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2015年12月10日
中国の兵器工場と李承幹
今日の中国中央テレビのドキュメンタリーチャンネルの番組「大後方」で取り上げられていたのが、南京の金陵兵器工場をいち早く重慶に移転させた李承幹という兵器製造の専門家の話であった。李承幹は1888年に湖南の長沙に生まれ、1917年に東京帝国大学で電気工学を学んで中国に帰国する。それから南京の金陵兵器工場で機関銃や迫撃砲の開発と生産に携わっていた。
南京の金陵兵器工場は清朝末期に李鴻章が建設したものだが、幹部の腐敗や職工の怠慢などが原因で生産効率が上がらなかった。李承幹が工場長となってからは、職工の賭博や麻薬の使用を禁止するだけでなく職工の福利厚生に力を入れて給料を上げたので生産効率が飛躍的に伸びたという。
日本軍の南京や上海の攻略により、南京や上海の兵器工場は重慶などの土地へ移転せざるを得なくなった。この兵器工場の移転の指揮を執ったのも李承幹で、重慶の岩山に半分は地下の防空壕に工場を作り半分は地上に即席の建物を建てて武器の生産を再開した。
東京に留学中は孫文らの同盟会に所属し辛亥革命の運動にも参加したが、蒋介石の指導する国民党には批判的で国民党入党を拒否し台湾にも渡ろうとはしなかった。表面的な肩書としては国民党軍の中将の肩書だったが、秘密裏に中国共産党員にもなっていた。中国共産党政権成立後には国家計画局局長や全人代代表などを歴任している。
南京の金陵兵器工場は清朝末期に李鴻章が建設したものだが、幹部の腐敗や職工の怠慢などが原因で生産効率が上がらなかった。李承幹が工場長となってからは、職工の賭博や麻薬の使用を禁止するだけでなく職工の福利厚生に力を入れて給料を上げたので生産効率が飛躍的に伸びたという。
日本軍の南京や上海の攻略により、南京や上海の兵器工場は重慶などの土地へ移転せざるを得なくなった。この兵器工場の移転の指揮を執ったのも李承幹で、重慶の岩山に半分は地下の防空壕に工場を作り半分は地上に即席の建物を建てて武器の生産を再開した。
東京に留学中は孫文らの同盟会に所属し辛亥革命の運動にも参加したが、蒋介石の指導する国民党には批判的で国民党入党を拒否し台湾にも渡ろうとはしなかった。表面的な肩書としては国民党軍の中将の肩書だったが、秘密裏に中国共産党員にもなっていた。中国共産党政権成立後には国家計画局局長や全人代代表などを歴任している。
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タグ:李承幹