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2016年08月18日

川島芳子は生きていた(補足2)

http://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載
2016年8月17日ー19日に中国中央テレビ科学教育チャンネルCCTV−10の「探索・発見」という番組で、「川島芳子死亡調査」と題して3回にわたり川島芳子の生存説が紹介された。川島芳子の生存説は中国でも民放でこれまで何度も放送されてきたが、今回の放送は中央テレビでしかも教育チャンネルでの有名な番組での紹介とあって反響が大きい。

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基本的な内容は李剛/何景方著『川島芳子 生死の謎』にある内容に沿って紹介されており、アニメや切り絵などを使用した場面説明なども入りかなりまじめに制作されている様子が伺える。すでに川島芳子が処刑を替え玉を使って逃れ、方おばさんと名乗って長春で1978年まで生存していたことが中国で発表されてからかなりの年数がたっていることから、今までの番組のようにセンセーショナルな描かれ方はされなくなったが、手堅く長春での川島芳子生存説の調査を再現する番組であった。

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方おばさんと名前を変えて中国の田舎に身を隠していた川島芳子の遺品の一つが蓄音機だが、これはスイス製の高級機で上海のマフィアのボスであった杜月笙の旧宅に今も飾ってある蓄音機と同じメーカーである。川島芳子の自伝によれば誘拐されたロシア人を救出しに杜月笙の家に乗り込んだそうだから、その二人が同メーカーの蓄音機を持っていたというのは興味深い。
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李香蘭・川島芳子・白光という3人の美女と関係が深かったのが、日本の陸軍で宣伝映画を制作していた山家亨だ。川島芳子の初恋の相手で、後に李香蘭をスカウトして映画スターとしてデビューさせている。川島芳子は山家亨と李香蘭の男女の仲を疑って李香蘭に喧嘩を吹っかけたことがあった。やはり中国人の映画スターだった白光は山家亨と同棲していたが、山家亨を追っかけて日本にまで探しに来るほどだった。戦後に山家亨は李香蘭に子供の世話を託した後に逃亡先で死体となって見つかっている。山家亨の死体は愛人との心中自殺として処理されたが、実際には他殺の可能性が高いというから美女の嫉妬は恐ろしい。

2016年05月18日

川島芳子は生きていた(37)憲立の証言

http://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載
日本訪問期間に我々はまた川島芳子の同腹の兄である愛新覚羅・憲立が川島芳子について書いた手記を手に入れることができた。これは我々調査団にとって、貴重な資料的価値があるものだ。

清粛親王善耆には五人の妻がおり、合わせて三十八人の子供を設けた。そのうち第四側福晋、張佳氏は善耆の五番目の妻で、十人の子供を生んだが、憲立はそのうちの最も長じた子供(全部合わせると第十四王子)で、川島芳子は三番目の子供(全部合わせると第十四王女)であった。

以下は川島芳子の兄である愛新覚羅・憲立の証言である。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そこへ、孫連仲が北京接収のために乗込んで来た。彼の夫人は私の一族である関係上、孫夫人とは簡単に連絡がついた。そこで私はいろいろと働きかけて、芳子の除名運動を開始した。芳子の官選弁護士になった中の一人とも連絡がついて、差入れもできるようになった。判事にも働きかけて、やっと連絡はついたものの、
「命を助けたいなら、金の延棒五十本、出せ」
と言われたのには驚いた。なにしろ、金の延棒は一本が当時オフィシアル・レートで三百五十ドル、ヤミ相場ならば七百ドルだったから、それを五十本ほしい、それだけ出せば、釈放とまではいかないまでも、命は助けると言われて、私も困った。今の日本の金に換算してみてもざっと千二百六十万円程になるのである。
しかし私は結局、要求された全部ではなかったが、それに近い相当な金を渡してやった。もちろん私の手からではない。表面上はある有力者(現存に付き特に名を秘す)を立てて、関係者に綿信たのである。私の手から出ていることはまちがいない。おそらくその全部が判事の手に渡らなかったかもしれないが、受取ったことは確実である。無罪のほうへ誘導しかけていたことを見ても、それは判る。

芳子の裁判は、法廷内では狭いというので、公園の広場を臨時の法廷にして、傍聴公開で行われた。
それでも証拠は挙がらない。断罪の理由が立たないのである。
ところが、たまたま調べが上海当時のことに触れていった。すると、立法院長をしていた孫科から
「公開中止、直ちに処刑せよ」
という電報が来たことがわかってきた。
そこでたちまち公開裁判は中止され、急に死刑の宣告となった。
孫科は、前に上海で芳子から機密を奪われている。それが明るみへでたら大変だ、と思ったのであろう。
死刑と決められたが、まだ私は諦めなかった。なおも働きかけていると、それでは処刑したような恰好にして生かしておいてやろう、という話になった。それには金の延棒を、こんどは百本出せ、というのである。私はどうせ財産は奪られてしまうだろう。財産のことは考えず、妹を助けてやろうと考えて、要求通りのものを出す覚悟をした。

しかし、生かすことに成功したとして、あとをどうするか、という問題にぶつかった。処刑された恰好になった以上は、幽霊のような存在だから、日本へ連れてくるわけにもいかない。蒙古へ送りこもうか。それともロシアへ送りこもうか。その二つしか手段は考えられない。

その時、働きかけてくれる白系ロシア人があって、ロシアも芳子から情報をとりたがっているからロシアの出先の兵隊に渡りがつくと云った。そしてロシアの飛行機が二台来たことも事実である。

そのうち、いよいよ最終判決の日が来た。もちろん死刑。ただちに刑を執行する、ということになった。夜明けの五時ごろに執行するというので、多勢の新聞記者が押掛けたが、呉盛涵という判事が建言をもって入れさせなかった。ただ一人、アメリカの新聞記者が入ることを許された。それだけは断りきれなかったらしい。中国側の記者は全部シャット・アウトされた。
やがて暁の空気を破る銃声一発。処刑は終わった。アメリカの新聞記者が彼女の死体という写真を撮って出て来た。万事は終わったのである。

今、何処にいるか
弁護士が私の所へ来て、弁解やら、不満やらを述べ立てた。
「あんなに金を取っておきながら、こんなことにして、まったく怪しからん」
と怒った。かれとしても私に顔向けできないからである。
「しかし、どうも私には、ほんとうに処刑したとは思えない。替玉を殺したのではあるまいか」
とも言った。私としては芳子が生きていることを信じたい。裁判所が誰かを身代わりに処刑して、川島芳子を処刑した、とすることも不可能ではない。しかし、簡単にそう考えるのも、希望的解釈にしか過ぎない。
それにつけても口惜しいのは、有罪の証拠が一つも挙がらないのに、強引に処刑してしまった、当局者の態度である。芳子の判決理由書を見ると唯一の証拠らしきものは、村松梢風著「男装の麗人」という本一冊だけである。

しかも芳子が中国人であるか、日本人であるか、ということが論叢の的になった。日本人とすれば漢奸の罪にはならない。そこで日本の川島浪速に照会を発した。
「あなたの家の養女だというが、籍は入っているか」
それに対する川島の返事は、
「籍をいれたかどうか、忘れた」
なんということであろうか。もし川島が戸籍謄本を送り、芳子は確かに養女である、と証明すれば、芳子は戦犯になったかも知れないが、処刑されなかった。
処刑した死体は、引取り人がなければ共同墓地に入れられる。死体の上に肢体を積むという埋め方をされる。私としてそんなことをされてはいやだから、日本人の坊さんに頼んで引取ってもらうことにした。ただし、すぐに荼毘に付さなかればならない規則である。そこで日本人の坊さんは、ある死体を引取って荼毘に付してくれた。これは確実である。しかし、その死体が芳子であったかどうか。これは私には判断する材料がない。引取ってくれた坊さんは、芳子に面識がないし、顔を見たとしても、弾丸が後頭部から入って顔面が見分けられない位に貫通していたから、どんな顔だか判断がつかない。一人だけ許されて処刑の現場を見たアメリカの新聞記者も、芳子に面識のない人である。

川島芳子が現在生存しているかどうか。私にはいずれとも判断がつきかねる。
ただ、芳子が処刑されたという相当日後、蒙古とロシアとの国境線に近く、粛親王家の昔からの領地がある。そこの管理者から私に宛てて、こういう通知が来た。
「御一族は確かに着きました。これから北方へおいでになるところです」
あるいは、と私は思う。もしも芳子が生きているとしたら、蒙古の牧場にいるのではあるまいか。いや、北方へ出発するという通知だから、もうロシアに入っているかも知れない。ロシアは彼女からいろいろな情報を得たいと思っていたらしいから、入国させたかもしれない。・・・しかし、私の一族といっても、それは芳子のこととは限らない。私の一族は多勢いる。兄弟だけでも三十数人いるのだから、芳子が蒙古へいったと考えることにも、まだ疑問がある。

骨肉の情として、私は芳子が生きていることを信じたい。なんとしても生きていてもらいたい。あの親分肌のサバサバした気性の芳子。至る所で彼女を親分のように慕う多くの男たちに取巻かれていた芳子。蒙古でもロシアでもいい、生きていてくれ。
だが、「御一族は確かに着きました。これから北方へおいでになるところです」という通知のあと、何の連絡もない。果して芳子はどこにいるのであろうか?あの弱い体である芳子が一人で蒙古の草原をさまよう姿を偲ぶにつけ、或はあの大草原の真中で枯れ果てたのかも知れない、将又本当に北国へ脱出しているかもしれない、何れにせよ、骨肉の兄としてはその生存を願うて止まない次第であり、又その生存を信ずるものである。

2016年05月08日

川島芳子は生きていた(36)フランス人の証言

http://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

フランス人記者であるロジェ・ファリゴとレミ・クーファーによる中国の諜報機関を扱った"The Chinese Secret Service"という本の中でも川島芳子の生存説について取り上げられている。この書は黄昭堂訳で『中国諜報機関』1990年光文社出版と日本語訳があるのだが、この日本語版は一部しか翻訳されていない抄訳でちょうど川島芳子生存説の部分は抜け落ちているため、全体を知りたい人は英語版あるいはフランス語版を参照してほしい。

著者のフランス人記者であるロジェ・ファリゴとレミ・クーファーはフリー・ジャーナリストを名乗っているが、その著作がほとんどスパイ物という経歴から見ると、記者というのは表向きの身分で本当はフランス情報機関の人間である可能性が高い。

フランス人記者2人によるこの書は主に康生という毛沢東の時代の中国情報機関のボスの伝記を中心に書かれている。この康生という男は中国特務機関のボスとして麻薬取引や文化大革命を背後から指揮し恐れられた人物である。元女優の江青を毛沢東に近づけて篭絡し、背後から毛沢東を操ろうとしたのも康生であった。

この書の中では川島芳子が次のように紹介されている。「中国の“マタ・ハリ”。満州国で生まれ、日本人により育てられた。土肥原大佐の情報機関のために働いた。中国のラスト・エンペラーを日本の支持の下で満州国の皇帝にしようとした。数多くの情報工作に関わったが、康生のためにも動いたとされている。国民党により捕縛され北京で銃殺されたが、今なお北京で生きているという説もある。」

ここで注目したいのは、川島芳子が北京で生きているという説をフランス人記者が耳にしていることである。これは川島芳子が長春の郊外で方おばあさんと名乗り暮らしていたという話とは矛盾しない。なぜなら方おばあさんが長春にいたのは夏の数カ月だけで、そのほかの時期には各地の工作拠点に出没していたからである。方おばあさんはしばしば北京で元首相の息子であった西園寺公一を訪問していたという情報がある。そもそも西園寺公一が民間大使として中国に派遣されたのは、1957年に溥傑の長女の慧生が表向きは恋人との心中自殺という名目で殺害され川島芳子を日本の皇室との秘密外交に使えなくなったためである。

さらにフランス人記者は中国共産党の情報機関のボスであった康生と川島芳子が協力関係にあったとほのめかしている。では康生と川島芳子とは具体的にどのような関係にあったのであろうか。本文の別の部分を読むと、康生は1930年代にモスクワから中国に戻ると満州国皇帝溥儀の統治下にあった中国東北地方の情報活動を始めた。そこで溥儀の宮廷で料理人をしていたある男から情報を得て、その男を通じて川島芳子とも連絡を取っていたというのである。大変にグルメであった康生は満州国崩壊後に溥儀の宮廷でコックをしていたこの男を雇い入れて自分専属の料理人とした。後に康生亡き後このコックはケ小平によって暗殺されたそうだ。ともかく川島芳子が康生を通じて中国共産党と連絡があったというのは注目すべき情報である。

2016年04月04日

川島芳子は生きていた(35)阿尾博政の証言

http://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

阿尾博政著『自衛隊秘密諜報機関ー青桐の戦士と呼ばれて』には阿尾氏が戦後に古谷多津夫氏の自宅で白髪の老婦人を見かけ、それが誰か尋ねると川島芳子だと告げられたという証言が載せられている。

古谷多津夫とは、戦時中、上海におけるスパイ組織である「南城機関」の機関長をしていた人物である。古谷は三十歳にならずして同機関の機関長となり、日本人、フランス人、インド人、ロシア人、中国人など約八百四十名のスパイを自らの指揮下に置いていた。そして、彼らを上海から広東省までの華南一帯に展開し、国民党、共産党への熾烈な特務戦をおこなってきた人物である。南城機関は日本海軍第三艦隊司令部付兼上海在勤海軍武官府付の特務機関であった。

この当時の上海は〈東洋の魔都〉と呼ばれ、世界四十八カ国および中国国内の各勢力が、生死を賭した諜報戦を展開していた。当然のことながら、諜報の一手段としてテロが横行した。古谷は戦後も内閣調査室の顧問として、日本の各諜報機関の現場において神様≠ニ評価されていた。古谷は、アメリカの安全保障に緊要な地域である極東の日韓台の情報網の中で、優れて信用された人物だった。

 戦後に川島芳子が日本に潜入していたのは某財団関係者によれば1955年前後であるから、阿尾博政氏が古谷多津夫の自宅で川島芳子を目撃したのもこのころになろう。戦時中に上海で海軍のスパイをしていた児玉誉士夫や、児玉を海軍に紹介した笹川良一などとも関係があったことは想像に難くない。

阿尾博政氏と川島芳子のつながりはもう一つある。それは阿尾氏が佐郷屋留雄の書生をしていたことだ。佐郷屋留雄は1930年に首相の浜口雄幸を東京駅で銃撃して暗殺した右翼のテロリストである。佐郷屋が犯行に使用したピストルはもともとは川島芳子が所蔵していたピストルであった。

元はというと、このピストルは張作霖の部下であった張宗昌という男が川島芳子の弟である愛新覚羅・憲開の殺害に使用したピストルであった。川島芳子は死んだ弟の形見の品としてピストルを譲り受けたのだった。

川島家に出入りしていた右翼活動家の岩田愛之助は川島芳子に結婚を迫り、川島芳子はそれを拒否してこのピストルで自分の胸を打ち自殺未遂を引き起こしている。そしてこのピストルはなぜかこの岩田愛之助の手に渡る。そして岩田愛之助が子分の佐郷屋留雄にピストルを渡して浜口雄幸首相を襲撃させたのであった。しかも佐郷屋は小学校までの幼少時代を中国の吉林省で過ごしているから、その当時の中国東北地方の軍閥だった張作霖のことは知っていただろうし中国語も話せた可能性が高い。

佐郷屋の家で書生をしていた阿尾博政氏が川島芳子に出会うというのは、こうして見ると決して偶然ではないことがわかるだろう。阿尾氏が古谷や佐郷屋といった極めて川島芳子に関係の深い人脈と状況に身を置いていたことが読み取れるのである。阿尾氏は佐郷屋のタンスにはいつも多額の現金が収められていたのを目撃している。つまり佐郷屋は自分の意志で浜口首相を暗殺したのではなく、誰かの指示と出獄後の生活の保障を受けて浜口首相を暗殺したのであろう。彼ら玄洋社系の右翼には香港のユダヤ系財閥の金銭的援助があったという黒い噂もある。

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2016年04月03日

川島芳子は生きていた(34)白光の証言

http://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載
白光は李香蘭らと共に日中戦争期に活躍した中国人の映画スターで歌手である。東京女子大学へ留学経験があり日本語ができるため日本軍の宣伝映画などに出演していたこともある。川島芳子の初恋の相手で李香蘭を歌手としてスカウトした日本陸軍の山家亨と一時期は同棲生活を送っていた。また中国国民党のスパイの親分だった戴笠とも愛人関係にあったようなので、美貌を利用した二重スパイの役割を果たしたのであろう。

彼女が台湾を訪問した際に蒋勲という人からインタビューを受けた記事が『雄獅美術月刊』1978年5月号第87期という中国語の雑誌に掲載されているそうだ。その記事が2011年に舞台で演じられた白光の一生を描いた劇「如果没有你」のパンフレットに再録されている。下はそのパンフレットだ。

白光白光2

この記事の中で白光は1947年に川島芳子に出会ったと述べている。白光によれば川島芳子は死刑を替え玉ですり替えて死刑を逃れて、米国からの依頼で外モンゴルの独立運動に関して情報活動を行っていたという。この記事が正しいとすると川島芳子の処刑は公式には1948年3月だから、すでに1947年の時点で川島芳子が監獄から外に出されて身代わりとすり替えられていたことになる。

また川島芳子の替え玉がソ連と米国の働きかけによるものであったとすれば、川島芳子の死体の撮影を許されたのが米国人記者だけであったことも納得がいく。米国人記者の報道は川島芳子を逃がすためのオトリ報道だったのである。米国はヤルタ会談で外モンゴルを中国とソ連の緩衝地帯として独立させることで密約があったようだ。川島芳子はモンゴル人のカンジュルジャップと結婚し、モンゴルで一時期生活したことがあるためモンゴルに人脈があり何らかの情報活動に携わるのに便利な存在だったのだろう。

 なぜ米国が川島芳子を助けたかというと、東京裁判で日本の戦犯に不利な証言をした田中隆吉は、以前の恋人であった川島芳子を助けようとマッカーサーに川島芳子が隠し持っていた清朝の財宝の一部を贈ったという。その中でも特に値打ちがあったのが赤い琥珀で、元は西太后の持ち物だったが溥儀により川島芳子に贈られた大変に珍しいものであった。これらの清朝財宝により買収されたマッカーサーの指示もあり、米国が川島芳子の救出に関ったという話がある。

以下は原文の中国語
2011年云门演出编舞家林怀民的舞作《如果没有你》的节目单转载1978年5月第87期《雄狮美术月刊》美学家张勋访问白光的文章《向生命投降-访白光》有一段川岛芳子的事。
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「打不打算写一点回忆录之类的东西?」我想应该结束这次访问了,就转入这个话题。
「我自己的?」她说:「没有。我在写一个朋友的故事。我最好的一个女朋友。她在日本侵华计划下,从小被训练成一个情报员,给日本军阀工作,然后卷入中国抗战时几个不同政治组织的斗争中,然后抗日战争胜利了,她以战犯的名义被捕,报上大登特登:XXXX被枪毙。可是他并没有死,美国人花了六根金条买了一个不知名的女人,拉到刑场上代替她就枪毙掉了。她又继续被美国人利用做间谍。我最后一次见她是1947年,美国人送她去外蒙古,准备做控制外蒙的前锋。」她听了一下又说:「这就是人,你认识她,你才知道她其实多么简单,善良,应该是一个普普通通的女人,可是她的一生给几个政治组织在做贱。现在,不知道她还在不在。」
「好像是川岛芳子的故事。」我说。
「就是她。我最好的一个朋友。」
「她太出名了。」我说:「我倒在想那个不知名的女人,给人用六根金条买了。拉到刑场无声无息的就枪毙了。她不应该向生命投降,如果生命是这样子。她应该站起来,用拳头把这样的生命砸的粉碎。」

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2016年04月02日

川島芳子は生きていた(33)金塊で替え玉を買収

http://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

川島芳子処刑のニュースから数日もしないうちに、北平の新聞には再び金璧輝(川島芳子)のニュースが紙面を賑わし、静かになったばかりの北京は再び震撼することになる。
最新ニュース「金璧輝(川島芳子)の死刑の替え玉となったのは劉鳳玲」
事情は次のようなものであった。名を劉鳳貞という女性は、死刑の替え玉となった劉鳳玲の妹であるが、前後して二度も河北高等法院検察所と新聞社に投書して、(もう一つの説は替え玉の妹である劉鳳貞は南京国民政府監察院に訴えたという)彼女の姉が金で買われて替え玉となった詳細を暴露して訴えた。
一通目の手紙にはこのように書いてあった。

新聞

「私の姉は劉鳳玲といい、親孝行で外見が金璧輝に似ており、日本語も出来ました。私の母親は義理の兄である劉仲儕の甘言に乗って、私の姉を十本の金の延べ棒で売りました。」
「刑が執行される夜に、私と母は姉を監獄の官舎に送り届けて、監獄二科の万、王の二人の科長と典獄長呉さんに会いましたが、彼らは四本しか金の延べ棒を渡してくれず、残りの六本は後で渡すといいました。母親は後悔して泣きだしやめると言い出しましたが、三人の役人は怒って、『お前たちがまた来たら、三人ともみな殺しにする』と言いました。私たちは怖くなって、姉は胃の病気で死ぬ身だし、親孝行にもなるからと、母親を説得して家に帰りました。」
「劉仲儕が後で言うには、金璧輝(川島芳子)は女子監獄から庭に出てきた所で、私の姉と入れ替わり、小門から東北に逃げたということです。」
「劉仲儕は阿片製造の罪で収監され、刑が満期になった後で、私の姉を売った金の延べ棒をネコババして職員の地位を買収した。刑を受けた人間が、官吏になれるなど全く不思議だ。」
「王科長は家で座っていながら看守の禄を貪り、呉典獄長は大金持ちになった。王科長は民国三十一年に第一監獄の科長となり、賄賂を好み、陳医官、秋専門員らも皆呉監獄長が金儲けするのを助けている。私は彼らを恨むのではないが、彼らが金の延べ棒が少ないと、私たち親子を害するのを恐れる。」

この一つ目の手紙が出されて数日もしないうちに、法院と新聞社はさらに劉鳳貞からの二番目の告発文を受け取った。

「四月十九日の夜に、私の母親劉李氏は呉典獄長と、万、王の二科長と秋専門員に会って、私の姉が金璧輝(川島芳子)の替え玉となって銃殺された身代金の残り金の延べ棒六本を要求したが、万・王の二人の科長に殴られた。呉・秋の二人は『お前たちは生かしておけぬ!』と脅したので、母親はそれ以上は言えなかった。」
「私の母親はそれから義理の兄の劉仲儕を探して説得したが、モルヒネ製造で捕まって、なおかつ金で事務員の地位を買った劉仲儕に説得など効くはずもなく・・・・・・」
「四月二十日の夜、私の母劉李氏は再び第一監獄に行き、呉典獄長、万・王二科長、秋専門員に金を要求したが、その日以来母親が戻ってこない。私が劉仲儕に訪ねると、『お前も早く逃げないと命が危ないぞ』と言った。私はすぐにあちこちへ身を隠し、表に出られなくなった。私の姉は替え玉にされ、母親の命も取られてしまった。どうぞ法院で調査してください。」

疑問の余地なく、手紙の差出人がこの二つの手紙を発表したことにより、金璧輝(川島芳子)が処刑に「替え玉」とすりかわった内幕を暴露しただけでなく、第一監獄に金璧輝(川島芳子)の死刑に賄賂が使われて汚職により法が曲げられたという幾多の事実を暴露することとなった。劉鳳貞が新聞にこの驚くべき事情を明らかにした後、南京政府の腐敗ぶりに失望し、憤りを抱いていた北平市民たちは疑問を抱くと共に、徹底的にこの事件の裏を調査するように要求した。
ことがここまでにいたっては、国民党の北平当局に巨大な圧力を与えざるを得ず、さらに加えて国民党がけし掛けたはずの内戦ではすでに国民党の全国統治風前の灯のような状態であった。この情勢に押し切られて、国民党北平当局は人々の不満をやわらげるための政策を取ることを強いられ、新聞上に大きな紙面を割いて、記者の取材調査報告を発表させた。そのなかには、女子監獄主任趙愛貞のインタビューや、死刑を執行した当事者の談話、看守長の証明があった。死体を引受けた日本人古川大航のはっきりしない言い方も、市民の疑問を解くためであった。
その後に、当局は以下のような文書を発表した。

「劉鳳貞が典獄長を収賄で告訴した案件は棄却
 監督部門が調査し全くの虚構と判明
法院の命令により河北第一監獄長呉峙沅らが賄賂を受け取って金璧輝(川島芳子)を逃がしたとされる事件を調査し、ここにその調査結果を謹んで報告する。
(一)執行経緯:記録によれば、河北高等法院検察処は今年三月二十四日、核丁学第一八三号に基づき、河北北平第一監獄典獄長呉峙沅に訓令し、最高法院検察署寅魚捷事一六号代電により主席検察官は命令に従い、当該犯人金璧輝(川島芳子)を取り調べ、本人であることを確かめて、法に基づき死刑を執行した。今月二十五日午前七時に、本院は検察官何承斌を派遣して、命令どうりに執行されているかを監督し、協力して執行した結果を報告した。この事件調査の責任者である検察官何承斌は命令を受けた後、二十五日午後六時ごろに、書記官、法医、警吏などを率いて、第一監獄に赴き刑を執行した。監獄へ到着後に当該監獄の科を主管する王科長が女子監獄へ行き金璧輝(川島芳子)を引き取りに行き、女子監獄主任の趙愛貞が金璧輝を監房から呼んで女子監獄の横門で王科長に引き渡し、王科長は金璧輝を高等検察所の警吏に引き渡して処刑場に連行した。処刑場についた後に、検察官何承斌は自ら確認をして、金璧輝(川島芳子)本人に間違いないことを確かめ、遺書を残すかどうか訪ねた後、刑執行を宣告し、再び同じように検分して、三回にわたり確かめ、すでに死亡していたため、監獄吏に命じて、死体を後ろ門の外に運ばせた。これが当日の死刑執行状況の概要である。
(二)告訴内容:
(劉鳳貞の二つの告訴状と同内容のため略す)
(三)事実分析:
一、第一の告訴状の情況によれば、被害者劉鳳玲は金璧輝(川島芳子)の替え玉となって死ぬことを甘んじて受けたのであり、その原因は親孝行であったからで、その代価は金の延べ棒十本で、その動機は母が義理の兄劉仲儕の言を容れたことで、選ばれた原因は「外観が金璧輝に似ており、日本語が出来た」という以上四つの原因により、死刑の替え玉となったとされている。しかしその挙げたところの紹介人である劉仲儕は、一貫して義理の妹に劉鳳玲なる人間がいたことを否認しており、かついかなる親戚友人関係も、さらにはその人との面識も否認している。かつ告訴人が顔を出さず、また住所もなく、その紹介人とされている人間もそのことを否認していることから、告訴人が姿を現して質問に応じない限りは、劉仲儕が否認していることを嘘と証明することが出来ない。この理は明らかである。
二、その告訴状に述べるところによれば、「劉鳳玲は胃の病気を患い余命幾許もなく、また親孝行にもなるからと、母に家に戻るよう説得した」とあるが、胃の病気を患い余命幾許もない人間であれば、その病気の程度が重いはずである。金璧輝(川島芳子)が死刑を執行される前には、健康は普通で、余命幾許もない病人が健康正常な人間の替え玉になれば、たとえ告訴状の言うように「外観が金璧輝に似ていて、日本語ができた」にしても、その健康状態は、大きく差があり、このように死刑執行検察官をだまそうとしても、その検察官が騙しとおせるものであろうか。
三、「金璧輝(川島芳子)が女子監獄から庭に連れ出され、劉鳳玲と入れ替わり、小門から東北に向かって逃げた」とあるが、女子監獄の主任趙愛貞の供述によれば、「本監獄王科長が女子監獄に来て金璧輝(川島芳子)を要求したので、自分が金璧輝を女子監獄の側門から連れ出して、王科長に手渡した。」と述べており、また「私は側門の外側で、王科長が金璧輝死刑囚を女子監獄側門から刑場に連行するのを見た。」と語っている。その後にその場にいた警護人員、当該監獄科員秦紹武に供述したところによれば、本監獄王科長は金璧輝死刑囚を女子監獄側門から連れ出し、高等検察所の何検察官が連れてきた法官に手渡し、刑場へ連行し、その場で何検察官が本人であることを確かめ、姓名、年齢、本籍を尋ね、遺言を尋ねるなど各種の手続きをした後、何検察官の命令で刑執行人により執行された。また当該看守の饒希曽に質問したところ、このものは当日の刑場で警護責任者であったが、確かに処刑されたのは金璧輝本人であったと認めた。すなわち金璧輝死刑囚は女子監獄の側門よりでた後、高等検察所の法官が連行したことは事実であり、女子監獄と刑場の距離はわずか五〇ヤードで、法院唯一の小門すなわち非常門とは距離が七、八〇〇ヤード隔たっており、告訴人の言うようなことは、大勢の人が見ている中で不可能な事である。
四、「劉仲儕が刑を受けたことがある人間で、事務員の地位を金で買った」とか「呉、王、万、秋は賄賂で財を成した」などは本件とは関係なく、別の収賄事件とする。
「母は四月二十日晩に受け取っていない六本の金の延べ棒を要求しに行って、それから帰ってこない」、また告訴人が「あちこちに身を隠して、身元を明らかに出来ない」。上述の通りであるとすれば、告訴人の劉鳳貞は、その姐を金で売り母が失踪した後に、仇を討つためには、当然名乗り出て治安機関に保護を求め、社会の援助を求め、母と姉の仇を討つのが当然であるのに、ただ「身を隠し、身元を明らかにしない」のは、世の愚か者が出てくるのを恐れているのであり、でたらめを言っているのは、別の意図があるからであることが想像できる。
(四)告訴への疑問
一.告訴状の各段を見て、もし仮に賄賂があったという部分が事実であるとしたならば、請負人はすでに賄賂と誤殺人犯の二種の罪状があるのに、なぜ再び本件とは無関係の賄賂事件を持ち出す必要があるのか。もし告訴人がか弱い女子の身で、自分の母と姉の命が奪われたというなら、どうして監獄の過去の様々な汚職事件を詳細に知ることが出来たのか?疑問の一つである。
二、告訴人が告訴状に述べるような被害を受けたなら、即ち姉が金十本で命を売り、親孝行であったなら、告訴人は母と妹の仇を一身に担っているのに、どうして恐れて隠れるのか。これが疑問の二つ目である。
三、査察団が任務執行期間中に記録を調べると、過去の匿名で呉峙沅等を訴えた二つの告訴状にある告訴人の筆跡と本案の筆跡がよく似ており、さらに紙質と紙の大小も似ており、同一人物の手になるものが明らかである。劉鳳貞の告訴とどんな関係があるのか、たまたま代書しただけであろうか?全く理解しがたい。これが疑問の三つ目である。

この長大な文章の目的は、ほかでもなく北平市民に「替え玉」など存在しないと言わんがためのものであった。しかし、結果としては逆に民衆に疑わしい感覚を与えただけであった。当局が隠蔽しようとすればするほど、かえって怪しく思われてしまうだけであった。この文章の発表後に、あの「替え玉」の妹であった劉鳳貞も姿をくらまし再び姿を現すことなく、果たして当局に口を封じられたものか今となっては知るすべもない。
国民党政府当局はこのように不細工にもそそくさと金璧輝(川島芳子)事件への処置を終了したが、民衆の心には消しがたい懸念と謎を残したのであった。
一九四八年十二月上旬から一九四九年一月三十一日、天津戦役が終了後に、北平は平和的に解放され、人民共和国の首都北京となって人民の手に帰り、北京市民は新しい心持で偉大な祖国の建設を開始し、金璧輝(川島芳子)の死刑の謎は徐々に人々の記憶から薄れていった。

川島芳子の刑死は六十年余り経った今日でも、やはり彼女自身の足跡と同じくミステリーであり、世紀を超えて歴史的懸案となっている。もし、画家の張玉が祖父段連祥の遺言を世に明らかにしていなければ、おそらく川島芳子の生死の謎はそのまま謎であり続けていただろう。
川島芳子の養父川島浪速は一九四八年十二月十二日に親友の滝沢徳太郎への手紙の中で次のように書いている。
「中国の《大公報》の報道によれば、川島芳子の死刑は実際には執行されておらず、、処刑されたのは替え玉だった。新聞に載った死体の写真は現代中国風の長髪だった。彼女と一緒に生活していて、先に釈放されて帰国した小方八郎は、彼女は男のように短い髪にしていたから、処刑されたのは川島芳子司令ではありえないと言っている。」
古川大航も次のように述べていた。
「死体は血まみれで判別し難かった。ただ髪の毛は肩まで伸びて長かった。」

川島浪速のこの手紙は現在も米国国立公文書館に保管してあり、すでに英訳も添付されている。
当時古川大航が一九四八年九月に、いわゆる「川島芳子」の遺骨の半分を川島浪速に手渡すと、川島浪速は川島芳子の遺骨の安置を手配し、長野県松本市黒姫山雲竜寺の永井徳温住職に託した。
永井徳温の一九六五年の回想によれば、「浪速先生は夫人と芳子の遺骨を一緒に私の寺に預けた。当時も芳子の替え玉説があったが、浪速先生は『たとえ替え玉でも供養しなければならない、もし芳子本人ならなおさらだ。』と言って私どもにあつく供養させた」。

二〇〇八年九月二十四日、日本に留学中の中国人学生孫洋が日本の名古屋市から日本の川島芳子の資料を送ってくれたが、その中には「川島芳子生死の謎」に関する次のようないくつかの噂が含まれていた。
一、日本政界で親中派の政客であった藤山愛一郎が一九五五年バンドン会議に参加した際、渡航前に周恩来首相と面識のある吉薗周蔵を訪ね、周恩来宛ての紹介状を書いてくれるよう頼んだ。すると、吉薗周蔵はそれと引き換え条件として、藤山愛一郎にことづけて周恩来にあったら川島芳子は生きているのかどうか尋ねてほしいと頼んだ。藤山愛一郎は会議の間に周恩来と親しく会見し、吉薗周蔵からの紹介状を手渡すと共に、吉薗周蔵の名義で周恩来に「川島芳子が生きていると聞きましたが本当ですか?」と尋ねた。周恩来は日本の友人からの言伝を拒否することもなく、「そんなことは答えられる問題ではありません。ただ吉薗先生にはこうお伝えください」と言いながら、手で丸を描いた。藤山愛一郎は帰国すると吉薗周蔵に周恩来からの挨拶とともに、その問題への回答も伝えた。
二、一九九七年八月、日本外務省出身の某議員が日本海軍の特務機関にいた塚田という人物から聞いた話として、川島芳子は金の延べ棒五本で命を贖ったあと当局に軟禁されたと述べた。
三、川島芳子が死刑を執行される十日前に外国人のAP特派員が監獄で単独取材をした。その時、この特派員はその眼で川島芳子が男のような短髪であったのを目撃している。しかし処刑されて公開された死体の髪の毛は首に巻きつくほど伸びていた。
四、二〇〇二年日本ABC記者が愛親覚羅・連伸の紹介で東北地方の暁玲という女性を取材した。この女性が言うには、川島芳子は一九四八年に死刑を逃れた後、中国に残留した旧日本軍人である松本章と結婚し、一人の娘を産んだが、それが彼女暁玲だという。ところが、一九五三年に川島芳子と松本章は自宅で何者かに殺害された。当時、わずか四歳だった暁玲は親切な人に養子にもらわれた。暁玲が大人になった後に、養父母は彼女に出生の秘密を語って聞かせた。愛親覚羅・連伸によれば彼女は「川島芳子」の祭壇に花を供えているという。
 現在、こうして日本に流布している川島芳子の生死の謎に関する数々の噂は、「川島芳子生死の謎」が半世紀以上にわたってずっと議論され、いまなおその余波が続いていることを示している。

我々は当時北平当局が川島芳子を審理した機密文書を手に入れることができた。『川島芳子の秘密―国民政府金壁輝審判文書』というもので牛山僧の編集により香港で少数出版されたものである。当該資料の中には、国民党軍統調査室の尋問記録、検察官の告訴文書、裁判官の審理記録(筆記)、被告の自白と抗告、弁護人の弁護、裁判所と検察院の往復文書、すべて原資料のコピーであるが、その中に意外な発見があった。当該文書の第三十八巻の中に「古月山人」という匿名の人物が、金壁輝に「災いを転じて福となす策」を書いて寄こしているのだ。その文書は以下のようなものであった。

 「大恩人さまがお書きになった手紙を受け取りびっくりしています。私めは今日南京より古都へ戻り、ついでに福星の行方を尋ねますと、すでに北京にきて数日になるとのこと。どうぞ大恩人さま早急に訪ねてください、機会を逃して後から後悔しても遅いのです。さもなければ私めがせっかく恩返しをしたくても無駄になってしまいます。どうぞ大恩人さま疑わないでください。試みに人生の危うさを考えてください、朝に生まれ夕に死ぬものがどうして謀略に打ち勝てるでしょうか。ただ勇敢な者だけが打ち勝てるのです。いま私めは恩に報いるために、危険を顧みずに機会を探っているのです。大恩人のために災いを転じて福となす計画を考えたのに、なお疑って決心しなければ、災いが降りかかってから後悔しても遅いのですよ。どうか考え直してください。私めが早く北京に戻ったのも、この事のためです。明日の朝処刑場に向かわれるときに、この手紙は燃やして、ほかの人の目には触れないようにしてください。さもなければ効力を失ってしまうばかりか、大きな災いを招きます。これは大恩人さまの生死にかかわることですから、決しておろそかにしないでください。金壁輝大恩人さまへ。
古月山人
北京東四九条金宅
金壁輝様親展
古月山人封」

この手紙の文面を表面的に見ると次のことが読み取れる。
一、送り主の古月山人(筆名か号)はかつて川島芳子に救われたことがあるか、財政的援助を受けたか、その恩返しのために動いている人物である。
二、古月山人は南京国民政府の人間か、あるいは国民党軍統の成員か、あるいは南京当局の権力者とつながりのある人物である。
三、この手紙は同じような内容の二番目の手紙で、しかも処刑の前日(一九四八年三月二十四日)に送られている。当事者は大恩人(川島芳子)に最後の機会(救出の)を逃すことないよう忠告している。
四、手紙は川島芳子の手に渡ったが、なぜか焼却処分されず、この裁判の関係者により資料の中に入れられたのは、後世の人に示すためであろうか。川島芳子がなぜ焼却処分しなかったかといえば、おそらく生死の境を前にしてそれどころではなかったのであろう。
 総じて言えば、この手紙が伝えているのは次のような情報である。川島芳子を救い出す秘密の計画があり、最後の最後にいたる直前まで、緊密に連絡を取り指示をしていた人物がいるということだ。

2016年04月01日

川島芳子は生きていた(32)川島芳子の処刑と逃亡

http://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

一九四五年十月十一日夜、国民党「軍統」(軍事統計調査局)の北平第二粛奸小組が、北平東四楼牌九条公館の大門を叩き、川島芳子の逮捕を実行した。はじめは国民党第十一戦区長官孫連仲司令部の倉庫部屋に拘留された。その年の十二月に、彼女は北平第一監獄に移された。
その後は、大体毎月一回は川島芳子に尋問が行われた。最初の段階では、彼女の国籍問題がおよそ論争の焦点となった。その後、法廷は川島芳子を中国人金璧輝として審判することとした。中国の法律によれば、「中国人が中国に対し不利な事を行った場合」は漢奸罪が適用されることになっていた。こうして、川島芳子は死刑判決を受けることとなったのである。
川島芳子は事実上日本人川島浪速の養女であったが、しかし日本の戸籍上は正式な手続きが行われていなかった。
一九四七年十月二十二日、検察官の起訴に基づき、川島芳子に河北法院から死刑が宣告された。その主要な罪状は以下のようなものであった。

(一)被告がたとえ中国と日本の二重国籍を有していたとしても、その父(清朝)粛親王善耆は疑いなく中国人であり、これにより漢奸罪が適用されるべきである。
(二)被告は日本軍要人と密接な交際があり、上海で「一・二八事変」(第一次上海事変)のさい、上海でダンサーになるなどしてスパイ活動を行った。
(三)「満州事変」後に、被告は関東軍と関係を保持し、満州安国軍を組織した。
(四)溥儀と婉容の天津脱出を手伝い、満州国建国の陰謀に加担した。
(五)各方面から提供された証拠に基づき、被告を漢奸罪、スパイ罪と判決し、国際スパイ処罰条例第四条第一項に基づき、被告に死刑を宣告する。

死刑を宣告された後も、川島芳子は生への望みを捨てなかった。死刑執行前の五ヶ月間に、彼女は何度も養父川島浪速に日本国籍の証明を送るよう手紙を書き、養父に彼女の出生日を十年遅らすように頼んだ。そうすれば、満州事変の際に彼女は十五〜六才の少女ということになり、そのような重大事件に関わることはできないと主張するつもりであった。その他にも、彼女は手紙で養父に彼女を多方面から死刑を逃れる方法を講じてほしいと頼んだ。その他、川島芳子が最大の希望を寄せていたのは、愛新覚羅家と彼女の兄である憲立らが、彼女の為に金を「替え玉」を用意することであった。

一九四八年三月二十四日になると、すでに死刑が宣告されていた川島芳子が数ヶ月行ってきた刑を逃れるための努力はどれも功を奏さなかったように思えた。
二十四日の夕方、河北省高等法院裁判長、検察官、北平第一監獄天国長は突然に省高等法院の会議室で会議を開いた。人々はこれはきっと川島芳子の死刑と関係があると推測した。様々な動きから見れば、明日の二十五日が執行日だと、人々は噂した。
確かに、二十五日明け方四時ごろ、実弾を込めた銃を担った軍警を満載した軍のトラックが、省高等法院から北平第一監獄に到着すると、軍警たちは第一監獄の周囲を厳しく警戒し始めた。朝六時に、一台の黒塗りの乗用車が監獄の大門に入ると、薄暗い朝方の光の中で、車から執行検察官、書記官、検験員の三人が降りてきた。
監獄の後ろの庭の西南の角には畑があったが、そこを臨時の刑場として一台の長方形の机と三脚のイスを並べた。机の上には硯と巻紙が置かれ、いたって簡単な配置であった。川島芳子がこの小さな刑場に引きずり出されると、刑場は水を打ったように静かになり、人々は声をひそめた。執行検察官は形式どうりに被告の姓名、本籍、年齢などを尋ねるとこう言った。
「金璧輝!お前の抗告は棄却され、その裁定書は昨日の夜に手元に届けたから、すでに承知のことだろう。本検察官は命令に従い今日お前に死刑を執行するが、何か言い残すことはないか?」
しかし、川島芳子は何も言わなかった。続けて、習慣どうり死刑犯への二個の饅頭を与えようとしたが、川島芳子は受け取らなかった。ちょうどこの時に、監獄の大門の外からますます大きくなる人声が聞こえてきて、刑場の静寂を破った。それは監獄の大門の外で夜中から張っていた記者達と市民の叫び声で、門をドンドン叩く音と共に、「門を開けろ、門を開けろ、中に入れてくれ!」という声が聞こえてきた。
この時に執行検察官が手を振るうと、二名の法官が川島芳子を支え、一人が身を翻すと、彼女を後方に数十歩退かせ、それから彼女の肩を抑えて、川島芳子は検察官を背に声を出すことなくひざまづいた。法官が身を避けて遠ざかると、この時に一人の頚執行官が銃を掲げ、川島芳子の後頭部から銃弾を打ち込み、川島芳子は銃声と共に倒れた。用いられたのは「爆裂弾」で、死者の後頭部から打ち込まれ、顔の額の部分が爆発で裂け、頭部は血漿と泥にまみれていた。
執行検察官が腕にある時計を見ると六時四十分であった。この時、ようやく黎明の曙光が徐々に天を照らし始めた。検死官は死体を検分するために、いまだ硬化していない死体のほうへ向かったが、死者の顔はすでに血漿によって黒ずんだ泥土にまみれており、完全にはっきり顔を確かめることは出来なくなっていた・・・・
監獄の大門の外では徹夜で待っていた人たちが、先を争って門を入って女スパイ川島芳子の最後を見ようと騒いでいた。しかし監獄の中から聞こえた一発の銃声は彼らの希望を打ち砕き、彼らの憤激を引き起こした。北平の十数社の大小の新聞社から来た写真機を手にした外回りの記者たちは全て入場を拒否され門外に留め置かれた。怒り狂った群集は、新聞記者たちと一緒になって門を叩いたり蹴ったりしていたが、重い鉄の大門はびくとも動かなかった。

二十五日午前九時前後に、一台のアメリカ式ジープが監獄の前で止まり、車からはアメリカ人記者が降りてきて、人ごみを掻き分けて、鉄の門扉を叩いて叫んだ。
「ハロー!門を開けてくれ!」
この外国人の叫び声を聞くと、監獄の鉄の門扉にあるのぞき穴がすぐに開いた。門衛の軍人は金髪碧眼の外国人が門で叫んでいるのを確認すると、いささかも躊躇わずに、このアメリカ人記者の名刺を持って指示を仰ぎに行った。戻って伝えられた回答は、川島芳子は国際的なスパイであるから、外国人記者の取材は許可しようというものであった。そこでこのアメリカ人記者だけが中に入れられたが、中国人記者は一人も中へ入ることを許されなかった。
監獄のこうした外国人だけ優遇するやり方は、民衆の怒りを買ったばかりでなく、さらに待機していた数十名の中国人記者たちの怒りを引き起こし、彼らは抗議のため声を大きくして叫んだ。
「外国人だけに媚を売るな!どうして外国人記者だけに取材させて、自国の中国人記者に取材報道させないんだ。」
「お前たちは何かたくらんでいるだろう!どうして公開審判だったのに、秘密に刑を執行するんだ?」
「どうして執行後にも取材を許可しないんだ?」
しかし、人々がどのように叫んでも、鉄の門扉は堅く閉じられたままであった。
AP通信記者が川島芳子の死刑執行後の写真を撮影し「独占配信」することになった後、川島芳子の死体は監獄の門外に運び出された。

死体

おおよそ、一週間が過ぎたころに、再び門のところに人がやって来た。やって来たのは身を袈裟に包んだ日本人僧侶で名を古川大航と言った。この七十八歳の日本人僧侶は日本の静岡県興津清見寺の住職であった。一九三八年に日本の対中国侵略戦争がまさにたけなわのころ、彼はふらりと海を越えて中国の華北にやってきて、中国軍民の攻撃を受けて戦死した日本軍人のために冥福を祈っていたのである。日本降伏後に、彼はなおも北平の単牌楼観音寺胡同二十号の日本臨済宗妙心寺に住んでいた。
古川は法院に紹介状を持ってきて来意を告げると、門衛の軍人は指示を求めに奥へ行った。
古い板の上に川島芳子の硬直した死体が載せられ、その上にはムシロがかけられていた。周囲には二、三十名の軍官がとりまいて人垣を作り、野次馬たちが入り込まないようにしていた。古川大航はひざまづき、ムシロをあげて覗くと「金璧輝」の顔は血と泥土で汚れて、彼女の面影を認識することは出来ず、ただ長い髪の毛が方まで伸びているのを見た。死体を包んでいた灰色の囚人服が見えたが、「彼女」はがっちりとした、やや中太りしたような体格に見えた。古川は死体を見取ると、目を閉じて手を合わせて、口の中で念仏を唱えて、「死者」のために祈祷を始めた。一緒にやって来た川島芳子の親戚が泣きながら古川は持ってきた新しい敷布団を死体の下に敷き、さらに白い毛布で死体を包んで、それを新しいシーツにいれ、上に日本人が死人のために用いる覆いを掛けた。これらの処理が終わると、古川大航は荷役を雇ってきて、この死体を荷車に運び上げると、北平朝陽門外の日本人墓地に隣接した火葬場に運ばせた。
川島芳子が荼毘に付されると、古川大航は川島芳子は日中両国に属していたということで、彼女の遺骨を二つに分け、半分は中国に葬るために残し、もう半分は日本に持って帰った。古川大航と川島芳子の親戚が火葬上で「墓地」を選び、その後で遺骨を半分に分け、半分は遺骨箱にいれ、もう半分は骨壷に入れた。親戚は川島芳子の遺骨を入れた骨壷を、「墓地」に掘ってあった穴の中に入れて、「墓前」には小さな墓碑を立てた。墓碑には「愛新壁苔妙芳大姐之墓 昭和二十三年」と刻まれた。古川はもう半分の川島芳子の遺骨が入った遺骨箱を持ち去った。
一九四八年九月、古川大航はついにあの川島芳子の遺骨が入った遺骨箱を手に船に乗り日本へ戻ってきた。

二十六日は「金璧輝(川島芳子)」が処刑されてから二日目の朝であったが、北平の各社新聞は川島芳子が処刑されたというニュースの外にも、記者たちの連名の抗議書を掲載し、各種の疑問を引き起こすこととなった。これらの疑問は詳細かつ具体的で、ずばり核心を突いた理屈に合うもので、それらをまとめると大体以下のように集約される。

一、過去にはずっと金璧輝(川島芳子)の案件は見せしめの典型として、新聞ラジオで過剰なほどに宣伝して、破格にも立錐の余地がないほどの公開審判をやり、映画記録まで撮影しておいて、名前最後の刑執行の場面になって、こうも秘密裏にしかも急いで処理したのか、全く解せない。
二、どんな理由があって慣例を無視して、新聞記者が刑執行前の尋問現場を取材するのを許さなかったのか?処刑が何故これほど秘密に行われたのか?
三、一歩譲って、被告が脱走するのを防止するためあるいは思いがけない自体が発生するのを防ぐためであったとしても、何故処刑後にも現場と刑執行の情況を新聞記者に公開しなかったのか?さらに不思議なのはどうして中国人記者は門外で拒否され、アメリカ人記者だけが現場に入れたのか?
四、どうして死者の顔面部が血と泥ではっきりせず、誰だかわからないようになっているのか?
五、金璧輝(川島芳子)は男装で短髪がトレードマークで、公開審判の際にも人々にそうした印象を与えたのに、どうして使者の髪の毛は首にまとわりつくほど伸びていたのか?
六、どうして人の顔がはっきりわかりにくい薄暗い明け方の時間を選んで死刑を執行したのか?
これらの疑問により北平市民が一致して次のように疑った。三月二十五日の明け方に処刑されたあの長い髪の女性は、本当は金璧輝(川島芳子)本人ではないのではないかと。
北平記者が連名で出した抗議書の前文は以下のようなものであった。

「冀北高等検察処は昨日命令により金璧輝(川島芳子)を死刑にした際、冀北第一監獄は記者たちの入場を拒否し、本市の外回り記者連合会はこのため特に冀北高等検察と冀北第一監獄に質問を提出して、答えを請うために以下のごとく質問状を提出する。
関係者に金璧輝の死刑執行に関し、本会は会員報告に基づき、数点の質問を呈するものである。
(一)中国の各新聞社のデスク(中央社、天津大公報弁事所、民国日報北平弁事所、中電三厰、華北日報、明報、民強報など)は昨日明け方五時頃に高等検察所主任書記官陳潔夫の電話連絡を受け、六時に第一監獄へ金璧輝(川島芳子)死刑執行のニュースを取材に出かけ、各社記者は時間どうりに赴いたにもかかわらず、貴監獄が記者の入場を拒否したのはなぜか。貴監獄は司法部門であるのに、どうしてこのように言を反故にするのか。
(二)昨日明け方に米国の新聞記者は、貴監獄で許されて中に入り金璧輝(川島芳子)の死刑執行のニュースを取材できたのに、知らせを受けて取材に行った中国の記者三十人余りは門前払いを受けた。貴監獄官員によれば、昨日の金璧輝(川島芳子)の死刑は秘密執行の命令を受けたと言っているが、秘密執行でありながら、しかも記者の参加を許したのに、中国人記者三十余人が皆門外に待たされ、中国と外国の新聞にニュースを配信する中央社も例外でなかったのは、貴監獄のこの措置はいかなる法律に根拠があるものか?またいかなる心理によるものか?はたまた別の事情があるのか?我が会の会員は納得できない。ここに謹んで貴監獄にお答えを要求すると同時に、我が会は司法の尊厳と報道の自由が損害を受けたことに極めて大きな遺憾を表明するものである。」

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2016年03月31日

川島芳子は生きていた(31)川島芳子と戴笠

http://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

歴史的記録によれば、川島芳子は一九四五年十月十一日に北平の住まいで逮捕されたが、国民党軍統粛奸小組が逮捕した第一陣の対象であった。しかしながら、国民党北平当局による逮捕の過程と案件の処置においては、名実の伴わない個人的動機がかなり混じったものであったようだ。

歴史的記録によれば、かつて満州国安国軍司令であった金璧輝(川島芳子)は一九三五年初めに「関東軍」により職務を剥奪されて事情聴取を受けている。つまり、その時から川島芳子はすでにいかなる日本軍内部での身分も持たなくなったのであり、彼女はただの日本人川島浪速の養女であった。一九三五年から日本敗戦に至るまでの十年の間、川島芳子は天津で東興楼の食堂を経営したが、その期間は日本軍の駐華北の高級将官多田駿と密接な交際があった。しかし個人の身分で当時の日本陸軍大臣東条英機に自推で「日中和平工作」の仲介役を買って出た際には、東条英機の厳しい制裁を受けて日本から追い出されてしまったのである。こうして寄る辺をなくした川島芳子は故郷北京へ帰るしかなかった。この時期の川島芳子はたいした力のない品行不良な個人に過ぎなかった。それなのに彼女は華北政務委員会の大物漢奸である王揖唐・殷汝耕・斎燮元や、汪精衛政権の要員など重量級の漢奸と同様の待遇を受けているのである。その原因は一体何だったのか、我々は国民党の軍統内部から暴露された秘密から知ることが出来た。それは軍統北平弁事処主任馬漢三が背後で操った私怨から生じていた。

我々が調査した歴史資料によれば、国民党の軍統(情報機関)内部で、川島芳子の死刑問題に関連して、二つの派による勢力闘争が存在していた。軍統北平事務所の主任馬漢三を主とする一勢力は川島芳子の処刑を主張し、彼女を殺して口封じをしようとしていた。しかし局長戴笠をトップとする軍統当局者は川島芳子を生かしておき、馬漢三の裏切りと日本への敵通を調査する証人とすることを考えていた。馬漢三と戴笠はどうして一人は殺そうとし、もう一人は生かそうとしていたのか?その主要な原因は川島芳子の北京の住宅に隠してあった、清朝乾隆帝の宝物である九龍宝剣という一振りの剣にあった。この宝剣が原因となって、川島芳子は捕縛され、さらには戴笠の生命まで奪うことになるのである。

戴笠

一九二八年の下半期、東陵は大盗掘に遭ったが、それは国民党四十一軍軍長孫殿英が軍事演習という名目で、清朝の東陵にあった乾隆帝と西太后の墓荒しをしたことによる。一九三九年八月上旬に、孫殿英は沢山の宝物を持って重慶を訪問して、彼はまず国民党の軍統局長戴笠に面会し、いつもの通りに盗掘品の宝物を上納した後、戴笠にそっと打ち明けた。彼にはこれらの宝物の他にもっと貴重な九龍宝剣があり、それを戴笠を通じて蒋介石に渡したいというのである。この九龍宝剣というのは、乾隆帝の帝墓のなかから盗まれた宝物で、剣の長さは五尺、柄はやや長くそこには九匹の金の龍が象嵌してあり、「九九帰一」と至尊の皇位を象徴していた。剣の刀身は光り輝き、錆も欠損もなく、その鋭いことは毛が触れただけで切れ、鉄を泥のように切ったという。剣の鞘は高級なサメの皮で造られており、ルビーやダイヤモンドが沢山ちりばめられており、太陽の光をあびると、キラキラ輝いて眩しいほどであった。孫殿英はかつてこれを見せびらかして言った。
「この剣を得た後、私は密かに考証させたが、それによるとこの剣は乾隆二十八年、新疆、アフガン、バダクシャン、フェルガナ、カザフ各部落の使節が北京を訪れ、高宗乾隆帝に謁見した際に献じた宝物である。当時乾隆帝は玉座に座ってこの剣を帯びると、宮殿中が光で満たされ、光で目がくらみ、宮殿の中が天上の雲の上の世界のようで、朝廷にいた文武大臣はみなこれを称えた。乾隆帝は大いに喜び、特に龍泉と二字を命名し、使節と文武大臣に紫光閣で宴を賜った。これから後、乾隆帝はこの剣を愛して身から放さず、崩御するまで常に持ち歩き、遺言によりこの剣をともに葬り、永遠に離れることがないようにした。」
戴笠はこの情報を得た後に、各地を視察する機会を利用して、山西五台山孫殿英の部署にわざわざ出向いてこの宝物を受け取りに行った。

孫殿英はこっそりと戴笠の耳にささやいた。「この剣は私が東陵から盗み出した数多くの珍宝貴宝の中でも最も貴重なもので、この剣を得てからは秘密の場所に隠し、誰にも見せませんでした。いまこの宝剣を渡しますから、雨農(戴笠の号)から蒋委員長に献じてください。」

戴笠はこの剣を得た後、手にとってまじまじと眺めてみると、宝剣はたしかにその名にまごうことなく、今まで見たことのないような珍宝で、次のように考えた。確かにこの宝剣を校長(蒋介石)に献ずれば、校長の歓心を買い、信任を得るだろう。戴笠はこの宝剣を重視したが、まだ引き続いて中原に赴き各部隊を視察しなければならず、この剣を身辺に置いておくと徒に噂を招き万一の紛失することを恐れて、戴笠が河南林県を過ぎる際に、この宝剣を特務の馬漢三に自ら手渡し、よくこの剣を保管しておき、後々に彼本人が校長蒋介石に手渡すようにと命じた。馬漢三は元々は軍統北平区張家口察綏所所長であったが、このたび戴笠により配置換えされて軍統陜壩工作組組長となり、内蒙古一帯のスパイ活動を専門に受け持つこととなった。

馬漢三は戴笠の手中よりこの九龍宝剣を受け取ると、すぐにこの類まれなる宝物に驚かされた。彼にはその価値が黄金でも計算できないことがよくわかった。この宝剣を手に入れて後、彼は終日この剣に魂を奪われたかのように、食事ものどを通らないのであった。馬漢三はもともと非常に貪欲な男で、手に入れた剣を重慶に送り手放すのが惜しくなったが、またその後に載局長に罪を問われることを恐れた。いろいろ考えた挙句、ずるがしこい彼は、宝剣の上納をしばらくせずに、状況を見守ることにした。戴笠はしばらくしても馬漢三が宝剣を重慶に持ってこないので、至急電報で問い尋ねると、馬漢三はびくびくしながら戴笠に電報で答えた。宝剣はとても貴重なもので、現在の形勢は不利であるので、安全の為に宝剣は孫殿英のところに送り保管させ、時機を見て再度計画したい等々言い訳をならべた。戴笠が再び電報で孫殿英に尋ねると、孫殿英はとっくに戴笠に宝剣を差し出したはずなのに、戴笠が今になって再び宝剣を差し出せと言うとは、どういう意味かわから疑問に思うのみであった。その他に、彼はちょうど日本軍へ投降する手続きについて話し合っている最中で、その他のことを顧みる暇なく、そのためすぐに電報に答えなかった。戴笠は孫殿英が宝剣を手放すのが惜しくなりネコババしているのではと疑ったが、再びこのことを持ち出すの機会もなかった。孫殿英は日本軍に投降したことが明らかになり、宝剣を要求することはなおさらできなくなったのである。馬漢三はこうして幸いにも隠匿した宝剣を私蔵したままやり過ごすことができたのであった。

戴笠は馬漢三が大胆にも宝剣を隠しているとはまったく思いもつかなかった。彼はただ、この宝剣がなお孫殿英の手元にあると思っており、もう一方では、彼自身もすぐにこの宝剣を蒋介石に献じる気がしなかったので、真剣にこのことを調査することもなかった。こうして戴笠が目を放しているうちに、この九龍宝剣はまたも持ち主を変えることとなった。一九四〇年代初頭に、馬漢三は商人の身分で張家口一帯で活動していたときに、日本の特務機関が運営していた大隆洋行と接触した。馬漢三の金遣いが荒く、生活が豪華であったため、大隆洋行の影の支配人である日本軍特務田中隆吉の注意を引いた。

田中が特務を派遣して調査した結果、馬漢三の本当の身分がすぐに露呈し、田中隆吉はすぐに張家口特務機関長田中新一に指示を出して馬漢三を逮捕して尋問させた。馬漢三は自分が既に残虐な日本特務田中隆吉の手中に陥ったことを聞き、状況が好ましくないことを悟って、全ての情況を供述し、さらに命を助けてもらうために九龍宝剣を差し出した。思ったとおり、田中隆吉はこの宝剣を得た後にたいそう喜んで、馬漢三をの命を助けただけでなく釈放して、影で日本軍特務機関の為に働かせた。一九四〇年春、田中隆吉は日本軍部により日本軍山西派遣軍の少将参謀長として派遣され、同年十二月に、田中隆吉は山西作戦の指揮で失敗したため、免職されて国内での職に回された。田中隆吉は自身の仲間内で好き勝手に振る舞い、評判が悪かったため、帰国後の先行きに不安を覚え、中国で一番信頼できる人間を探して、九龍宝剣を保管させようとした。いろいろ考えた挙句に彼の頭に浮かんだのは以前の恋人であった川島芳子だった。

芳子のことを思うと、田中隆吉の心は底なしの沼に落ちて抜け出せないかのようであった。彼の心の深いところでは、以前に上海で芳子と過ごした美しい日々のことがずっと忘れられなかったのである。一九三二年初頭に、川島芳子が彼の下を離れて行ったのは、田中というこの重荷を遠くに捨て去りたかったからだということを、彼は知りすぎるくらいにわかっていた。彼のように独占欲が人一倍強い人間から言えば、惚れた女から捨てられるというのはこれとない屈辱であった。それで田中は悩み苦しみかつ怒り狂い、彼の手にある権力を利用して、一九三五年には日本軍に川島芳子を始末させようとした。それにより、田中隆吉と川島芳子は愛憎半ばした感情を骨にさらに一層深く刻み込んだ。しかし時が経つにつれて、芳子と別れてこの八年間というもの、芳子と過ごしたあの刺激に満ちた忘れがたい日々を思い起こすたびに、田中はなおも捨てがたくも苦しい恋の思い出がよみがえるのであった。

田中隆吉が手中の九龍宝剣を撫でながら、最終的に決断したのは、この世にまたとない宝をいまも忘れられない芳子に贈ることであった。そこで、田中隆吉は帰国の途上に北平に立ち寄り、わざわざ北池子に住む川島芳子を探し出し、九龍宝剣を贈って彼女の許しを求めたのであった。川島芳子も高価なものには目がない人間であったので、この貴重な宝物をひと目見てそれが自分の手に入るとなると、自然と機嫌もよくなり、以前の田中隆吉への怒りも恨みも消え去ってしまっていた。この宝剣に免じて、再び田中とベッドを共に温めさえした。しかし、川島芳子も田中隆吉もまだ気づいていなかったことだが、この九龍宝剣には手にするものに不幸と流血をもたらす呪いがかかっており、後々に川島芳子はこの九龍宝剣のために命を危険にさらすことになるし、戴笠も自分の命を失うことになるのである。

馬漢三は田中隆吉から釈放されると、彼のこの裏切りと敵への投降はいまだ暴露していなかったが、馬漢三の心は病的にも宝剣のことが気に係り、彼は常にこっそりと田中隆吉の行方を注視して追っていた。
一九四一年に田中隆吉が帰国した後、馬漢三は田中のような敗戦の将の身分では、この宝剣を日本に持って帰るような危険は冒すまいと考えた。そこで、馬漢三はあちこち聞き回り、田中隆吉が帰国前にどんな人間と接触したのかを調べた。こうして、彼はついに田中隆吉が帰国前に、北平へ行って川島芳子と密会していたことを知った。そこで、馬漢三は秘密裏に手下の特務を送り、日本側の情報を盗撮するという理由で、長期にわたり川島芳子の住所の周囲に潜伏し、情況を把握しようとした。

抗日戦争勝利後に、馬漢三は軍統北平事務所の主任、平津地区粛奸委員会主任委員、北平行営軍警督察処処長に任命された。馬漢三は宝剣を早く探し出すために、北平に赴任すると最初に手をつけたのは、始まったばかりの漢奸粛清を利用して、自から川島芳子逮捕の命令を下すことであった。川島芳子は九条会館の三重の門の中の四合院に居住していたが、馬漢三の右腕である鐘慧湘が人を率いてまる半日かかって、土地を三尺掘り進めて探し、ようやく川島芳子の住所の秘密の地下室に九龍宝剣を見つけた。一九四五年末に、戴笠がちょうど日本軍の漢奸特務を捜索していた時に、内蒙古方面の反共特務を組織して、内蒙古の広大な地区に派遣して活動させた。川島芳子は長期にわたり華北地区で活動し、またかつて蒙古族のカンジュルジャップと婚姻していたため、内蒙古方面の情況に比較的詳しく、彼女の手にある人間関係を利用することができた。そのため、戴笠は北平で秘密裏に北平第一監獄にいた川島芳子を尋問した。川島芳子はこの有名な載局長が自分と差し向かいに座るのを見て、すぐにあることを思いついた。彼女は戴笠が必要としている情報を提供する外に、戴笠があっと驚く秘密を密告した。それは軍統特務の馬漢三が抗日戦争時期に裏切って日本に投降したことや、彼女の家から九龍宝剣を持ち去ったということであった。

川島芳子が宝剣のことに触れたとき、本来の意図はただ馬漢三がこの宝剣を田中隆吉に贈ったことを証明して、彼が日本に投降したことを示そうとしただけであった。しかし意外にも、戴笠は「九龍宝剣」という四文字を聞くと、すぐに神経を緊張させ、すぐに孫殿英が当時彼に送った九龍宝剣のことを思い出し、詳細に川島芳子にこの宝剣の情況を尋ねた。川島芳子がこの剣の外観、長さ、剣の柄に彫られた龍および鞘の上にちりばめられた宝石の数や形状を詳細に戴笠に説明すると、戴笠はすぐにこの剣が孫殿英が差し出したあの九龍宝剣であると断定し、数年来心にひっかかていた疑問がついに解けたのである。自分がずっと追い求めてきた九龍宝剣がいまだ馬漢三のところにあると知り、馬漢三が影で団体を裏切り、国家の異族に歯向かったことを知ると、大きな怒りが心中に巻き起こり、すぐにでもその肉を食らわなければ気がおさまらないほどであった。そこで、戴笠は心腹の秘書龔仙舫を呼んで対策を密かに話し合い、まず龔仙舫が馬漢三に話を伝えることに決定した。そのさいただ「金璧輝の家から出てきた宝剣」のことだけを尋ねて、その他のことは話さないこととした。龔仙舫が宝剣のことを話すと、馬漢三はすぐに内情が暴露されたことに気づいたが、その場では調子を合わせるふりをして、すぐに宝剣を差し出して、彼がいかに命をかけて宝剣を保護してきたかを釈明したが、このすぐにばれる嘘は当然謀略にたけた戴笠をだますことはできなかった。載局長は考えを表に出さなかったが、しばらく馬漢三を泳がしておき、しばらくたってから、手を出して彼を片付けても遅くないと考えていた。馬漢三はかねてより準備していた十箱におよぶ莫大な価値のある書画骨董、金銀財宝を宝剣と一緒に、自ら北平弓弦胡同什綿花園にある戴笠の住所に護送した。戴笠はよろこんで受け取り、馬漢三のこの忠実な行動に疑いを少しも抱くことなく、すぐにまえもって準備してあった軍統特務文強に宛てた手紙を馬漢三に手渡した。この戴笠の失策が、ついに彼を馬漢三の手により非命に至らせることとなる。馬漢三は戴笠がすぐに彼に手を下して殺そうとしないのを見て、先手を打とうと自分の秘書劉玉珠を呼び出して、二人で戴笠が文強に宛てた手紙を盗み見た。手紙には、戴笠のこの度の旅程が書かれており、まず天津に行き、その後青島に行き、上海に行く行程が書かれてあった。そこで馬漢三は先手を打って証拠を戴笠ごと隠滅することとした。そこで劉玉珠は車を駆って飛行場に急行し、二二二号戴笠の専用機を警備する特務に飛行機の中に入り安全情況を検査させるよう要求した。劉玉珠は軍統華北督導員という特殊な身分であったし、軍統内の特務はみな彼をよく知っていたので、誰も彼を疑うことはなかった。そこで劉玉珠はなんなく一人で飛行機に入り込み、馬漢三が彼に渡した鍵を使って、九龍宝剣の入った木箱を開けて、中に偽装した爆発力の高い時限爆弾を入れて、時限爆弾の時刻をセットした。

戴笠専用機は青島の滄口飛行場を離陸した後、濃霧が発生していたため、飛行時間がさほど経っていない間に、上海の龍華飛行場と連絡すると、相手方は上海方面が大雨のため、飛行機が着陸できないと述べたため、戴笠は南京に直行することに決定した。飛行機が南京地区の上空に差し掛かった際、大雨に遭遇し、さらに雲が低層に立ち込めていたため視界が悪く、飛行機は通常の飛行ルートから外れてしまった。午後十三時十三分、飛行機が南京郊外区江寧県板橋鎮上空に差しかかった時、劉玉珠が飛行機に仕掛けた時限爆弾が爆発し、飛行機はコントロールを失い、板橋鎮南の二百米ほどの高さの載山に激突した。飛行機には充分に燃料が備蓄してあったので、飛行機が墜落した後、雨の中でも火は消えず二時間あまりも燃えた後にようやく鎮火した。戴笠と同乗者十三人は全員死亡した。興味深いことに、戴笠が一生忌み嫌っていた十三という数字と、彼が水の欠乏により死ぬ運命という予言が、全て重なって的中した。三月十七日は陰暦の二月十三日、十三時、十三分、十三人が濃霧と大雨の中で載山で死んだ。戴笠の死体は困雨濠の水中から引き上げられた。さらに山麓には載廟があった。三月十九日、軍統成員の沈酔などは戴笠の遺品の捜索のため、わざわざ載山の飛行機墜落現場に踏み込み、古剣を探し出したが、この剣こそは戴笠が馬漢三の手中から奪還した九龍宝剣であった。この剣は烈火にさらされて、鞘と柄は共に毀損していたが、剣身は依然として鋭く光り、切れ味は鋭く、人々を感嘆させた。三月二十一日、国民党『中央日報』及びその他の新聞は戴笠の搭乗した二二二号専用機が青島から上海に行く途中に、南京上空で大雨に遭遇し、飛行機が江寧県で山に衝突し、戴笠および机上の人員全員が死亡したとのニュースを掲載した。

戴笠の死因は、『中央日報』のニュース報道により結論とされた。国民党全体および軍統内外な基本的にこの結果を受け入れている。こうしてこの事件の真相は隠蔽された。一時盛名を轟かせたスパイ王は、結果的に原因不明の死を遂げた。戴笠のような一代の英雄が、やすやすと馬漢三の手中に落ちたと言うことは、まさに信じがたいことであった。二年後に、戴笠が自ら書いた手紙に基づき、軍統局北総督察王蒲臣は、戴笠が生前に秘密裏に託した使命を果たすべく、馬漢三およびその一党の平津での行動を監視し、軍統局に戴笠の死が馬漢三の手によるものであるとの確実な証拠を報告した。軍統を受け継いだ毛人鳳は馬漢三らのグループを消すよう命令を下し、馬漢三と劉玉珠などを秘密裏に処刑し、内々に戴笠の死の謎を解決した。毛人鳳は川島芳子の生死に関する問題を処理する際に、戴笠が生前に残した遺言に基づいて妥当に処理するよう指令したであろう。

川島芳子の馬漢三が敵に投降したという供述と、九龍宝剣の行方をしゃべったために戴笠は生前に川島芳子のことを自己の忠実な部下である王蒲臣に任せ、川島芳子を生かしておいて馬漢三を処置する際の証人にしようとしたのではないか。馬漢三はすでに河北省高級法院に川島芳子を死刑判決を下すよう圧力をかけていたのだが、彼の勢力が失墜すると同時に、王蒲臣が馬漢三の地位にとって代わり、新たに川島芳子の死刑の問題を処理したと考えられる。当然、一九四七年十月にすでに川島芳子の死刑が宣告されており社会的影響も大きいため、判決結果を変えることはできずやむなく「替え玉」という方法によって馬漢三を除くのに功があった川島芳子を救った。我々が後に調査した結果から見て、川島芳子の保護のため北平から東北長春に護送した秀竹・于景泰・段連祥の三人は、軍統の王蒲臣など上層部の支持を受けていた可能性がある。この三人の中に軍統の成員がいた可能性があり、于景泰がおそらく軍統の特別任務を帯びていた可能性が高い。

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2016年03月30日

川島芳子は生きていた(30)川島芳子の遺骨発見

http://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

二〇〇七年十一月初め、我々研究団は証人逯興凱の「方おばあさんは夏は長春新立城に住み、冬は国清寺に行った」という証言に基づいて、川島芳子の国清寺での証拠探しに出かけ、何景方が浙江省天台県国清寺で探索を行った。探索の結果、国清寺の悠久の歴史と中国仏教会における重要な地位について認識を深めた。また国清寺が日本仏教天台宗の源流であり、日本仏教と切っても切れない関係にあることが分かった。そこから方おばあさん川島芳子が毎年冬に国清寺へ赴く理由を察することが出来た。

二〇〇八年、我々の研究はまた新たな進展を見せた。張玉の父親張連挙が次のように証言したのである。「一九八一年国清寺の一人の老僧が四平に来て方おばあさんの遺骨を持ち去った。」獅子像の中から出現した紙片から秀竹の実在が確認できたが、彼は一九四八年三月二十五日以後に川島芳子護衛の責任者でもあり、さらに秀竹の仏教法号は「広幸」であると推測された。我々はそこで、方おばあさん(川島芳子)の遺骨を持ち去った国清寺の僧侶は秀竹である可能性が高いと判断した。方おばあさん(川島芳子)の遺骨の行方を探し、《秀竹》が国清寺にいた証拠を探すため、日本のテレビ朝日撮影スタッフと共に、李剛の委託を受けた研究者の何景方と顧問王慶祥が二〇〇九年一月十六日―十九日再び国清寺を訪れた。

方おばあさんが住んでいた大家の逯興凱は方おばあさんが毎年寒くなる前に南の国清寺へ冬籠りに出かけ、いつも次の年の春に暖かくなってから新立城に戻っていたと証言した。しかし、方おばあさん(川島芳子)が毎年国清寺で半年も生活したというのは、これは女居士の身から考えて実際に可能なのかどうかというのが始終我々の心の中に一つの疑問となっていた。我々はこの点を確かめるべく、国清寺で実地調査を行った。
研究の便を図って、我々は寺院内の客室に宿を取り、数日を寒い部屋で精進料理を食べる「苦行僧」の生活を過ごした。四日の探索期間で、我々はこの寺の住職である可明方丈、徳の深い克慧、乗方、法方などの老僧を尋ね、また国清寺公安派出所の老警備員から事情を聞いた。また彼らの紹介を聞き、寺院の参観と宿での自らの体験により、我々は次のように感じた。一千四百年の歴史がある国清寺は歴代王朝の拡充と修理を経て、土地と建物をかなり多く所有するようになった。「文化大革命」の無情の歳月の間に、仏堂の仏像は重大な損失と破壊を受けたとは言え、すでに「人民公社」化した「国清寺大隊」はなおも存在していた。改革解放前に、寺院内に住んでいる僧と仏像を拝んで香を焚いている居士は今日のように多くはなかった。それゆえ、寺院を訪問する居士は男女に限らず、何らかの力が及ぶ限りでの生活手段があれば、寺院内の修行や寂寞にも耐えることができ、また食事や宿舎にも事欠くことはなかった。さらに方おばあさんは居士証を所有して合法的な身分だったのだから、たとえ「文化大革命」の時期でも、ここに住むことが出来たであろう。

このたび国清寺では我々は百を超える「参拝客」のための宿舎である「万字楼」、また賓客を招待するための「迎塔楼」と「貴賓楼」を見ることができた。また同時に数百人分の食事が用意できる二階建ての大食堂、また寺院の中の各隅に分布している小食堂と僧の宿舎があった。我々は以下のように想像した。国清寺のこの桃源郷のような世俗を離れた静かな地なら、方おばあさん(川島芳子)が後半生を過ごす場所として選択してもなんら不思議ではない。当然のことだが、長い冬季に川島芳子が南方のその他の寺院や場所に立ち寄った可能性も否定できない。

寺院内で、我々は出会う人毎に尋ねて、一九六〇年代から七〇年代にかけて、毎年冬にやってくる俗家の女弟子である「方居士」と法号を「広幸」と名乗る僧侶がいなかったかどうかを尋ねた。八十二歳になる可明方丈は両耳が遠くなっていたので、筆談で我々の質問に答えてくれた。可明方丈は十数歳の時に出家して国清寺に来て以来七十年にわたりここを離れたことがない。「文化大革命」で僧侶が散らされた時にも、可明方丈が「国清生産大隊」の労働責任者となっていた。一九九七年に彼は寺の住職(方丈)となって今に至る。しかし彼はこの女性の《方居士》についてまったく印象が残ってなかった。我々が《方居士》の写真を見せて知っているか尋ねた時も、彼は写真の人物を知らないと答えた。我々は紙の上に川島芳子と四文字を書いて、彼がその人を知っているかどうか尋ねると、可明方丈は我々に「これは日本の地名ですか、人名ですか。」と尋ねた。傍で待機しいてた延如さんが補足して「方丈は小説も読まないし、テレビや映画も見ないので川島芳子が誰かなんて知りませんよ」と述べた。

しかし我々が克慧と乗方の二人の僧侶を訪問した時、思いもかけない結果を得ることが出来た。
克慧法師は年齢八十歳、一九五七年に剃髪して出家し、一九六七年三〜九月紅衛兵により原籍の浙江象山の実家で半年を過ごした外は、国清寺で修行して五十年余りになる。我々が彼に三十数年前に女性の《方居士》という名前と《広幸》と言う僧侶を見たり聞いたりしたことはないかと尋ねると、彼はあっさりと答えていった。「私は僧侶のことは管理していないから《広幸》という僧侶の名前は知らないし聞いたこともない。しかし《方居士》というのは聞いたことがある。」我々はさらに彼に《方居士》にはどんな記憶があるかと尋ねた。彼は「これは僧侶の間の噂話でだが、《方居士》という在家の女弟子がいると聞いたことがある。しかし彼女は私の在家の弟子ではないので、会ったことはないが、名前を聞いたことはある。」

その後に我々は乗方法師を訪ねた。乗方は七十八歳で、一九六一年に国清寺へ来てから今までそこを離れたことがない。「文化大革命」中には「国清大隊」の保林防火員を担当し、国清寺にたいして発言権を持つ徳のある僧侶である。我々が再び《方居士》と《広幸》の二人について尋ねると、彼はなんの戸惑いもなく女性の《方居士》と《広幸》という僧侶の名前を聞いたことがあるが、会ったことはないと答えた。

どちらも寺院内で数十年修行してきた老僧侶であるが、《方居士》と僧侶《広幸》に対して、どうしてある人は聞いたことがあるのに、そのほかの人はまったく印象がないのだろうか。我々が居士の遺骨を保存している「五峰塔院」の老僧である法方師を訪れた時に、その答えが分かった。法方師は七十五歳で、「文化大革命」の後に国清寺で出家して、克慧法師は彼の先生に当たる。しかし、すぐに我々がその疑問を解くことが出来たのは、彼は国清寺に四十年もいるのに、同じ寺でしかも長年いる乗方法師のことをなんと知らなかったのである。もとより、寺院が比較的大きいことも一つの要素であるが、更に主要な原因は寺院内の僧侶の仕事の区別がはっきりしており、どの僧侶も自分の持ち場で余計なことに耳をはさまずに、一心に修行したり念仏しているため、老僧の間でも相互に知らないという現象が珍しくもないのである。

国清寺の克慧と乗方の二人の高僧は、どちらも《方居士》の記憶があり、また乗方法師はさらに僧侶《広幸》にも印象があった。このことは、方おばあさん(川島芳子)が一九六〇、七〇年代に、かつて国清寺の居士として常客だったことを証明している。途中で出家した僧侶《広幸》(秀竹)も国清寺にしばしば宿を取っていたのではないか。彼が四平から方おばあさん(川島芳子)の遺骨を持ち去って、国清寺の風水に優れた土地に頬むったというのは、可能性としてまったくありうることである。

我々がこのたび国清寺を訪れたのには、さらにもう一つの重要な任務があったからである。それは《方居士》(川島芳子)の遺骨の行方を探すことであった。我々が寺院内の各殿堂で細心の注意を払って調査した後に発見したのは寺院の西北角にある「地蔵殿」で、たくさんの物故した居士の位牌が置かれている。可明方丈の紹介によれば、これらの位牌の居士たちは、みな国清寺の改修の過程で力を貸したり寄付をしたり、あるいは家族や友人が寺院に供養代を供えている場合で、寺院には「仏事登記所」がありそこにすべて記載がある。しかし、我々が「仏事登記所」に来て《方居士》の位牌を探そうとしたところ、登記所を管理している僧は我々に位牌を具えているという「証書」を提出するよう求めた。しかし、我々の手元には「証書」がなかったので、調査は拒否されてしまった。しかしこの熱心な管理係の僧侶は我々に一つのヒントを与えてくれた。それは寺院の外にある霊芝峰南麓に、居士の遺骨が置いてある「五峰塔院」があり、そこを訪ねて見てはどうかということであった。

二日目の早くに寺院で精進料理を食べてから、我々は寒拾亭から潤渓を過ぎて、山沿いの小道をあるいて小さな峰に登り「五峰塔院」にたどり着いた。ちょうど、塔院の管理事務所の僧である法方師が出勤してきて、我々が可明方丈の許しを得て居士の遺骨を捜していると聞くと、彼は熱心に我々を建物の中に入れてくれた。塔院は三合院で、正殿は南向きで、三間続きである。殿門の正面の上に「同登極楽」の額がかかっている。殿内の正面には仏像が三体祭っており、中間には阿弥陀仏、左は観世音菩薩、右は大勢至菩薩である。両側には一画一画ガラス戸がついた木の棚があり、なかに遺骨箱が置かれている。法方師は、殿の左側に置かれているのはすべて女居士の遺骨箱であると述べた。我々は女居士の遺骨箱が安置されている左殿に入り、一つ一つを丹念に調査した。

突然、一つの格子の中にガラス窓を通して、毛筆で書かれた「方覚香骨灰盒」を発見して、我々は目の前が明るくなったような気がした。この漆が塗られてもおらず、花が彫られてもいない木製の遺骨箱は見ただけで数十年前の古い箱であることがわかり、またこの部屋の中でただ一つだけ死者の姓が方で、また女性でもある。覚香の二文字は仏教の法号のようでもある。我々がまた理解できたのは、川島芳子の出身は愛新覚羅皇族であり、覚香の「覚」の字はちょうど愛新覚羅の「覚」である。さらに清朝皇族が世を去るとみな香冊があるが、方覚香の「香」の字は香冊の「香」の字と符合する。また、あるいは「香」の字は「芳香」を意味するのかもしれないし、「李香蘭」の「香」の字であるのかもしれない。また「方」の字は川島芳子の「芳」と同じ音である。まさに靴も擦り切れるほどにあちこち探したものが、突然何の苦労もなく目の前に現れたかのようであった。まさかこれが我々の捜し求めていた《方居士》(川島芳子)の遺骨ではあるまいか?我々は胸の高鳴るのを抑えられなかった。

方覚香

テレビ朝日記者と相談の後、塔院の管理をしている僧侶の同意を経て、「芳覚香居士」の遺骨をDNA鑑定用に採取した。法方師の許可を得て、何景方と王慶祥はマスクとゴム手袋をつけて、棚から「方覚香」の遺骨箱を取り出し、細心の注意を払って蓋を開け、中を補填している綿を取り去り、遺骨を入れた白い布の袋を開けると、一枚の新聞紙にくるまれた遺骨が出てきた。新聞紙を注意してみるとそれは一九八八年七月十七日の『寧波日報』であった。ここから推定できたのは、遺骨は一九八八年七月十七日以後にこの塔院に送られたか、あるいはそれ以前にこの塔院に送られていたものをその頃に新たに入れ直したかである。

幾つかの遺骨を採取した後、何・王の二人は遺骨を再び新聞紙でくるみ、袋の口を閉めて、綿を箱の中に詰めて、丁寧に拝んだ後に再び遺骨箱を元の場所にもどした。法方師はずっと我々が塔院の山門を出るまで見送ってくれた。

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2016年03月29日

川島芳子は生きていた(29)川島芳子と李香蘭

http://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

方おばあさんの隠居生活における趣味の一つは、李香蘭のレコードを聞くことであった。李香蘭の歌の中でも方おばあさんが特にお気に入りだったのは『蘇州夜曲』と『蘇州の夜』である。この二つの歌は題名が良く似ているが異なる歌で、『蘇州夜曲』は作詞西條八十、作曲服部良一で映画『支那の夜』の中で李香蘭が歌ったが、レコードは渡辺はま子の歌で一九四〇年に発売されている。一方の『蘇州の夜』は同名映画の歌で、作詞西條八十、作曲仁木他喜雄、レコードは李香蘭の歌で一九四一年に発売されている。張玉が方おばあさんから教わった歌にはこの二曲が共に含まれており、『蘇州の夜』のレコードが残されていた。
蓄音機

晩ご飯の後、張玉がオンドルの上にトランプを並べると、方おばあさんはとてもご機嫌がよかった。方おばあさんは香を焚き、コーヒーを沸かして、手で蓄音機のハンドルを回し、『蘇州の夜』が部屋に悠々と流れてくるのを聞いていた。突然に方おばあさんは寝椅子から立ち上がると、しばらく経口モルヒネを口にして精神が高揚してくると、周りの木イスの傍にもたれてダンスを始め、あたかも以前に李香蘭と一緒だったひびを思い出したかのようであった。方おばあさんは李香蘭は彼女が最も好きな映画スターで、とても優しくて人の気持ちをよく理解してくれ、歌が上手で演技もすばらしく仙女のように美しい姿をしていると語っていた。李香蘭は方おばあさんが最も慕っていた女性の一人だった。李香蘭の歌は方おばあさんが最も好んだ日本の歌で、伊藤宜二作曲『乙女の祈り』や服部良一作曲『蘇州夜曲』がお気に入りの曲だった。張玉の記憶に残っているのは方おばあさんが大病が癒えたばかりのときに、張玉と祖父が彼女の傍で見守っていると、方おばあさんが眼を覚まし、「万一私が死んだら、喪服を着たり葬儀に哀歌を流さなくてもいいから、あなたたちが『蘇州夜曲』を歌ってくれればそれでいい。私の霊魂を永遠に蘇州の寒山寺に残したい」と語っていた。一九七八年初頭に方おばあさんが亡くなった時も張玉と祖父の段連祥は方おばあさんの遺言に従って、『蘇州夜曲』を歌って彼女を見送ったのであった。

方おばあさんが使用していた蓄音機はスイスで生産された初期の「銀盆式」で、性能がとても良かった。この蓄音機には電源は要らず、「ハンドル」を何度か回して、ターンテーブルの上にレコードを置くと旋回して音声を発する。当時の農村で電気がまだ十分整備されていなかった状況下では、確かに大変実用的なものであった。

方おばあさんが生前に語っていたのは『蘇州の夜』のレコードを李香蘭に届けてほしいということであった。我々が丁寧なつくりの箱を開けると、白い布にくるまれた黒いレコードがあり、レコードは多年にわたって使用されていたため、見るからに古く、真ん中の赤いラベルもすでに文字がかすんでいた。望遠鏡で拡大するとかすかに読めたのは、このレコードが松竹映画録音の『蘇州の夜』の主題歌で、西条八十作詞、仁木他喜雄作曲、李香蘭歌、レコード番号は一〇〇三三三、日本コロムビア社が一九四一年に発売したものであった。

野崎の紹介によれば映画『蘇州の夜』の内容は、李香蘭演じる中国の乙女が佐野周二が演じる日本人青年と恋に落ち、二人は互いに深く愛し合う。しかし様々な原因で二人は最後は別れ離れになるというものである。この映画の筋書きは川島芳子が経験した身の上と大変似ている。川島芳子と日本人はとても密接な関係があり、戦後小方八郎と李香蘭は日本へ帰ったが、川島芳子は中国に永遠に留まることとなった。もし方おばあさんが確かに川島芳子であったとするならば、彼女が『蘇州の夜』を好んで聞いていた原因は、きっと自身の経歴にあり、遠く離れ離れになった友人の小方八郎と李香蘭を恋い慕ってのことであろう。李香蘭と川島芳子は同じ時代の歴史舞台でともに日中の政治と戦争に巻き込まれたが最終的な運命は全く異なっていた。またレコードの裏面にある『乙女の祈り』は西条八十作詞、伊藤宜二作曲、仁木他喜雄編曲、李香蘭歌である。

『蘇州の夜』のレコードに収められた二曲の歌詞についてはさほど多くを語る必要はないだろう。総じて言えば、これらの曲の歌詞に反映された思いは当時の川島芳子の経験と重なるものがあったということである。張玉と母親の段霊雲が証言して言うには方おばあさんが一生のうちに最も重いが深かった三人の一人は李香蘭で、段連祥も臨終前に養孫の張玉に機会があれば『蘇州の夜』のレコードを李香蘭に渡すようにと遺言した。こうして、外見だけ見れば薄いレコードだが、その意味は極めて重厚なレコードを前にして、我々はこれをいつ李香蘭に渡せばいいのか、また李香蘭はどういう反応をするだろうかと考えた。

李香蘭は現在でも健在の日本人で、本名は山口淑子といい、一九二〇年中国遼寧省撫順に生まれた。十三歳の時に父親と親交のあった当時の瀋陽銀行総裁を勤めていた李際春将軍(一九三一年十一月天津暴動の際の「便衣隊」指導者)の義理の娘となり、その際に李香蘭という中国名を付けられた。瀋陽、天津、北京などでも生活し、中国の小学校と中学校を卒業している。彼女は生まれつきの美人で、そのはっきりした顔立ちから「東洋屈指の美人女優」と呼ばれた。流暢な中国語を話すことができ、またロシア人歌手に師事して美しい歌声を響かせて、「満州映画協会」の看板女優となり、満州と日本で映画スターとして売れっ子になり、日本の侵略を正当化する国策映画に出演させられた。当時の満州映画協会第二代理事長甘粕正彦は李香蘭を多方面で支援した。満州映画協会の初代理事長は川島芳子の兄である金璧東で、当然に甘粕正彦と川島芳子も大変に良く知った間柄であった。李香蘭は『万古流芳』や『百蘭の歌』などの映画に出演し、また彼女が歌った「夜来香」は大ヒットして、後にテレサ・テンのカバーで中国でもよく知られている。李香蘭は日本の敗戦後、川島芳子と同様に漢奸罪で中国の裁判にかけられたが、日本人であることを証明する戸籍謄本があったため、漢奸罪の適用を免れて無事に日本に戻ることができた。また彼女は外交官の大鷹弘と結婚し、大鷹淑子の名前で参議院議員にも選ばれ、日本の環境政務次官などを務め、日本でも異色の女性政治家と知られ、日中国交回復後の一九七八年に中国の長春映画製作所に昔の友人を訪ねている。

メディアの報道により、李香蘭は我々の川島芳子「生死の謎」研究を知った。かつて国会議員まで務め、現在八九歳の高齢に達した李香蘭(山口淑子)は「川島芳子生死の謎」に関するニュースを聞いた後、二〇〇八年十一月十八日の時事通信社のインタビューに次のように答えている。

李香蘭

「信じられない気持ちがある一方で、あり得ない話ではない」と当惑しながらも、「もし証言が本当なら、あーよかった。心が安らぐ思いがする」と語った。「妹のようにかわいがってくれた」。山口さんが芳子と初めて会ったのは十六歳の時、天津の中華料理店「東興楼」でだった。芳子は「君も『よしこ』か。ぼくも小さいときに『よこちゃん』と呼ばれたから、君のことを『よこちゃん』と呼ぶよ」と最初から打ち解けた。山口さんは十三歳年上で、りりしい男装姿の芳子を「お兄ちゃん」と呼んだ。
「方おばさん」として処刑から三十年生き延びたとされる芳子が形見として残したものの中に、李香蘭が映画「蘇州の夜」の主題歌を歌ったレコードがあった話を知ると、「そう言えば、お兄ちゃんと最後に博多で会ったときに、李香蘭のレコードを擦り切れるまで聞いているよ、と言ってくれたのを思い出した」。
「生存情報とともにレコードが残されていたということも縁を感じる」と感慨深げだった。 清朝の王女ながら日本人の養女となり、日本籍を取得していなかったため、中国人として死刑判決を受けた芳子。中国で生まれ育ち、中国名で活躍した山口さんも終戦後、中国で「売国奴」として裁判にかけられたが、国籍が日本だったため帰国を果たした。 「国籍という紙切れで、私とお兄ちゃんは運命が変わった」と山口さん。「七八年まで生きていたのなら会いたかった。でも、隠れて暮らしていたんでしょうから、会えなかったでしょうね。切ない思いもする」と声を詰まらせた。

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