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2015年11月05日

中国と東京裁判(3):検察団顧問の倪征噢

向哲浚は深刻な人手不足を感じていた。アメリカは多数の調査人員を派遣していたし、ソ連も当初は七十人を派遣する予定であった。しかし中国政府が当初裁判のために派遣した人員は助手を含めて十人もいなかった。中国の検察側の力不足を見てとった国際検察局は、土肥原賢二と板垣征四郎への起訴と反論の任務をフィリピンの検察官に任せることにした。これは極東国際軍事裁判に中国代表検事として派遣された向哲浚の面子を失わせた。1946年の秋に、向哲浚は法廷が太平洋戦争の審理に入る際に帰国して、東京裁判への人員増強を中国政府に請願した。ちょうどこの時、向哲浚の待っていた人物が帰国した。それは彼の古くからの友人である倪征噢である。
 
倪征噢は東呉大学を卒業後に米国スタンフォード大学法学院やジョン・ホプキンス大学で学び博士学位を取得して、帰国後は司法行政部で向哲浚と共に働いたことがあった。彼らは前後して上海第一特区法院で勤務し、向哲浚が首席検察官で倪征噢はそこの裁判官であった。抗日戦争の終了前後に倪征噢は政府から英米とヨーロッパの司法制度の視察に派遣された。一年後に倪征噢は法制度改革のために英米で学んだ経験を生かそうと抱負を抱いて帰国した。ちょうどこの時に、彼は帰国した向哲浚から東京への応援を要請された。

倪征噢

倪征噢は向哲浚から状況を聞いて、裁判における中国検察団の証拠収集と起訴が順調に進んでいないことを知った。向哲浚は倪征噢と相談して“極東国際軍事裁判中国検察官顧問団”を結成し、倪征噢が顧問団長となることになった。向哲浚は先に東京に戻って法廷の事務を進め、倪征噢は中国国内で証拠を集めてから東京で合流する手はずを整えた。倪征噢の回想によれば「私は北京にも行った。その時は数人の漢奸を探して、彼らに自供を書かせた。当時日本人から強制されて、祖国に裏切り行為をした時の記録である。後にある人は書くには書いたが、その後に火の中で焼いてしまい、少しの証拠も残そうとしなかった。」その自供を書いたが焼いてしまった人と言うのは満州国の立法委員長の趙歓伯である。趙歓伯は収監されていた監獄で第三次世界大戦がまもなく勃発するという噂を聞き、日本軍が再び攻めてくることを恐れて、証拠を提出するのをやめてしまった。こうして北京での証拠集めは、なかなかはかどらなかった。倪征噢と顎森は中国東北地方に行って証拠集めすることを希望したが、当時中国東北部は国民党軍と共産党軍の戦闘が激しく、交通機関も運行がままならない状況であったため、二人は東北行きをあきらめざるを得なかった。

1947年1月、倪征噢は外交部の緊急通知で、早く東京に検察官顧問団を送ってほしいとの東京からの電報を受け取った。向哲浚からの電報には次のように書かれていた。「数日後に、国際検察団は二週間の休暇を取り、被告に弁護の準備をさせ、検察側に答弁の準備をさせることになった。これまでに、法廷で検察側が提出した文書は2300余件、法廷での裁判記録は16000余ページにもなっり、証言者と物証は多く、手続きは煩雑である。倪征噢首席顧問は速やかに準備をして、なんとか2月1日前に連合軍の飛行機で来てほしい。」

極東国際軍事裁判での情況は急を要したが、中国国内での証拠集めは内戦のため思ったようにははかどらず、倪征噢は中国での証拠集めの作業を諦めて日本へ向かうことになった。中国検察官顧問団が東京に到着した時には、中国駐日代表団団長朱世民将軍が自ら厚木飛行場に出迎えた。倪征噢は東京に到着すると直ちに作業に入った。彼らはほとんど徹夜で法廷の裁判記録や各種の証拠資料に目を通し、法廷の裁判過程と尋問の進み具合を理解した。倪征噢らが東京に着いた時、極東国際軍事裁判が事前に制定した手続きの規則に従えば、検察側が証拠を提出する段階はすでに終わり、次は被告人の個人弁護の段階で、検察側には再度証拠を提出する機会は残されていなかった。もし新たな証拠を補充して提出したいのであれば、被告への反駁や質問のなかに差し挟むしかない。

1947年9月16日、土肥原賢二被告の個人弁護が開始された。倪征噢が尋問と反駁のために登場した。土肥原賢二の弁護側の用意した証人は、土肥原賢二が奉天特務機関長だった時の部下の一人で、新聞課長の愛沢誠であった。愛沢は証言して土肥原賢二の人となりはまじめで、当時の主な仕事はニュースを集めることで、何も秘密活動などには携わってはいなかったというものである。倪征噢は愛沢誠に「あなたは上司の土肥原賢二が1935年に北京と天津で「華北五省自治」を組織した事情を知りませんか?」と尋ねた。愛沢は首を振って「知らない」と答えた。倪征噢は反問して「当時外国の新聞の多くはこのことについて報道していたのに、あなたは関東軍特務機関の新聞課課長でありながらどうして知らないのですか。」愛沢誠は何も言えなくなった。

倪征噢はすぐに法廷に対して物証を提出した。それは1935年に日本関東軍が出版した『奉天特務機関報』で、そこには次のような記事があった。「華南の人々は土肥原賢二と板垣征四郎の名前を聞くとトラを見たときのように顔色を変えて恐れる」。倪征噢がこの記事を引用すると土肥原賢二のアメリカ人弁護士は直ちに発言を求め反対を表明した。倪征噢の記憶では「一人のアメリカ人弁護士が飛び出てきて、これは土肥原賢二の件とは無関係のトラの話であると反論した。そこで私は説明して、それはトラのことではなく、人々がトラを恐れるように土肥原を恐れたと形容しているのです。ある地方では人々が子供にほらトラが来たぞ、土肥原賢二が来たぞと脅して子供を寝かしつけるのです。トラを見たように顔色を変えるというのは中国の諺であり、人々が彼をいかに恐れていたかを形容したものです」。高文彬は「彼ら二人がトラのようだと説明すると、人々は意味が分かって笑い始めた。法廷の人たちはみな当初意味がわからなかったが、説明するとすぐに理解した」と述べている。

倪征噢は会場の笑い声がおさまると、さらに踏み込んで説明し「この証拠を提出した理由は、証人の愛沢誠が土肥原賢二の人柄がまじめだと証言したからで、これは彼の人格の証拠の一種であり、私は証人の陳述への反証として、被告がトラのように凶暴だという証拠を提出したのです。これは完全に反論証拠を提出する際の規則である反駁時に提出される証拠は直接的な反証でなければならないという規定にかなったものです」アメリカ人弁護士は何も言えず、そそくさと弁護士席にもどるほかなかった。倪征噢が提出したこの物証は法廷に採択された。

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