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2015年11月20日

中国と東京裁判(18):『梅汝璈日記』15

1946年5月4日 土曜日
今日は極東国際軍事裁判の開廷第二日目である。朝起きてスター・アンド・ストライプス紙とジャパン・タイムス紙を見ると、どのページも裁判の昨日の開廷のニュースと裁判官や戦犯や法廷警備などのいろいろな写真があった。最も注目を引くのは半ページを占める法廷の全景で、新聞でも大川が東条の頭を叩いたことが細かく描写されていた。

今日は九時半から開廷で、私は九時に裁判所に到着し、同僚たちと会議室で三十分ほど話をした。開廷の儀式は完全に昨日と同じで、傍聴席はやはり客で一杯であった。我々はゆっくりと審判台に上がり席に就くと、裁判長が書記官代理に続けて起訴書を読むように命令し、第二十三の訴因から始めて、一段読み終わるたびに翻訳し、いささか聞く人を飽きさせた。

朗読の長い過程で、私は今日は注意して各戦犯の様子と表情を観察した。私は彼らの姓名と写真と座席を対照しながらなん度も見た。彼らの名前と顔とは私に多くの記憶と憤激を呼び起こしたが、特に前列右端に座っている顔の丸い土肥原である。彼は強いて沈着を装っていたが、時々ひどく身震いをし、不安な様子を表していた。東条は依然として身動き一つせず粘土の人形のようだった。荒木は七十歳の老人だが(彼は十万の竹刀でロシアを滅ぼすという馬鹿らしい主張をした)、彼の銀白色のヒゲが八字に長く伸び、以前の写真のように整ってはいなかった。この老人の目は静かに見開き、唇は何か言いたげにわずかに動き、見た感じとても頑強そうに見える。そのほかは名前は一時大変に轟いたが、彼らのこの時この場所での様子は大変に普通であった。なるほど今日のスター・アンド・ストライプ紙が戦犯たちを「当時の強大な帝国の統治者の一群には見えない」と形容したのもうなずける。本当にこの人々からは今日は確かに当時の威風と堂々とした様子を見ることができない。彼らはまるで東京で公共バスにたまたま乗り合わせた乗客のように平凡である。最も哀れなのはあの国際的に一時たいへん有名となった松岡洋右で、彼は九一八満州事変の後に日本を代表して国際連盟を脱退し、中国を地理上の名称として侮辱し三国防共協定と日ソ中立条約を締結しモスクワ駅ではスターリンと抱き合って接吻すらした。この男は今日は顔色が悪く痩せて憔悴しきった様子で、顔に口ヒゲが伸びているほかに顎鬚も生やしていた(英字新聞によればHe had a moustache and a beard.)。確かに彼のヒゲは伸び放題で、整えておらず荒れていた。その次は南京大虐殺の元凶である松井石根である。なんということか彼はまるで飼いならされたヤギのように恐縮している。この言葉は全くほかに適当なものがない。松井大将を見て私は『日の出』の中に出てくるあの小職員を思い出した。

この一群の戦犯たちは外見的には全く中国人とたいした区別はない。本来のところ日中は同文同種であり共存共栄するべきなのである。しかしこれらの戦犯と彼らの先達たちは、偏った民族優越の謬論を高く掲げて、その国民を害し彼らを夜郎自大の誰も目の中にないようにし、中国を滅ぼそうと妄想し、東アジアを席巻し、世界を征服しようと企てたのである。これらの徳もなく力もない戦犯は日本国家と民族を空前の災難に遭わせた。彼らは中国の敵であるだけでなく、世界の敵であり、また日本人民の敵である。我々は彼らの困惑した表情を見て、心の中に一面では民族の怒りの炎が燃えたぎり、もう一面では同種の悲哀を感じざるを得なかった。私は私がこのたび参加した歴史的劇で努力する事で、世界各民族の本当の相互の尊敬と相互の許しと共存共栄の新たな原則を作り出すのに貢献したいと願った。

起訴書の朗読が十時半になると、裁判長は十五分の休憩を宣言し、我々は会議室に戻り、それぞれ一杯のコーヒーを飲んだ。十時四十五分になって再び開廷した。松岡の弁護士が松岡の身体の情況が悪いとの理由で退廷を申し出た。ウェッブは「すぐに倒れるような危険がありますか?」と尋ねると、弁護士は「あります。」と答えた。しかしウェッブはその要請を許可せず、この問題は次の休憩時間に裁判官会議で決定すると述べた。
続けて朗読と通訳が行われている間、私は戦犯たちを注視するほかに、同時にいくつの訴因が中国に関係があるかを数えた。私は五十五の訴因のうち、十二個が完全に中国に関係があり、三個が中国と密接な関係があることに気づいた。我々の証拠資料は多くはなく、将来検察処が十分にこれらの訴因を実証できるのだろうか?ここまで考えると、私は少し心配になってきた。

十一時半に起訴書の朗読が終わり、五十五の訴因を二種の言語で読み終わった。しかし、これはただ主文だけで、主文は全体の起訴書の三分の一を占めるに過ぎず、附録が三分の二を占めている。ここまでで、皆は退屈で耐えられなくなってしまった。裁判長が被告の弁護士に附録の公開の朗読をとりやめることに同意するかどうか尋ねた。被告の弁護士は十分間相談してから答えたいと申し出た。その結果附録は読まないことで同意した。これでみんなはほっと一息ついた。もしそうでもしなければ二つの言語で読めば少なくともさらに六七時間は必要だからである。

約十一時半に裁判長が休廷を宣言して、来週の月曜日九時半に再開する事とした。法廷を退出してからバーですこしみなでおしゃべりをした。私はホテルに戻って昼食を取った。この二日はとても神経が緊張し、体も少し疲れたので、昼寝して起きるとすでに四時過ぎであった。

自動車に乗って三十分ほどドライブして新鮮な空気を呼吸して、ついでに中国連参処にここ数日の中国のニュースを見に行った。フーバーが中国に食糧危機を調査しに向かい、マーシャルが国共の調停を行い平和にむけて努力している。国民大会は延期を宣言して、国民政府は正式に五月五日を首都が南京に戻った記念日とした。

ホテルに戻りしばらく休むと公亮(朱世明)将軍からの電話で、私を中華レストランの天華楼に誘って食事をしたいとのことであった。私が七時に到着すると、同じ机に明思(向検事)淡如(王之将軍)、公亮(朱世明)自身の外に、さらに一人の米国運輸司令のバンダ大佐と彼と共に上海から日本に到着した石女史と祁女史(医者)がいた。

夕食を食べて、みんなとても楽しく過ごし、明思(向検事)以外はみな全員で帝国ホテルの音楽ホールでダンスに行った。中国の女性が帝国ホテルでダンスをするというのは、戦後初めての型破りだったので(私は戦前のことは知らない)、たいへんに注意を引いた。十時に日本の舞踊団が西洋のダンスをしたが、先週よりは進歩したようだ。日本人は模倣が得意だが、しかしなにか虎を犬のように描くような感が否めない。十二時にダンスを解散して、みんなと別れた。私は部屋に戻りシャワーを浴びて、寝たときには一時過ぎていた。昨日と今日とは新鮮で刺激に満ちた二日と見なさざるを得ない。

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