提出してもらった。しかし数日もしないうちに外交部当局は孫院長に勧めの手紙を書かせて持ってきて、孫院長本人も私にこの命令を受けるように慇懃に勧める。

記憶しているのは、ある時に話していると彼は「これはとても得がたい機会で、価値があり興味深いだけでなく歴史に名を残すことができる。思ってみたまえ、半年も前には私たちは今日のようにほっと出来る日が来るとは思わなかっただろう?去年の今頃には独山も都奄煌ラ落して重慶の人でさえ恐れおののいて、どんな様子だったことか」と述べた。私は「国家の興亡は変化が激しくて予想しにくく、劇を演じているかのようです」と答えた。孫院長は「世界は元々一つの舞台で、歴史も一つの連続ドラマのようなものだ。劇だというのならば、君もひとつ配役を演じてもいいだろう」と述べた。

確かに彼の言う通りで私はすでに一つの役を担当しており、我々の劇はもうすぐ開演の時を迎えている。裁判所の規定時間は十時半だが、交通の渋滞を避けるためまた臨時法官会議が開かれるかもしれないので、私は九時半にホテルから裁判所へ向かった。街道では特に何も見えなかったが、もうすぐ陸軍省に着くという付近で行く人も車両も普段より多くなり、裁判所の入り口は警備が普通に比べて非常に厳重になっていた。大門を入ると広場にたくさんの車両が並んでいた。そのうちの一台の固く閉められた救護室のある大きな車が話によれば今日の朝二十六人の戦犯を乗せてきた車で、彼らは八時半に巣鴨監獄からここに連れて来られた(他の二人は南洋から今日の午前に東京に連行された)。

私は裁判所に入って毅然として自分の事務室に行った。マクドゥガル氏は私より先に来ていて、彼が近づいてきて数分間話をした。十時過ぎころ程なくして朱公亮(朱世明)将軍と私が迎えにやらせた羅秘書が一緒に来た。数分間話して私は羅秘書と方秘書を招いて彼らを「貴賓室」に座らせ、私は法衣を着て会議室に行き同僚と話したがこの時には九名の同僚がほとんど皆到着していた。それから英国のライト卿(Lord Wright 彼は特別に日本の視察に来ており、ニュンルンベルク裁判も見たという。彼はかなりの高齢だが国際法の権威として知られている)がいて、私たちと共にその場で話をした。

十時半になると総指揮が報告して二人のタイから連行された板垣征四郎と木村兵太郎の飛行機は今日の朝にすでに厚木飛行場に到着し、二人の戦犯を乗せた車は現在東京に向かっているところでまもなく法廷に到着するとのことであった。

私はこの知らせを聞いてとても嬉しく、観衆に三十分開廷を延期する事を報告するよう総指揮に命じる決定をした。この二人の戦犯のために日を改めてもう一度「演出」する必要をなくすためである。十一時すでに十分を過ぎたが、二人はまだ到着せず、電話で飛行場に尋ねると出発して二十分しか経っていないというので、少なくとも到着まであと一時間はかかる。我々は観衆が失望しないように、すぐに開廷する事にし午後に続けて開廷した時に起訴書を再読することにした。

裁判官たちの入場と席次はもう問題ではなくなっており、今日裁判所に到着した時に裁判長から書面で通知があり、裁判長が一番目のほか行列と席次は米、中、英、ソ、カナダ、仏、ニュージーランド、インド、フィリピンの順序となった。私たちは一列に並んで、私は米ソの間に入り、門のところに到着すると、総指揮が「静粛に」(Silence!)と声を上げ、我々が門に入る時には「観衆起立」(Spectator rise!)と叫び、我々は順番に審判席に上がり、各人が自分の席の前に立って、全員がそろってから座った。私たちが座ると、総指揮が「着席」(Be Seated!)と叫び、その場にいた検察官・職員・観衆の全体が席に就いた。

法廷はとても大きく、廊下はとても長く、審判席は高く、裁判官の人数は多くて、動きにくい法衣を着ているので、裁判官の登場だけで十分近くを占めてしまった。この時は最も緊張して、全会場からフラッシュが光り、太陽の下にある広場のようにカメラや撮影機から不断に光が浴びせられる。

裁判長のウェッブ氏は彼の準備した開幕の辞を読み、続けて通訳がなされた。憲章に基づいてこの裁判では日英の二種の言語で進められることになっていたからである。裁判長が開幕の辞を読んでいる間、私は裁判所の様子を一通り見渡してみた。審判席の向かいには秘書席と検察官席があり、キーナン検察長が中に座り、中、英、ソ、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、インド、フィリピンの各国の陪席検察官が長方形の机を囲むように座っている。検察官席の左右は二つの大きな長方形の机があり、一つは被告の弁護士、一つは裁判の記録係りと通訳人員である。発言のスピーカーは検察官席と被告弁護士の間に置かれている。

この三つの大きな机の後ろに、審判席に面しているのが戦犯の座席で、これは地面より数メートル高い長方形の台の上にある。二十六人の戦犯が二列に別れて整然とそこに座っている。フラッシュがとても強く、撮影記者がうろうろしており、裁判官たちの挙動も人々の目の監視下にあるので、私はこれら戦犯たちを一人一人を確かめる余裕はなかった。どの裁判官の席にも戦犯の写真が並べてあり、しかも彼らの席順に並べてあった。私はただ中央に座っている東条と太って丸顔の土肥原を確認できた。東条の後ろに座っているのは大川周明であったが、精神病のふりをして時々に騒ぐので、米国の憲兵が後ろで制止して、あるときは力で押さえ込んでいた。彼はすでに書面で精神と身体の状態を鑑定するよう申請を出していた。彼は二十六名の中で最も滑稽で最も注目を浴びた演技者の一人であった。そのほかの各人は仏頂面で、落ち着いた様子をつくろい、特に東条はずっと動きもせず、まるで石膏の人形のようであった。

私はこれら二十六人の人々を認識する余裕はなかったが、彼らと対面している我々は、内心で無限の憤りと、無限の思いが込み上げてきた。これらの人々はみな中国侵略の専門家で、中国を数十年にわたり害し、我々の数百万の同胞が彼らの手によって殺された。だから我々の憤りは同胞の憤りでもある。私が今日審判席に上がってこれらの巨悪の元凶を懲罰する事ができるのは、我々数百万の同胞の流した血と引き換えなのである。私は警告しなければならぬし、また私は慎重にならざるを得ない。

裁判所の右側は二層の座席で、下の座席は完全に新聞記者とカメラマンが占めており、連合国と日本がそれぞれ半分を占め、合計で約四五百人いた。彼らは今日の仕事が一番忙しい一群である。会場の傍聴している群衆は、やはり連合国と日本人がそれぞれ半分を占め、その間ははっきり分けられていた。いうまでもなく傍聴席は人が多くて一杯だが、秩序は良く取れていた。入場券のないものは入れなかったから、今日入れたものはみな何かのツテがあったもので、幸運だったのだろう。聴いたところでは入場券は一週間前にはなくなってしまったそうである。

裁判所の左側はみな二層の座席であるが、場所はやや小さく、およそ一二百人だけが座れる。これらの座席は「貴賓席」である。今日の貴賓席に座っているのはみな連合国の東京にいるVIPたちで、特に米国陸海軍の高級軍人たちであった。我国からは朱公亮(朱世明)将軍一人で、私が羅秘書を遣って招待した。彼は第八軍の軍長でマッカーサー元帥の部下の第一のお気に入りアイケルバーガー将軍と並んで座り、たいへん注目を引いた。マッカーサー自身が会場にいなかったのは、極東に食糧危機の調査に来た米国のフーバー前大統領を迎えに行ったからだそうである。

裁判長の開幕の辞が終わると、キーナン検察長が各国の陪席検察官の紹介をしたいと申し出た。明思(向検事)は真っ先に紹介された一人で、フィリピンのロペス(Lopez)氏の次であった。その次に、裁判の記録官と米国籍と日本籍の通訳人員が宣誓し、総指揮のヴァン・ミーター(Van Meter)氏が宣誓式を司会した。これらの手続きが終わると、裁判長は休廷を宣言して、午後二時半に二人の戦犯が到着してから再度起訴書を朗読する事にした。総指揮が大声で全体の観衆に起立を求め、我々は並んで退場した。裁判官たちは会議室でしばらく休憩して、ホテルに戻って昼食を取る事にした。

昼食の後一時間ほどうたた寝し、二時半前に裁判所に戻った。開廷の儀式は午前と同じで、観衆は依然として一杯であった。戦犯席は二人増えて、今日の午前に専用機でタイから連行された板垣征四郎と木村兵太郎がいた。板垣は中国侵略の主導者で、この名前を私は良く知っていたので、まじまじと彼の顔を見た。

しかし今日は開廷の一日目であったので、すべてが何もかも新鮮で、わたしも対面していた一群の犯人たちばかりを注目してもいられなかった。しかし私はこれらの一群の人々を見ていると義憤に駆られ、まるで同胞の憤りや恨みがすべて私一人の胸の中で叫んでいるかのようであった。まだ時間は早く、これは始まりにしか過ぎず、これらの巨悪の元凶たちはすでに法の縄に就いているのであるから、彼らが正義と公正の厳正なる制裁を免れる事はない。

今日の午後の手続きはとても簡単で、ただ総指揮のヴァンミーター氏と代理書記長のデル(Dell)氏が交代で起訴書を朗読しただけであった。一つの訴因(count)を読み終わるごとに一度通訳が入る。二つの言語を用いるので、これは避けられない面倒である。私は米国から八百個のイヤホンを調達し、この面倒を最適限度まで減少させるよう希望した。

二時間経って、ようやく二十二の訴因を朗読し終えたところで裁判長が休廷を宣告し、明日の九時半に再開する事になった。休廷を宣告している時に、あの狂人を装った大川が東条の頭を二度たたいて、「私は東条を殺したい」と叫び、会場に笑い声がどっと溢れた。

我々が退出した後に会議室に行き、コーヒーを飲みながら大川の問題を討論したが、結果は申請を許可して、彼を収監して裁判所の指定する二人の医者に彼の精神状態と身体の状態を検査させて、法廷で審査するに適しているかどうかを見ることにした。この議案が通過すると、みなは急いで去っていった。これで苦労の一日がようやく終わった。私は明日に中国の飛行機が上海に戻るので、ホテルに戻ってから手紙をすぐに整理し、婉如への贈り物を包んだ。

七時半に私は車に乗って代表団のところに来て、自ら李済之氏に手渡した。約十分間別れの言葉を述べてから、食事のために戻った。食事が終わったのはすでに九時であった。マクドゥガル氏が映画に誘ってくれたが、とても疲れていたので最後まで見ずに映画館を出た。太極拳を練習して、シャワーを浴びたときにはすでに十二時になっていた。今日は裁判が本当に動き始めた一日で、私はすべてがこれから順調にことが運んで、遅延しないように願った。ここまで思うと、私は言葉にできない愉快を感じた。

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2015年11月18日

中国と東京裁判(16):『梅汝璈日記』13

1946年5月2日木曜日
明日は極東軍事法廷の開幕で、私はずっと臨時法官会議が開かれるのではないかと気にかかっていたので六時前に目が覚めた。熱海は温泉浴で有名なので、私は再び湯船に浸かってひと風呂浴びすこしの菓子を食べてから淡如(王之将軍)と車に乗って東京に向かって出発した。運転手は少し疲れているようだったが自動車は平穏に進みスピードも出したので、九時半にならないうちに帝国ホテルに着いた。

方秘書から電話があり、法官会議はなく、法官たちも二三名が裁判所にいるだけとのことであった。私はそこで裁判所には行かない事にし、その時間で起訴書をじっくりと読むことにした。
起訴書は非常に長くて、大きな紙に字がびっしりと約40数枚もある。しかし主文は十四枚だけで残りは附録である。
訴因は全部で五十五項目あり、三つに分類される。
第一類―平和に対する罪(訴因1−36)
第二類―殺人及び殺人共同謀議の罪(訴因37−52)
第三類―通例の戦争犯罪及び人道に対する罪(訴因53−55)
起訴される戦犯は二十八名で、みな近年来日本の政治、軍事、経済、文化の各方面で重大な責任を担っていた首脳級の人物である。彼らをアルファベット順に並べると次の通りである。
1荒木貞夫
2土肥原賢二
3橋本欣五郎
4畑俊六
5平沼騏一郎
6広田弘毅
7星野直樹
8板垣征四郎
9賀屋興宣
10木戸幸一
11木村兵太郎
12小磯国昭
13松井石根
14松岡洋右
15南次郎
16武藤章
17永野修身
18岡敬純
19大川周明
20大島浩
21佐藤賢了
22重光葵
23島田繁太郎
24白鳥敏夫
25鈴木貞一
26東郷茂徳
27東条英機
28梅津美治郎
この二十八人の名前は、大方私の良く知るところであり、ほとんどがかつて中国に害をなした者たちで、特に土肥原というのは中国に分裂と内乱を起こす専門家で、さまざまに陰謀をめぐらし詭計に長じた人間である。彼の半生の歴史は中国を害した歴史でもある。その次は松井石根で、彼は南京大虐殺の総指揮官で、中国人は永遠にこの殺し屋の頭目を忘れないだろう。板垣・小磯・梅津はどれも中国侵略の将軍で子供や婦人でも知っている。それから九一八満州事変の後に国際連盟に出席した松岡、一二八淞瀘戦争後に虹口で足を爆破された重光、「日中提携三原則」の提唱者の広田、これらの人物も二三十年来多くの中国を害する罪を犯してきた人々で中国人は彼らの名前を骨に刻むほど恨んでいる。

起訴書はとても長くて、昼食時間まで読んでもわずか三分の一を読み終えただけであった。昼食後に少し寝た。起きた後に太極拳を練習した。四時から再び起訴書を読み始めたが、読めば読むほど怒りがこみ上げてくる。六時には正文を大体読み終えた。淡如(王之将軍)が来て、向明思(向検事)もちょうど中国から着いた所で、明日の開廷に出席する準備をしているとのこと。私はお菓子を取り寄せて彼らとお喋りをした。

あさっては中国の専用機が上海に戻るので、李済之博士がこの機に乗って帰国する。明日は開廷で一日忙しいので、私は今日の晩に急いで数通の手紙を書いて彼に託すことにした。晩飯の後に手紙を書くことに没頭し、あわせて八通の手紙を書き、そのうちの一通は孫院長に三ヶ月の連続した休暇を申請した。私が立法院に申請した休暇届けは三ヶ月(2月10日から)で今月の10日は満期になるからである。その他の数通の手紙は父親、波師、澧叔、秋原、一飛、敏恒、傑夫(復旦の友人)に宛てたものである。手紙には英文の新聞の切抜きを二枚、起訴書の要旨が掲載されたものと、裁判審理手続きと裁判官の写真が掲載されたもの、それから各被告戦犯の個人の写真(羅秘書に彼らの名前の上に漢字を加えさせた)を添付した。こうして、私の手紙はとても簡単だが、彼らは添付された文書をみればすぐに私の言いたい事を理解するはずだからである。

このような方法で、私は二時間以内に八通の内容がとても豊富な手紙を完成し、封筒にあて先を書いて、切手を貼った。私はとても満足に感じた。バーに行ってコーラを飲んでいる時に、裁判長のウェッブ氏に出会うと、彼は「明日は開廷の吉日だから、今日は早く休むほうがいい」と言った。私たちはお互いを見て笑った。私は部屋に戻って日記を書き、寝た時の時間は一時近くになっていた。

今日は熱海から東京に戻る途中で横浜一帯で多くの労働者団体がデモをしているのを見たが、秩序は良好で、男女の工人たちはみな衣服が清潔で、身体も壮健で、千万人の群衆の中に少しも栄養不良の様子は見られなかった。私はどうしてマッカーサー司令部は毎日日本人のために食料不足を叫んでいるのか不思議で、彼らのために至れり尽くせりなのかと疑った。このような敗戦国はほんとうに「運のいい」敗戦国である。我々のような災難が多い戦勝国に比べると、我々は嘆息せざるを得ない。

メーデーのデモでもう一つ気が付いた現象は赤旗が特に多いということである。私が一人の日本人の知識人に尋ねると、彼は「以前はこんな事はなかった。赤旗は革命の象徴で、赤化を意味している。世界が左向きに向かっているから、大勢の赴くところは、誰にも止められない」と語っていた。

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2015年11月17日

中国と東京裁判(15):『梅汝璈日記』12

1946年4月30日火曜日
今日は裁判官の会議はない。天気は曇り雨である。私は午前裁判所に行かなかったが、方秘書と羅秘書を裁判所に様子を見に行かせた。何か臨時に起こっていないかどうか心配だったからである。私は自分の部屋でもう一度こまかに訴訟手続き細則を研究し、幾つかの裁判所の翻訳の問題に関する幾つかの仕事をして、それから日記を補足した。

昼に方秘書が中央社の記者宋徳和氏を連れて来た。ホテルで昼食を取る約束であった。宋氏は我国のたいへん有名な従軍記者で、かつて連合軍に従軍して太平洋の諸島と日本本土に上陸した事がある。彼は中央社の海外記者の支柱の一人で、私は国内で彼の通信を少なからず読んだ事がある。彼はまだ三十過ぎで、英語が流暢で、とても活発で創造性に富んでいる。彼によれば、中央社の東京での地位は高く、AP通信社やUP通信社にも引けをとらないが、人手が足りず彼の助手の曾氏が帰国してからは、彼がほとんど一人で切り盛りしているとのこと(彼も最近一度帰国して戻ってきたばかり)。彼は日本の内情をたいへんよく知っており、司令部とも日本政府とも連絡工作をよく行っている。彼はマッカーサー元帥が徐々に日本に加担していく政策の危険性を承知していたが、しかし一般的に国際的な大局の動きについては悲観していなかった。彼は米国は決して中国を放棄しないだろうと考えていた。彼は今日の新聞に国共の談判が決裂したとあったが、悲観するには及ばないと考えていた。

私たちは二時まで愉快に語り合った。彼が去った後、私は裁判所に行き裁判所の開廷演習に参加した。今日の演習では、検察官(中国は代表団の沈顧問が臨時代表)と裁判所の職員がみな参加した。しかし演習結果はとてもひどいものであった。もともと今日は英日と日英の通訳の効果や翻訳人員の速度と技能を試験する予定であったが、結果としてウェッブ氏が一貫して英語を用いて進め、秘書長も総指揮も彼を止めようとしなかったので、解散になるまでこの試験は行われる事がなかった。その後にウェッブ氏は大いに不満で、彼は明日一人だけで来て(他の裁判官は来る必要はない)再び一度試験することとした。

演習が終わって裁判官たちは集まって約三十分ほど話し合った。私は事務室に戻ると、沈顧問と方秘書と羅秘書が待っていた。私は数杯のコーヒーを持ってこさせ、みんなで三十分ほど話をして、沈氏を代表団まで送り、私たちも車から降りて建物に入り公亮将軍(朱世明将軍)としばらく話をした。

ホテルに戻って夕食を取り、みんなで大いに語り合った。みんなは今日の「演習」は意味がなかったと感じており、いくらか滑稽であった。八時四十分に淡如(王之将軍)と映画を見る約束をして、映画が終わらないうちに部屋に戻り私の部屋で話をした。ほとんどが中国代表団の機構と人事の問題についてであった。淡如(王之将軍)はとても興奮して騒いでいたが、少なからず特殊な意見を有していた。彼はフィリピンの頃からマッカーサー司令部の連絡官として任じられ、すでに五年あまり、米中の連絡の仕事をいかに進めるかについては深い認識がある。淡如(王之将軍)が去った後に、太極拳を練習して、日記をつけて、寝たのは一時近くであった。

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2015年11月16日

中国と東京裁判(14):『梅汝璈日記』11

1946年4月29日月曜日
今日の裁判所は正式に一つの大きな仕事を処理した。それは起訴書の法廷への提出儀式があったからだ。提出の儀式は十時半ころに挙行され、私は九時半に方秘書と法廷に赴き、幾つかの事務処理をしてマクドゥガル氏らと裁判官会議室へ行って話をした。

十時半、検察長のキーナンが一冊の起訴書を携えて会議室に来て、その後に各国の陪審検察官も到着した(我国の検察官向明思氏は帰国していて、今日は劉子健秘書が代理)。裁判官たちは会議テーブルを囲んで座り、検察長は裁判長に対面して座り、各国の検察官たちは四周の窓際の椅子に座った。

検察長が裁判官たちに発言し、起訴準備の経過を略述した後に起訴書の提出を許可するよう求めた。裁判長はその要求に答え、秘書長に領収証を渡すよう命じた。それから検察長に裁判会議に列席するよう求め、彼の裁判開廷の起訴受理日時に関する意見を陳述し、所謂手続きArrangementは、裁判が正式に開廷する時に起訴を受理し、さらに個別に各犯人に「有罪」(guilty)か「無罪」(not guilty)かを尋ねる。これは英米法の特別な手続きである。大陸法系の国家では起訴Indictmentと手続きArrangementは区別しない。

キーナン氏が発言し、起訴書の副本を検察書はすでに複数準備しているので、裁判所は今日にでも各犯人に配り、彼らに起訴を認める(plead guilty)かそれとも起訴を認めない(plead not guilty)かを決定させる。これは簡単なことなので、キーナン氏は三四日もあれば十分だろうとのこと。この意見に基づいて、裁判所は今週の金曜日午前十時半に第一回目の法廷を開庭し、その時に検察処が正式に公開で各犯人を起訴し、各犯人および弁護士は法廷で「無罪」か「有罪」か声明を出す。

この決議の後、検察長と各国検察官たちは裁判官会議室を退出した。これでいわゆる起訴書提出(Return of Indictment)が完成し、費やした時間は総じて一時間にも満たなかった。この儀式は「室内」で挙行され(Judges sitting in chamber)、所謂「法廷」(Judges sitting in open court)で挙行されるものとは異なる。

会議が終わると、数人の新聞記者とカメラマンが入ってきて、そのうちの一人は中央社東京特派員の張仁仲氏であった。彼は活発で有能な青年である。彼はカメラマンに我々二人を一緒に撮影してもらった。彼は私について事務室に来て、私に幾つかの質問を提出した。彼は私の席が二番目で、裁判長の左手に座っていることに満足を表明した。彼はすでに外部で裁判官の席順の問題で多くの噂が流れており、それで裏でいろいろな駆け引きや論争があったことを知っているとのことであった。彼は私が国家が占めるべき地位を守った事を祝福し、必ず電報を打って本国で宣伝すると言った。私はこれは我国八年の流血を伴う抗戦の結果で、私個人の功績と言うことはできない。我々の国家が平和的な建設を努力しさえすれば、国際的な地位は必ず保持されて低下することはない。もし国家に何か起こったら、我々の地位もいかなる国際的な場においてであろうとおそらく低下は免れない。

裁判所の情況に関してと最近数日の手続き進行について、私は方秘書に一通り彼に説明してもらった。彼は十二時に去ったので、私はバーに行きヒギンズ氏とレーリンク氏としばらく話をし、ザリャノフ氏も席にいた。みな法廷が動き始めたので嬉しそうであった。

ホテルに戻ると、一緒に食事をする約束をしていたツ震組長と李済之博士はすでに私の部屋で待っていた。
ツ震氏はあさってに米国に行き、ワシントンの極東委員会の賠償会議に出席する。李氏があさって帰国するのは、中央研究院と国立博物館のたくさんの仕事が彼を待っているからである。

食事は部屋で取り、我々は食べながら愉快に話をし、別れた時にはすでに三時過ぎであった。昼寝をして起きると、中国連参処に中央社の電報を見に行き、淡如(王之将軍)を乗せてホテルに戻った。数日前にあった王さん(日本に来て初めて会った中国人のお嬢さん)は、何かのことで淡如(王之将軍)を尋ねてきた。淡如(王之将軍)は私を誘って食堂に夕食を食べに行った。食事の後映画を見たが、カラーでとてもにぎやかであったが、劇の感動は全くなかった。米国の映画はだいたいこんなものである。客人が去った後に、太極拳を練習し、シャワーを浴び、およそ十二時に寝た。

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2015年11月15日

中国と東京裁判(13):『梅汝璈日記』10

1946年4月24日水曜日
今日は午前に法官会議を開き、続けて訴訟手続き細則の草案と文書ファイルの翻訳の問題を討論した。草案にはわずかな修正があるだけで、全部あわせるとこれで第四次の草案となる。

ちょうど草案を討論している時に、秘書がマッカーサー元帥の回答状を持ってきて、中には極東国際軍事裁判憲章修正条文の草案が附されていた。修正案には私たちの質問状の問題に対し、その規定は被告の自己弁護あるいは弁護士を雇用しての弁護を許すが、二者のどちらか一つを選択できるとあった。そのほかに憲章はもう一つの修正として裁判官を二名増加し、インドとフィリピンが各一名代表を派遣するとあった。検察処にもインドとフィリピンは検察官を各一名派遣し、検察長に協力することになった。

会議が解散後に、ホテルに戻って昼食を取った。雨がひどかったので、外には出なかった。明日は中央社の曾思清氏が帰国するので、私は昼寝の後に手紙を書くことに没頭し、七時に晩餐を食べ、それからまた続けて手紙を書いた。十時に方秘書と劉秘書が取りに来た時には、私は六通の手紙を書き上げており、すべて彼らから曾氏に渡して明日に上海で投函してもらう。

十時から二時までは新聞を読んだ。混乱した世界には問題がほんとうに多すぎる。しかし日本の幣原内閣が倒れ(昨日総辞職)その後継人の人選問題と我国の東北情勢の発展が最も私の気になることである。我国の前途の多難さと国際地位の下落の危険を考えると私は夜も安心して眠れない。「当局者は迷っているが、そばで見ている人にははっきりしている」というが、この種の危険は国外にいる人間はおおかた国内の人よりはっきりと認識できるものだ。

1946年4月25日木曜日
今日の午前は裁判官の会議があり、第四次修正草案について討論し、少しの文字の修正だけで、この草案は大体脱稿したと見なしてよいだろう。

草案の討論が終わってから裁判官は誓約にサインしたが、誓約文は次のようなものであった。
「我々は極東国際軍事裁判裁判官として必ず法に基づいて正義を執行し、恐れやひいきや偏見によることなく、我々の良心に基づいて最善の理解により任務を執行する。我々は決して法廷の特定の成員の意見や投票を漏らしたり暴露したりすることなく、すべての成員の秘密を必ず守る」。

署名の順序は、米、中、ソ、カナダ、オーストラリア、フランス、オランダ、ニュージーランドであった。私は中国語で署名をしてから名前の後に英訳を附した。この署名の儀式はとても簡単なもので、ほとんど儀式と言うほどでもないようなものであった。署名が終わると解散になり、私はホテルに戻って昼食を取り、昼寝をした。

目が覚めてから、昨日の夜に淡如(王之将軍)が持って来てくれた数冊の図書と雑誌を閲覧した。六時に代表団と朱世明団長、沈顧問、ツ組長および銭秘書と約一時間ほど話をしたが、おおかた国内の情勢と代表団の日本の首相の継承人選への態度についてであった。朱世民将軍は組閣を期待する声が最も高い党の指導者鳩山についてすでに総司令部に反対の意見書を提出したと述べた。これにより、彼の組閣の幻想はまったく破滅に終わった。日本の首相の人選に中国人の同意が必要とは空前絶後のことだ。私は中国人が努力して自分を大切にし、団結して建国し、その国際的地位を保つよう願う。

ホテルに戻り晩餐後に小劇場で映画を見た。映画の題名はDetourというもので、主人公はあまり有名ではないが、情景と演技はなかなかのものであった。十一時に淡如(王之将軍)が尋ねてきて、シャワーを浴びて寝たのは一時近くであった。

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2015年11月14日

中国と東京裁判(12):『梅汝璈日記』9

1946年4月23日火曜日
今日の午前は再び法官会議で、討論したのは法廷、翻訳、記録官、記者などの宣誓の語句と方式についてであった。というのは翻訳と記者の宣誓の中に「神よ助けたまえ(So help me God)」というのがあるのだが、私は削除するか変更することを主張した。なぜなら彼らがキリスト教徒であるとは限らないからである(この主張は受け入れられ、非キリスト教徒は宣誓時にこの語句を使わなくてもよいことになった)。法官の宣誓はまた別のもので、これには全く「神よ助けたまえ」の語句はない。

そのほかにも、訴訟手続き細則上の幾つかの小さな文字修正などを討論した。なぜならマッカーサー元帥が昨日法廷に当てた照会状に対する回答状ができておらず、私たちは憲章の条文が抵触するかどうかの問題がまだ釈然としていなかったからである。

会議が解散した後に、ザリャノフ将軍が私の手を握って話をしたそうにしていたので十分ほど話した。私は彼に1929年2月の厳冬にモスクワを通った事があると告げた。彼は「そのころはあなたは子供だったでしょう。みたところあなたは三十歳前後のように見えるから」と述べた。私は彼の言葉がユーモアなのか、本気でそう信じているか分からない。しかし、中国人は髪が黒く背が低いので実際の年齢より若く見られるのは確かである。例えば、明思(向検事)は私より十歳も上で、実際には五十一、二歳である。しかし西洋人には彼が三十歳前後か三十歳台に見えるようだ。これは中国人が損をするところで、私がひげを生やしたことが対策になるかどうかわからない。

ザリャノフ氏と別れた後、私はバーでマクドゥガル氏、パトリック氏と三人でコーヒーを一杯飲んだ。法廷を出た後、私は代表団に行ったが朱将軍は不在で、ツ組長と銭主任と話をし、それから送られてきた中国の出版物を読んだ。

部屋に戻って昼寝した。四時から六時に詳細に最近数日のスター・アンド・ストライプ紙とジャパン・タイムス紙を読み、最近の数期のニューズウィーク誌とタイム誌を読んだ。外国の出版物の編集技術はとても高く、読者を飽きさせない。六時に朱公亮(朱世明)が来て話をし、私たちはともに夕食を取って、晩餐が終わってから向かいにあるパイル劇場で最近新たに上演されている名活劇Arsenic of Laceを見た。題材はある狂人の家庭で、二人の老人が十二人を毒殺し、一人のその狂人の姪も十二人を殺すというもので、中間にラブストーリがはさまっている。台詞はとてもよく、演技も悪くはない。しかしこの題材はあまりにも現実離れしているが、あるいは遊び飽きて満足しきった米国人には新しい刺激になるのかもしれない。

劇場から出た後に朱将軍は私の部屋に戻って大いに話したが、ほとんどは連合国の対日理事会の近況とアチソンがマーカットに交代した意味についてであった。公亮の目はとても鋭く、アチソンともよい関係があるので、私は彼がこの情況をうまく利用できると信じている。

公亮が去った後に、私は太極拳を練習し、日記をつけて、眠った時にはすでに一時を過ぎていた。今日の午後四時には太極拳を練習したが、眠る前にももう一度太極拳を練習した。私は東京に来て一ヶ月ほどの間に二回も太極拳をしたのは始めてである。私は今後毎日二回太極拳をしたいと思っている。もし一度ならば早めに昼間にしたい。寝る前に太極拳をするのはあまり衛生的ではない。

おとといに撮影した写真をACME新聞撮影公司が二枚の見本を送ってきた。これは九人の裁判官が法廷前の門で撮影したものである。太陽の光が強烈過ぎて、みなとても不自然である。公亮(朱世明)は私の姿勢にとても満足げであったが、彼は私とフランスの法官以外はみなあまりにも老人くさいと述べた。私は彼らこそ西洋の裁判官の典型だと答えた。

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2015年11月13日

中国と東京裁判(11):『梅汝璈日記』8

1946年4月15日月曜日
今日は私と婉如の結婚一周年記念である。私は現在は彼女がどこにいるのかすら知らない。あるいは彼女はすでに重慶から離れて上海に向かう途中かもしれないし、あるいは彼女はすでに上海に到着したかもしれない。中国の交通はとても困難な状態なので、私は彼女が心配で去年の今日の情景を絶えず回憶させた。私は彼女の健康を祈り、彼女の揚子江上の旅程が順調である事を祈った。

天気は特に温かくて、桜の花がいたるところで満開になり、帝国ホテルの情景は私に北温泉の数帆楼に登った今日の事を思い出させた。月初めに私は一樵(顧毓e)氏にちょっとしたプレゼントを婉如にあてた手紙と一緒に渡してもらい、そこで彼女には4月15日にはかならず客を呼んで記念すると告げたのである。朝起きると、私はどんな人々を食事に呼ぼうか、中国料理がいいか日本料理あるいは西洋料理をご馳走するのがいいかと考えていた。突然に淡如(王之)が私の部屋に一枚の紙を持って来た。これは中国旅日華僑連合会の招待状で、主に朱将軍と私を歓迎するものであったが、実は朱将軍を招待するもので、私はそのついでに過ぎない。朱将軍は彼らを主管する長官だからである。それに夜には中国代表団の大勢の人々が到着し、公亮(朱世明)も淡如(王之)もみな代表団で招待することになっていた。私はこの状況を見て、ただ計画をあきらめるしかなく、華僑がこのような大きなパーティを開くのなら、私が三人から五人の友達を呼んで祝うのより盛大でいいだろうと考えた。これは人に借りた花を仏に捧げるようなものだが、実際状況からして止むを得ずそうせざるを得なくなったのである。

午前は私は方秘書と共に法院に出向き、幾つかの公文書を見てから、マクドゥガル氏とレーリンク氏としばらく話をした。彼らはソ連の同僚であるザリャノフ将軍がすでに到着し、昨晩彼らと一緒に食事をしたと述べた。ザリャノフ氏はすこしも英語を理解せず、彼の通訳をしている青年将校の英語もあまり上手ではないので、将来に会議を開き審理をする際に問題になるだろうとのことであった。

法院で、公亮(朱世明)から電話があり、華僑の招待は茶会で、人数がとても多く、私に三時半に彼のところへ行って一緒に会に出席するように告げた。昼食後にすこし寝てから、三時半になったので公亮(朱世明)のところに行くと、三人の華僑代表がそこで待っており、送迎のために派遣されたとのことであった。参加する人は七、八人で、我々は四台の車に分乗して出発し、私と朱将軍と方秘書が同じ車に乗り込み、約四時に上野公園の中華料理店で、東京最大の中華料理店に到着した。我々が到着した時、待ちわびた華僑たちがすでに数百人いた。あとで私が説明を聞くと明日は華僑連合会の年会で、今日は東京で特に人が多く、彼らはその機会を借りて朱将軍の歓迎会を開いたとのことであった。

数人の華僑の主だったひとが我々を客間に招待して挨拶すると、続けて皆で会議を開催するために講堂に行った。講堂はさほど小さくなかったが、人がいっぱいで、タバコや酒や菓子もみな日本産で、これはまた別の風味があり、私は幾つか干し魚を食べた。日本のタバコはまったく駄目で、最もいい物でも重慶のいちばん劣等なのに及ばない。会長の周某が開会の言葉を述べ、続けて公亮(朱世明)の訓話があり、謝南光氏が閩南語に訳していた。朱将軍の演説は相当に長く、言葉使いも相当に厳粛であった。後で聞いたところによれば、在日華僑は玉石混交で、分を守り清らかに生活しているものもいるが、騒ぎを起こす不良なものも少なくなく、そのうちには戦争期間中の行動が怪しいものもおり、現在でも大陸の浪人と手を結んでブラックマーケットで物資を売ったり其の他の不名誉な事をしている者もいる。それで朱将軍は彼らを激励するだけでなく、さらに時には彼らを訓戒や警告する意味もあるという。

公亮(朱世明)の訓話が終わると、会長は私にも何か話せという。これは全く私の予想外のことで、しばらく躊躇したが、断るわけにもいかないので、しかたなく十数分間話して、やはり謝南光氏が少しづつ閩南語に翻訳した。私はただ二点の事を希望として述べた。第一は、華僑同胞は言行を特に注意し、どこにおいても大国の国民としての風格を保ち、我々がすでに得た高い国際的な地位にふさわしい態度を取るように。第二は華僑同胞が団結を保持し、分裂することなく、事に当たる際には民主的なやり方を採用するよう希望する。事前に十分に討論して自由を発揮し、しかしひとたび公に決定されたら、必ず多数に従い、みなが絶対にそれを遵守して、別の意見に固執して、勝手な行動を取る事がないように。この点は私が約二十年前に米国で、またその後にヨーロッパの各地の華僑の最も普遍的な弊害で(団結せず分裂しやすい)ある。私はこの場を借りて一言述べてもいいだろう、特に明日は旅日華僑同胞連合会の年会だからと考えた。

私は講話を終え、みなでしばらく座談をして、私と朱将軍は退席を告げたので、主席が散会を宣言した。唐上校と方秘書が車に乗って私のホテルにやってきた。私は部屋に茶と菓子を持ってこさせ、彼らと一時間ほど話しをし、彼らは第一賓館に帰った。六時過ぎにバーに行くとソ連以外の各国の裁判官がみなそろって、酒を飲んだり談笑したりしていた。裁判長のウェッブ氏はすでにオーストラリアから戻ってきていた。紹介の後、私たちは初対面であったので懇切に話し合った。彼は背が高く太って大柄の体格で、大体六十歳前後の人である。彼は最近にオーストラリアの最高法院裁判官になったばかりで(元はクィーンスランド州高等法院主席判事)、私が彼に祝福の言葉をかけると、彼はうれしそうにしていた。

ウェッブ氏はとても和気藹々としており、真摯で誠実そうであり、あまり言葉は多くはないが言葉ははっきりしており、態度はとても公正で、事務処理も要領を得ている様子であった。これが私の彼に対する初歩的な印象である。彼は確かに紳士の雰囲気がある君子らしい態度である。私たちは共にご飯を食べて、食事をしてから再びホールで語り合った。ノースクラフト氏らはウェッブ氏に「サー」を付けなくてもよいだろうといい、またウェッブ氏も私に「ドクター」を付けなくてもいいだろうといい、互いに「ミスター・ウェッブ」「ミスター・メイ」あるいは「ウェッブ」「メイ」と呼び合う事にした。

私は急いで中国代表団の知らせを聞きたかったので、九時になると上の階に上がった。淡如(王之将軍)の部屋にはすでに国内から到着した二名がシャワーを浴びていたので、私は飛行機が本当に到着した事を知った。それから明思(向検事)が四通の手紙を渡してくれた。一通は三番目の弟汝璇が綿州から宛てたもの、二通目は五番目の妹である蘊珍が白沙より宛てたもの、三通目は羅秘書が上海より当てたもの、四通目は妻の婉如が重慶より宛てたものであった。父親からの手紙がなかったのには、少しがっかりした。しかし、妻と弟や妹の手紙から両親は故郷に帰る準備をしており、とても健康であるとわかった。妻の手紙はとても長く、私が顧一樵(顧毓e)および白顧問に託した中国の切手がついた手紙も届いたとのことであった。彼女は私にいろいろな重慶の家の情景を知らせてくれ、私はとても嬉しかった。ただ妻の兄に当たる静軒氏がまだ長春から退去していないことが、私は心配になった。婉如は12日に郵政総局の鴻逵専船で河南を離れて、月末に上海に到着予定だとあった。今日は出発して四日目だから、おそらく彼女は沙市に停泊しているだろう。私たちは離れ離れで、彼女に苦労をさせていると思うと、とても気持ちが不安になる。私は心の中で彼女の旅が愉快で平穏である事を祈った。

今日の事はとてもよい時に合って、私をとても興奮させた。4月15日のこの記念日には、私は婉如が特に懐かしい。ちょうどこの日に、私は彼女が中国から送った手紙を受け取ることができた。これは不思議な事で、もともと私は小さな記念パーティをしようと思っていたのだが、華僑全体がこの日に盛大な歓迎会を開いてくれたので、情況の熱烈さは去年のこの日の数帆楼にも負けず劣らずとなった。本当に偶然が重なって、私は特に嬉しくなった。私が今日来ているのは去年のこの日に来ていたあの白いシャツで、身に付けているのは去年のこの日に付けていた赤いネクタイである。この種の小さなことまでこだわるのは、あまりにも子供ぽいことではあるが。孟子も「大人はその赤子の心を失わず」といっているので、私も大げさになってもいいだろう。

部屋に戻り、手紙と送ってきた中国の新聞の私に関する報道をもう一度見て、日記をつけて、太極拳を練習して眠る時にはまた一時間が過ぎていた。

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2015年11月12日

中国と東京裁判(10):『梅汝璈日記』7

1946年4月12日
今日はマッカーサー元帥と昼食を共にする約束で、私は早めに方秘書を連れて裁判所に行き、早めにホテルに戻ってキーナン検察長が迎えに来るのを待った。

裁判所では、我々は「訴訟規定細則」の第二校を逐条詳細に研究し、それからオリベッティ氏の意見書を再び詳細に考慮した。私は草案にメモをして、次回の会議の時に討論できるよう準備した。この仕事が終わると、マクドゥガル氏がバーに誘ったので、ヒギンズ氏、ベルナール氏、レーリンク氏らとお喋りをした。みなはウェッブがなかなか帰ってこないこととソ連の判事が遅れていること、また起訴の日時が決まったと思ったらまた延び、とても不愉快でいらいらしているようだった。

ホテルに戻って休んでいると、キーナン氏が来た。彼は私とフランス判事ベルナール氏を彼の車に乗せ、もう一台に向検事、フランス、オランダ、フィリピンの検事を乗せていた。私は私の運転手に空車を伴走させた。私たちが直接アメリカ大使館のマッカーサー官邸に入り、到着したのはおおむね午後一時ころであった。

マッカーサー元帥はまだ仕事から戻っておらず、彼の夫人と若い副官が我々を接待した。マッカーサー夫人は体は細身で小さいが、よく口が回り、お世辞や受け答えがよくできた。彼女は中国文化の古代遺跡に興味があるようであった。おそらく彼女は会話が中国の話に集中したのに気づいたのか、あわててパリの美しさや、ハーグの状況、フィリピンの思い出などを語り、賛嘆したり質問したりした。ともかく、彼女の話はとても多く、しかもとても耳障りがよく、すこしも飽きさせない。パーティーに一人こういう人間がいると、だれも寂しく思う事はないだろう。

私たちが三十分ほど談笑したところで、マッカーサーが本部から帰ってきた。彼が部屋に入ると、マッカーサー夫人が走っていって、抱きついてキスをした。これは西洋人の挨拶であるので驚くことはない。続いてキーナンが我々を一人一人紹介し、握手をした。私たちが席に就くと、マッカーサー元帥は遅れたことを詫び、その後に食堂に行って食べながら話しましょうと述べた。

マッカーサーはとてもがっちりした体格だが、太っているわけではなく、標準的な米国式の軍人の体格で、背が高くて太っておらず、壮健であるが粗野ではない。彼の最も魅力的なところはキラキラとした目で、握手をする時や話をする際に我々に無限の誠実さと魅力を感じさせる。私は今日はマッカーサーのすぐ右隣に座り、西洋の礼節から言えばメインゲストの位置に座った。私たちは距離が比較的近かったので、話す機会も比較的多かった。彼は外交的に中国への深い興味と敬意を表明し、我国の最高指導者を尊敬していると語った。彼は今日気分がとても良いらしく、よどみなくさまざまな話をしていた。

彼は現在の国際間に充満する猜疑と衝突に不満を表明した。第一次世界大戦が終了した後は、みなが和気藹々と平和会議を開き平和条約を締結して、戦勝国間では平和な関係が数年継続した。しかし、このたびの戦争が終わるとすぐに国際関係は緊張し、すこしも休む暇なく続けて第三次世界大戦が始まりそうな気配があると述べた。

第三次世界大戦の可能性について語るときに、彼は表情豊かに大げさにジャスチャーを交えて語った。彼は第三次世界大戦は起こしてはならない、なぜならそれは人類の滅亡を意味するからだと語った。今後の戦争はどちらが勝った負けたの問題ではなく、人々が絶滅を望むのか否かという問題となる。

彼は、原子爆弾の発明はすべての戦略と戦術、ひいては戦争の意義さえも変えてしまったと言った。原子爆弾を持たない国家は戦争に参加できず、戦争に参加した国家は敵国を滅亡させ、同時に敵国からも滅亡させられるとすれば、結果は相互の完全な破壊である。彼は原子爆弾の威力についてよく研究していた。現在は広島と長崎を爆撃したものよりさらに強力な物が製造でき、小さな一個の爆弾で二千のB29で空爆したのと同じ威力がある。彼が言うにはたった六十個の原爆があれば大きな米国ですら麻痺させ壊滅させることができ、小国ならひとたまりもない。しかも原爆は新型武器の始まりでしかなく、将来は必ず原爆よりもさらに威力の大きな物が出現する、あるいは現在すでに出現しているかもしれないと述べた。

「このような状況ではどうやって戦争するのか、だれが戦争に勝つというのか?」とマッカーサーは笑いながら尋ねた。続けて感嘆しながら「世界には六百万の常備軍を用意している野心のある国があるので、我々は戦争に準備しないでいることができるだろうか」「私は戦争が危険である事がわかるが、それでもいつも警戒は必要である」と述べた。

フランスの判事は彼にド・ゴール将軍を知っているかどうかと尋ねた。彼はまだ面会したことはないが、とても尊敬しており、それは彼が私と同じで外交的ではないひとであるからだと述べた。みなが承知のようにマッカーサー将軍は外交だけでなく政治手腕も極めて長けた人である。もしそうでなければ、彼はどうして現在の地位で何事も思い通りに処置するようなことができるだろうか。

彼は日本の最近の選挙の結果と憲法の作成に満足を表明し、これを以って民主化の第一歩とみなしていた。この点については私は批評できない。マッカーサー元帥の日本統治が良いか悪いか、我々にとり有利か不利かは、現在のところまだ答える事ができない。

マッカーサー元帥は中国の戦争への貢献を忘れてはおらず(英米人は中国が現在内乱で混乱しているのを見て八年間の苦戦の功績を忘れてしまった人が多い)特に我国の遠東委員会と対日理事会が米国と協力していることに深く感謝を表明し、暗に朱将軍の着かず離れずの態度に満足をしていることをほのめかした。我国政府と人民が日本に対し報復せずに寛大な態度を取っている方針について、マッカーサーは賞賛を加えて「中国は哲学的な民族で、とても理知的であり、どうあっても最後は日本とうまくやっていかなければならないことを知っている」と述べた。

正直なところ、マッカーサー元帥の立場からすれば、中国の寛大な立場は最も適切で最も必要なところである。しかし寛大のほかにも、我々は警戒を怠ってはならない。我々は私たちの日本への警戒を引き上げるべきである。これはいやおうなく私に3月29日のラティモア氏の論文を思い起こさせた。私たちはすぐに二時間ほど話をしたが、話題はとても多く、私は完全には覚えていない。私は一番目の席に座っているので、まず最初に退席を言い出さなくてはいけない。マッカーサー氏と夫人が門まで送ってくれ、別れの握手をする時には合ったときと同じエネルギーを感じた。

私の印象ではマッカーサー氏は軍事的天才であるだけでなく、一人の大政治家でもある。しかし私が最も関心があるのは彼の統治する日本の政策が我祖国に利益となるかあるいは我祖国の発展を妨げるかということである。この問題は今までずっと私の頭の中で懸案となっている。ホテルに戻るとすでに三時を過ぎていた。昼寝から起きると、三通の手紙を書いて、明日上海に飛ぶ国際検察処に届けてもらう準備をした。夕食前にパトリック、ヒギンズ、マクドゥガル、レーリンクらと話し、明日ウェッブ氏とソ連の判事がおそらく到着するということで、みんな嬉しそうであった。もしそうなれば、ようやく仕事が軌道に乗る。九時半に部屋に戻り、日記をつけ、王将軍と向検事の二人が来て話をして、十二時に就寝した。

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2015年11月11日

中国と東京裁判(9):『梅汝璈日記』6

1946年4月11日
今日は午前外に出ず、部屋で新聞を読んだり日記を書いたりした。スター・アンド・ストライプ紙を見ると、やはり『起訴延期』のニュースが載っていた。理由はソ連の判事がまだ来ていないということだったが、実はそのほかにも原因がある。私は昨日「ハッタリ」だろうと予想していたが、やはり予想どうりであった。

国内のニュースは依然として劣悪で、東北の争奪戦はますます白熱しており、私は長春にいる静軒と璇の兄弟のことが気がかりであったが、おそらく彼らはもう脱出しただろう。三人の調停処の工作は進められているが、おそらく効果はあるまい。マーシャル将軍は今週内に中国に戻るそうである。自分たちのことなのに他人が干渉しなければいけないとは、なんとも説明の仕様がない。同時に経済崩壊がさらに恐ろしい。上海の石炭はすでに一トン四十五万元の高値になっており、方秘書によれば鶏卵一個が一個一千元もするそうだ。これはいったいどういうことであろうか。

ジャパン・タイムスには一遍の短文で「中国人は仇を返さず」とあり、日本が投降後に中国人が日本人にどれだけ寛大な処置をして「敵を友のように見ている」ことを報じていた。寛大はたしかに美徳であるが、しかし姑息と恐れは卑怯である。私はこの文章を読んで、「全てが間違っていて可笑しい」という感じがした。

キーナン氏から電話があり、マッカーサー元帥が明日私を食事に誘っているが、時間があるかどうかと尋ねてきた。これはとても遠慮した言い方で、我々判事は何もすることがなくて暇で仕方ないのに、マッカーサー元帥から食事に誘われて時間がないことがあるだろうか。彼はまた自分も一緒に行った方がいいかどうかと尋ね、もし一緒に行くなら帝国ホテルで待っていてほしい、午後一時に迎えに行くからということであった。私は同意した。ヒゲが長くなったが、私自身もそれを切る習慣がないので、階下の理髪室に行ってヒゲをきれいにしてもらった。

理髪室から戻ると、オランダのレーリンク氏に出くわした。彼は私をホテル内の池の傍の草地に座るよう誘い、二杯のコーヒーを注文した。彼は中国の哲学文化にとても興味があり尊敬していると語った。彼はとても勉強好きで、人格がとてもオシャレで、誠実で、青年紳士のような雰囲気があるので、彼の言葉は嘘ではあるまい。私たちは将来の法廷の判決の是非は英米と同じく、判事が賛成か反対か人数と名前を明記して、反対者にも反対意見を発表するのかどうか討論した。彼は一貫してそのやり方に反対し、いろいろな理由を挙げていた。私は彼の主張にかなり賛成ではあるが、私はこの問題についてはまだあまり精密に考慮していないと答えた。私は彼にこれは相当に重要な問題であるので、細則中に規定があるべきで、少なくとも判事会議で十分に討論すべきであると答えた。私がレーリンク氏と大いに話していると、カナダのマクドゥガル氏がやってきて、彼の部屋でカクテルパーティをするので、私たちはすぐに来て参加するようにと言った。来たのは八、九人で判事以外にも一、二人の裁判所職員もいた。私と米国のヒギンズ氏は酒が飲めないので、しばらく座っていたが退席して一緒に食堂に夕食を食べに行った。

昼寝した後、三時に私は旧農林大臣官邸に朱世明将軍を訪問に行った。朱将軍と張鳳挙の二人が銭秘書とともにいたが、彼らは私に各部屋とその配置を見せてまわった。ここは完全に日本の貴族式の部屋で、明るくて清潔で、たいへん風格がある。窓の外の庭には花草があり、とても清潔で可愛らしい。私たちは地面に座って、お茶を飲んでお喋りしたが、とても東洋風な味わいであった。

四時過ぎになって、米国空輸隊の司令官の某大佐が朱将軍を訪問してきた。朱将軍はみなを招いてとても優雅なゲストルームで酒宴を開いた。その司令官はとても中国に同情的で、状況もよく知っており、北京や上海に行ったことがあり、知り合った中国の友人も少なくないとのことであった。彼の妻の弟は現在重慶の米国大使館で海軍武官をしているとのことであった。彼は日本人がとても嫌いで、憤りながら彼らはとても狡猾で嘘つきだと言った。これは彼の作戦と日本に住んだ経験である。彼は日本人は何でも盗み、ますます大胆になっていると言った。彼は中国占領軍の到来を待って、彼は中国の占領区に住みたいくらいだと言った。彼は米軍の寛容政策に大変に不満で、占領の初期には、日本人は驚いて茫然自失の態であったが、しばらくするとペコペコして従順になり可哀想だったが、今では我が物顔で少し傲慢になってきたと言った。この主張には、朱将軍はとても同感であるようだった。

六時に一人で退席して、英国のパトリック氏の酒宴に出席した。到着すると、マクドゥガル氏、レーリンク氏、ヒギンズ氏、パル氏も来ていた。これらは一日で少なくとも三回あった人たちで、話し始めるととても愉快であった。しかし私とヒギンズ氏は酒に興味がないので、また我々だけで先に退出して夕食を食べに行った。

夕食後に王将軍と向かいのパイル劇場にショーと映画を見に行った。劇場は軍人で一杯で、このショーはとても面白く、とても客が多いということであった。しかし「将官ボックス席」は今晩もやはり我々二人だけで座った。気温が高く熱かったので、見終わらずに帰った。シャワーを浴びて就寝したのは十二時近くになっていた。

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