アフィリエイト広告を利用しています
検索
<< 2016年09月 >>
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
最新記事
カテゴリーアーカイブ

広告

posted by fanblog

2016年03月22日

川島芳子は生きていた(22)残留孤児の段霊雲

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載


段霊雲は張玉の母親で、一九四四年の生まれで申年、段連祥の唯一の娘である。彼女の出自についてはかつて謎であった。一九九七年に彼女の母親の庄桂賢が逝去後に、父親段連祥がようやく段霊雲を前にこう告白した。
「雲子、お前の出自だが、今日は本当のことを言おう。お前は確かに日本人の残留孤児だ。以前はお前の母親(庄桂賢)が私が告白するのを止めていたのだ。お前が本当の親を探し出して、お前を失うことを恐れたからだ。今お前の母親は亡くなったから、私ももう遠慮することもなくなった。」
こうして、段霊雲の心に数十年もわだかまっていた疑問がついに晴れたのである。それから、段連祥は日本語で段霊雲のために一枚の日本残留孤児証明を書き残した。
証明書の大意は次のようなものである。段連祥の同級生の一人が、彼に元日本語教師の四人の子供(三女一男)のうちの一人が産んだ赤子を養子とするよう託した。一九四五年に日本が投降した後、教師一家六人は帰国の準備をしていたが、教師の妻は半身不随の寝たきりの病に罹り、幼い娘を世話する余裕がなかった。同級生は教師の経歴を紹介し、教師一家の日本の連絡住所を残した。証人の徐桂芝が証明書にサインと押印をした。段連祥もその上に印鑑を押した。
一九九九年六月六日、段連祥は段霊雲の日本人の伯父に当たる三ツ矢敏夫に一通の手紙を書き、日本人の友人松井氏に託した。手紙の中には、現在中国国内の政策は比較的良好で、中日両国間の友好往来はとても便利である。もしあなたが奉天(瀋陽)に来る機会があれば、飛行場まで私が迎に行くと書かれてあった。
段霊雲は父親の段連祥から聞かされたのは、段霊雲が一歳を過ぎた頃に段家に来て、段連祥は彼女の為に段臨雲と名づけた。現在思い返してみると、段霊雲には思い当たるところがあった。
「父親が私に臨雲と名づけたのは、私が養子の娘だったからで、親が何時やって来て認知して連れ去るかもしれないというので、臨時の娘と言う意味だったのでしょう。」
段霊雲の幼名である雲子というのもやはり段臨雲というこの名前に由来している。その後に段連祥は彼の子供の名前に家系図に従ってすべて「続」という字を入れていたので、段臨雲にも段霊雲という名前を与えた。段連祥が一九四一年に長男段続余を設けた後、その後に生まれた二人の子供は夭折してしまい、幼い臨雲を養子に迎えた後、彼女にはずっと命があるようにとつけた名前が「続敬」であったが、ただその後あまり使うことがなかった。《文革》中に段臨雲という名前を再び段凌雲と改名したからだが、その名は雲を凌ぐほどの志を持てという意味であった。

段霊雲が方おばあさんと接触を開始したのは、およそ一九四九年の新中国成立前後で、そのころ彼女は五、六歳ですでに物心がついていた。彼女は父親の段連祥が彼女を連れて、四平から汽車で長春へ行き、さらに馬車に乗って新立城の方おばあさんが住んでいる地方に行った。方おばあさんという呼び名は父親が彼女に教えたもので、ある時は四十歳過ぎのこの女性を《方ママ》と呼ばせることもあった。しかし、すでに物事が理解できた段霊雲から言えば、新立城のこの中年女性は彼女にとってもう一人の母親を意味した。それからと言うもの、ほとんど毎年夏になると、段連祥は彼女を新立城の方おばあさんの家に連れて行った。ただ父親の段連祥は毎回数日も住まずに、自分だけ四平に仕事に戻り、彼女を方おばあさんのお供においていくのであった。
川島芳子の新立城での歳月は、段連祥など世話する人間がいたとはいえ、生活はやはり孤独で寂しいものであった。女の子の小雲子が定期的に付き添うようになってから、川島芳子の心は計り知れない慰めを得たであろう。外部の人の目からは、小雲子は方おばあさんの娘で、川島芳子からすれば、小雲子は段連祥が自分にくれた養女であった。さらに小雲子は日本人の残留孤児で、感情からいって、この臨時の母子は同病相憐れむ境遇にあったのである。
段霊雲は幼年時代に続けて二回大病を患って、ほとんど命を失うところであった。この二回の病気の期間には、父親段連祥も力を尽くし、労をいとわず、金も惜しまず、彼女の病を治すために尽力したが、方おばあさんも段霊雲が病気の期間に母親の責任を果たした。段霊雲は今でも思い起こすと、感激のあまり言葉に表せないほどである。
第一回目は一九五三年の春、段霊雲が九歳の年に水疱瘡に罹り、伝染病であったので入院できなかった。当時彼女の母親の庄桂賢は弟の段続平を生んだばかりで、彼女を世話することができなかった。父親の段連祥は彼女を新立城の方おばあさんの家に預け、さらに二人の老年の婦人を雇って交代で彼女を看護させた。水疱瘡で全身が痒くなり、段霊雲は痒いのでいつも寝返りをうって、両手でかきむしった。方おばあさんは彼女が顔の上の水痘を引っ掻いて、娘の顔の上があばただらけになるのを恐れた。そこで、老婦人と看護して、段霊雲をむりやりオンドルの上に縛りつけ、手をタオルで包んで、彼女が痒くても動けないようにした。その後、水痘が出終わると段霊雲の病気も好転し、顔にもあばたは残らなかったが、これは方おばあさんの一生懸命の介護のおかげであった。
第二回目は一九五五年の春節の除夜の晩に、段霊雲は遊んで遅くなって家に帰った。二日目の正月の朝から突然に高熱が出て、児童医院で熱さましの注射をしたが、二日目になっても熱が下がらなかった。父親の段連祥は四平鉄路局車輌場の職工だったので、彼女を四平鉄路医院に入院させて治療した。およそ一ヶ月入院したが、化学検査の結果白血球に異常があり、血小板が減少し、臨床診断では容血性連鎖球菌による敗血病と診断された。この時主治医は彼女に長春鉄路中心医院で治療するよう勧めた。この時に、段霊雲が病気になったという情報を知った方おばあさん(川島芳子)も特別に浙江の国清寺から四平に戻り、父親の段連祥と共に段霊雲を長春鉄路中心医院に送った。しかし長春鉄路中心医院でも段霊雲の病状は一進一退であった。このような情況で、父親の段連祥は彼女を瀋陽鉄路総医院と遼寧湯岡療養院に連れて行き、そこで一ヶ月余り療養して、さらについでに大連の海浜療養院に行き、幼い段霊雲のために療養と気晴らしをさせたのである。最後にはやはり天津医院から中国の最も権威ある医院である北京協和医院に移り、三ヵ月半の入院治療により、段霊雲はようやく病魔に打ち勝ち、健康を回復することができた。段霊雲の第二回目の大病では、前後合わせて半年余りの時間をかけて治療し、父親段連祥の全ての心血を注ぎ込み、また家にあった貯蓄を使い果たしたが、方おばあさん(川島芳子)も彼女の養女としての責任を果たし、ようやく娘の段霊雲の貴重な生命を救うことができた。ここに特に挙げておかなければならないのは、段霊雲がこのたびの大病の期間、方おばあさんは天津の医院に彼女を見舞いに来て、彼女の治療費として多額のお金を残していったということである。
方おばあさんと一緒に生活した日々の中で、方おばあさん(川島芳子)は小雲子に対し母親としての責任を尽くし、彼女に日本語、唱歌、舞踊、吟詩などを教えた。段霊雲は余り勉強が好きではなかったので、方おばあさんに少なからず殴られた。唯一段霊雲が学んだと感じているのは、彼女の字がとても綺麗なことで、これも方おばあさん(川島芳子)の彼女への厳しい教育と切り離すことができない。

一九四八年年末に、川島芳子は《老七》・于景泰・段連祥の護送と手配の下、長春市郊外の新立城鎮斉家村に来て、長期にわたり隠居する住所を選択した。その次の年(一九四九年)、五歳の小雲子(段霊雲の幼名)は父親の段連祥の手配で、毎年夏になると新立城に行き方おばあさん(川島芳子)と共に生活し始め、その後十年余りの長期間、小雲子が一九五八年に仕事に参加するようになるまで続いた。
小雲子は幼いときからお喋りが好きで、男の子のようによく動く性格であった。新立城方おばあさんの家で、彼女は方おばあさんの教える日本語や詩歌や絵画などの種類の学業を学ぼうとせず、女の子のような針仕事や家事もしたがらなかった。ただ近所の子供たちと戸外で遊ぶのが好きで方おばあさんの意に沿わなかった。
川島芳子は自身の隠れ住む安全を考慮して、小雲子のお転婆を変えるために、小雲子を叱ることが少なからずあった。普段は方おばあさんのそばで、小雲子は方おばあさんが厳しいのを恐れて、打たれないように家の中でじっとして、あえて危険を冒すことはなかった。方おばあさんには昼寝の習慣があり、小雲子が睡眠中に外へ出て近所の子供と遊ぶのを防ぐために、毎日昼ごはんを食べた後は、家の門の鎖を閉じて、小雲子を呼んで一緒に昼寝をしていた。だんだん、小雲子は長時間にわたり「軟禁」されている状態に耐えられなくなり、彼女は鍵をこっそり盗んで門を開けようと思いついた。
毎回方おばあさんが門の鎖を閉じると、小雲子はこっそり方おばあさんが鍵をどこに置いたかを見ていた。数日観察した後、小雲子は方おばあさんが門を開ける鍵を、いつも仏壇棚の引き出しに置いていることに気づいた。鍵がどこにあるかを知ると、小雲子は方おばあさんの昼寝の習慣を推し量り、万が一の情況に備えた。彼女は方おばあさんが昼寝するころを見計らって、こっそり鍵を引き出しから取り出し、家の門を開けて近所の子供たちと遊びに行った。少し時間が経つと、小雲子は《方ママ》がとても怖かったので、いつも方おばあさんが目覚めて彼女が鍵を盗んで遊んでいる秘密に気づいて、しかられるのではないかと気になって恐れていた。そこで、小雲子は方おばあさんが目覚めないうちに、早めに部屋に帰って、方おばあさんのそばに寝て、寝ているふりをしていた。
しかし、何回も重ねているうちに馬脚を現すもので、ある日の午後に、近所の子供と遊んでいて時間を忘れ、小雲子が遊び疲れて部屋に戻ってみると、ちょうど方おばあさんが仏壇の棚の引き出しを見ているに気づいて、小雲子は恐れおののいて方おばあさんにきっとひどく叱られると思った。自分が間違っていることを知っていたので、小雲子は観念して手を垂れて部屋と地面の間に立ち、方おばあさんの顔を正視できず、頭を垂れて、《方ママ》に叱られるのを覚悟した。
この時、《方ママ》は血相を変えて怒り、大きな目で小雲子を見つめると、何も言わずに《七叔》の持って来た指揮棒を持ってきて、小雲子の右手の手のひらを引っぱると、ビシバシと叩き始め、小雲子の右の手のひらが腫上った。この時満面怒っていた方おばあさんは怒りのあまり涙を流した。それだけでは終わらず、方おばあさんは小雲子に罰として手伝いをさせ、小雲子に庭にいるニワトリの食料を削り、ウサギを食べさせ、窓を拭き、部屋を片付けさせ、仕事が終わると小雲子に垣根を前にして反省のため立たせ、晩御飯の時間になるまで、罰は終わらなかった。
このたびの方おばあさんの小雲子への教訓は、小雲子が幼年の記憶の中で最も深刻なものの一つである。これより、小雲子は心を入れ変えて、方おばあさんが首を縦に振るまで、絶対に彼女の意思に反するようなことは再びしなかった。
方おばあさんは半日にも渡る小雲子への罰を終えると、晩御飯の後に、小雲子をそばに呼ぶと、小雲子の腫上った右の手を擦りながら、小雲子を諭すように述べた。
「雲子!私がどうしてあなたを打ったかわかる?どうしてこんなにひどく打ったか!」
小雲子は答えていった。
「うん。おばあちゃんは私が近所の子供と遊ばないようにでしょ。」
方おばあさんはまた尋ねた。
「じゃあ、どうして外へ遊びに行ってはだめと言うかわかる?」
小雲子は答えた。
「わかんない!」
この時、方おばあさんはため息をつき、その後、小雲子に言い聞かせるように言った。
「ここから遠くないあの池ではね、ここ数ヶ月に二人も溺れて死んだのよ。そのうちの一人は九歳になったばかりの男の子の亮亮ちゃんでね、あそこの池の側でカエル取りをしていて、うっかり池に滑り落ちてあがれずに溺れ死んだのよ。大家の逯家の人がいうにはね、亮亮ちゃんの父母は楡樹市の人で、亮亮はお母さんが新立城のお姉さんから養子にもらって育てていた一番下の息子で、その上には四人のお姉さんがいたけど、男の子はいなかったから一人貰って来たのよ。この間、亮亮は父母と一緒に楡樹からいとこのお兄さんの結婚式に来て、結婚式が酣で、大人たちが酒を飲んで盛り上がっていたときに、亮亮は何人かの子供と席を離れて、池の側でカエルを捕まえていたの。すぐに亮亮が溺れ死んだという悪い知らせが伝えられて、おめでたい結婚式の場が一瞬で滅茶苦茶になったのよ。亮亮はとてもいい子で聞分けのよい子だったから、みんなが死んだことを悲しんだの。亮亮の尾と父母は楡樹に戻った後、毎日死んだ子供のことが忘れられず、父親は悲しさのあまり気が狂い、母親は世間を見限って、娘たちをみんな新立城のお姉さんに預けて、頭を丸めて出家して比丘尼になったのよ。」
小雲子は話に聞き入っていたが、疑問に思って尋ねた。
「方ママ。比丘尼って何?」
方おばあさんは小雲子に続けて言った。
「女の人が出家すると尼さんで、尊敬して言うと比丘尼よ。男の人が出家すると和尚で、尊敬して言うと比丘僧よ。あなたもこれからは出家した人にあったら、尊敬して比丘僧とか比丘尼と呼ばなければだめよ。わかった。女の出家した人を直接尼さんと呼んではだめよ。こう呼ぶのは出家した女の人に無礼なことよ。」
方おばあさんはまたも続けて小雲子を諭して言った。
「あなたを外に出して近所の子供と遊ばせないのは、あなたが池に行ってカエル取りをしないか心配だったからよ。もし水の中に落ちて溺れなくても、あそこの汚い水で遊んだら、あなたの手の疥癬(段霊雲は幼い頃に手に疥癬を患っていた)がよくならずにもっとひどくなるでしょ。」
方おばあさんは再び例を挙げて述べた。
「あなたのような子供はもちろん、この村には、たんこぶ喬爺さんという四十歳の農民がいたのだけど、去年の夏に池の側で数人の農民と土地を耕していたときに、タバコが吸いたくなって、池の側に行ってタバコを出して一服しに行ったの。足が泥だらけで汚れていたので、池の水で足を洗おうとして、池の方に足をのばしたら、思いがけず足がすべって池にはまってしまったの。土地を耕していたほかの農民がいつまで経っても戻ってこないのでおかしいと思ったけど、あいつはいつも仕事をせずに怠けているから、どこかに行って怠けているに違いない、なんでもないだろうと話していたの。そうしてみんなが耕作を終わって家に帰る途中に池の側を通ると、たんこぶ喬爺さんの死体が池の上に浮いていて、みんなびっくりして持っていた鋤を池の周りに放り出して、すぐに派出所に池で人が死んでいると伝えに言ったのよ。ここの池ではここ数年で何人か溺れ死んでいて、何か祟りがあるのかもしれないわ。きっと河童が出てきて言うことを聞かない子供を引きずり込むのよ。小雲子、あなたは河童に捕まえられるのが怖くないの?」
方おばあさんはこう怖がらせるように話をしたので、小雲子はよく記憶しており、そのため二度と近所の子供と遊びに外へ出なくなった。
この二つの例から我々が見て取れるのは、川島芳子が新立城で隠れ住む安全の為に、つねに慎重に行動していたということである。彼女が厳しく小雲子に外へ出て遊ばないようにしていたのは、小雲子が顔を出せば他の人がこの外から来た子供に気づいて、さらに大人を連想させて、方おばあさんが外界からの注目を浴びることを恐れたからであろう。その他にも、もし万が一にも小雲子が新立城でなにか事件を起こしたり、或いは池に溺れでもしたら、当地の人は必ず警察に報告するだろうし、派出所がこのことを調査すれば、家に閉じこもって外出しない方おばあさんの真相が暴露される危険があった。こうして考えると、川島芳子が自分を保護するために新立城という人のあまり知らない辺鄙な田舎町に長期にわたり隠れ住んでいたのは、やはり彼女が熟慮のすえ、あらかじめ発生しそうな危険を予測してそれを避けるためであったろう。
段霊雲の紹介でも、方おばあさんはいつも熱心に仏像に向かい、修行していただけでなく、道家の迷信やタブーなども研究して、何か事が起こると掛をして、吉凶を占っていたのも、一種の迷信とはいえやはり彼女の慎重さの一面を反映しており、無事に余生を送るための苦肉の策であったとも思えるのである。

川島芳子 [ 川島芳子 ]

価格:1,944円
(2016/3/22 11:06時点)
感想(0件)


この記事へのコメント
コメントを書く

お名前:

メールアドレス:


ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/4874387
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。