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2015年11月03日

中国と東京裁判(1):中国代表判事の梅汝璈

1946年1月28日、連合軍本部が批准し公表された極東国際軍事裁判の裁判官11名の裁判官のリストに中国の裁判官梅汝璈の名前もあった。梅汝璈は中国司法界で大変に声望が高く、12歳で北京清華大学に入学し、その後にアメリカへ留学し、イェール大学で法律を学びスタンフォード大学やシカゴ大学で法律を研究して帰国した。帰国後は山西大学・南開大学・中央政治学校で教鞭を執り、主に英米法を教授した。また彼は相前後して国民政府立法院委員と立法院外交委員会主席に任官された。

梅汝

梅汝璈は1946年3月20日に上海から東京に飛行機で向い、当日の中国の新聞は中国代表裁判官が東京で任務についたことを報じた。梅汝璈の当日の日記の中から、重大な使命を背負って東京に来たこの中国代表裁判官の複雑な感情を見て取れる。22年前に梅汝璈はアメリカに行く途中に一度日本に立ち寄ったことがあった。その時の日本と戦後まもなくの荒れ果てた日本を比べて彼は次のように書いている。「私が注目したのは道路の両脇の景色と路上の日本人たちの表情である。私の全体の印象では横浜と東京の工場はほとんどすべて爆撃により焼き払われていた。人々も私が22年前に日本で見た感じとは大きく変わっていた。どうしてこんなに変わってしまったのか?これはまさに我々が裁こうとしている戦犯たちの責任である。彼らは世界を乱し、中国を害し、彼ら自身の国家の前途も葬ってしまった。もともとは立派だった国がこのような運命に陥ったのは、まったくもって自業自得としかいいようがない。」

各国の選んだ法律家たちはこの時ちょうど続々と東京に来ていた。極東国際軍事裁判は各国が派遣した裁判官たちを大変高い待遇で迎えた。彼らには当時東京で最も豪華なホテルであった「帝国ホテル」に事務室とバルコニー付の部屋があてがわれ、さらに連合軍本部からは高級自動車と運転手も与えられ、自動車の上には各国の国旗が付けられていた。米軍第八軍軍長アイケルバーガーと連合軍司令官マッカーサーはそれぞれ中国代表裁判官梅汝璈とその同僚を招いて歓迎の宴を催した。

梅汝璈が東京に到着して間もなく、教育部次長兼中央大学校長の顧毓秀が来日した。顧毓秀は表向き戦後の日本教育の現状を視察するための来日というふれこみであったが、実際には広島と長崎に落とされた原子爆弾の情報を探るという秘密の任務を蒋介石から命じられていた。二人が面会した時に顧毓秀は梅汝璈に一振りの宝剣を送った。梅汝璈の日記には次のようにその宝剣のことが書かれている。梅汝璈は「“口紅は美人に送り、宝剣は壮士に送る”というが、私は美人でもないし、壮士でもない。こんな立派な剣を頂くのは気が引ける。」と言った。顧毓秀は重々しく「あなたは四億五千万の中国人と千百万の戦死した同胞を代表して侵略国の首都に来て元凶を裁くのだから、天下にこれより壮観なものがあるだろうか。君が壮士でなければ、ほかに誰を壮士と言えばいいのかね?」梅汝璈はその言葉に納得してこの宝剣を受け取り、剣をさやから抜き放つと、その光を放つ剣身を見ながら言った。「中国の劇の中ではよくこのような場面がある。もし手に宝剣を持っていれば、先に斬って後から報告してもよいというくだりだ。しかし今は法により裁かなければ刑罰を与えることもできない。私がもしまず彼らを数人斬ることができれば、心の中の恨みもすこしははらすことができるというものだ」

極東国際軍事裁判の開廷一日前の1946年5月2日、法廷は厳粛な開廷の予行練習を行った。予行練習には各国の記者が呼ばれて、裁判官たちの写真を撮ることが許された。この予行練習で裁判官たちの間に鋭い衝突が引き起こされ、あやうく開廷そのものまで危ぶまれるほどであった。

この衝突の原因は極東国際軍事裁判の裁判官たちの席次の問題で、中国代表裁判官梅汝璈が主席裁判官の隣の席を主張して譲らなかったためである。裁判憲章にはもとより裁判官の席次に関して規則はなかったが、席次の順序を巡って裁判官たちの会議でも一度ならず議論が引き起こされていた。中国代表は極東国際軍事裁判の裁判官は日本の降伏文書にサインした各国が派遣したものであるので、裁判官の席次もこの降伏文書のサインした順序であるべきだと主張した。降伏文書のサインの順番は米国、中国、英国、ソ連、カナダ、オーストラリア、フランス、オランダ、インド、ニュージーランド、フィリピンであった。この順番に従えば裁判長ウェッブの左右は米国と中国になるはずであった。しかし、裁判長のウェッブはこの順番を不満として、彼と親しい英米の裁判官を左右に置きたいと考えていた。

会議では裁判官たちの議論がまとまらないため、梅汝璈はジョークを述べて「もし裁判長と皆さんがこの順番が気に入らないのならば、いっそのこと体重計を持ってきて体重を計り、重たい順番に並べばどうですか。こうすれば、最も公平で最も客観的な並び方になりますよ。」裁判官たちはどっと笑った。ウェッブは笑いながら「あなたの方法は、ボクシングの試合には使えるかもしれないが、国際法廷はボクシングの試合ではないからね」と言った。梅汝璈は「もし降伏文書のサインの順番でないとすれば、私は体重を計るのが唯一の基準だと思いますけどね」と答えたが、ウェッブは取り合おうとはしなかった。

開廷の一日前についにこの席次の問題に決着をつけるときが来た。それは最も裁判官の間の意見の衝突が激しくなったときでもあった。梅汝璈の言葉でいえば「それは決定的な意義を有する一日」となった。

1946年5月2日の午前、裁判書記官が緊急に各国の裁判官たちに通知を出し、午後四時に開廷儀式の予行演習を挙行し、その場で記者たちの撮影を行うので、正式な法服を着て準備するようにとの指示であった。11か国の裁判官たちが法廷内の裁判官のための休憩室に集まった時に裁判長ウェッブは宣言していった。「席順は米国、英国、中国、ソ連、カナダ、フランス、オーストラリア、オランダ、インド、ニュージーランド、フィリピンとする」ウェッブはさらに「これには連合軍最高司令部も同意している」と付け加えた。

梅汝璈は突然の発表に「この席順はおかしいではないか。いったいどういう意味だ。私はこの席順を受け入れることはできない。今日の予行練習への参加は見合わせる」と述べると休憩室を離れて自分の事務室に戻り法服を脱ぎ捨てた。

ウェッブがあわてて梅汝璈の事務室に追いかけてきて説明した。「英米の裁判官が私の両脇にいた方が、英米法に詳しくて仕事にも便利だ。べつに中国を蔑視するわけではない」。しかし梅汝璈は「これは国際法廷で、英米の法廷ではない。私には英米が真ん中の席を占める必要があるとは思わない。」と答えた。ウェッブは「この席順ならば、あなたは米国とフランスの裁判官の隣で、ソ連の将軍裁判官の隣ではない。そのほうがあなたも気が楽ではないか。」

梅汝璈は苦笑して「裁判長殿、私はべつに楽をするために東京まで来たのではない。私の祖国は50年にもわたり日本の戦犯たちから侵略されて苦しんできたのだ。中国人の立場から言えば、日本の戦犯を裁くのは非常に厳粛な任務であり、まったく気楽な仕事などではない。」するとウェブが威嚇するように言った。「この席順は連合軍最高司令部も了解済みだ。もしあなたが席順を拒絶して中米関係が不愉快な関係になれば、とても残念なことだとは思わないか。中国政府もあなたの行為に同意はしないだろう。」

梅汝璈は一字一字含ませるように言った。「私には絶対にこのような不合理な提案は受け入れられない。中国は最も激しく日本に侵略され、戦争期間も最も長く、戦争での犠牲も最も多い。それなのに日本を裁く法廷で席次が英国より下になるとは考えられない。私には中国政府がこの提案に同意するとは思えない。また私はこの席次を本当に連合軍総司令部が了承したのか疑わしいと思っている」。

こういい終わると梅汝璈はコートを着て帽子をかぶり、帝国ホテルへ戻る準備をし始めた。梅汝璈の最後の言葉はウェッブ裁判長の人格と誠実さに対する批判であった。ウェッブは顔を真っ赤にして筋を浮き上がらせていたが、梅汝璈が帰ろうとしているのを見ると梅汝璈を遮って言った「わかった。同僚たちともう一度話し合って意見を聞いてみよう。帰らないで、10分だけ待ってほしい。すぐに戻ってくるから。」

10分もたたないうちに、笑顔をたたえたウェッブが戻ってきて言った。「同僚たちと話し合ってきたよ。彼らが言うには今日の予行練習の席次は臨時のもので正式のものではないから、私たちはもとの席次でいいではないか。明日正式に改定する際に席次をどうするかは、今晩会議を開いて討論しよう。」

梅汝璈は答えた。「カメラマンと記者たちはみな裁判所で待っている。彼らは必ず写真を撮るでしょう。この写真が中国国内で報道されれば、人々は私を軟弱で無能だと非難するでしょう。だから私は絶対にこの予行練習には出席できません。私自身については、慎重に考えたいと思います。私が政府に指示を仰ぎ、政府が私を支持するかどうかを見ましょう。もし政府が支持しないのならば、私は辞職して、ほかの人を派遣してもらうつもりです。」言い終わると梅汝璈はドアに向かって歩き始めた。

ウェッブは焦ったような面持ちで梅汝璈を遮って言った。「ちょっ待ってくれ!もう一度同僚たちと話し合ってみるから。」この時、すでに裁判官の予行演習は予定より30分近くも遅れており、ホールに待つ記者たちも待ちきれない様子であった。すでに全世界に明日開廷のニュースが発せられた今となっては、明日正式に裁判が開廷できないことになれば、重大な責任を負うことになるだろう。それは息を詰まらせるような10分間であった。

ウェッブが三回目に梅汝璈のところへ来たとき、ウェッブは梅汝璈を見つめて言った。「みんなは君の意見に同意したよ。予行練習の席次は降伏文書のサインの順番で行おう。」裁判官の最初の席次ははたして本当に連合軍最高司令部のマッカーサーの意志だったのか、あるいは単にウェッブの考えだったのかは今も謎である。だが我々は梅汝璈の当日の日記から、その後のウェッブと彼との関係が依然として友好的であったことを見て取れる。「ホテルのバーでウェッブ裁判長に合うと、彼は明日は喜ばしい開廷の日だ。今日は早く寝よう。と言った。我々は互いに笑顔で別れた」と日記には書かれている。

『梅汝璈日記』には開廷の朝のことがこう描写されている。「5月3日、金曜日、今日は極東国際軍事裁判が正式に改定する第一日目である。そしてまた私が歴史的な劇の第一幕に参加する日でもある。」
裁判所の門に掲げられたには英語で INTERNATIONAL MILITARY TRIBNAL, FAR EAST と書かれてあった。

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