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2015年11月21日

中国と東京裁判(19):『梅汝璈日記』16

1946年5月6日月曜日
今日はとても緊張した一日であった。裁判所は九時半に開廷し、観衆は依然としてすべての傍聴席に一杯であったが、貴賓席には前の二回ほどの人はおらず、我国の朱世民将軍もフーバー前大統領の閲兵式典に参加して席にはいなかった。

開廷してから一つ目のことは、検察庁が法廷で新たに東京に到着した陪席検察官のメノン氏(Menon)を紹介し、それから被告弁護士代表清瀬一郎博士(Dr.Kiyose 東条の弁護士)を紹介し、それから一人一人各戦犯の招聘した弁護士を紹介した。これらの弁護士は見たところ平凡そうだったが、みな東京の一流の弁護士であるそうで、中には東京帝国大学法科学長や明治大学の校長もいるそうだ。

清瀬は日本人としては中等の背丈で、年齢はおよそ六十前後、髪やヒゲはみな白く、あまり身なりには頓着せず、見たところ学級肌のようである。彼が発言する時にはいつも微笑みを称え、謙遜と親しみやすさを表している。声はあまり通るわけではないが、今日は英語の良くできる青年が翻訳したので、一言一言がとても力があり、彼が今日最も目立った一人であった。

彼は発言を要求して、彼は審判台上の裁判官を攻撃(challenge)するわけではないが、極東国際軍事法廷の管轄権(Jurisdiction)の範囲について異議を申し出た。この時に裁判官たちと観衆は少し緊張した。彼は従容としてウェッブ氏が裁判長と裁判官にふさわしくない四つの理由を挙げた(十分な内容はなかったが、ウェッブ氏がオーストラリアの戦争犯罪委員会の主席で、日本軍のニューギニアでの暴行に関する調査報告に署名したという一点は確かであった。)この時にウェッブ氏はとても我慢できないような様子であった。キーナン氏もマイクの前に来て一言二言話したが、それでも清瀬は動じる事がなかった。

ウェッブ氏はこのことは彼個人に関係しているので、同僚たちが会議を開いて議決し、会議の際は彼は出席せず、結果は再び法廷で報告すると述べて、それから休廷15分を宣言した。我々八人(ウェッブ氏を除く)は退席して会議室に集まった。みな神経がとても緊張していたが、特に清瀬が一人一人の裁判官に攻撃と異議を唱えると主張していたように聞こえたからである。討論の際にみなが発言し、それはとても熱烈であったが、わたしは会議の席で誰がどんな意見を述べたか(自己を除く)は明らかにすることはできない。それは誓約に背く事になるからである。

我々が緊張した空気の中で討論して得た結論は、裁判組織憲章第二条に基づき裁判官は連合軍の最高司令官が各国政府の推薦に基づいて任命する。これによれば、我々裁判官は自分たちで我々の中のいかなる人の任免をする権利も持ち合わせていない。このことが決定した後、我々はウェッブ氏を出席するように呼び、結果を彼に通知した。

約二十分して、法廷が再び再開し、やはりウェッブ氏が司会を始めると、群衆はざわめき、お互いにささやいて、何かを期待しているようであった。ウェッブ氏が発言する前に、我々はノースクラフト氏に発言を要請し、裁判官たちの審理の結果を通知してもらった。ノースクラフト氏は短く声明を出した後、法廷はいつもどおり進行した。

今日の最も重要なプログラムが始まった。それは戦犯たちが一人ずつ起訴書の訴状に対して「有罪」か「無罪」を宣言するものである。まず、呼び出されて起立して答えたのは荒木貞夫で、彼は名前がA字で(Araki)始まるからである。このややふてぶてしい感じの老人はきまりの悪そうな様子で、口の中でぐどぐどと多くの言葉を発した。私はウェッブ氏に彼の発言に干渉するようにささやいた。ウェッブ氏は「荒木、我々はあなたの演説を求めてはいない。「有罪」か「無罪」かを言うように」と述べた。荒木はなおも我慢できない様子で「私は七十歳まで生きたが、いままで平和や人類に対する罪を犯したこともないし、なんら起訴されるような暴行を行った事もない」と答えた。

荒木が述べ終わると、その他は流れる水のように「無罪」を宣言した。あるものは宣言のときに憤然として、あるものは体操場での呼びかけのように、特に山下泰文と武藤章はそうであった。松岡洋右はやはり西洋派らしく、病気で死にそうな様子であったが、とても流暢な英語で“Not guilty to all and every count”と答えた。東条が呼ばれたのは二十六人目であったが、彼が最も注意を引き、立ち上がったときにはたくさんのカメラが彼に向けられた。彼はとても落ち着いてはっきりと「すべての訴因に、私は無罪を声明いたします」と述べた。

二十七名の戦犯(そのうち大川一人は会場におらず、暫時延期)の声明が終わると、法廷は検察官と被告の双方に実際の審判と証拠の聴取の日取りについて意見を求め、双方はかなり論争となった。最後に裁判長が人々の意見を聴取した跡、正式に宣言した。五月十三日(来週月曜日)に法廷管轄権の問題を弁論し裁定する。六月三日に(四週間後)法廷は正式に実際の審判と証拠聴取を実施する日にちとした。それから退廷を宣告して、来週の月曜日九時半に再開することとした。

ホテルに戻ると、中央日報駐東京特派員張仁仲氏が訪問してきたので、共に昼食を取り、たくさんの国内時事を話し、日本の政治潮流ときょうの開廷の様子を話した。

張氏が去った後、私は約二時間昼寝した。起きてから太極拳を練習し、五時過ぎに代表団に行き中央社の電報と中国の新聞を見た。朱世明将軍はとても嬉しそうで、中国代表団が鳩山に反対を表明したので、きょう司令部はすでに鳩山の組閣を禁止したとのことであった。鳩山はすでに口にくわえた肉を離さざるを得なくなった。この人物は戦犯に列せられる危険のある人物でもある。

五月十日は私が立法院に三ヶ月の休暇を届けて満期となる日なので、私は去る前に続けて三ヶ月休暇を申し出る電報を打ち、公亮(朱世民将軍)に託して代表団の無線機で電報を南京に打ってもらった。公亮(朱世明将軍)は私と帝国ホテルに来て夕食を取り、夕食後にパイル劇場で雑劇と映画を見たが、“将官ボックス”には我々二人しかいなかった。十一時に公亮(朱世明将軍)は代表団に戻った。私はシャワーを浴びて寝た。

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