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2016年03月28日

川島芳子は生きていた(28)獅子像の中の暗号文

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

二〇〇八年十一月十六日午前、李剛の事務所。『新文化報』記者の劉マが段霊雲と張玉母子に対してインタビューを行っていた。李剛・何景方と研究顧問王慶祥など多数の人がインタビューを見守った。方おばあさんが川島芳子であることを証明するため、記者の劉マが再び方おばあさん(川島芳子)の遺品である獅子像の底の封印を解いて、中に何が入っているのか見るよう要請した。なぜなら、二〇〇四年末に段連祥が臨終の前に養孫の張玉に、もし可能ならこの獅子像に入っている手紙を小方八郎に渡して、方おばあさん(川島芳子)の遺言を実現して欲しいと言い残したからである。

それならば、獅子の「腹中」には一体何が隠されているのか。少し開いた隙間から見えるのは古い新聞紙の補充物であるが、他にも秘密が隠されたのだろうか。これ以前にも、多くの人が獅子像の底を開けるよう説得したが、張玉は始終同意しなかった。理由は彼女はまだ祖父の遺言を果たして、獅子像を小方八郎に手渡してないからというものであった。二〇〇八年三月十八日張玉はかつて日本の小方八郎に手紙を送ったが、宛先不明で送り返されていた。野崎が現れてから調査してもらうと、小方八郎はすでに二〇〇〇年に逝去しているとのことであった。このような情況であったので、張玉は研究責任者の李剛に決断をゆだねた。李剛は助手の何景方の同意を取り、さらに王慶祥先生の支持を得た後、この秘密の「封印」を解く決定を下した。

そこで、二〇〇八年十一月十六日午前一一:三〇分、李剛の事務室で関連する人々が期待しながら見守る中、李剛が小刀と錐を持ってきて、机の上に新聞紙を敷いて、獅子の底を慎重に剥し始めた。その漆による封は大変丈夫で、少しづつ少しづつしか剥げなかったが、五分余りほじくったところで、ようやく獅子の底の漆の封印が全部はがすことができ、底に直径数センチの穴が現れた。李剛はまず中から二つの丸められた古新聞を引っ張り出した。それを広げてみると、二〇〇二年五月十七日の天津市『毎日新報』であった。続けて中から取り出したのは暗褐色の燃えカスの結晶体で、我々は少量保存された川島芳子の遺灰ではないかと疑った。その他に一掴みの茶色の毛糸が出てきたが、川島芳子の遺品ではないかと感じられた。
李剛

最後の瞬間が訪れた。第三番目の丸まった新聞を引っ張り出すと、それと共に小さな巻紙が獅子の「腹中」から落ちてきた。それを開いてみると、長さ十二センチ、幅七・五センチの紙の上に、毛筆で篆字十六文字とそのほか落款と十文字が書かれていた。文字は規範通りではなく、また現場にいた人たちはあまり篆字に詳しくなかったので、個別の字を識別することができなかった。そこで李剛はすぐに古代文字の専門家を呼んで、現場で解読してもらったが、やはり全部は解読できなかった。
李剛

紙の上に書いてある文字ではっきり識別できたのは、「芳魂」「帰来」「今奇才」「秀竹敬具小方閣下」という文字と、ヒョウタン型の図章の中に書かれた「広幸」という文字だけが解読できた。そこから我々はただちに次の推測を立てた。
1、「芳魂」は川島芳子がすでに死んだことを意味する。
2、「秀竹」とは即ち川島芳子を北平から長春に護送した責任者で、その他にこの文章が秀竹が書いたものを証明するために「広幸」という秀竹の筆名を用いている。この紙の上に書かれた「広幸」の二字は方おばあさんの描いた「日本風情女子浴嬉図」に書かれた落款にある図章と「広幸」と同一人物の筆名であり、それはすなわち秀竹を意味する。小方閣下とは即ち日本人小方八郎であり、川島芳子のかつての秘書であり理解者であった。

二日目、吉林『新文化報』がこのニュースと図を報道すると、長春市と吉林省の関心を持った人々から沢山の反響があった。自分が暗号を解読したという人が続々と新聞社に電話をかけてきたので、幾つかの異なる暗号文への解釈が出現した。

吉林省旅行局の王さんによれば、この十六文字は、「芳魂西天、尚未帰来、含悲九泉、遺今奇才」と読む。第五番目の字は尚であるが、書いた人が草書体を用い、逆さに書いている。さらに王先生が言うには、前の八文字は「芳魂西天、尚未帰来」はおそらく「川島芳子の魂はまだ天国に行っていない」という意味で、「含悲九泉」は川島芳子の身代わりとなった人を暗示し、「遺今奇才」は川島芳子が生き残ったことを意味する。

吉林大学古籍研究所馮勝君教授の説によれば、この十六文字は「芳魂西去、至未帰来、含悲九泉、古今奇才」と読む。馮教授が言うには、これらの篆文には書方の不明な点がある。「私は第四番目の文字が去と読めるかどうか確定できない以外は、その他十五文字はこれで確定できたと思う」と述べた。馮教授がさらに説明するに「第四番目の字は篆文の角度から見れば、《天》の字に見えなくもないが、前後の文書から見て、私は《去》の文字だと思う」「字面からすると、この人物が死んだという意味を伝えるものだ」と述べた。

我々は景泰藍の獅子像を再び面前で調査し、獅子像の底を開けて中の新聞紙と、そのなかの紙片を取り出し、獅子像の頭部近くにあった茶色の燃焼物の顆粒と小豆色の毛糸を科学鑑定することにした。
調査の結果、新聞紙は二〇〇二年五月十八日天津市『毎日新報』であることが分かった。さらにここに三つの科学鑑定を要する問題が提出された。
暗紅色の燃焼物の顆粒は川島芳子の遺灰か?
小豆色の毛糸は川島芳子の遺品か?
景泰藍獅子像は二〇〇二年五月十七日以後に封印されたのか?
 
これらを鑑定するため、我々は二〇〇八年十一月に中国科学院長春応用科学研究所へ赴き、高級エンジニア葛遼海が熱心に我々の要望に応じてくれた。葛遼海は軍隊から転勤後に応用科学研究所に来て、そこですでに二十数年勤め豊富な実験経験を持ち、犯罪現場の遺物や痕跡の検査などを通じて公安機関に協力して幾多の犯罪事件の解決に貢献し、事件を扱った部署から賞賛され、その鑑定意見が正確かつ権威のあるものと見られている。

葛遼海高級エンジニアは獅子像の中の結晶体の「燃焼物顆粒」と「毛糸」を観察した後、微量部分を採取して検査を進め、その場で真剣な検査を行った。その後に検査結果として、獅子像は普通のガラスではなく、その含む成分から景泰藍製品に間違いない。また獅子像の中の燃焼物の顆粒は有機物質ではなく無機物質であり、炉のコークスであり遺灰ではない。毛糸は化学繊維である。

その後、葛遼海高級エンジニアは証印の押された鑑定書を我々に発行してくれた。その鑑定書は我々が待ち望んでいたもので、とても興奮させるものだった。まず、獅子像は確かに「景泰藍」で、それ自身が「貴重」なもので送り主の感情が大変深いことを表している。その次に、遺灰と思われていたコークスの顆粒は遺灰ではなくて炉の灰であった。加えて補填物の中の新聞は天津市二〇〇二年五月十七日の『毎日新報』であったが、このことから推定できるのは方おばあさん(川島芳子)は一九七八年に死亡し、一九八一年に浙江天台県国清寺の僧が吉林省四平市から遺灰を持ち去ったので、二〇〇二年に再び天台県国清寺から少量の遺灰を取り出して景泰藍の獅子像の中に入れたとは考えにくい。その次に、毛糸は化学繊維であることが分かったけれども、量がとても少なく、それを特別に入れたとは考えにくく、おそらく偶然に入り込んだ可能性が高い。

最後に、コークスは補填物として入れられたのか、あるいは何か意味があって入れられたのかということについて、我々が獅子像を開けた過程から推理するに、当該のコークス様の顆粒が先に中に入れられ、獅子像の頭部に位置していた。その後に新聞紙を丸めて(その間に紙片を挟み)空洞を充填してから、さらに黄泥を底の部分に塗り、それをあぶって乾かした後にさらに漆で封をしていた。すなわち、コークスは黄泥の付着物や偶然入り込んだものではなく、一種の象徴的な意味を表すために故意に紙片と共に入れられたのであり、小方八郎に対して川島芳子がすでに死んで炉の中の灰と化したと伝えたかったのであろう。

我々はさらに検証を重ねるため、景泰藍獅子像の中のコークス状の顆粒を、日本の新聞では遺灰ではないかと報道していたが、二〇〇九年一月十八日に日本の鑑定専門家林葉康彦博士が長春に来て鑑定した結果、コークス状燃焼物と確認し、我々の鑑定結果と同じ結論を下したことを付け加えておこう。

方おばあさん(川島芳子)の遺品――景泰藍獅子像の底を開けると、確かに予見していた通りに、獅子像の「腹中」には文字が書かれた紙片が隠されており、これが六十年にわたる川島芳子「生死の謎」論争についに決着をつけ、真相を明らかにする決定的証拠となった。この小さな文字の書かれた紙片は、我々が川島芳子「生死の謎」を解く自信をさらに深めさせた。

川島芳子は「替え玉」によって死刑を逃れ、秀竹(老七)および于景泰の護送により、北平から煙台を経て船に乗り大連に向かい、そこから瀋陽で段連祥と合流して、三人で一緒に川島芳子を長春新立城に護送した。秀竹は川島芳子を新立城の斎家村に匿い、于景泰と段連祥の二人に委託して川島芳子の身近で護衛させ、彼自身は南方(江蘇・浙江一帯)に戻り、不定期で夏になると北方へ川島芳子を訪ねて来ていた。

一九六〇年代中期、「文化大革命」が始まると于景泰は獄舎で死亡し、秀竹も最後に川島芳子と別れを告げてからは、おそらく浙江国清寺へ行き剃髪して僧となり、それ以来東北には来なくなった。「文化大革命」の十年間に、川島芳子は夏は新立城に住み、冬は国清寺へ行き、毎年このようにしていたのは、秀竹(おそらく背後にさらに高位の僧侶の支持があった)が国清寺にいたので、川島芳子は苦とせずに喜んで赴いた。

一九七九年初頭、川島芳子は四平で病気によって死去し、三年後の一九八一年にすでに僧となっていたらしい秀竹が四平に来て、川島芳子の遺灰を持ち去った。二〇〇二年春に、すでに死期を迎えようとしていた秀竹は川島芳子の死を川島芳子の日本にいる友人である小方八郎に伝えようと、ずっと前に書いておいた小さな紙片を持ち出し、国清寺から四平に来た。途中で天津に立ち寄った際に『毎日新報』を一部購入した。秀竹がこの紙片とコークス状燃焼物を段連祥に渡した後、段連祥はこの文字の書いた紙片とコークス状燃焼物を景泰藍の獅子像の中に入れて、さらに秀竹が残した『毎日新報』を補填物として詰めて、その後に漆で封印をした。段連祥は臨終前に再び獅子像をメッセージとして養孫の張玉に渡し、彼女にもし機会があればメッセージとしてこの獅子像を方おばあさん(川島芳子)の以前の親友である日本人小方八郎に渡して欲しいと遺言した。

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