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2015年11月14日

中国と東京裁判(12):『梅汝璈日記』9

1946年4月23日火曜日
今日の午前は再び法官会議で、討論したのは法廷、翻訳、記録官、記者などの宣誓の語句と方式についてであった。というのは翻訳と記者の宣誓の中に「神よ助けたまえ(So help me God)」というのがあるのだが、私は削除するか変更することを主張した。なぜなら彼らがキリスト教徒であるとは限らないからである(この主張は受け入れられ、非キリスト教徒は宣誓時にこの語句を使わなくてもよいことになった)。法官の宣誓はまた別のもので、これには全く「神よ助けたまえ」の語句はない。

そのほかにも、訴訟手続き細則上の幾つかの小さな文字修正などを討論した。なぜならマッカーサー元帥が昨日法廷に当てた照会状に対する回答状ができておらず、私たちは憲章の条文が抵触するかどうかの問題がまだ釈然としていなかったからである。

会議が解散した後に、ザリャノフ将軍が私の手を握って話をしたそうにしていたので十分ほど話した。私は彼に1929年2月の厳冬にモスクワを通った事があると告げた。彼は「そのころはあなたは子供だったでしょう。みたところあなたは三十歳前後のように見えるから」と述べた。私は彼の言葉がユーモアなのか、本気でそう信じているか分からない。しかし、中国人は髪が黒く背が低いので実際の年齢より若く見られるのは確かである。例えば、明思(向検事)は私より十歳も上で、実際には五十一、二歳である。しかし西洋人には彼が三十歳前後か三十歳台に見えるようだ。これは中国人が損をするところで、私がひげを生やしたことが対策になるかどうかわからない。

ザリャノフ氏と別れた後、私はバーでマクドゥガル氏、パトリック氏と三人でコーヒーを一杯飲んだ。法廷を出た後、私は代表団に行ったが朱将軍は不在で、ツ組長と銭主任と話をし、それから送られてきた中国の出版物を読んだ。

部屋に戻って昼寝した。四時から六時に詳細に最近数日のスター・アンド・ストライプ紙とジャパン・タイムス紙を読み、最近の数期のニューズウィーク誌とタイム誌を読んだ。外国の出版物の編集技術はとても高く、読者を飽きさせない。六時に朱公亮(朱世明)が来て話をし、私たちはともに夕食を取って、晩餐が終わってから向かいにあるパイル劇場で最近新たに上演されている名活劇Arsenic of Laceを見た。題材はある狂人の家庭で、二人の老人が十二人を毒殺し、一人のその狂人の姪も十二人を殺すというもので、中間にラブストーリがはさまっている。台詞はとてもよく、演技も悪くはない。しかしこの題材はあまりにも現実離れしているが、あるいは遊び飽きて満足しきった米国人には新しい刺激になるのかもしれない。

劇場から出た後に朱将軍は私の部屋に戻って大いに話したが、ほとんどは連合国の対日理事会の近況とアチソンがマーカットに交代した意味についてであった。公亮の目はとても鋭く、アチソンともよい関係があるので、私は彼がこの情況をうまく利用できると信じている。

公亮が去った後に、私は太極拳を練習し、日記をつけて、眠った時にはすでに一時を過ぎていた。今日の午後四時には太極拳を練習したが、眠る前にももう一度太極拳を練習した。私は東京に来て一ヶ月ほどの間に二回も太極拳をしたのは始めてである。私は今後毎日二回太極拳をしたいと思っている。もし一度ならば早めに昼間にしたい。寝る前に太極拳をするのはあまり衛生的ではない。

おとといに撮影した写真をACME新聞撮影公司が二枚の見本を送ってきた。これは九人の裁判官が法廷前の門で撮影したものである。太陽の光が強烈過ぎて、みなとても不自然である。公亮(朱世明)は私の姿勢にとても満足げであったが、彼は私とフランスの法官以外はみなあまりにも老人くさいと述べた。私は彼らこそ西洋の裁判官の典型だと答えた。

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