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2015年11月30日

習近平とオバマの会談

パリで開かれている気候変動枠組み会議で、習近平とオバマが再び会見し衝突を避けることを確認し合い、この二人のツーショット写真が大々的に報道されている。この二人は頻繁に国際会議で会見を重ねており、二大大国の関係の深さをアピールしている。なかなか二人と会見する機会が持てない安倍首相は、完全に隅に追いやられる格好になっている。

さて、中国では習近平はクマのプーさんと呼ばれておりオバマとのツーショット写真がクマのプーさんと虎のティガーに似ているとネットでは囁かれている。なるほど下のように二つの写真を並べてみると、確かに体型などが良く似ている。
習近平

一方でいつもいやいやながらの表情で習近平と握手を交わす安倍首相はロバに例えられている。このロバはプーさんシリーズではイーヨーという名前で、いつも陰気で根暗な性格のロバとのことだ。明るい弾けた感じのティガーとは違い、プーさんシリーズでの登場回数は多くない。
安倍

下の2016年のカレンダーではロバを真ん中にプーさんとティガーが左右に抱き着いているのであるが、果たして今回のパリの気候変動では安倍首相はプーさんあるいはティガーと言葉を交わせるのであろうか。

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2015年11月29日

趙氏孤児(邦題:『運命の子』)

今日はたまたま京劇のチャンネルで趙氏孤児を上演していて、ついつい面白そうで見入ってしまった。その後で興味がわいたので2010年に公開された陳凱歌監督の趙氏孤児もついでに見た。前々からこの中国では有名な物語を見たいと思っていたのだが、一日に二つのバージョンで見ることになった。

趙氏孤児は春秋時代の晋国の話で司馬遷の『史記』などでも取り上げられているかなり古い時代の話である。後に元の時代に劇で上演されるようになり、中国人は誰でも知っている有名な話で京劇や映画やドラマにもたびたびなっている。映画版の趙氏孤児は邦題が『運命の子』となっているが、いまいちピンと来ない題名だ。まだ台湾版や英語版のサクリファイス(犠牲)という題のほうがしっくり来る。

ストーリーは晋国の宰相であった趙盾という人の一族が、その息子の趙朔将軍の代に陰謀によって謀反の疑いを掛けられて家族皆殺しになる。ただし趙朔将軍の生まれたばかりの子供だけは医者の程嬰によって隠されて育てられる。それを察した殺害者は国のすべての赤ん坊を殺すよう命令を出す。程嬰にも生まれたばかりの子供がいたが、程嬰は自分の子供を趙家の子供として身代わりに差し出して趙家の子供は難を逃れる。その趙家の子供が大きくなって親の仇討ちを果たすという物語である。
趙氏孤児
赤ん坊が全員殺されるところを隠されて生き残り、後に仇討ちを果たすというモチーフは旧約聖書のモーセの場合もそうであるし、イエス・キリストにも同じような伝説があるから古くから東西である英雄生誕と仇討ちの話のパターンの一つであるようだ。

京劇版と映画版とでは細部の設定が異なっており、京劇版では趙氏孤児の母親の姫様は主君の姉であることから殺害されず後に子供と対面する。映画版ではこの姫様を范冰冰が演じており、姫様は子供を産んで程嬰に託すとすぐに自殺してしまう。また京劇版ではわざわざ程嬰が趙氏の子供を守るために自分の子供を身代わりに差し出すことになっているが、映画版では誤解がもとで自分の子供が趙氏の子供として殺されてしまう。

二つの劇を比較して感激できるのは京劇版のほうで、感情表現などが巧みでつい見入ってしまう。映画版の方はこの物語に新しい解釈を提出していてキャストも豪華なのだが、今一つ感動できなかった。確かにいくら程嬰が託された子供を守るためとはいえ、自分の子供を差し出すのは現代の道徳観からすればやや引っかかるものがあるのはわかる。だがその非合理の故に悲劇性が増すということもあるので、こればかりは京劇版の従来の解釈のままでよかったのではなかろうか。香港版の映画やドラマ版もあるようなので、各種見比べて見るのもいいだろう。

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タグ:中国映画

2015年11月28日

中国でベビーブーム到来か

長らく人口抑制のために一人っ子政策をとって来た中国だが、2015年10月より第二子まで許可されることになりにわかにベビーブームが訪れそうだ。数年前より夫婦のどちらかが一人っ子である場合や、農村で第一子が女の子の場合など条件付きで第二子を産むことが許可されていたが、今回は将来の高齢化や人口構成の予測を補正するために全面解禁となった。

日本ではすでに子供のいない夫婦や結婚すらしない独身男女が増え、将来の高齢化や少子化は打つ手もなく進行中であり、このままだと日本人は絶滅危惧種になってしまうのではとの心配すらある。中国の場合は日本よりも子供を産むということが重視されており、特に家を継ぐ男の子の出産が大変に期待されるため政策が緩めばベビーブームとなる。

これまでは中国の産婦人科と言えば不妊手術や流産の手術が主で、人工授精のほうにはあまり力を入れてこなかった。そのため産婦人科の病院の名前も「不育不妊女子病院」などと不妊や流産手術を専門にして、なるべく子供を産ませないことを売りにする病院が多かった。しかし、これからは高齢になった夫婦も二人目が欲しいと逆に不妊治療や人工授精の専門の病院に殺到することになりそうだ。

中国の富裕層になれば日本やアメリカの評判の良い病院にまで出かけて、人工授精や代理出産などの高額な治療を受ける中国人も激増中だ。現在も東京の某有名産婦人科には中国から人工授精に訪れる夫婦が多くなり、中国人の医者や看護婦を雇い入れて対応しているという。外国で治療を受ける際には保険がきかないため、一回の人工授精の費用や旅費などを合計すると日本円で100万円くらいかかる。それでも毎日のように中国人の夫婦が訪れ、しかも一人が何回もチャレンジしに治療に訪れるというのだから大変なエネルギーだ。また香港でも男の子が生めるようになるという薬が爆売れしているという。自分の知り合いの中国人にも日本に不妊治療に行きたいという人がいて相談されることがある。そのうち日本への不妊治療ツアーなどが売り出されるかもしれない。

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2015年11月27日

中国と東京裁判(25):『梅汝璈日記』22

1946年5月13日月曜日
今日は九時半に開廷し観衆は特別に多く主に日本人が多かったが、おそらく彼らは被告の動議(法廷管轄権の問題)に大きな関係があるのであろう。孫立人将軍も参観に来て「貴賓席」に座り、私はまたも羅秘書を招待した。淡如(王之将軍)と孫立人の副官曾君も会場に来ていた。

先に被告の弁護士代表である清瀬一郎が先日提出した書面申請が力を発揮した。この老人は従容として繰り返しながら一段落述べればそれを訳し、彼一人だけで一時間半を占めた。話した言葉は多かったが、あれこれ言っても、書面よりも新規なことは何もなかった。様々に引用をしたが、つまるところは憲章に侵略戦争に対する処罰と平和と人道に対する罪が規定されているのはポツダム宣言範囲外であり、投降書の条件の許すところではないという主張であった。彼の主張によれば日本の投降は条件付ということになる。彼のこの論点は私から見れば、とても危ういものである。

裁判長は十分の休憩を宣言した。法廷が再開するとキーナン氏が答弁を始め、彼は彼の準備した長い文書を読み始めた。十分も立たないうちに、ウェッブ氏がキーナン氏の発言に干渉して、これらの修辞学上の文句は必要なのかと尋ねた。キーナン氏は怒り、腹を立てながら答えた。彼はなおも読み続けて、スターリンやルーズベルトの名言を引用し始めると、ウェッブ氏はわざと干渉して、彼の演説はあまりに扇動的だと言った。キーナン氏はまた怒り、なおも強弁したので、法廷は彼にしゃべりおわるまで続けさせたが、彼は面子をつぶされたようであった。私は1,2度ウェッブ氏に干渉しないように忠告した。私はウェッブ氏があまりにも感情的過ぎると思ったからである。あるいは彼はキーナン氏をまったく相手にしていなかったのであろうか。しかし、ここは報復をする場ではない。

十二時に休廷し、午後一時半に再開した。私は急いでホテルに戻って昼食を取り、十分間昼寝して、再び方秘書と共に裁判に戻った。一時半はまったく十分な時間ではなく、特に私にはそうであるがなおも観衆は満席であった。

キーナン氏は英国の陪席検察官カール(Carr)氏を紹介して、もう一方の答弁を開始した。カール氏は論文を読むように彼の答弁書を一度読んだが、大方四五十分を費やした。材料は比較的具体的で充実していた。キーナン氏が世界に向けて演説するのに対して、カール氏は法廷に向けて弁論を提出する。おしいことにカール氏の朗読の技術があまりよくないため、英国のアクセントが耳障りで、少なくとも私にはそうであった(ここ数日私の内心の反英感情はとても高くなっていた)。

休憩を十分とり、カール答弁書の日本語訳を読み始めた。私は黒眼鏡をかけて、もう少しでうたた寝をするところであった。読み終わると、清瀬がまた反駁したが、この老人はよどみなく話すわりには新しいところがない。ウェッブ氏は彼が条件付きの降伏と無条件降伏との区別がつかないようなので笑ったほかは、彼を制止したり干渉したりはしなかった。

清瀬がトルーマン大統領の今年正月の演説を引用した時、キーナン氏はたまらず法廷に抗議をした。ウェッブ氏はたいへん偏見をもっているようで、抗議の理由を問うこともなくキーナン氏に「さっきあなたはルーズベルト氏の引用をしたのはよくて、どうしていまトルーマン大統領を引用するのはいけないのか?」と述べた。キーナン氏はますます怒って、彼は元々顔が赤く赤鼻であるのに、ここに至って、ほとんど紫色になっていた。彼は憤然として、「私が引用したのはポツダム会議以前の話で、会議のときの人々の戦犯に対する理解を説明している。トルーマン大統領の今年の正月の演説は本題と何の関係があるのか。私は誰の話かで区別したり偏見をいだいているわけではない。」ウェッブ氏は自分のほうに理がないのに気が付くと、わざと左を向いて私に尋ね、また右を向いてヒギンズ氏にキーナン氏の抗議を受け入れるかどうか尋ねた。私は受け入れるように主張し、ヒギンズ氏も同意した。そこで彼は清瀬の発言を止めざるを得なくなった。

今日はとても緊張し、また暖房がまた熱く、着ている衣装も多かったので、もうすこしでめまいがしそうであった。幸運にもすぐに閉廷解散が宣告された。

ホテルに戻りお菓子を食べて、少し寝た。合作社ですこしの物を買い、土産の準備をした。裁判官たちとテーブルで食事をする際に、私は露骨にマクドゥガル氏、レーリンク氏、パル氏、パトリック氏に対してウェッブ氏の今日の態度への不満を表明した。公亮(朱世明)が来て、みなで孫立人の部屋で話をした。九時に私は部屋に戻り二通の手紙を書いて孫立人に託した。日記を書いた。

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2015年11月26日

中国と東京裁判(24):『梅汝璈日記』21

1946年5月12日日曜日
新聞を開けてみると、英国太平洋艦隊総司令フレーザー(Frazer)海軍上将が新聞記者を招待して談話を行った情況があり、彼は中国人民はみな英国が香港を保持するよう望んでいると述べていた。中央日報記者張仁仲氏はその場で彼と論争して勇敢に発言して、この帝国主義白人至上者のデタラメをいくぶんか正していた。

九時に私は代表団に話をしに行き、今日は日曜日だったので皆と会うことができた。十時過ぎにホテルに戻り、幾つかの文書を整理して、張仁仲氏のために法廷訴訟手続きに関する材料を探した。公亮(朱世明)から食事に誘う電話があり、代表団は今日の午後いくらかの中華料理を作ったとのことだった。私は食べに行ったが、あまりおいしいとは感じなかった。

三時から四時まで昼寝して、淡如(王之将軍)とホフ大佐が来てビルマ戦線の将軍である新一軍軍長の孫立人将軍が来て、帝国ホテルの一階10号に泊まっていると告げた。私はちょうど下の階に降りて挨拶しようと思っていたが、彼はすでに淡如と曾副官と共に私の部屋に来ていた。私はお茶とお菓子を持ってこさせ、みんなでおしゃべりをした。私と孫将軍が出会ったのはちょうど二十年前で(1926年夏季、彼は米国VMI軍校で学び、私と暘春叔と共に会いに行ったことがある)、それからは各自ばらばらとなり、会う機会がなかったが、指折り数えるとすでに一昔前になる。昔話をしたり、今の話をしたり、懐かしい話に花を咲かせた。

 七時に公亮(朱世明)が孫立人を招いて京華酒家で中華料理を食べるというので、自然と私も行くことになり、覲鼎、明思、淡如、歌川もみな出席していた。料理はとても豊富で、私は東京に到着してから始めて最もやみつきになった。我々は食べたり話をしたり、なんでも話し、解散した時は知らず知らずにすでに十時になっていた。

ホテルに戻り日記をつけた。明日は開廷はおそらく緊張する一日となりそうなので、私は早く眠りたかったが、おなかがとても一杯で、ベッドに横になったのは一時になるころであった。

ここ数日は東京はとても騒がしい。フーバーが去った後はアイゼンハウアー元帥がまた来て(今日の朝のアイゼンハウアー元帥の閲兵に公亮も参加した。)このほかに英国海軍司令のフレーザー、米国対日賠償委員会首席のパウリー(Pauley)も東京にいた。残念ながら我国はちょうど内戦がたけなわで、なさけない有様で、そうでなければ世界に名前を轟かせてインドとビルマで功績を立てた孫立人将軍もこのように大いに顔を出せたことだろう。ここまで書いて、私は我国の国際的地位が日増しに低下するのを悲しみ、本当に筆を投げて三嘆した。

注*日記に登場する朱世明と孫立人は米国と関係の深い中国軍人であったが、後に蒋介石より謀反の疑いを掛けられ朱世明は暗殺され孫立人は軟禁された。

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2015年11月25日

中国と東京裁判(23):『梅汝璈日記』20

1946年5月11日土曜日
午前九時に方秘書と羅秘書が来た。羅秘書は書き写した「細則」の訳文を提出した。私は校正した憲章の訳文を方秘書と相談し、やや修正を加えてから羅秘書に書き写させるために渡した。

私は方秘書に裁判所に動静を見に行かせ、自分は羅秘書と神田および銀座の一帯の商店を見てまわった。三越で幾つかの贈り物を買い、中国料理館の会芳楼で幾つかの海鮮を買い、帰国したさいの友人に送る準備をした。物産がとても欠乏しておりまた価格が高いので、私が購入したものは程度があまり良くないものだが、多少日本の特産を選んで、話の種にするつもりである。

ホテルに戻ると中央日報の張仁仲氏が名詞を残しており、訪問して来たとのことであった。ヒギンズ氏に昼食を誘われたが、彼は中国旅行のことで大変興奮していた。そのほかの同僚はなにやら羨ましそうであった。これは人情として致し方ないことである。

午後に寝て起きてから太極拳を練習し、新聞を読む。しばらくして淡如(王之将軍)と明思(向検事)が来て話す。

夕食は裁判官たちと一緒に食べたが(明思と一緒に食べるのは都合が悪いため)、テーブルには三人の香港より来た軍将校がいて、パトリック氏とノースクラフト氏の客人であるそうだ。彼らは英国の軍艦に随って訪問し、あさってに戻る。

夕食の後部屋に戻ってここ数日の新聞紙を検査して切抜きをした。十時にノースクラフト氏と食堂にダンスを見に行ったが、日本人が西洋のダンスを真似したものだったが、たいして似ておらず体格も合っていないので、あまり見栄えの良いものではなかった。

部屋に戻って日記をつけ、シャワーを浴び、約十二時半に就寝した。

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2015年11月24日

中国と東京裁判(22):『梅汝璈日記』19

1946年5月10日金曜日
朝に裁判所の副秘書長ハニー大佐(Col. Hanney)から電話があり、十時に臨時裁判官会議を開くとのことであった。私は九時半に裁判所に到着し、門を入ると秘書長に出あった。彼は私とヒギンズ氏が申請した専用機での中国行きはすでに司令部の批准を得たので、すでに電報で中国方面に通知したとのことであった。これは私をとても悦ばせた。米国人の処理は本当に正確で迅速である。

十時に会議を開いて討論したのはすべてコールマンが司令部に提出した裁判組織憲章の改正案で、国際弁護班併設の問題である。我々の考えるところでは、これは不必要であるだけでなく、全くの誤謬である。なぜなら弁護は被告自身の事情であり、もし司令部が専門班を設置して主任弁護士(Chief Counsel of Defence)を派遣するなら、これはすべてが公平な裁判の原則及び常識に反するからである。

討論した時の人々の意見は一致して態度もたいへん強硬であった。結果はコールマンに今日の午後三時前に彼が司令部に提出した文書を取り消さなければ、我々はマッカーサー元帥に直接厳しく交渉すると決定した。

 会議終了後に私はホテルに戻った。しばらくして、宋徳和氏が来て、彼は中国料理を用意しているので昼食に彼の住居に来てほしいとの誘いであった。私たちは一緒に彼の住居に行ったが、同居しているのは四人の米国新聞記者であった。彼らの態度はとても親切で和気藹々としていた。宋氏は日本の情況をとてもよく知っており、米国記者も家族同様に良く知っており、それで彼は東京でいつもあちらこちらに行くことができる。我々は食後にさらに一時間あまり話をした。彼の観察では天皇は依然として将来起訴されるかあるいは証人として喚問される可能性はあると感じていた。彼の述べる通りならば、天皇はまず退位するだろう。私たちは多くの国際問題や国内問題を話した。二時半に私は別れを告げてホテルに戻った。三時に方秘書と共に裁判所に会議に行った。

裁判官会議が始まると、まず裁判長がコールマン氏がすでに書面で司令部に提出した文書を撤回したと報告があったが、今日の午後に裁判官会議に出席して彼が司令部に国際弁護班の設置を申請した理由を説明したいと希望しているとのことであった。我々はコールマン氏の出席を許可して、コールマン氏がやって来た。いろいろな説明があったが、やはり彼ははっきりした理由を述べなかった。彼が退席した後に、我々は討論して、みなが弁護班の設立は必要ないばかりか、主任弁護士を司令部や裁判所が指定するのは不合理だと感じた。それは被告自身のことであって、彼らに自由に選択させるべきことである。コールマン氏は被告弁護人と連絡するための事務官に過ぎないのに、名前を主任弁護士(Chief Counsel of Defence)とするのは全く妥当ではない。私は再三発言して、この名称は改めなければならないと主張したが、同僚たちもみな私の意見に賛成した。結果私たちは秘書長を任命してコールマン氏の官職の名称を変更させる事にしたが、それは間違いや混乱を起こさないようにするためである。こうして意外な展開を見せたコールマン事件は一段落告げることになった。

裁判官会議が散会した後、私はホテルで休息を取り、新聞を読んだ。羅秘書と王将軍が来て話をした。帰国の可能性があるので、私は羅秘書と銀座の各商店を見て歩き、なにかお土産を買おうと思った。しかし時間が遅かったので、商店はどこも閉店しており、何も買わずに戻った。

夕食後に、パトリック氏、レーリンク氏、マクドゥガル氏、パル氏の四人で長く話をした。彼らは私が今日の裁判官会議で厳しい態度を示した事に驚いて敬服してくれた。実際のところ小さい事ならば私はあまり発言したくないのだが、大きな事についてはおろそかにすることはできない。私は何も発言しないことはすでにあきらめたことで、私が発言したことは必ず最後まで主張し、成功するにせよ失敗するにせよ、いくらかの結果を残さなくては引き下がれない。

八時四十分にマクドゥガル氏が映画に誘ってくれたが、一時間もしないうちに退席した。私は詳細に方秘書が翻訳した「極東国際軍事裁判組織法(すなわちCharter憲章)」を校閲した。十一時に太極拳を練習して、日記をつけて、約一時に寝た。

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2015年11月23日

中国と東京裁判(21):『梅汝璈日記』18

1946年5月9日木曜日
起きてからすぐに、ヒギンズ氏より電話があった。彼によれば専用機の交渉はすでに難関を突破しおおむね成功したので、現在はただ手続きの問題だけである。彼は私に十時に裁判所の事務室へ相談に来るように告げた。私はたいへん喜んで応諾し、彼が熱心に奔走した事に敬意を表明した。

十時に私たちは裁判所の私の事務室で会い、秘書長が一枚の中国行きの理由を書く表を持ってきたので、私とヒギンズ氏とで署名をした。我々三人は旅行のプログラムを相談したが、方秘書は上海人なので彼も参加することになった。我々はとても楽しく語らい、ヒギンズ氏は自分のことを「中国の愛慕者」と称した。我々の専用機には私たち二人と方秘書とフェロス秘書とパイロットの五人以外に、もう一人コルバート(Lt. Colbert)が我々の護衛武官(Military Aid)として付いてくることになった。全て妥当に手配をして、あとは司令部の批准を待つだけとなった。

裁判所を出てから中国代表団に行った。明思(向検事)と電話で会う約束をしていたからである。私と公亮(朱世明)、明思(向検事)の三人は長いこと相談したが、それは起訴書の中の二項における「モンゴル人民共和国」の問題であった。

相談が終わってから、公亮(朱世明)が二品の中国料理を注文し、私にも残って代表団で食事するように言った。食事の後にホテルへ戻って少し寝た。起きてから太極拳を練習し、新聞紙を読んだ。まもなくボーイがコールマン少佐の「国際弁護班」設置に関するマッカーサー元帥宛の文書を持ってきた(彼は憲章の修正を求めていた)。私は一通り見たが、大変に不合理であると感じた。

夕食後に裁判長のウェッブ氏とこの事を話したが、彼も同感で、私よりも憤慨していた。彼は明日裁判官会議を招集して対応を協議すると言った。

ヒギンズ氏が常々あこがれている「中国旅行」について、彼は私のところに来て長く話をした。我々は一緒に映画館に行き、見終わると再びバーで話をした。私は彼がとても興奮していたので、彼に警告して「あんまり高く期待しないでください、そうでないと失望する事になりますよ」と言った。彼は「例えどのようであれ、私は失望しないよ」と答えた。

十一時に別れて、私は部屋に戻り、日記を続けて書き、約十二時に就寝した。

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2015年11月22日

中国と東京裁判(20):『梅汝璈日記』17

1946年5月8日水曜日
朝起きて新聞を見ると中国のニュースが依然として重要な地位を占めていたが、良いニュースはなかった。公亮(朱世明)によれば、このたびフーバーが東京に来てマッカーサーと数時間会談したが、中国の事情についてはとても悲観的で、彼は記者から中国のことを尋ねられても沈黙を守り、ただ中国での災難は悲惨だと述べただけであった。

 私はマッカーサーの四月の日本管理報告書を読んだが、そこでは日本が次第に真の民主の道を歩んでいるとあった。これはいくぶん粉飾しすぎではあるが、しかしマッカーサーが実行している政策は確かに日本経済に少なからず便宜を与え、次第に復興の道をたどらせている。これは否定できない事実であり、我々勝利した中国と対照的なので恥ずかしさを感じないでいられようか。

 朝食後に私は方秘書が翻訳した極東国際軍事裁判の訴訟手続き細則の原稿を子細に校閲し、幾つか修正を加えた。十時半に裁判所に持って行き羅秘書にたのんで毛筆で写しを書かせることにした。

 ちょうど事務処理をしている際に、ヒギンズ氏から電話があり、彼の事務室に行って来週月曜の開廷の後の休廷時期(およそ三週間)に“中国旅行”の計画を相談しようとのことであった。彼の女秘書のフェロス女史(Miss. Ferros)はとても私達と同行したがったが、それは彼女のいとこが上海にいるからであった。私たちはたくさんの電話をして交通手段と乗り継ぎの方法を聞いた。相談の結果は専用機でなければならず、もし本当に北京にまで行かなければならないのならば、私たちの中国での時間はとても限られ(多くて二週間)、国内は大変に混乱しており、交通手段を探すのは困難であるということであった。私はヒギンズ氏に「私の妻は重慶から上海に到着したかどうかまだわからないが、おそらく十四、五日には到着しているはずだが、保証はできない。もし我々が司令部から一台の専用機を手配できれば、私はあなたと共に祖国へ一度戻って、あなたに付き添って案内したい」と述べた。我々は別れる際に専用機がみつかるよう願った。

帝国ホテルに戻って昼食を食べ、昼寝して起きると、方秘書が裁判所から電話してきて、ヒギンズ氏の周旋の結果、専用機の問題が初歩的に解決し、今晩か明日の朝に私を探して詳細に商談したいという。これは私にも意外なことでとても嬉しい。本当に、数日のうちに帰国できる希望が出てきたのである。

五時から七時まで、私は被告の弁護士が提出した裁判の管轄権に関する意見書を詳細に研究した。なぜならこれが来週月曜日の弁論の下敷きとなるからである。この意見書には合わせて4つの点があり、そのうち重要な二点は次のようなものである。
1.裁判憲章の規定で侵略戦争を発動した罪と平和と人道に対する罪で処罰するのはポツダム宣言違反であり(戦犯の処罰とのみ)、それゆえ範囲を超えた越権行為である。
2.起訴書にある二三の訴因は古い話で、このたびの戦争とは関係がなく、かつソ連とはすでに協定を結んで平和的に解決し、さらにその後に両国は中立条約を結んで交戦状態にあったわけではない。これらの古い件を重ねて提出するのは不合理であり、「遡って罪を罰する」嫌いがある。
この二点は法理上から言えば相当に理由があり、第一点は比較的に解決しやすいが、第二点はやや複雑であり、ただソ連にのみ渉っており、さらに微妙である。ともかく、来週の月曜日に大いに弁論をして、我々がそのときに採決するのもあるいは法学史上において歴史的意義を有するかもしれない。私はこの二問題について前もって詳細に考慮することにした。

夕食後に、私は新聞を読んで、本を読んで、日記をつけたが、祖国への旅行の事を片時も忘れられない。私は三度ヒギンズ氏に電話をかけたが、だれも電話に出ない。十一時半になっても、ヒギンズ氏はホテルに戻っていなかった。おそらく彼も興奮しているのか、あるいはまだ専用機のことであちらこちらへ奔走しているのかもしれない。まあよいだろう。私は太極拳を練習して、シャワーを浴びて、寝たのはもう一時近くであった。

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2015年11月21日

中国と東京裁判(19):『梅汝璈日記』16

1946年5月6日月曜日
今日はとても緊張した一日であった。裁判所は九時半に開廷し、観衆は依然としてすべての傍聴席に一杯であったが、貴賓席には前の二回ほどの人はおらず、我国の朱世民将軍もフーバー前大統領の閲兵式典に参加して席にはいなかった。

開廷してから一つ目のことは、検察庁が法廷で新たに東京に到着した陪席検察官のメノン氏(Menon)を紹介し、それから被告弁護士代表清瀬一郎博士(Dr.Kiyose 東条の弁護士)を紹介し、それから一人一人各戦犯の招聘した弁護士を紹介した。これらの弁護士は見たところ平凡そうだったが、みな東京の一流の弁護士であるそうで、中には東京帝国大学法科学長や明治大学の校長もいるそうだ。

清瀬は日本人としては中等の背丈で、年齢はおよそ六十前後、髪やヒゲはみな白く、あまり身なりには頓着せず、見たところ学級肌のようである。彼が発言する時にはいつも微笑みを称え、謙遜と親しみやすさを表している。声はあまり通るわけではないが、今日は英語の良くできる青年が翻訳したので、一言一言がとても力があり、彼が今日最も目立った一人であった。

彼は発言を要求して、彼は審判台上の裁判官を攻撃(challenge)するわけではないが、極東国際軍事法廷の管轄権(Jurisdiction)の範囲について異議を申し出た。この時に裁判官たちと観衆は少し緊張した。彼は従容としてウェッブ氏が裁判長と裁判官にふさわしくない四つの理由を挙げた(十分な内容はなかったが、ウェッブ氏がオーストラリアの戦争犯罪委員会の主席で、日本軍のニューギニアでの暴行に関する調査報告に署名したという一点は確かであった。)この時にウェッブ氏はとても我慢できないような様子であった。キーナン氏もマイクの前に来て一言二言話したが、それでも清瀬は動じる事がなかった。

ウェッブ氏はこのことは彼個人に関係しているので、同僚たちが会議を開いて議決し、会議の際は彼は出席せず、結果は再び法廷で報告すると述べて、それから休廷15分を宣言した。我々八人(ウェッブ氏を除く)は退席して会議室に集まった。みな神経がとても緊張していたが、特に清瀬が一人一人の裁判官に攻撃と異議を唱えると主張していたように聞こえたからである。討論の際にみなが発言し、それはとても熱烈であったが、わたしは会議の席で誰がどんな意見を述べたか(自己を除く)は明らかにすることはできない。それは誓約に背く事になるからである。

我々が緊張した空気の中で討論して得た結論は、裁判組織憲章第二条に基づき裁判官は連合軍の最高司令官が各国政府の推薦に基づいて任命する。これによれば、我々裁判官は自分たちで我々の中のいかなる人の任免をする権利も持ち合わせていない。このことが決定した後、我々はウェッブ氏を出席するように呼び、結果を彼に通知した。

約二十分して、法廷が再び再開し、やはりウェッブ氏が司会を始めると、群衆はざわめき、お互いにささやいて、何かを期待しているようであった。ウェッブ氏が発言する前に、我々はノースクラフト氏に発言を要請し、裁判官たちの審理の結果を通知してもらった。ノースクラフト氏は短く声明を出した後、法廷はいつもどおり進行した。

今日の最も重要なプログラムが始まった。それは戦犯たちが一人ずつ起訴書の訴状に対して「有罪」か「無罪」を宣言するものである。まず、呼び出されて起立して答えたのは荒木貞夫で、彼は名前がA字で(Araki)始まるからである。このややふてぶてしい感じの老人はきまりの悪そうな様子で、口の中でぐどぐどと多くの言葉を発した。私はウェッブ氏に彼の発言に干渉するようにささやいた。ウェッブ氏は「荒木、我々はあなたの演説を求めてはいない。「有罪」か「無罪」かを言うように」と述べた。荒木はなおも我慢できない様子で「私は七十歳まで生きたが、いままで平和や人類に対する罪を犯したこともないし、なんら起訴されるような暴行を行った事もない」と答えた。

荒木が述べ終わると、その他は流れる水のように「無罪」を宣言した。あるものは宣言のときに憤然として、あるものは体操場での呼びかけのように、特に山下泰文と武藤章はそうであった。松岡洋右はやはり西洋派らしく、病気で死にそうな様子であったが、とても流暢な英語で“Not guilty to all and every count”と答えた。東条が呼ばれたのは二十六人目であったが、彼が最も注意を引き、立ち上がったときにはたくさんのカメラが彼に向けられた。彼はとても落ち着いてはっきりと「すべての訴因に、私は無罪を声明いたします」と述べた。

二十七名の戦犯(そのうち大川一人は会場におらず、暫時延期)の声明が終わると、法廷は検察官と被告の双方に実際の審判と証拠の聴取の日取りについて意見を求め、双方はかなり論争となった。最後に裁判長が人々の意見を聴取した跡、正式に宣言した。五月十三日(来週月曜日)に法廷管轄権の問題を弁論し裁定する。六月三日に(四週間後)法廷は正式に実際の審判と証拠聴取を実施する日にちとした。それから退廷を宣告して、来週の月曜日九時半に再開することとした。

ホテルに戻ると、中央日報駐東京特派員張仁仲氏が訪問してきたので、共に昼食を取り、たくさんの国内時事を話し、日本の政治潮流ときょうの開廷の様子を話した。

張氏が去った後、私は約二時間昼寝した。起きてから太極拳を練習し、五時過ぎに代表団に行き中央社の電報と中国の新聞を見た。朱世明将軍はとても嬉しそうで、中国代表団が鳩山に反対を表明したので、きょう司令部はすでに鳩山の組閣を禁止したとのことであった。鳩山はすでに口にくわえた肉を離さざるを得なくなった。この人物は戦犯に列せられる危険のある人物でもある。

五月十日は私が立法院に三ヶ月の休暇を届けて満期となる日なので、私は去る前に続けて三ヶ月休暇を申し出る電報を打ち、公亮(朱世民将軍)に託して代表団の無線機で電報を南京に打ってもらった。公亮(朱世明将軍)は私と帝国ホテルに来て夕食を取り、夕食後にパイル劇場で雑劇と映画を見たが、“将官ボックス”には我々二人しかいなかった。十一時に公亮(朱世明将軍)は代表団に戻った。私はシャワーを浴びて寝た。

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